
比那名居天子は気まぐれに地上に降り立った。
生まれながらにして彼女は天人である。絶大な力を持ち何者にも左右されない超越者であった。今日この日、天子は気まぐれに善行に励もうと思った。ただそれだけである。
「さて、まずはどこへ行こうかしら?」
天子はよく通る声で一人ごとをつぶやいた。ほんの何気ない一言でも、気品があり高貴さが窺える。紛れもない天人の威光の表れであった。
凡人がこの恩寵とも言える波動を授かれば、それはたちまち五臓六腑に染み渡り箴言となる。歪んで凝り固まった概念は、天子の鶴の一声で崩壊する。どんな頑なで意固地な頭も根本から崩れ去るのである。
天子は誰よりも古今東西の事象に深く精通している。
天子は誰よりも深く物事を見通すことができる。
天子は誰よりも万物の本質を理解している。
生まれながらにしてかのような素質を持っている。だからして天子は天人であり天子でもあり得た。これが覆ることは天と地がひっくり返らない限りない。それはこの世の存在意義を根底から破壊することになる。
八雲紫でさえ比那名居天子の手中である。
天子の勇猛な凱旋は今始まったのだった。
まず手始めに小さな湖のほとりに降り立った。いや、湖と形容するにはおこがましかった。これはただの水溜りでしかない。これよりも遥かに広大な存在を天子は知っていた。それに比べればあまりに卑小であった。
「まぁ地上の者はこんなため池で満足なのかしら? 考えも浅薄であれば器も小さい。何から何まで小さい。それが地上か」
そんなことを思案しながら、物憂げに腕を組みながら練り歩いた。天人の鋭敏な視力は遠くに一つの洋館を捕らえた。澄み渡るような白い、のっぺりとした白の館であった。
「ふむ、地上の者も中々たいそうなお屋敷を建てているのね。でも私の豪邸に比べれば物置でしかないわね」
天子はそう下した。
何の当てもなく白い洋館へと歩いた。すたすたと優雅に軽い足取りで歩く。誰よりも美しい足さばきでステップを踏む。一流のバレリーナさながらの美麗さであった。
しばらく進行すると、向かい側から歩いてくる一人の貴婦人を発見した。日傘を差して顔は隠している。おそらくはあの白い館の主人であろう。天子の直感に間違いはなかった。
「もしもし、そこの貴婦人」
すれ違いざまにそう声をかけた。
「なんですのあなたは?」
「私は天人だ。わかるな?」
それだけで十分であった。貴婦人はそれを聞くと、しまったという風に体をびくっと震わせた。そしてこう返した。
「おお申し訳ございません。天人様でございましたか。ご無礼を働きました。どうかご容赦くださいませ」
「うむ。私は今気分がいいからそう案ずるな。ところでそなた? 何か今困ったことがあるのではないか? 何なりと申してみよ」
天子は腕を組んで鷹揚に、誇らしげに口元に笑みをたたえて言った。
「いえ、天人様の手をわずらわすわけには」
「そう言うな。何でも相談してみよ。さすれば道は開ける」
「そうでございますか。ははー。それでは天人様。私、最近酷く悩んでいることがございます。実は私の子供、今年で10歳と5歳になる娘がいるのですが。その子供のことなのでございます」
婦人は長い睫毛をぱちぱちさせながら話した。肌も白くつややかで鼻筋もすっと通り顎も細く、亜麻色の髪の毛が白い簡素な生地の日傘と調和し、何とも言えない妖美な色香を醸し出していた。
明らかに人間ではない。抜けるような白い肌に、ほとんど日はさしていないのに日傘を宝物のように握り締めている。天子は即座にこの婦人が吸血鬼であると了解した。数百数千年を生きてきた重い深みの歴史ある重厚な造形美が感じれた。一体どれだけの血を飲めばこうなるのであろうか。そんなことをちらと思った。
ただし自分自身の完成された美しさ、それに比べればあまりにも劣る。血を義務のように飲み続けなければならない吸血鬼に憐憫の情を感ぜずにはいられなかった。
「子供か。その時期は一番手かかるからな。それで何が困るのだ?」
「ええ天人様。上の子はレミリアと言います。下の子はフランドール。それで、妹のフランドールのことなんですが……」
