
幻想郷に将棋が流行ったのはここ数十年の話。将棋ブームの隆盛と共に、八雲財閥が中心となり将棋のプロ化が推進された。近代化の波が激しい幻想郷において、和風の落ち着いた造りの幻想将棋屋敷はまさに古き良き幻想郷を象徴するものとなっている。
犬走椛はプロ棋士である。プロになってすでに十余年の月日が経過していた。それなのに椛の段位はまだ五段であった。熾烈な争いの三段リーグを勝ち抜いたはいいが、プロになってからの椛の実績は散々たるものだった。
このまま終わるわけにはいかない―――
椛は自分の実力を出し切ってはいない、いや無理にでもそう思いたかった、このままうだつのあがらないまま歴史の片隅に消えていくのはしのびなかった。
体躯に優れる天狗の間では将棋は非力な妖怪、人間するものとして侮蔑されていた。故に将棋プロの養成機関である奨励会に入会する際にも、周囲からの堅固な反対を押し切ってのことだった。
今日はC級一組の順位戦の日だったが、善戦したものの終盤で手痛いミスが出て勝ち星を逃してしまっていた。順位戦はA級、B級、C級に分かれていて椛のいるクラスは上から四番目のクラスとなる。将棋会の最頂点である名神を目指すには避けては通れない道だ。
「あやや、これはこれは犬走先生どうでしたか? 今日の対局は?」
「ああ射命丸さんですか。だめですね全然だめです」
椛が将棋屋敷から出て帰路につこうとした時に文々。新聞の記者、射命丸文が話しかけてきた。文々。新聞社は順調に業績を伸ばし現在では将棋会のタイトルの一つである竜神戦のスポンサーになっている。
「そうですかしかしまだまだ昇級の目はあります。これで四勝四敗ですが上位がこければまだわかりません」
「いやいや冗談はよしてください。無理ですありません。奇跡なんてものはまず起こりません。むしろ降級の方が近いのですからそちらの方が心配です」
「そんなに弱気にならないでくださいよ犬走先生、私はですね、先生がまだ本当の実力発揮されていないんじゃないかと思っているんですよ。同じ妖怪の山出身としていつでも応援しているんです。思い出しますねぇ先生がプロ入りした時の事を、私、一字一字精魂こめて記事を書きまして……今でもその内容がつぶさに走馬灯に……天才棋士――現る! その名も犬走……」
「よしてください昔の事です」
「……すいません先生」
射命丸と別れた後、椛は夜の街を当てもなく歩いた。
「天才棋士……か……」
選ばれた者とそうでない者との違い、はたから見れば僅差に見えてもそれは決して埋まる事のない膨大な溝である。無論若くしてプロ入りした椛もある意味選ばれたわけではあるが、その中でなおふるいにかけられ、より研磨される可能性は万に一つであった。
ふと歩き疲れて椛は公園のベンチにどっと体重を預けて、深くため息をついた。
「ふぅ……」
しばらくして頭を上げた時に一人の少女がずっと目の前に立っていた事に気づいた。背が小さく、日の光を一度も浴びたことがないような真っ白な肌、人間の幼子が見につけるような衣装に、奇妙な目玉を装着したアクセサリを身につけていて至極アンバランスだった。
「将棋棋士の犬走椛五段ですね?一度お話したいと思っていたのです。少しよろしいかしら?」
と言い少女は椛の隣へ腰掛けた。少女と言ったが口調や立ち振る舞いから推測すると本当の年齢は定かではない。特にこの幻想郷に限っては。
「は…はぁ…どうぞ」
椛はこの奇妙な少女が自分を知っていることに激しい違和感を覚えた。よほどの将棋ファンでなければ椛のような何の実績もない棋士に目をかけたりしない。ましてやこんな少女が――
「ふふ…そんな不思議な顔をしなくても結構です。父が大の将棋ファンですので私も自然と覚えていまして…」
「そ、そうでしたかいやいやこんな底辺棋士を応援してもらって申し訳ない」
「まぁそんなにご謙遜されなくても…どうでしょう?父が一度お会いしたいと申しておりましたので、ぜひお招きしたいのですが…」
少女はぞくっとするような流し目をくれて椛に笑いかけた。椛は突然身の毛もよだつような恐怖にかられた。捕食者が獲物をどう料理するか思案している、そんな様子を思い起こさせるような悪魔の笑みだった。
「あ、は、はい」
椛は何とか口をパクパクさせて返答したが、少女が口の端を吊り上げて満面の笑みで応対したので更なる恐怖におののいた。
奇妙な少女は古明地さとりと名乗った。さとりは見れば見るほど奇妙だった。歩いている時でも上半身が常に一定の振動で揺れているのである。彼女を見ていると、椛も催眠術にかかったかように共鳴して振動してしまうような錯覚にとらわれた。
しばらく歩くと古ぼけた雑居ビルから二人はエレベーターに乗った。さとりは↓のボタンを綺麗な細長い指で軽く押した。
ゴーーゴーーというエレベーターの音が箱の中の時間を長引かせている。
「ずいぶん下るんですねぇ。幻想郷にはこんなに地下は無いものと思っていたんですが……」
「うふふ、地下七百七十七階行きですわ」
「あっはは、いい冗談ですね」
椛は幻想郷にはかつて地底世界が存在し、そこには鬼や人の心を食す妖怪、地獄の火車、神の力を宿した烏が地上を征服しようとたくらんでいた――そんな伝承を人伝えに聞いていた。だが所詮は根拠のない伝説でしかない。地下に空洞なんて存在しないことが現在までの調査でわかっている。
ガチャンと金属的な音が響き、エレベーターのドアが重々しく開いた。どうやら普通の地下のようだ。かなり下ってる気がしたのは気のせいだったらしい。
「……ようこそ、地霊殿へ……」
さとりは声を押し殺してつぶやいた。
さとりの家は西洋風の造りだった。至るところに綺麗なステンドグラスが張り巡らされていやになるくらい照明の光を反射している。
「おっと!」
そう椛が叫んだのは何かに足を引っ掛けたからだ。視線を向けるとリボンをつけたワニが闊歩していた。
「あらごめんなさい。父は変わり者であらゆる種類のペットを飼っているのです。ほとんど放し飼いなのですが、みんなよく訓練されているので絶対安全ですよ」
そう言ってさとりはにっこりと笑いかけた。
長い廊下を進んで行くと様々な動物が我が道を行っていた。椛はこれほどまでの趣味に興じるさとりの父をたいそう不思議に思った。一体どんな奇人変人が現れるのかと内心びくびくしていた。
「この部屋は父の秘密部屋なんですの。めったに見られない希少種ばかり集めて、何が楽しいのか本当に変な人ですよね。ふふふ、少し覗いてみますか?」
さとりが左手の部屋を指して尋ねる。
椛はふらふらと誘われるとようにドアに取り付けられた格子窓を覗いた。部屋の中は別世界だった。今まで見たこともないような動物や妖怪、それだけに止まらず手足の一部が欠損していたり何本もあったり。遺伝子を何度も掛け合わせすぎて元がわからないようなキメラ、椛には後数秒もこの世界を視認していたくなかったが不幸なことに部屋の隅の赤黒い物体に目がいってしまった。
椛は目の能力が飛びぬけている天狗の中でも特に秀でていた。結果その物体の詳細をまじまじと確認せざるを得なかったのである。遠目には小さなつぶつぶがたくさん付着したように思えたが、それは実際のところ全て目であった。血ばしった目が何千何万何百万――まるで毛穴ように黒い皮膚一面にびっしりと生えていた。それがいっせいに瞬きを繰り返していたからたまらない。目があった。一つだけではい。ぎょろぎょろと膨大な目が全て椛をにらんだ。ところどころふさがっていてどす黒い血の涙を流していた。そしてこっちへ歩みを進めていたのだ。ナメクジのようにゆっくりだが着実に。
椛は胃から酸っぱいものが沸き起こるのを感じてすぐに目を背けた。一体アレは何なのだろうか。
「大丈夫ですか?さぁもう行きましょう、本当に父は悪趣味で困りますわ……」
すっかり憔悴した気分で応接間に通された椛はどかっとソファに倒れこんだ。
「それではすぐに父を呼んで参りますので、しばらくお待ちくださいな…」
そう言ってさとりは部屋を後にした。
「どうぞ、お客様、遠路はるばるお疲れ様です」
カチャカチャと音を立てながら、ゴスロリ風の衣装に身を包んだ猫耳のメイドがテーブルに赤い液体の入ったカップを置いた。
「ど、どうも……」
「ハイビスカスティーでございます。甘くて疲れがとれますよ。それではごゆっくり」
ぺこりとおじぎをして猫耳メイドは部屋を出て行った。本当にここの主人はいい趣味をしている。椛はティーをすすりながらさっき見た異様なものを理解しようとした。しかしあの醜悪な視線は思い出しただけでもまた吐き気が襲ってきた。あんなものは見なかった――そう見なかった――それが最善だと脳に了承させた。
「お待たせしました犬走先生。どうですか?ご気分は?」
さとりが一人で部屋に入ってきた。父親はいなかったのだろうか?