婦人はここで一つ息を吸った。
「彼女はおもちゃをすぐ壊してしまうのです。新しいのを与えても一時間と持たずに壊してしまうのです。私それには本当に呆れてしまいましたわ。姉のレミリアは真面目で几帳面で優しい性格なんですのに。どうして姉妹でこんなに差がつくのか不思議でなりませんわ」
「ふむ。おもちゃを壊す、か。元気があってよいではないか。何も心配することはない」
天子はそう諭した。
「いえ、悩みというのはその先であります。フランドールはおもちゃを壊すだけでは飽き足らず、その残骸を壁に塗りこめてしまうのです。白い壁に、ああ私の自慢の白壁が穢されてしまうのです。私我慢できませんわ」
「そうかなるほど。話はよくわかった。ふむ……」
腕組んで目をつぶった。今天子の中では、最適な解答を導き出すだめの思考回路が超高速で展開されているのである。
天子は数秒ほど沈黙した。やがて重々しく口を開いた。
「いい案が思いついたぞご婦人。これで解決だ」
「まぁ天人様。何でございますの? 早く聞かせてくださいな」
「何簡単なこと。白い壁にいつまでも未練がましく付き合っていてはよくない。この際、館の壁を全て紅くしてしまえばいい。どうだ?」
片目だけを開けてそう言った。天子は誇らしげであった。
「な、なるほど……。さすが天人様。私の浅はかな頭では思いつかない発想ですわ。おみそれしました。すぐに館全てのありとあらゆるものを紅く塗ってしまいましょう。ああ素晴らしい。天人様、ありがとうございます。感謝しても感謝しきれませんわ」
婦人は感嘆しながら何度も何度もおじぎをした。
「うむ、うむ。ついでにあの館の名前も決めてやろう。紅い屋敷で悪魔の住む館。紅魔館というのはどうか?」
「まぁ、まぁ……。素敵なお名前ですわ。慎んでそのお名前頂戴いたしますわ」
「うむ、それでよい。私がつけた名前だ。遥かな未来に渡り繁栄するであろう」
「本当に、本当にありがとうございます」
未だなお頭を下げている婦人をおいて、天子は振り返り飛び立った。天人の助言はかくも適切であった。
天子は狭い地上の空を旋回した。一回二回三回と気流に乗って移動する。摩擦を極限まで減らした理想的な移動手段であった。
しばらくすると、白いもやがかかった奇妙な僻地にたどり着いた。魑魅魍魎、悪鬼幽鬼餓鬼の臭いがどこからともなく漂ってくる。そんな危険極まりない場所でも天子は慌てない。彼女にとっては簡単に予想される事象の範囲内だからだ。
「ここは地上か地獄か極楽か。何にせよ私にはわかりきっているが」
天子はゆっくりとした足取りで歩を進めた。
白いもやは深みを増していく。常人ならば不安に駆られて発狂してしまうかもしれない。天人でなければこの異空間には長時間いられない。それほど不穏な妖気が肩に圧し掛かっていた。
天子は意に介さず直進した。しばらくして、無限にも続くであろう石段の前に立った。
「さて鬼が出るか蛇が出るか? それ!」
意気揚々として一歩踏み出そうとした。
「待たれい客人よ。ここから先は行ってはならぬ」
横から声がかかった。しゃがれたような声。見ると、体格のよい老人が仁王立ちしていた。腰には刀剣を携えて羽織袴を身につけている。剣の心得があることは一目瞭然であった。
「誰だ? 私は天人である。控えよ」
「ははっ。天人様でございましたか。これは多大なる無礼を。私めは魂魄妖忌という者であります。何なりと罰をお与えください」
魂魄妖忌と名乗った老人は、背筋をぴっと伸ばして正座をし深く土下座をした。
「表をあげよ。今日は私は機嫌がいいのだ。何か困っていることはないかご老人? 何なりと申せ。私が導いてしんぜよう」
「は、ははー。ありがたき幸せにござりまする。実は……ちょうど三日前のことでありますが、私めに孫娘ができたのでございます。それはそれは目に入れても痛くないような可愛らしい赤子でございました」
妖忌は年輪が刻まれた顔を嬉しそうにうほころばせた。
「そうか。赤子はいつでも可愛いものだ。それで悩みというのは?」
「ええ。そのことでございますが……。何とこの世には不思議な出来事があったものです。孫娘は人間と幽霊の子供なのです。いや私めは自分の目が耳が信じられませんでした。しかし現実には存在し得たのであります。妖夢……私めが名づけた孫娘の名前でありますが、ちゃんと人間として幽霊として存在しているのです。いやいや」
「ふぅむ。まぁ珍しいがないこともない。いやめでたいことではないか。何を悩んでおる? なぁにそなたの孫娘ならば何とでもなる。人間と幽霊の子などと気に病むことはない」
天子は顎を引いてうんと頷いた。
「いいえ。私めが悩んでいるのはそこではないのです。実は……お役所様に昨日出生届けを出しに行ったのですが。そこで書類につらつらと事項を書き連ねていますと、種族という欄にぶち当たったのです。種族でございます。人間と幽霊の子でございますから……人間か幽霊か私めには決めかねるのでございます。息子に相談したところ私めに決めて欲しいとのことで、ほとほと困りはてていたしだいでございます」
「うむ……それは難儀ではあるな。人か幽か。難しい問題だ。ん? 半人間か半幽霊という垣根は通用しないのであるか? 何も一方に押付けるだけが得策とは言えまい」
「それは私めも考えたのですが……今の今までそのような種族は存在しないとのことで。頑なに拒否をされまして……」
老人は立派な頬髯を手でさすってうな垂れていた。
「妖忌殿よ? 人か幽か、どちらかに傾いているということはないものか?」
天子はそう聞いてみた。
「いえ、私めにはわからないのでございます。人でもあるし幽でもある。本当に半分なのでございます」
「ううむ。しばし待たれよご老人」
「はい天人様」
目をつぶって心を落ち着ける。どうにか一つの解を出してやりたかった。
脳内で化学反応が巻き起こる。天子は数秒で結論を下した。天人の中枢機関はいつでもどこでも臨機応変に働くのである。
「わかったぞ。妖忌殿。すぐに孫娘を殺せ。それで全ては丸く収まる」
「な、なんと……可愛い孫娘を殺せ……とは。いやいや。この魂魄妖忌、いくら堕ちたとしてもそのようなことは……。いくら天人様のお言葉でもそれは……」
「何を言っておる。殺すという字面だけに注目してどうするのだ。いいかよく聞け。そなたの孫娘は人か幽かの間際である。つまりこれを殺めるということ、一般の常識では語れないのだ」
「は、はぁ」
妖忌は口をぽかんと開けている。
「そなたの孫娘、妖夢と言ったな。これを殺す。死ねば幽になる。さすれば種族は幽になる。逆に死なず、つまり元より死んでいれば幽である。どちらにしろ幽だ。わかったかなご老人よ?」
「ははぁなるほど。言われてみればそうかもしれません。しかし……結果が幽と決まっていれば殺すことはないのではございませんか?」
「何を言っている。そなたが決められないから助け舟を出してあげたのだ。いいから行為で示すのだ。可愛い孫娘を些細なことで路頭に迷わせたくはないであろう? 天人様が言ったのだ。問題なく殺すがよい」
と天子はきっぱりと言い切った。それを妖忌は魔に取り込まれたかのように聞き入っていた。天人の輝かしい威光、それが言葉に魔力を持たせていた。
「はいありがとうございます天人様。今すぐ可愛い妖夢をこの手で殺して参ります。おお急がなければ」
「うむ、うむ。それでよい」
天子は大きく頷きながら、妖忌の後ろ姿を見守っていた。
それから天子は無限の階段を登らずに引き返した。困り人は他の場所にいると思ったからだ。
またも気質を身に纏い旋回しながら周囲を観察する。
気づけば深い竹林に着地していた。太い丸太のような竹がびっしりと生えている。なよ竹のかぐや姫の伝説。これほどの大きさの竹であれば赤子もいそうなものだと天子は思った。
すたすたと雑草を踏みしめながら竹の海を掻き分ける。豊潤な青の香りが鼻腔をくすぐった。嗅覚も天人は非常に敏感である。どんな些細な変化、それから生じるリスクも見逃さない。天人は常に五感をフル稼働させて状況を把握しているのだ。