「え、ええと、そういえばちょっと疲れたようです。おかしいな……」
「ねぇセンセイ……」
さとりは急に椛に甘えた子猫のようにしなだれかかってきた。
「センセイは今悩みごとがありますよねぇ?」
「えっ、ちょっと、お、お父様は?」
「そんなことどうでもいいからぁ、私、センセイのお悩み解決してあげたいんです……」
さとりは何を思ったか椛に体すりつけ、椛の服の中に手を入れ、右胸の乳首をコリコリとつまんできた。椛には女同士で乳繰り合うような趣味はなかったのでこの行動にはひどく狼狽してしまった。しかし先ほどから体がおかしい。頭がぽーっとしてさとりに触られるたびに胸の動悸が激しくなるばかりだった。
「弱いんでしょう? ここ? ふふふ、無駄ですよ、そんなに我慢しても、私には全てわかるんですから……」
確かに椛が自己欲望発散に常時使用していた部位はそこであったが、なぜさとりが知っているか見当もつかなかった。
「将棋って、相手の手が読めればいいんですよね? でしたら、私のを少しわけて上げます。くすくす大丈夫です……。将棋のこと以外は読めないようにしてあげますから……色々と不便ですからね……」
さとりは耳元でささやきながら椛の性感帯をまさぐった。椛にとっては理解の範疇を超えていた、そして一刻も早くこの責め苦から逃れたかった。
「センセイ中々我慢強いのね……」
「ぁん、やめ……て……」
「強くなりたいでしょ? センセイ?」
椛は強くなって世間を見返したかった。頭がぐるぐる回る。もうどうなってもいい。強くなりたい。
さとりの指が椛の両乳首をすりつぶしてあげると椛の中でガタガタと何かが崩れ落ちた。
第三の目からしゅるしゅると白い糸が伝わって椛の耳元へ降り注いでいた。
しゅるしゅるしゅるとまとわりつき新たな宿主への順応を開始した。
椛が目を覚ますとそこは自分のアパートの寝室だった。ひどく頭が痛い。長く悪い夢を見ていたような気がした。夢の中の出来事を反芻してみたが妙にリアルな夢だった。もしリアルだったとしたら? いやあの後どうやって帰ったか覚えていない。しかしあの格子窓の部屋の強烈な印象は、まるですっかり夢の出来事とは思えなかった。そしてさとりの微笑。思い起こすだけでも寒気がした。
さっぱり説明がつかない混乱した頭の中、椛は時計を見て驚愕した。今日は大事な竜神戦予選の日であったのである。椛は手早く支度を整え将棋屋敷へとすっとんでいった。
大急ぎで対局室へ飛びこんだが無常にも対局開始時間を過ぎていた。
「犬走五段、対局時刻より二十分の遅刻、規定により三倍の一時間の持ち時間の減少となります。それでは対局お願いします。」
記録係の妖精が無機質な声で告げた。
「申し訳ありませんでした……」
椛は体を縮こまらせて謝罪し、盤に向かうと同時にすぐさま角道を開けた。全く大事な対局だってのに…遅刻というのは持ち時間差がついてしまうのも痛いが何より精神を安定させることができないのが一番のハンデである。竜神戦は持ち時間が五時間なのでもう20%も無駄にしたことになる。どうしてこうなってしまったのか。
あれこれ考えている内にはっと気づいた時にはもう局面はずいぶんと進んでしまっていた。落ち着け落ち着けまだ定石の範囲じゃないか。まだまだこれからだ。椛は気持ちを切り替えて盤面を覗いた。しかし何やらぶつぶつと誰かがつぶやく声が聞こえる。一体誰だ?この部屋には相手と自分と記録係しかいない。誰も口を動かしている者はいなかった。しばらくきょろきょろと首振り回してみた。そしてつぶやきの出所を理解した。
……▲5八金 △8八歩 ▲7七桂…… △8九歩成 ▲4六歩 △同 歩……
声のように聞こえたのは実は棋譜だった。いや声と言うより頭の壁張り付く言霊、と言った方がよかった。とにかくべったり張り付いて離れない。しかし何故だろう?どうして棋譜なんかが…?再び盤面に目を落とした。そして椛は言霊の半分を理解した。
この言霊は今実際対局中の棋譜の続きを綴っているのだ。一体どうして?
こんがらがる頭の中で椛は昨日のリアルな夢を深く思い出そうと努力した。
(強くなりたいでしょ?センセイ?)
そう昨日確かさとりはこう言ってきた。そして……いやその前……。
(相手の手が、少しわけて上げます……)
まさか……相手の手が読めている?
椛は自分の体に起きている現状を受け入れがたかったがそれを受け止めるしか方法は無かった。
将棋で相手の思考が読めればこれほど有利なことはない。相手の指してくる手が前もってわかるのだから
その筋にそって読みを入れていけばいい。
椛は雑念を遮断して目の前の将棋に全神経を集中させた。
「……負けました」
数刻後相手が投了した。
椛はほっと胸を撫で下ろすと同時に、心の奥底から沸き起こってくる言い知れぬ不安感も覚えていた。何故棋譜だけが読めるのか?それはそれで他人の心の内を知りたくない椛には都合がよかった。ただ純粋に将棋に勝ちたかったのである。
椛は勝った。
人が変わったように将棋に勝ちまくった。
椛は脳内に張り付く棋譜を言霊と名づけた。そしてそれを対局の中でイメージ化する作業も少しづつ会得していた。プロ棋士ならば誰でも一枚脳内盤面を脳内に構築している。この脳内盤面の中の駒がすごいスピードでこちゃこちゃと動くのである。 椛は言霊からイメージ化する作業を省略してダイレクトに相手の思考を脳内盤面写していた。
これが完成すれば誰にも負けるはずがない――椛はそう確信していた。
「犬走先生十二連勝継続中アーンド竜神戦本戦出場おめでございま~~す!!」
椛と射命丸は街の居酒屋でささやかなお祝いをしていた。
「やや! 先生!私はずっと信じていました。今や破竹の勢いの大棋士です。さすが私の見込んだ女ですええっもう」
「射命丸さんそんな大げさですよ。そんな勢いも長くは続きません。それに竜神戦はこれから強い相手と戦わなくちゃなりません。私みたいなぺーぺーなんてすぐやられちゃいますよ」
「いえいえいえ、今の先生は明らかに以前とは違うパワーを感じます。私にはわかるんです! 先生の事を一番よくわかっています!」
「はぁ、パワーねえ……」
椛は射命丸の賞賛の言葉にも素直に喜べずにいた。偶然手に入れてしまった力。それを行使して勝利する事の後ろめたさで押しつぶされそうだった。しかしここまで来たら勝ちたい気持ちの方が優先された。言霊のイメージ化もほとんど仕上がっている。後はそれが上位に通用するかが問題だった。
「あやや、なんか元気ないですねぇ。そうだトーナメント表が決まったんですよ。コホン、よく聞いてください一回戦は比那名居天子八段ですね。幻想郷の受け師と呼ばれる強靭な受けを得意としてます。非常に粘り強く気の抜けない相手です。二回戦は八雲藍九段です。この将棋屋敷を作った八雲紫会長の式神です。どんな長い詰みでも見逃さない終盤のスペシャリストと呼ばれています。続いて聖白蓮九段、西行寺幽々子九段、と続きます。いやいやいやなんと大物ばかりですねぇ。さて…おおっと!なんとこの方が!五回戦はあの紅いカリスマ、レミリア・スカーレット帝王ですね。彼女が放つ常人には全く理解しがたい絶妙の一手はレッドマジックと形容されるほど恐れられています。いやいやいやいやいや本当に強敵ばかり…あや?いえいえ先生の強さは私がよく存知あげております。ええもちろん。さてさてそういえば右の山からの挑戦者は誰になるんでしょうかねぇ? 本命はやはり八意永琳名神…………いえ勝負に絶対はありませんよ! さぁさぁさぁ先生もっともっと飲んでください飲んで飲んで……」
椛は本戦へ向けて将棋人生の中で一番将棋に打ち込んだ。あらゆる将棋の本を読み漁った。しかしまだ全然足りないと思った。椛には絶対的に経験が足りない。これから戦う相手はA級以上の猛者なのだ。いくら手が読めるといっても不安だった。一日じゅう将棋のことばかり考えて眠れなかった。
日増しに起こる原因不明の頭痛も増えていた。
気にしない、気にしたくなかった。
比那名居天子は退屈をもてあましていた。天人であり総領娘である天子にはこの永遠にも近いこの時間をどう消費しようか毎日考えていた。過去に下界の天気を操った時にはたまらない感動があった。結局教育係の永江衣玖に後でこっぴどくお灸を据えられることとなった。またあの時なような刺激を感じたい、常々そう思っていた。
下界の将棋ブーム天子の耳にもすぐに届いた。好奇心旺盛な天子にとっては新しいものは格好の興味のまとだった。