「あっ、危ない」
急に声をかけられて天子は立ち止まった。
声の主の方角を見ると、矮躯の兎がちょこんと体育座りをしていた。
「何だ?」
天子は全くの平静で言った。
「ああよかった。そのまま歩いていれば私が掘った落とし穴にまっさかさまでございます。ああよかった、本当に」
前方の地面をよく見ると、そこだけ周りとは明らかに様相が違っていた。無理やり後から土や草を盛った形跡が見受けられた。
「ふん、私は天人だ。そこに落とし穴があることなどわかっていた。試したのだ。私は。そなたの善意をな」
「なな、なんと、天人様でございましたか。何という無礼を。ささ、私の首をはねてくださいませ」
そう言って、兎は頭を打ち付けるようにして土下座した。
「案ずるな。試したと言っている。それより何か困ったことはないか? 私が何でも解決してみせよう」
天子は涼しげな笑みで包み込んだ。
「は、はい。ええあの私見ての通り因幡の白兎でございます。無駄に年ばかりとっている愚かものなのです。そんな卑小な私の趣味はそこに掘ってある落とし穴でして……。何も知らぬ者が、すとんと下降する瞬間の表情を見るのがたまらなく楽しいのでございます。誠にそれは自分でもおかしいと思うのです。いえしかし何年たってもそれはやめられませんでした。もはや私の体にじっとりと染み付いた因縁のようなものでございます。落とし穴をやめることは私にとっては死と同義であるのです」
兎は落涙しながら、身振り手振りを交えて感情を込めて語った。
「うむ、なるほど。まぁ案ずるな。落とし穴、そんな生き方もあるであろう。それで悩みとは?」
天子は先を促した。
「はい、それで私の悩みとは……。その、私は見かけによらず相当な年寄りなのでございます。足も腰もがたがたで、最近は一つ穴を掘るだけでも大仕事なのでございます。そして私一所懸命に作った落とし穴に誰かがはまり込みます。これで私は満足します。しかし一度誰かがはまった落とし穴は二度と使えないのであります。情報はたちまち知れ渡りそこには誰も近づかなくなるのです。あれほど労力をかけて掘った穴がほんの一瞬で終わってしまう。私はこれを大変悲しく思うのです。ああ痛い。膝が腕が腰が……。おお私はこのまま朽ち果ててしまうのでございましょうか……。あの落下する瞬間の驚愕の表情。あれを見れないと思うと私は死んでも死に切れないのでございます」
滔滔と語られる話を天子は微動だにせず聞いている。
「ふむふむ。そなたの落とし穴にかける並々ならぬ気概、しかと受け取った。答えは一つ。私が天人であることが一番の幸運だったな」
「と……言いますと?」
兎はきゅっと目を丸くした。
「いくつだ?」
「は?」
「いくつ欲しいと聞いている。私は天人だ。落とし穴を作ることなど造作もない」
それを聞くと、兎は顔に光がさしたように明るくなった。
「ほ、ほほほ本当によろしいのですか天人様?」
「天人に二言はない」
「そっ、それではっ。私の年の数だけっ!」
大声が竹林に響き渡った。
「ふふふ。そなたは謙虚だな。もっと業突く張りでもいいのだぞ? ご老体には荷が重い。年の二倍の穴を掘ってやろう。天人は何でもお見通しだ。それ!」
そう言って天子は人差し指を天高く掲げた。
指先から小さな要石が無限から不可思議に通じるまでいくつもいくつも。それは竹林中に拡散し固い地面を削岩せしめた。
天子にとっては朝飯前だった。腰を抜かしてひっくり返っている困り人を、満面の笑みでくるんでみせた。
「どうだ?」
「はっ、はひー。何とお礼を言ってよいのやらー」
「長生きせよ。それが後世への道標となる」
「ははー。肝に銘じておきまする」
「ではさらばだ。えい!」
天子は気質にのまれて、また何処へと消え去った。
高い山がそびえ立っていた。と言っても天界に比べれば幼子が作る小山に等しい高さであった。
天子は山の麓へと荘厳に降り立った。
鬱蒼と茂る草木は深く、樹齢を重ねた老齢の樹木が立ち並んでいた。
「ここでも困り人はいるようね。私にはわかる。……そこ!」