「いいですか?総領娘様?将棋の基本はまず攻める前に囲うことです。焦って攻めてもいいことはありません。まず玉を固めて相手の出方をうかがう、そして相手が無理な攻めをした間隙を縫ってカウンターを決めるのですこれは中国古来の兵法のも通ずるものがありますね。総領娘も将棋を通して世の中の……」
将棋を全く知らなかった天子は初めは衣玖に手ほどきを受けた。囲い方から手筋、攻め方から勝負術。天子はめきめきと上達した。特に気に入った戦法は穴熊だった。玉を盤の隅に寄せ金銀を貼り付けて守りを固める。相手の攻めをぎりぎりしのいで受けつぶす快感がたまらなく心地よかった。
負けても楽しかったが勝てばもっと楽しかった。
しだいに衣玖では相手にならなくなっていった。
「総領娘様、もう私では相手になりませんね。どうでしょう下界では将棋のプロが最近できたようですが……。お力を試してみたくありませんか?」
天子は迷わずうなずいた。
コネにより異例の初段からのスタートとなった。周囲から天子を妬む声が大きかったが全て黙殺した。
天子にとっては格下の存在の戯言など道端のアリ同然だった。
元々筋がよかったのであろうか挫折知らずで昇級しA級八段までたどりついた。
A級昇級が決まった時衣玖は涙を流してよろこんだ。
「総領娘様一回戦の相手は犬走五段だそうですよ、なんと十二連勝中らしいですよ、侮れませんね」
名前知らないような弱小棋士が確変しただけ、天子はそう思った。
「心配はいらないわ衣玖。竜神と名神、二大タイトル制覇なんて素敵じゃない」
竜神戦トーナメント本戦一回戦――
「それでは比那名居天子八段の先手でお願いします」
「よろしくお願いします」
記録係の後に続き二人の声が共鳴して和室に響く。
少し気持ちを落ち着けて天子が音も無く初手を放った。
戦形は将棋の花形、矢倉へと進んだ。定石手順から天子が矢倉囲いから更に穴熊へと組み替えた。何も穴熊は守備重視の戦法というわけではない守備を万全にして強引な攻めを通す、言い換えれば非常に攻撃的な戦法である。もちろん相手もそれをわかっているから何とか手段を尽くすのだが、穴熊の暴力は時に理不尽な致命傷を負わせるのである。
現状は無常件で天子の玉が戦場から遠ざかってしまっていた。椛にとっては劣勢を感ぜざるを得なかった。
「ああ駄目だ駄目だ!」
椛はトイレの中で頭をかかえながら叫んだ。
比那名居天子は圧倒的だった。今までの相手とは比べ物にならなかった。膨大のイメージの洪水が椛を押し
ぶした。何重ものつるが幾重にも絡まり理解しようとすればするほどますます困難を究めた。
椛は焦っていた。しかし負けたくなかった。
勝ちたい。勝ちたい。
「うっ!!」
そう思った時左腕に何かで切り裂かれたような痛みがはしった。
袖をまくってみた。真っ白な腕の腹に2cmぐらいの目が開いていた。
椛が見つめるとそれは挨拶でもするかのようにパチパチと二度瞬いた。
椛が席を立っている間天子は余裕を感じていた。
たいしたことないわね――やっぱり下級棋士だったわ。しかもびくびくおびえているようでまるで子猫のよう。この私と対局するにはふさわしくない存在。この対局はもう大差よこのまま攻めつぶして
終わり。日がくれるまで持ちそうにないわね。
天子が帰り支度に思いを巡らしていると椛がひどく青ざめた顔で戻ってきた。
「いっ犬走五段、大丈夫ですか?顔色がずいぶん悪いようですが……」
「いえ、何でもありません……」
見かねて記録係がたずねるが椛はうつろな瞳でつぶやいて盤の前に座った。
ふっと息を吐いた後、椛の死人のように血色の失せた指が盤上に伸びた。
瞬く間に数手進んだ。
天子は言い様のない違和感を感じていた。椛がここ数手に放った手は苦し紛れの勝負手、決して当たることのない宝クジ。天子は弱者が逃げの思考陥ったのを刈り取るのを得意としていた。故にこの椛の暴挙も十分想定していたはずなのに――。
何度深く読んで見ても形勢は思わしくなかった。簡単には勝つ順が見つからない。
さっきまであんなに簡単だったのに、いいえ落ち着つくのよ。
時間は……?
天子はチラリと横の時計を見た。
なんだ……まだ二時間も残っているじゃない。
焦ることはないわ一時間ゆっくり長考すればきっと打開策が見つかるはず。
天子はそう思い、少し安心して目をつぶって様々な読みを頭の中に巡らせた。
一時間の時が過ぎた。
天子はじっくり熟慮して自分が優勢になる順を導きだした。天人の精緻な頭脳がフル稼働して一本の正解を
発見したはずだった。
天子のつややかな指が盤上を舞った。
小考の後椛の白い手が伸びた。
またあっという間に数手が進んだ。
おかしい――おかしい―― 。
天子は形勢も精神的にも劣勢に立たされていた。必死で考えた手が完璧な対応で返されたからだ。しかもこんな格下に。
天子はここまでほとんど負け知らずだった。たまに負けたとしても気分が乗らなかったか相手が弱すぎて本気にならなかった、そんな陳腐な理由だった。本気を出せば絶対に誰にも負けない自身があった。自分と対等に相手になるのは名神、八意永琳とその他数人だけ。自分は棋界の有頂天に立つ名神の器、そう信じて疑わなかった。
「後何分ですか?」
「残り三十三分です比那名居八段」
あれこれ考えている間にこんなに時間が過ぎてしまった。もう後がない。
天子は最後の長考に一縷の希望をかけた。
読みが定まらない中で刻々と時間だけが過ぎていく。
チラリと椛に目をやった。死刑を宣告する死神ようだった。白い髪はザワザワと殺気立ち、光の失った目は盤上のただ一点だけを注視していた。
たまたま相手のヤマが当たった、格下に一発いれられた。そんな思考を天子に許さないだけのプレッシャーが今の椛にはあった。
「比那名居八段、残り五分です」
もう五分しかない。
おぼつかない意識の中で天子は酔いどれ鬼の昔話を思い出していた。一体あの鬼は今どこにいるのだろう?
「……で地底には私の仲間がいたのさ。全く変わりもんだよ。地底にいてもいいことなんてなにも無いのに。地底は虐げられた者達が集まってくる。だから空気が淀んでるのさ。循環しないからますます陰気な奴らが集まってくるんだ。あれ、何と言ったかな……そうそう地霊殿!そこには心を読む偏屈な妖怪がいたもんさぁ。信じてないな?でも私は見たんだよ。そこに私自身がいたのを! あれにはびっくりしたねぇ。あの妖怪は心を読むだけじゃないんだ心をのっとるんだ……この世で二度と会いたくない妖怪さ。う~ん特徴ねぇ……そういえば変な目玉のおもちゃをつけて……」
「比那名居八段、残り時間を使いきりましたのでこれより一分将棋となります」
記録係の呼びかけではっと我にかえる。
指運に任せて手をつないだが椛は時間を十分余している、波乱の余地はない。
負ける事がわかっている、ただ死を待つのみ。
「五、四、三、二――」
「……負けました」
残り二秒まで読まれて天子は頭を下げて投了した。
指す手指す手全てが先手を打たれて対応されてしまう。
最後はただひたすらに怖かった。
天子は頭を上げたくなかった。頭を上げればそのまま心を喰われてしまう、そんな気がしたからだ。
天子が投了した後固まっているので、椛は感想戦する意思と見なし、足早に対局室を後にした。今はとにかく早く帰って休みたかった。ハンカチでくるんだ左腕がじくじくとうずいてたまらなかった。
次の日椛はさとりと会った公園のベンチに腰掛けて、昨日の対局を思い出していた。左腕に目が開いた後、天子のイメージを理解することができた。天子の脳内盤面は五枚浮かんでいた。この開いた目のおかげで勝てたのだが椛は怖かった。もしも、次の相手がもっと上だったとしたら。
椛はあの夜歩いたようにさとりの軌跡をたどってみた。雑居ビルがあった場所は空き地になっていた。道を間違えたのかと思い、周囲を散策した。ぐるぐるぐると同じ道を飽きることなく周回した。
近住民にも話を聞いたがそんな地下エレベーターがあるビルは知らないとのこと。古明地という名も誰もしらなかった。
ふっと格子窓の部屋の赤黒い目の塊を思い出した。
椛は頭に浮かんだ恐怖を振り払うためにそっと走り出した。
二回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
知らない間にまた一つ目が増えた。
三回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
寝ている間に一つ目が増えた。
四回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
また一つ目が増えた?
また一つ目が増えた??
「犬走先生おめでとうございます! いやいや先生がこんないお強いだなんて……。おっとさすがの貫禄勝利です! さぁ飲んでください。それにしても先生最近おやつれですね。対局ばかりで大変でしょうが精のつくもの食べないと弱っちゃいますよ」
椛は最近はすっかり痩せてしまった。ぽっかり開いたいくつかの目が休ませないのだ。包帯で固く締め付けていないとまばたきを繰り返して痛い。それに段々目ヤニが溜まってかゆくなるので半日で代えなければならなかった。
対局のたび目が増えることに不安を覚えた。もうこれ以上は耐えられなかった。
勝っても不安だった。まだ相手の手が読めてない部分があるのではないか?そう思うと目がぐりぐりと蠢動するのだ。
「そういえば先生最近棋風変わりましたよねぇ?」
「う~んそうですかね……」
「ええそうです!とても激辛流になりましたね。完膚なきまでに相手を叩きのめす、友達をなくす手です! へへへ、おっと失敬。いやいや単にお強くなられただけですよね。いえいえもちろん前から強いですが!」
体に目が出来てから椛は性格が変わってきたように思う。目が増えるたび自分が自分でなくなる気がした。
「あの……射命丸さん」
椛は体に生えた目のことを一瞬打ち明けようかと思った。
「なんですか? 先生?」
「いえ、何でもないです、すいません」
「悩みなら何時でも聞きますよ。大船に乗った気でいてくださいハハハ……」
椛は風呂場でシャワーを浴びていた。湯が目に染みるので浴槽につかれなかった。
大きな鏡。
生気のない細い椛の肢体が写っていた。
じっと見つめていると顔の皮膚の内側から目玉がうじゃうじゃ沸いてきた。
違う違う。
私はそっちじゃない。
椛は鏡の前から一目散に逃げ出した。
「咲夜、行くわよ」
と言ったのは将棋会の赤いカリスマ、レミリア・スカーレットである。タイトルの一つある帝王を所持し、現在はビッグタイトルである竜神を獲得したらめんとする、まさにカリスマであった。
今日は待ちに待った竜神戦五回戦、これに勝てば挑戦者決定戦三番勝負となる。
レミリアにとっては将棋は絶好のゲームだった。勝負の趨勢を読みきる直感力に優れ、どんな不利な局面からでも逆転してしまうような勝負術をも持っていた。ただ対局は午前中から始まるのでどうしても昼はエンジンがかからなかった。よってレミリアは日が出ている時はほとんど指さずに寝て過ごすのである。
日が暮れた時には残り時間が一時間切っているのが常であったが、そこから恐ろしいほどの集中力と読みで、勝ちをもぎとるのは圧巻だった。
「はい、お嬢様、準備はすでに整っております」
紅魔館の瀟洒な従者、十六夜咲夜が答えた。
「それにしてもお嬢様、今日の相手にはびっくりですね。私はてっきり西行寺先生とばかり……」
「咲夜、偏った運命ほど興味深いものよ。もし偽りの運命なら私がはっきり暴いて見せるわ!」
竜神戦本戦五回戦が椛の先手で始まった。
椛は包帯を至る全身至るところに巻いて望んだ。
目が勝てと言っていた。負けたらどうなる?負けたら?椛は考えなかった。
レミリア眠そうな目つきで気だるそうに十数手指したところで退席した。
「ふぁ~~ぁ咲夜、三時間程寝るわ」
「はいお嬢様ごゆっくり……」
レミリアは咲夜から専用枕を受け取り控え室へ消えていった。
レミリアが控え室からさっぱりした顔で戻ってきた。
展開は遅々として進まず形勢は微妙だった。
やがて夕暮れ時が迫った。
椛は十枚のレミリアの脳内盤面を凝視していた。包帯の下でぎょろぎょろと蠢き駒の動きを詳細に監視していた。
もはや椛と半々であった。植えつけられた子種は段々と勢力を増やし椛自体と融合、または支配しようと尽力していた。顔の筋肉はだらしなく緩み口は常に半開き、それでも盤を視認すべく両目の光だけはまだ失われていなかった。
レミリアはいたく感心していた。
夜が近づき冴え渡ってきた自分の読みを上回る手順をこの新米棋士がこなしているのだ。
ふふ面白いじゃない。どうれ少し本気だそうか……。
しかし感じる違和感。
この対局ではない。
それは椛自身から発せられていた。
レミリアはそれが何であるか理解し得なかったが、それに触るのは危険だと理解した。
私が関わる必要はないわ――
レミリアの鋭敏たる嗅覚がこのめぐり来る運命を回避した。
そんな詰めろじゃ私は欺けないわね。
私を誰だと思っているのかしら
レミリアは牙を収め淡々と指し続けた。
まるで帝王レミリアの指し手とは思えないほどの淡白な対応だった。
形勢は椛優勢のまま進み、そのまま九十三手の短手数でレミリアの投了となった。
「お嬢様――」
控え室に戻ると驚いた顔で咲夜がたずねた。
「あら咲夜、負けちゃったわ。ああくやしい」
「お嬢様、私にはわかります。今日は本気だされていませんでしたわ」
「ふふ私だって本気でやってもたまには負けるわよ。」
「しかし……」
「いい? 咲夜、私は全力で戦って負けたのよ、覚えておきなさい」
「はぁ……」
咲夜はレミリアがなぜ手を抜いたか納得できなかった。
「あの天狗、かわいそうに……」
「はぁ?」
「さぁ今夜も月が紅いわ! 最高の気分よ!」
椛は五回戦が終わった後、すぐに大量の包帯を買い込んでこもりきりになった。
決定戦までもう誰にも会いたくなかった。運命の時まで時間を有意義に使いたかった。
ドンドンとアパートのドアを叩く音がする。煩い。
「犬走先生! 射命丸です! 開けてくださいっ! 後生ですから……先生! 先生!」
少し逡巡したが開けることにした。誰か人でも呼ばれたら大変だ。
ガチャリという音とともにドアが開いた。
「あっ先生やっぱりいるじゃないですか。心配した……」
射命丸は部屋の中を見て驚愕した。白い包帯が何本も何本も四散していた。ゴミ箱には使用済みと思われる包帯がぎゅうぎゅう詰めになって、その一本一本に赤茶けたしみが付着しているのが見て取れた。椛自身はほとんど全身を包帯でくるんでいた。顔も地肌をほとんど晒すことなく念入りに包帯が敷き詰められている。
「……先生……どうして私に言ってくれないんですか? ご病気なんですね?前々から変だと思ってました。さぁそうとわかったら早く病院へ行きましょう! さぁさぁ!」
椛は力なく首を横に二回振った。病気ではないとわかっていた。もうどうすることもできない。
頭が重い。
目がうずく。
外で誰かがわめいている。
かゆいかゆい。
楽になりたくて、椛はたまらずしゅるしゅると顔の包帯を取り外した。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる……。
椛は風呂場へ入った。
大丈夫だ。もう少しの辛抱だ。
大きな鏡に自分を移した。
百、二百――数え切れないくらいの目達
椛は自分の肢体にうっとりした。
美しいと思った。
にっこり笑うと顔の目が全て笑った。
シャワーを浴びると目がいっせいにまぶたを閉じ、パチパチパチパチと瞬いた。
さとりのことを思い出した。
右乳首と秘所をまさぐった。
甘い声と涙が流れた。
自分でアソコを広げるとそこにも目があった。
視姦しながら視姦された。
何度も何度も絶頂に達した。
目がうれしそうに椛を見つめた。
竜神戦トーナメント挑戦者決定戦三番勝負第一局――
椛は顔も手も包帯でぐるぐる巻きにして現れた。関係者は狼狽してしまった。誰もそれが椛だと自信を持ってど言えなかった。どうやって息をしているかもわからないくらい口元もふさいでいて声も出せなかった。
「いいわ、後で確認すればいい」
今日の対戦者であり、最強棋士であり、医師でもある八意永琳の鶴の一声で決まった。
「お願いします」
椛は軽く一礼して対局に臨んだ。
永琳は最初から本気だった。
瞬く間に五百以上の将棋版がくるくると回った。
五百の目は歓喜の涙を流した。椛もうれしかった。
しかしまだ足らない。いい勝負がしたかった。
局面が複雑化すると永琳の脳は激しく電気運動した。
あっという間に千、二千、いや数万――数十万――
天才の脳の中で核融合が起きた。
それに呼応して椛の体は別の何かへと進化するため一歩をたどった。
毛穴という毛穴が目で覆いつくされていく、もう体温調節はしなくていい。
あの格子窓で見たのは自分自身だった。
ようやく仲間になれる。
いい勝負だ。
ああ気持ちいい。
もっと楽しみたい。
右手だけはなんとか形を保った。
永琳は天才だ。
まだいける。
ごぉごぉかく
にげろんごろ
ろっぱいいきゃ
めずふちう??