天子はぴっと指をさした。その先には一つの切り株があった。凡人には決して見えないものを、天子は余裕の表情で感知していた。
「おお私が見えるのでございますか? 何と、一体あなたは?」
「私は天人だ。それだけが真実だ」
「ははっ。天人様でございますか。私は八坂神奈子という神のはしくれでございます。以後お見知りおきを」
何もない空間だと思われていた太い切り株の上、大きな注連縄をつけた大柄な女がどっしりと頬杖をついて安座していた。
天子は特に驚きもしなかった。大体の神は天人の下にあったからだ。
「うむ。ところでそなた悩みがあるのであろう? 顔を見ればわかる。何なりと申してみよ。なぁに、神だからと言って遠慮することはない。私は天人だからな」
「そうでございますか。ありがたき幸せ。ええ私の素性を少々説明させてもらいますが。見ての通り軍神なのでございます。恥ずかしながら若気の至りでやんちゃな子供じみた愚かな精神でございました。神というものは民の信仰なしでは存在し得ません。ですから私は武を自らに下ろすことにより、それを獲得しようとしたわけです。盟友の洩矢諏訪子も、程度の違いはあれど似通った心持ちでありましたから、私は何一つそれを疑問を持たず夜明けのない戦いを繰り返しておりました。しかしそれは大きな間違いでありました。信仰とはそう容易いものではなかったのです。私は力で押さえつけるのが正しいと信じきっておりました。どうか私の愚鈍な考えをお笑いください天人様」
「いや自分で気づいたのならよろしい。さすがは神だ。うむうむ」
と言って天子はいたく感心して頷いた。
「それで罪滅ぼしというわけではないのですが、神を身近に感じてもらうために社を建てたいと思うのです。ええ悩みというのはその位置、神の居場所はどこにしたらいいかということです。私は数年頭を悩ませて、この切り株の上で安座しておりましたがどうも結論が出ないのでございます。どうか天人様いい知恵をお貸しください」
「ほほう、神が居場所とな。神の誇りを持て。そなたの今いる場所が神のおわす場所だ。民はそれについてくる」
「いえいえ。それは偉大なる力を持つ神の場合であります。私のような若輩は力を持ちませぬ。自分自身を知らしめる社が必要なのでございます」
神奈子はそこまでかなり憔悴したような顔で答えた。
「ほうそうであるか。それならば道を示してみせよう。神の居場所はそこだ」
と言って天子は指で天を貫いた。
「どこでございましょうか天人様? 空には人は行けませぬ」
「馬鹿、どこを見ておる。あの山の頂だ。あそこに社を建てるのだ。高いというのはそれだけで権威の象徴である。きっとこぞって信仰を授けてくれるであろう」
「ははぁ。あの、高い山のてっぺんでございますか。さすが天人様。しかししかし、もっと身近な場所が良いのではないでしょうか? 神を身近に信仰も身近にの精神でございます。洩矢の諏訪子などは土着信仰などとのたまわれていますが……」
「違う。近いは遠い。遠いは近いのだ。そなたも神ならわかるであろう。いつもそばにいてはありがたみを感じないのだ」
天子はそう言い切った。
神奈子は悟ったように、ああと天を仰いだ。
「なるほど、さすが天人様。これで私の迷いが晴れました。あの山の頂を私の拠り所といたしましょう。あの、差し支えなければ天人様の名前をお聞かせ願えないでしょうか?」
「よかろう。私は比那名居の娘、比那名居天子だ。私はいつもお前達をはるか天界から見下ろしている。こころして善行を積むように、以上」
「ははー。以後よしなに」
神奈子はふかぶかとへりくだった。
「うむ、うむ」
山には紅葉が世界を埋めていた。天子はまた気流に乗る。困り人は何処へと流れるか。そこに天子は存在するのである。
天子はひた走った。景色が変わり草一本生えない砂地へと降り立った。
「なんと寂しい場所。ここにも悩む人がいるのかしら?」
そう思いながら仁王立ちして待っていると、はるか前方から一人の女が歩いてきた。桃色の髪がくせっ毛で、肌は死んだように色白の、やせぎすの神経が尖ったような女だった。