まさか
ずなら
あとすこし
あ
犬走椛は七時半を過ぎても対局場に姿を見せなかった。このままでは時間切れになってしまう。
記録係が控え室へ呼びに行った。
「犬走ごだ……キャーーーーッ!!」
記録係りの金切り声が将棋屋敷にこだました。
犬走椛、いやかつて椛だったものは包帯の束の中でナメクジのようにはっていた。
ドス赤黒い肉の上に小さい目玉がうようよ蠢いて、よく見てみるとなお分裂し、肉の底から沸きあがり、まるで生命の喜びを全身で受け止めているように見えるのだった。
「……夜のニュースお伝えします。妖怪の山山岳地に烏天狗とみられる死体が遺棄されているのが、発見されました。外傷はなく心因性のショック死と見られ……身元の確認を急いでいます……」
地霊殿の居間で古明地こいしはくつろいでテレビを視聴していた。
「こいしっ、テレビ消して早く寝なさいっ。でないと目ん玉いっぱいのお化けになっちゃうわよ~」
「はいはい、わかったからお姉ちゃん」
地霊殿の主である古明地さとりの呼びかけで、住民達は寝静まる。それはいつの時代も変わりはない。
地霊殿の住民が寝静まった後、古明地さとりは秘密の部屋の鍵をガチャリと開けた。赤黒い何かがさとりを視認すると、うれしそうに近寄ってきた。
「……お父さん……」
犬走椛はプロ棋士である。プロになってすでに十余年の月日が経過していた。それなのに椛の段位はまだ五段であった。熾烈な争いの三段リーグを勝ち抜いたはいいが、プロになってからの椛の実績は散々たるものだった。
このまま終わるわけにはいかない―――
椛は自分の実力を出し切ってはいない、いや無理にでもそう思いたかった、このままうだつのあがらないまま歴史の片隅に消えていくのはしのびなかった。
体躯に優れる天狗の間では将棋は非力な妖怪、人間するものとして侮蔑されていた。故に将棋プロの養成機関である奨励会に入会する際にも、周囲からの堅固な反対を押し切ってのことだった。
今日はC級一組の順位戦の日だったが、善戦したものの終盤で手痛いミスが出て勝ち星を逃してしまっていた。順位戦はA級、B級、C級に分かれていて椛のいるクラスは上から四番目のクラスとなる。将棋会の最頂点である名神を目指すには避けては通れない道だ。
「あやや、これはこれは犬走先生どうでしたか? 今日の対局は?」
「ああ射命丸さんですか。だめですね全然だめです」
椛が将棋屋敷から出て帰路につこうとした時に文々。新聞の記者、射命丸文が話しかけてきた。文々。新聞社は順調に業績を伸ばし現在では将棋会のタイトルの一つである竜神戦のスポンサーになっている。
「そうですかしかしまだまだ昇級の目はあります。これで四勝四敗ですが上位がこければまだわかりません」
「いやいや冗談はよしてください。無理ですありません。奇跡なんてものはまず起こりません。むしろ降級の方が近いのですからそちらの方が心配です」
「そんなに弱気にならないでくださいよ犬走先生、私はですね、先生がまだ本当の実力発揮されていないんじゃないかと思っているんですよ。同じ妖怪の山出身としていつでも応援しているんです。思い出しますねぇ先生がプロ入りした時の事を、私、一字一字精魂こめて記事を書きまして……今でもその内容がつぶさに走馬灯に……天才棋士――現る! その名も犬走……」
「よしてください昔の事です」
「……すいません先生」
射命丸と別れた後、椛は夜の街を当てもなく歩いた。
「天才棋士……か……」
選ばれた者とそうでない者との違い、はたから見れば僅差に見えてもそれは決して埋まる事のない膨大な溝である。無論若くしてプロ入りした椛もある意味選ばれたわけではあるが、その中でなおふるいにかけられ、より研磨される可能性は万に一つであった。
ふと歩き疲れて椛は公園のベンチにどっと体重を預けて、深くため息をついた。
「ふぅ……」
しばらくして頭を上げた時に一人の少女がずっと目の前に立っていた事に気づいた。背が小さく、日の光を一度も浴びたことがないような真っ白な肌、人間の幼子が見につけるような衣装に、奇妙な目玉を装着したアクセサリを身につけていて至極アンバランスだった。
「将棋棋士の犬走椛五段ですね?一度お話したいと思っていたのです。少しよろしいかしら?」
と言い少女は椛の隣へ腰掛けた。少女と言ったが口調や立ち振る舞いから推測すると本当の年齢は定かではない。特にこの幻想郷に限っては。
「は…はぁ…どうぞ」
椛はこの奇妙な少女が自分を知っていることに激しい違和感を覚えた。よほどの将棋ファンでなければ椛のような何の実績もない棋士に目をかけたりしない。ましてやこんな少女が――
「ふふ…そんな不思議な顔をしなくても結構です。父が大の将棋ファンですので私も自然と覚えていまして…」
「そ、そうでしたかいやいやこんな底辺棋士を応援してもらって申し訳ない」
「まぁそんなにご謙遜されなくても…どうでしょう?父が一度お会いしたいと申しておりましたので、ぜひお招きしたいのですが…」
少女はぞくっとするような流し目をくれて椛に笑いかけた。椛は突然身の毛もよだつような恐怖にかられた。捕食者が獲物をどう料理するか思案している、そんな様子を思い起こさせるような悪魔の笑みだった。
「あ、は、はい」
椛は何とか口をパクパクさせて返答したが、少女が口の端を吊り上げて満面の笑みで応対したので更なる恐怖におののいた。
奇妙な少女は古明地さとりと名乗った。さとりは見れば見るほど奇妙だった。歩いている時でも上半身が常に一定の振動で揺れているのである。彼女を見ていると、椛も催眠術にかかったかように共鳴して振動してしまうような錯覚にとらわれた。
しばらく歩くと古ぼけた雑居ビルから二人はエレベーターに乗った。さとりは↓のボタンを綺麗な細長い指で軽く押した。
ゴーーゴーーというエレベーターの音が箱の中の時間を長引かせている。
「ずいぶん下るんですねぇ。幻想郷にはこんなに地下は無いものと思っていたんですが……」
「うふふ、地下七百七十七階行きですわ」
「あっはは、いい冗談ですね」
椛は幻想郷にはかつて地底世界が存在し、そこには鬼や人の心を食す妖怪、地獄の火車、神の力を宿した烏が地上を征服しようとたくらんでいた――そんな伝承を人伝えに聞いていた。だが所詮は根拠のない伝説でしかない。地下に空洞なんて存在しないことが現在までの調査でわかっている。
ガチャンと金属的な音が響き、エレベーターのドアが重々しく開いた。どうやら普通の地下のようだ。かなり下ってる気がしたのは気のせいだったらしい。
「……ようこそ、地霊殿へ……」
さとりは声を押し殺してつぶやいた。
さとりの家は西洋風の造りだった。至るところに綺麗なステンドグラスが張り巡らされていやになるくらい照明の光を反射している。
「おっと!」
そう椛が叫んだのは何かに足を引っ掛けたからだ。視線を向けるとリボンをつけたワニが闊歩していた。
「あらごめんなさい。父は変わり者であらゆる種類のペットを飼っているのです。ほとんど放し飼いなのですが、みんなよく訓練されているので絶対安全ですよ」
そう言ってさとりはにっこりと笑いかけた。
長い廊下を進んで行くと様々な動物が我が道を行っていた。椛はこれほどまでの趣味に興じるさとりの父をたいそう不思議に思った。一体どんな奇人変人が現れるのかと内心びくびくしていた。
「この部屋は父の秘密部屋なんですの。めったに見られない希少種ばかり集めて、何が楽しいのか本当に変な人ですよね。ふふふ、少し覗いてみますか?」
さとりが左手の部屋を指して尋ねる。
椛はふらふらと誘われるとようにドアに取り付けられた格子窓を覗いた。部屋の中は別世界だった。今まで見たこともないような動物や妖怪、それだけに止まらず手足の一部が欠損していたり何本もあったり。遺伝子を何度も掛け合わせすぎて元がわからないようなキメラ、椛には後数秒もこの世界を視認していたくなかったが不幸なことに部屋の隅の赤黒い物体に目がいってしまった。
椛は目の能力が飛びぬけている天狗の中でも特に秀でていた。結果その物体の詳細をまじまじと確認せざるを得なかったのである。遠目には小さなつぶつぶがたくさん付着したように思えたが、それは実際のところ全て目であった。血ばしった目が何千何万何百万――まるで毛穴ように黒い皮膚一面にびっしりと生えていた。それがいっせいに瞬きを繰り返していたからたまらない。目があった。一つだけではい。ぎょろぎょろと膨大な目が全て椛をにらんだ。ところどころふさがっていてどす黒い血の涙を流していた。そしてこっちへ歩みを進めていたのだ。ナメクジのようにゆっくりだが着実に。
椛は胃から酸っぱいものが沸き起こるのを感じてすぐに目を背けた。一体アレは何なのだろうか。
「大丈夫ですか?さぁもう行きましょう、本当に父は悪趣味で困りますわ……」
すっかり憔悴した気分で応接間に通された椛はどかっとソファに倒れこんだ。
「それではすぐに父を呼んで参りますので、しばらくお待ちくださいな…」
そう言ってさとりは部屋を後にした。
「どうぞ、お客様、遠路はるばるお疲れ様です」
カチャカチャと音を立てながら、ゴスロリ風の衣装に身を包んだ猫耳のメイドがテーブルに赤い液体の入ったカップを置いた。
「ど、どうも……」
「ハイビスカスティーでございます。甘くて疲れがとれますよ。それではごゆっくり」
ぺこりとおじぎをして猫耳メイドは部屋を出て行った。本当にここの主人はいい趣味をしている。椛はティーをすすりながらさっき見た異様なものを理解しようとした。しかしあの醜悪な視線は思い出しただけでもまた吐き気が襲ってきた。あんなものは見なかった――そう見なかった――それが最善だと脳に了承させた。
「お待たせしました犬走先生。どうですか?ご気分は?」
さとりが一人で部屋に入ってきた。父親はいなかったのだろうか?