女は下を向いて伏目がちにして、足を引きずるようにして歩いていた。天子はこれ困り人と確認し、直ぐに声をかけた。
「これこれそこの女。何なりと申せ」
しかし女は気に止めた様子はなく、そのまま立ち去ろうとした。天子はそれを呼び止めた。
「これこれ。待つのだ女」
「何でございますの。離してくださいな」
女はぎろりとした目で睨んだ。眉間に深いしわが寄り、白目は泣き腫らしたかのように赤く充血していた。
「まぁそう言わずに。どれ、私がそなたの悩みを聞いてしんぜよう。何なりと申すがよい」
「ふん、何ですか。何も困っていませんわ。おお、つらい怖い悲しい苦しい」
「何かおかしいな。私の耳がおかしくなったか女?」
「いえいえ。何もおかしくありませんし困っていません。ああ寒い熱いひもじい話を聞いて欲しい優しくして欲しい」
女は無意識で口から言葉が流れ落ちているようであった。天子はこの女の気質も大体理解し終えた。
「ふむ、そうか。何が悩みなのだ?」
「いいえ、本当に困ってなんかいないんですけどね。ああ私は名無しの妖怪なのですが、人は私を覚と呼びます。なぜだかどうしてそうなのです。突然見ず知らずの方に言うことではないのですが、私はもう少しの間しか地上にいられません。おお悲しい。寒くて光の届かない地底に押し込められてしまうのです。おお……」
心の奥底に染み渡るような声だった。天子は特に同情もせず、高みから女の話をじっと聞いた。
「地底にか。それは何ゆえに? 地上を追われるというのはそれなりの理由があるのだろう?」
「はい。ああこれが何とも理不尽な理由なのでございます。それは私が心を読める妖怪であるという間違ったレッテル張りです。私はそんな妖怪では決してないのでございます。私が何度否定しても、頭の固い連中は上から頭ごなしに決め付けるのです。とはいうものの、私にもいくばくかの責任はございます。私は人に何か一言二言、時には三言四言を助言しなければ気がすまない質なのであります。人にはそれが気に触るのでございましょう。しかしそれは私の善意からくる衝動でございまして、決して歪んだ悪意からくるものではないのです。世間の人はこれを誤解しているのです。私はちょっと勘がいい方ですから、それを曲解して心が読めるなどと……本当に浅はかな邪推をしたり顔で行うのであります。ああ……私の妹などあんまりつっつかれたものですから心に酷い傷を負ってしまいましたの……。本当に心の優しい子でしたのに。……ですからこのように私が地底に落とされる理由は全くないのでございます。私は正真正銘の潔白でございます」
と女は一息に言い切った。すっと息をつぐ様子や肩の振るわせ方、しおらしげにして人の気を引くような流し目も全て、傍目には洗練された舞台女優さながらの演技であった。しかし心には響かなかった。天子にとっては安っぽい場末の、三文芝居以下の虚構で塗り固めた一枚板でしかなかったからだ。
女はどうだと言わんばかりにふんと息を吐いた。それが天子の気におおいに触った。
「それは困りましたな。世間は世知辛い。私が取り持ってやらないこともない」
「まぁ……。そんな迷惑はかけられませんわ。自分の手で何とかしますわ。ふふふ。おお寂しい」
「そう言うな。世間というのは天の一言でいかようにも操作されるのだ。それが大衆というものだ」
「そうですか……。……ん? あらあなた? まさか天人様でいらっしゃいますの? あらあら……。うふふ。ねぇ天人様……あはーん……うふーん。私天人様のためなら何でもいたしますわ……むふふふふふふ」
突然女の態度ががらりと変わった。俗物の下卑た粘りつくような視線が這い回った。そこらの凡人であれば、この女の毒牙に身を任せていたかもしれない。ただ天人はやはり用意周到であった。
「触るな女。貴様の歪み切った根性、この鏡に映してみるがよい」
「な、なに……を」
天子は周囲の気質を集め、光輝く鏡を形づくった。七色に煌く鏡はこの世の全ての光を反射し内包すると思われた。
「これを見るのだ目玉の妖怪」
「いや、いやー」
女は突如として苦しみだした。顔を必死に押さえながら悶え苦しんでいる。
「どうだ自分自身の歪んだ心をかいまみた気分は? ほれほれ。よく見てみるがいい」
「ああ、やめて。うわ、目が、保てない、形が」
数秒後、女は目になった。人の形を成していない目の妖である。
「わきまえよ妖怪。私は天人である」
「く、くーーっ。このぉ。何が天人。恨みつらみ……どこまでも……深く」
「ふん、地底に落とすというのも当然の判断か。それ、今すぐ落ちるがよい。穴は掘っておいた。既にここにある」
天子は鏡を操りながら要石を落としていた。直径五メートルほどの大穴がぽっかりと口を広げていた。
「馬鹿な。私は迫害された被害者なんですのよ? 私はただ……」
「頭に血が上っておる。やはり地底で頭を冷やせ」
「うう、うわぁー」
目の妖は吸い込まれるようにして、地底の虚空へと消え去っていた。天子はそれを無表情で見下ろした。
「ふむ。困り人のつもりが困らせ人であったか。だがしかし、結果的には困り人が減った按配になる。善行は成し遂げられたのだ」
天子はそう了解してまた空へと舞い上がった。
威風堂々、天子はご満悦であった。歩幅も広く邪魔するものは何もなかった。
「さてとそろそろ疲れてきたな。次で最後にしようか。いや、天人は疲れない。他にもすべきことはまだまだあるからな。さて今度の困り人は如何なる者であろうか」
天子は歩いた。古代の英雄のごとく胸を張ってずんずんと歩いた。
どんと何かにぶつかった。下を見ると一人の老婆がうめいていた。僧衣を身につけた、今にも死にそうなほど痩せこけている老女であった。手は節くれだってごつごつとし、首には深い皺が刻まれていた。首を見れば大体の年齢はわかる。首とは脳と体をつなぐ根幹であるからそれが顕著なのであろう。
「おおすまない。天人としたことが」
天子は慌てて老婆を抱き起こした。
老婆はこんこんと咳をしながら立ち上がり、
「いえすいません。私が悪いのでございます。もう目も耳も悪くなってしまいました。私の不注意でございます」
と言った。
「ふむ。老いというのは悲しくも儚いな。さてそなた。こうして出会ったのも何かの縁。何なりと頼みごとを申すがよい。私は天人だ」
「まぁ……天人様。ええ私にはわかりますわ。あなたのご威光、目がよくなくてもわかります。きっと素晴らしいお方なのでしょうね。……申し遅れました。私の名は聖白蓮と申します。弟にならって仏門に帰依してまいりましたが……近頃弟がなくなり、私もこの有様でございます」
「そうかそうか。それで、悩みは?」
天子は真っ直ぐに言った。白蓮と言った老婆はすっかり水分を失った唇を震わせていた。
「いえ……悩みなどは」
「ふむ、そなたは何か隠している。私にはわかる。死ぬ前に隠し事などはいらぬ。さぁ申すがよい。今すぐに」
それを聞いて白蓮を首をぶんと二回振った。
「何もありませんわ天人様。私は人としての生涯を全うするだけでございます。悔いはありません」
「本当か?」
「はい」
「本当に嘘偽りはないか?」
目を射抜いた。奥の滲みが濁っていた。白蓮は直視に耐えられず自分から目をそらした。
「すいません嘘をつきました天人様。どうかお許しくださいませ」
取りなして白蓮は言った。
「それでよい。何でも話せ」
「はい。私の心残りとでも言いましょうか。天人様も知っての通りこの世は人と妖とが同時に存在します。妖は人を襲い喰らう。私も仲間や知り合いが妖の手にかかるのを何度も見てまいりました。それで私も妖は悪いもの、悪であると当たり前のように思っていました」
「まぁそれが普通の感覚であるな」
「はい。しかし寿命残り少なくなってまいりますと、本当に妖は悪鬼羅刹のような極悪であるのか、はなはだ疑問になってきたのです。私は人間ですからおかしいのですが。妖は人を虐げます。これは何故なのでしょう? 肉を喰らい食料とするからただの気晴らしとか――やはり妖の言い分もあります。人の概念で決め付けるのは少々思慮が足りないのではと、私はたびたび考えるようになったのです。妖は人を虐げますが逆に人も妖を虐げているのです。それは無意識にも意識的にでもあります」