「え、ええと、そういえばちょっと疲れたようです。おかしいな……」
「ねぇセンセイ……」
さとりは急に椛に甘えた子猫のようにしなだれかかってきた。
「センセイは今悩みごとがありますよねぇ?」
「えっ、ちょっと、お、お父様は?」
「そんなことどうでもいいからぁ、私、センセイのお悩み解決してあげたいんです……」
さとりは何を思ったか椛に体すりつけ、椛の服の中に手を入れ、右胸の乳首をコリコリとつまんできた。椛には女同士で乳繰り合うような趣味はなかったのでこの行動にはひどく狼狽してしまった。しかし先ほどから体がおかしい。頭がぽーっとしてさとりに触られるたびに胸の動悸が激しくなるばかりだった。
「弱いんでしょう? ここ? ふふふ、無駄ですよ、そんなに我慢しても、私には全てわかるんですから……」
確かに椛が自己欲望発散に常時使用していた部位はそこであったが、なぜさとりが知っているか見当もつかなかった。
「将棋って、相手の手が読めればいいんですよね? でしたら、私のを少しわけて上げます。くすくす大丈夫です……。将棋のこと以外は読めないようにしてあげますから……色々と不便ですからね……」
さとりは耳元でささやきながら椛の性感帯をまさぐった。椛にとっては理解の範疇を超えていた、そして一刻も早くこの責め苦から逃れたかった。
「センセイ中々我慢強いのね……」
「ぁん、やめ……て……」
「強くなりたいでしょ? センセイ?」
椛は強くなって世間を見返したかった。頭がぐるぐる回る。もうどうなってもいい。強くなりたい。
さとりの指が椛の両乳首をすりつぶしてあげると椛の中でガタガタと何かが崩れ落ちた。
第三の目からしゅるしゅると白い糸が伝わって椛の耳元へ降り注いでいた。
しゅるしゅるしゅるとまとわりつき新たな宿主への順応を開始した。
椛が目を覚ますとそこは自分のアパートの寝室だった。ひどく頭が痛い。長く悪い夢を見ていたような気がした。夢の中の出来事を反芻してみたが妙にリアルな夢だった。もしリアルだったとしたら? いやあの後どうやって帰ったか覚えていない。しかしあの格子窓の部屋の強烈な印象は、まるですっかり夢の出来事とは思えなかった。そしてさとりの微笑。思い起こすだけでも寒気がした。
さっぱり説明がつかない混乱した頭の中、椛は時計を見て驚愕した。今日は大事な竜神戦予選の日であったのである。椛は手早く支度を整え将棋屋敷へとすっとんでいった。
大急ぎで対局室へ飛びこんだが無常にも対局開始時間を過ぎていた。
「犬走五段、対局時刻より二十分の遅刻、規定により三倍の一時間の持ち時間の減少となります。それでは対局お願いします。」
記録係の妖精が無機質な声で告げた。
「申し訳ありませんでした……」
椛は体を縮こまらせて謝罪し、盤に向かうと同時にすぐさま角道を開けた。全く大事な対局だってのに…遅刻というのは持ち時間差がついてしまうのも痛いが何より精神を安定させることができないのが一番のハンデである。竜神戦は持ち時間が五時間なのでもう20%も無駄にしたことになる。どうしてこうなってしまったのか。
あれこれ考えている内にはっと気づいた時にはもう局面はずいぶんと進んでしまっていた。落ち着け落ち着けまだ定石の範囲じゃないか。まだまだこれからだ。椛は気持ちを切り替えて盤面を覗いた。しかし何やらぶつぶつと誰かがつぶやく声が聞こえる。一体誰だ?この部屋には相手と自分と記録係しかいない。誰も口を動かしている者はいなかった。しばらくきょろきょろと首振り回してみた。そしてつぶやきの出所を理解した。
……▲5八金 △8八歩 ▲7七桂…… △8九歩成 ▲4六歩 △同 歩……
声のように聞こえたのは実は棋譜だった。いや声と言うより頭の壁張り付く言霊、と言った方がよかった。とにかくべったり張り付いて離れない。しかし何故だろう?どうして棋譜なんかが…?再び盤面に目を落とした。そして椛は言霊の半分を理解した。
この言霊は今実際対局中の棋譜の続きを綴っているのだ。一体どうして?
こんがらがる頭の中で椛は昨日のリアルな夢を深く思い出そうと努力した。
(強くなりたいでしょ?センセイ?)
そう昨日確かさとりはこう言ってきた。そして……いやその前……。
(相手の手が、少しわけて上げます……)
まさか……相手の手が読めている?
椛は自分の体に起きている現状を受け入れがたかったがそれを受け止めるしか方法は無かった。
将棋で相手の思考が読めればこれほど有利なことはない。相手の指してくる手が前もってわかるのだから
その筋にそって読みを入れていけばいい。
椛は雑念を遮断して目の前の将棋に全神経を集中させた。
「……負けました」
数刻後相手が投了した。
椛はほっと胸を撫で下ろすと同時に、心の奥底から沸き起こってくる言い知れぬ不安感も覚えていた。何故棋譜だけが読めるのか?それはそれで他人の心の内を知りたくない椛には都合がよかった。ただ純粋に将棋に勝ちたかったのである。
椛は勝った。
人が変わったように将棋に勝ちまくった。
椛は脳内に張り付く棋譜を言霊と名づけた。そしてそれを対局の中でイメージ化する作業も少しづつ会得していた。プロ棋士ならば誰でも一枚脳内盤面を脳内に構築している。この脳内盤面の中の駒がすごいスピードでこちゃこちゃと動くのである。 椛は言霊からイメージ化する作業を省略してダイレクトに相手の思考を脳内盤面写していた。
これが完成すれば誰にも負けるはずがない――椛はそう確信していた。
「犬走先生十二連勝継続中アーンド竜神戦本戦出場おめでございま~~す!!」
椛と射命丸は街の居酒屋でささやかなお祝いをしていた。
「やや! 先生!私はずっと信じていました。今や破竹の勢いの大棋士です。さすが私の見込んだ女ですええっもう」
「射命丸さんそんな大げさですよ。そんな勢いも長くは続きません。それに竜神戦はこれから強い相手と戦わなくちゃなりません。私みたいなぺーぺーなんてすぐやられちゃいますよ」
「いえいえいえ、今の先生は明らかに以前とは違うパワーを感じます。私にはわかるんです! 先生の事を一番よくわかっています!」
「はぁ、パワーねえ……」
椛は射命丸の賞賛の言葉にも素直に喜べずにいた。偶然手に入れてしまった力。それを行使して勝利する事の後ろめたさで押しつぶされそうだった。しかしここまで来たら勝ちたい気持ちの方が優先された。言霊のイメージ化もほとんど仕上がっている。後はそれが上位に通用するかが問題だった。
「あやや、なんか元気ないですねぇ。そうだトーナメント表が決まったんですよ。コホン、よく聞いてください一回戦は比那名居天子八段ですね。幻想郷の受け師と呼ばれる強靭な受けを得意としてます。非常に粘り強く気の抜けない相手です。二回戦は八雲藍九段です。この将棋屋敷を作った八雲紫会長の式神です。どんな長い詰みでも見逃さない終盤のスペシャリストと呼ばれています。続いて聖白蓮九段、西行寺幽々子九段、と続きます。いやいやいやなんと大物ばかりですねぇ。さて…おおっと!なんとこの方が!五回戦はあの紅いカリスマ、レミリア・スカーレット帝王ですね。彼女が放つ常人には全く理解しがたい絶妙の一手はレッドマジックと形容されるほど恐れられています。いやいやいやいやいや本当に強敵ばかり…あや?いえいえ先生の強さは私がよく存知あげております。ええもちろん。さてさてそういえば右の山からの挑戦者は誰になるんでしょうかねぇ? 本命はやはり八意永琳名神…………いえ勝負に絶対はありませんよ! さぁさぁさぁ先生もっともっと飲んでください飲んで飲んで……」
椛は本戦へ向けて将棋人生の中で一番将棋に打ち込んだ。あらゆる将棋の本を読み漁った。しかしまだ全然足りないと思った。椛には絶対的に経験が足りない。これから戦う相手はA級以上の猛者なのだ。いくら手が読めるといっても不安だった。一日じゅう将棋のことばかり考えて眠れなかった。
日増しに起こる原因不明の頭痛も増えていた。
気にしない、気にしたくなかった。
比那名居天子は退屈をもてあましていた。天人であり総領娘である天子にはこの永遠にも近いこの時間をどう消費しようか毎日考えていた。過去に下界の天気を操った時にはたまらない感動があった。結局教育係の永江衣玖に後でこっぴどくお灸を据えられることとなった。またあの時なような刺激を感じたい、常々そう思っていた。
下界の将棋ブーム天子の耳にもすぐに届いた。好奇心旺盛な天子にとっては新しいものは格好の興味のまとだった。
「いいですか?総領娘様?将棋の基本はまず攻める前に囲うことです。焦って攻めてもいいことはありません。まず玉を固めて相手の出方をうかがう、そして相手が無理な攻めをした間隙を縫ってカウンターを決めるのですこれは中国古来の兵法のも通ずるものがありますね。総領娘も将棋を通して世の中の……」
将棋を全く知らなかった天子は初めは衣玖に手ほどきを受けた。囲い方から手筋、攻め方から勝負術。天子はめきめきと上達した。特に気に入った戦法は穴熊だった。玉を盤の隅に寄せ金銀を貼り付けて守りを固める。相手の攻めをぎりぎりしのいで受けつぶす快感がたまらなく心地よかった。
負けても楽しかったが勝てばもっと楽しかった。
しだいに衣玖では相手にならなくなっていった。
「総領娘様、もう私では相手になりませんね。どうでしょう下界では将棋のプロが最近できたようですが……。お力を試してみたくありませんか?」
天子は迷わずうなずいた。
コネにより異例の初段からのスタートとなった。周囲から天子を妬む声が大きかったが全て黙殺した。
天子にとっては格下の存在の戯言など道端のアリ同然だった。
元々筋がよかったのであろうか挫折知らずで昇級しA級八段までたどりついた。
A級昇級が決まった時衣玖は涙を流してよろこんだ。
「総領娘様一回戦の相手は犬走五段だそうですよ、なんと十二連勝中らしいですよ、侮れませんね」
名前知らないような弱小棋士が確変しただけ、天子はそう思った。
「心配はいらないわ衣玖。竜神と名神、二大タイトル制覇なんて素敵じゃない」
竜神戦トーナメント本戦一回戦――
「それでは比那名居天子八段の先手でお願いします」
「よろしくお願いします」
記録係の後に続き二人の声が共鳴して和室に響く。
少し気持ちを落ち着けて天子が音も無く初手を放った。
戦形は将棋の花形、矢倉へと進んだ。定石手順から天子が矢倉囲いから更に穴熊へと組み替えた。何も穴熊は守備重視の戦法というわけではない守備を万全にして強引な攻めを通す、言い換えれば非常に攻撃的な戦法である。もちろん相手もそれをわかっているから何とか手段を尽くすのだが、穴熊の暴力は時に理不尽な致命傷を負わせるのである。
現状は無常件で天子の玉が戦場から遠ざかってしまっていた。椛にとっては劣勢を感ぜざるを得なかった。
「ああ駄目だ駄目だ!」
椛はトイレの中で頭をかかえながら叫んだ。
比那名居天子は圧倒的だった。今までの相手とは比べ物にならなかった。膨大のイメージの洪水が椛を押し
ぶした。何重ものつるが幾重にも絡まり理解しようとすればするほどますます困難を究めた。
椛は焦っていた。しかし負けたくなかった。
勝ちたい。勝ちたい。
「うっ!!」
そう思った時左腕に何かで切り裂かれたような痛みがはしった。
袖をまくってみた。真っ白な腕の腹に2cmぐらいの目が開いていた。
椛が見つめるとそれは挨拶でもするかのようにパチパチと二度瞬いた。
椛が席を立っている間天子は余裕を感じていた。
たいしたことないわね――やっぱり下級棋士だったわ。しかもびくびくおびえているようでまるで子猫のよう。この私と対局するにはふさわしくない存在。この対局はもう大差よこのまま攻めつぶして
終わり。日がくれるまで持ちそうにないわね。
天子が帰り支度に思いを巡らしていると椛がひどく青ざめた顔で戻ってきた。
「いっ犬走五段、大丈夫ですか?顔色がずいぶん悪いようですが……」
「いえ、何でもありません……」
見かねて記録係がたずねるが椛はうつろな瞳でつぶやいて盤の前に座った。
ふっと息を吐いた後、椛の死人のように血色の失せた指が盤上に伸びた。
瞬く間に数手進んだ。
天子は言い様のない違和感を感じていた。椛がここ数手に放った手は苦し紛れの勝負手、決して当たることのない宝クジ。天子は弱者が逃げの思考陥ったのを刈り取るのを得意としていた。故にこの椛の暴挙も十分想定していたはずなのに――。
何度深く読んで見ても形勢は思わしくなかった。簡単には勝つ順が見つからない。
さっきまであんなに簡単だったのに、いいえ落ち着つくのよ。
時間は……?
天子はチラリと横の時計を見た。
なんだ……まだ二時間も残っているじゃない。
焦ることはないわ一時間ゆっくり長考すればきっと打開策が見つかるはず。
天子はそう思い、少し安心して目をつぶって様々な読みを頭の中に巡らせた。
一時間の時が過ぎた。
天子はじっくり熟慮して自分が優勢になる順を導きだした。天人の精緻な頭脳がフル稼働して一本の正解を
発見したはずだった。
天子のつややかな指が盤上を舞った。
小考の後椛の白い手が伸びた。
またあっという間に数手が進んだ。
おかしい――おかしい―― 。
天子は形勢も精神的にも劣勢に立たされていた。必死で考えた手が完璧な対応で返されたからだ。しかもこんな格下に。
天子はここまでほとんど負け知らずだった。たまに負けたとしても気分が乗らなかったか相手が弱すぎて本気にならなかった、そんな陳腐な理由だった。本気を出せば絶対に誰にも負けない自身があった。自分と対等に相手になるのは名神、八意永琳とその他数人だけ。自分は棋界の有頂天に立つ名神の器、そう信じて疑わなかった。
「後何分ですか?」
「残り三十三分です比那名居八段」
あれこれ考えている間にこんなに時間が過ぎてしまった。もう後がない。
天子は最後の長考に一縷の希望をかけた。
読みが定まらない中で刻々と時間だけが過ぎていく。
チラリと椛に目をやった。死刑を宣告する死神ようだった。白い髪はザワザワと殺気立ち、光の失った目は盤上のただ一点だけを注視していた。
たまたま相手のヤマが当たった、格下に一発いれられた。そんな思考を天子に許さないだけのプレッシャーが今の椛にはあった。
「比那名居八段、残り五分です」
もう五分しかない。
おぼつかない意識の中で天子は酔いどれ鬼の昔話を思い出していた。一体あの鬼は今どこにいるのだろう?
「……で地底には私の仲間がいたのさ。全く変わりもんだよ。地底にいてもいいことなんてなにも無いのに。地底は虐げられた者達が集まってくる。だから空気が淀んでるのさ。循環しないからますます陰気な奴らが集まってくるんだ。あれ、何と言ったかな……そうそう地霊殿!そこには心を読む偏屈な妖怪がいたもんさぁ。信じてないな?でも私は見たんだよ。そこに私自身がいたのを! あれにはびっくりしたねぇ。あの妖怪は心を読むだけじゃないんだ心をのっとるんだ……この世で二度と会いたくない妖怪さ。う~ん特徴ねぇ……そういえば変な目玉のおもちゃをつけて……」
「比那名居八段、残り時間を使いきりましたのでこれより一分将棋となります」
記録係の呼びかけではっと我にかえる。
指運に任せて手をつないだが椛は時間を十分余している、波乱の余地はない。
負ける事がわかっている、ただ死を待つのみ。
「五、四、三、二――」
「……負けました」
残り二秒まで読まれて天子は頭を下げて投了した。
指す手指す手全てが先手を打たれて対応されてしまう。
最後はただひたすらに怖かった。
天子は頭を上げたくなかった。頭を上げればそのまま心を喰われてしまう、そんな気がしたからだ。
天子が投了した後固まっているので、椛は感想戦する意思と見なし、足早に対局室を後にした。今はとにかく早く帰って休みたかった。ハンカチでくるんだ左腕がじくじくとうずいてたまらなかった。
次の日椛はさとりと会った公園のベンチに腰掛けて、昨日の対局を思い出していた。左腕に目が開いた後、天子のイメージを理解することができた。天子の脳内盤面は五枚浮かんでいた。この開いた目のおかげで勝てたのだが椛は怖かった。もしも、次の相手がもっと上だったとしたら。
椛はあの夜歩いたようにさとりの軌跡をたどってみた。雑居ビルがあった場所は空き地になっていた。道を間違えたのかと思い、周囲を散策した。ぐるぐるぐると同じ道を飽きることなく周回した。
近住民にも話を聞いたがそんな地下エレベーターがあるビルは知らないとのこと。古明地という名も誰もしらなかった。
ふっと格子窓の部屋の赤黒い目の塊を思い出した。
椛は頭に浮かんだ恐怖を振り払うためにそっと走り出した。
二回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
知らない間にまた一つ目が増えた。
三回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
寝ている間に一つ目が増えた。
四回戦も勝った。
また一つ目が増えた。
また一つ目が増えた?
また一つ目が増えた??
「犬走先生おめでとうございます! いやいや先生がこんないお強いだなんて……。おっとさすがの貫禄勝利です! さぁ飲んでください。それにしても先生最近おやつれですね。対局ばかりで大変でしょうが精のつくもの食べないと弱っちゃいますよ」
椛は最近はすっかり痩せてしまった。ぽっかり開いたいくつかの目が休ませないのだ。包帯で固く締め付けていないとまばたきを繰り返して痛い。それに段々目ヤニが溜まってかゆくなるので半日で代えなければならなかった。
対局のたび目が増えることに不安を覚えた。もうこれ以上は耐えられなかった。
勝っても不安だった。まだ相手の手が読めてない部分があるのではないか?そう思うと目がぐりぐりと蠢動するのだ。
「そういえば先生最近棋風変わりましたよねぇ?」
「う~んそうですかね……」
「ええそうです!とても激辛流になりましたね。完膚なきまでに相手を叩きのめす、友達をなくす手です! へへへ、おっと失敬。いやいや単にお強くなられただけですよね。いえいえもちろん前から強いですが!」
体に目が出来てから椛は性格が変わってきたように思う。目が増えるたび自分が自分でなくなる気がした。
「あの……射命丸さん」
椛は体に生えた目のことを一瞬打ち明けようかと思った。
「なんですか? 先生?」
「いえ、何でもないです、すいません」
「悩みなら何時でも聞きますよ。大船に乗った気でいてくださいハハハ……」
椛は風呂場でシャワーを浴びていた。湯が目に染みるので浴槽につかれなかった。
大きな鏡。
生気のない細い椛の肢体が写っていた。
じっと見つめていると顔の皮膚の内側から目玉がうじゃうじゃ沸いてきた。
違う違う。
私はそっちじゃない。
椛は鏡の前から一目散に逃げ出した。
「咲夜、行くわよ」
と言ったのは将棋会の赤いカリスマ、レミリア・スカーレットである。タイトルの一つある帝王を所持し、現在はビッグタイトルである竜神を獲得したらめんとする、まさにカリスマであった。
今日は待ちに待った竜神戦五回戦、これに勝てば挑戦者決定戦三番勝負となる。
レミリアにとっては将棋は絶好のゲームだった。勝負の趨勢を読みきる直感力に優れ、どんな不利な局面からでも逆転してしまうような勝負術をも持っていた。ただ対局は午前中から始まるのでどうしても昼はエンジンがかからなかった。よってレミリアは日が出ている時はほとんど指さずに寝て過ごすのである。
日が暮れた時には残り時間が一時間切っているのが常であったが、そこから恐ろしいほどの集中力と読みで、勝ちをもぎとるのは圧巻だった。
「はい、お嬢様、準備はすでに整っております」
紅魔館の瀟洒な従者、十六夜咲夜が答えた。
「それにしてもお嬢様、今日の相手にはびっくりですね。私はてっきり西行寺先生とばかり……」
「咲夜、偏った運命ほど興味深いものよ。もし偽りの運命なら私がはっきり暴いて見せるわ!」
竜神戦本戦五回戦が椛の先手で始まった。
椛は包帯を至る全身至るところに巻いて望んだ。
目が勝てと言っていた。負けたらどうなる?負けたら?椛は考えなかった。
レミリア眠そうな目つきで気だるそうに十数手指したところで退席した。
「ふぁ~~ぁ咲夜、三時間程寝るわ」
「はいお嬢様ごゆっくり……」
レミリアは咲夜から専用枕を受け取り控え室へ消えていった。
レミリアが控え室からさっぱりした顔で戻ってきた。
展開は遅々として進まず形勢は微妙だった。
やがて夕暮れ時が迫った。
椛は十枚のレミリアの脳内盤面を凝視していた。包帯の下でぎょろぎょろと蠢き駒の動きを詳細に監視していた。
もはや椛と半々であった。植えつけられた子種は段々と勢力を増やし椛自体と融合、または支配しようと尽力していた。顔の筋肉はだらしなく緩み口は常に半開き、それでも盤を視認すべく両目の光だけはまだ失われていなかった。
レミリアはいたく感心していた。
夜が近づき冴え渡ってきた自分の読みを上回る手順をこの新米棋士がこなしているのだ。
ふふ面白いじゃない。どうれ少し本気だそうか……。
しかし感じる違和感。
この対局ではない。
それは椛自身から発せられていた。
レミリアはそれが何であるか理解し得なかったが、それに触るのは危険だと理解した。
私が関わる必要はないわ――
レミリアの鋭敏たる嗅覚がこのめぐり来る運命を回避した。
そんな詰めろじゃ私は欺けないわね。
私を誰だと思っているのかしら
レミリアは牙を収め淡々と指し続けた。
まるで帝王レミリアの指し手とは思えないほどの淡白な対応だった。
形勢は椛優勢のまま進み、そのまま九十三手の短手数でレミリアの投了となった。
「お嬢様――」
控え室に戻ると驚いた顔で咲夜がたずねた。
「あら咲夜、負けちゃったわ。ああくやしい」
「お嬢様、私にはわかります。今日は本気だされていませんでしたわ」
「ふふ私だって本気でやってもたまには負けるわよ。」
「しかし……」
「いい? 咲夜、私は全力で戦って負けたのよ、覚えておきなさい」
「はぁ……」
咲夜はレミリアがなぜ手を抜いたか納得できなかった。
「あの天狗、かわいそうに……」
「はぁ?」
「さぁ今夜も月が紅いわ! 最高の気分よ!」
椛は五回戦が終わった後、すぐに大量の包帯を買い込んでこもりきりになった。
決定戦までもう誰にも会いたくなかった。運命の時まで時間を有意義に使いたかった。
ドンドンとアパートのドアを叩く音がする。煩い。
「犬走先生! 射命丸です! 開けてくださいっ! 後生ですから……先生! 先生!」
少し逡巡したが開けることにした。誰か人でも呼ばれたら大変だ。
ガチャリという音とともにドアが開いた。
「あっ先生やっぱりいるじゃないですか。心配した……」
射命丸は部屋の中を見て驚愕した。白い包帯が何本も何本も四散していた。ゴミ箱には使用済みと思われる包帯がぎゅうぎゅう詰めになって、その一本一本に赤茶けたしみが付着しているのが見て取れた。椛自身はほとんど全身を包帯でくるんでいた。顔も地肌をほとんど晒すことなく念入りに包帯が敷き詰められている。
「……先生……どうして私に言ってくれないんですか? ご病気なんですね?前々から変だと思ってました。さぁそうとわかったら早く病院へ行きましょう! さぁさぁ!」
椛は力なく首を横に二回振った。病気ではないとわかっていた。もうどうすることもできない。
頭が重い。
目がうずく。
外で誰かがわめいている。
かゆいかゆい。
楽になりたくて、椛はたまらずしゅるしゅると顔の包帯を取り外した。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる……。
椛は風呂場へ入った。
大丈夫だ。もう少しの辛抱だ。
大きな鏡に自分を移した。
百、二百――数え切れないくらいの目達
椛は自分の肢体にうっとりした。
美しいと思った。
にっこり笑うと顔の目が全て笑った。
シャワーを浴びると目がいっせいにまぶたを閉じ、パチパチパチパチと瞬いた。
さとりのことを思い出した。
右乳首と秘所をまさぐった。
甘い声と涙が流れた。
自分でアソコを広げるとそこにも目があった。
視姦しながら視姦された。
何度も何度も絶頂に達した。
目がうれしそうに椛を見つめた。
竜神戦トーナメント挑戦者決定戦三番勝負第一局――
椛は顔も手も包帯でぐるぐる巻きにして現れた。関係者は狼狽してしまった。誰もそれが椛だと自信を持ってど言えなかった。どうやって息をしているかもわからないくらい口元もふさいでいて声も出せなかった。
「いいわ、後で確認すればいい」
今日の対戦者であり、最強棋士であり、医師でもある八意永琳の鶴の一声で決まった。
「お願いします」
椛は軽く一礼して対局に臨んだ。
永琳は最初から本気だった。
瞬く間に五百以上の将棋版がくるくると回った。
五百の目は歓喜の涙を流した。椛もうれしかった。
しかしまだ足らない。いい勝負がしたかった。
局面が複雑化すると永琳の脳は激しく電気運動した。
あっという間に千、二千、いや数万――数十万――
天才の脳の中で核融合が起きた。
それに呼応して椛の体は別の何かへと進化するため一歩をたどった。
毛穴という毛穴が目で覆いつくされていく、もう体温調節はしなくていい。
あの格子窓で見たのは自分自身だった。
ようやく仲間になれる。
いい勝負だ。
ああ気持ちいい。
もっと楽しみたい。
右手だけはなんとか形を保った。
永琳は天才だ。
まだいける。
ごぉごぉかく
にげろんごろ
ろっぱいいきゃ
めずふちう??
まさか
ずなら
あとすこし
あ
犬走椛は七時半を過ぎても対局場に姿を見せなかった。このままでは時間切れになってしまう。
記録係が控え室へ呼びに行った。
「犬走ごだ……キャーーーーッ!!」
記録係りの金切り声が将棋屋敷にこだました。
犬走椛、いやかつて椛だったものは包帯の束の中でナメクジのようにはっていた。
ドス赤黒い肉の上に小さい目玉がうようよ蠢いて、よく見てみるとなお分裂し、肉の底から沸きあがり、まるで生命の喜びを全身で受け止めているように見えるのだった。
「……夜のニュースお伝えします。妖怪の山山岳地に烏天狗とみられる死体が遺棄されているのが、発見されました。外傷はなく心因性のショック死と見られ……身元の確認を急いでいます……」
地霊殿の居間で古明地こいしはくつろいでテレビを視聴していた。
「こいしっ、テレビ消して早く寝なさいっ。でないと目ん玉いっぱいのお化けになっちゃうわよ~」
「はいはい、わかったからお姉ちゃん」
地霊殿の主である古明地さとりの呼びかけで、住民達は寝静まる。それはいつの時代も変わりはない。
地霊殿の住民が寝静まった後、古明地さとりは秘密の部屋の鍵をガチャリと開けた。赤黒い何かがさとりを視認すると、うれしそうに近寄ってきた。
「……お父さん……」
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