「ふむ。それで?」
天子は顎を指で触って促した。
「はい。私の考えますことは、この人と妖が同時に存在する空間で理想の境地を創造することなのです。人と妖が認め合うのです。弟は優れた僧でしたがこの点に関しましては沈黙しておりました。常日頃から法華経法華経と言うばかりでございます。仏様を信じて祈ることはとてもいいことだと思います。何かを信じて祈ること。そして自分を信じること。私それは重々承知なのですが、どうしてどうして妖のためには祈れないのでしょうか? この疑問が氷解するならば私の命など投げ捨ててしまいたいのです。ええ」
「そう自暴自棄になりなさんな。そなたは少し焦っておられるのだ。もう少し冷静になってみよ」
「いえいえ。実は――あの、ああ。これは、言ってはいけないこと……私の腹の中に……」
「続けて申せ。楽になるぞ」
天子が言うと、白蓮は諦めたように口を開いた。
「はい。私は弟を裏切ってしまったのです。弟の寺の古い蔵の中でした。この中に決して開けてはならぬ巻物があったのでございます。いえしかし、開けてはならぬと言われては開けたくなるのが人情でございます。私は開けてしまいました。未知の誘惑に勝てなかったのでございます。中身は――古の禁術が記されていました。私は悪い目をこすりながら必死で理解に努めました。それは若返りの秘術でした。それも、半永久的に若いままで生を享受しうるという。まぁ信じられない、滑稽でもありましたが、私には天からの誘いでありました。だって、これがあれば、ふふふ。人と妖。私が求めるのは真の平等で……」
口元に奇妙な皺が寄っていた。天子は白蓮の言うことが事実だと理解していた。天人は全てを見通していたから。
「ほほう。だがそれは天からの授かりものではないな。天人は若返りの法などいらぬからな。どこぞの邪教の輩が書き記したものであろう。む……となるとそなたの弟というのも怪しいのう」
「何を天人様。弟の悪口は言わせません」
それを聞くと白蓮は光が薄い目をかっと見開いた。
「そうかすまぬ。で、そなたはその禁術を使うつもりか? 偽物かも知れぬぞ? 若返りではなく牛や豚に変化してしまうかもな。ははは」
「いえ天人様。畜生になっても構いませんわ。若返りの可能性――それだけで今の私には希望なのでございます。それはもう甘露のような甘さであります」
と言った時の顔は菩薩のように柔和であった。しかしどこか陰りがあった。
「それで若返って人と妖の平等を……ははは。哀れだな尼僧よ。禁術に身をまかせた瞬間、そなたは平等を説く資格を失うのだ。何故それがわからない?」
「何故でございます?」
白蓮は真顔で聞き返した。
「よく聞くがよい。若返るのはもう人ではない。人ではないなら妖であるかもしれん。もしや若返る妖もあるやもしれん。しかし、そなたは人から妖になった。もう純粋な妖ではないのだ。つまりそなたは平等を説きたいはずの人と妖のどちらの存在でもなくなるのだ。ふむ……言わば化け物? いやすまぬ超越者か? ふふん。しかし本当の超越者は天人でしかありえないのだ。どうだ尼僧よ? そんな若返りの法に頼るより、天人見習いにでもなった方が早いぞ。ただし天人見習いは仙人見習いよりもきつく厳しい。ふふ……ははは……ははは……」
天子は高らかに笑った。腹の底から自然に笑ったのだった。
「お止めください天人様。私は化け物でも超越者でもありません」
「ではなんだ?」
さっと笑いを止めて言った。
「人であります。この一生を生き抜いた経験、それはやはり人でしかありえません」
「その結果が輪廻に背いた若返りか。滑稽なことだ」
「それは私の信念に基づいて……」
「何が信念か。生ある内に成し遂げられないそなたの怠慢が招いた結果だ。都合のいいように捻じ曲げているのだ」
「それでも――」
何故か白蓮は涙を流していた。
「それでも私は貫き通したいのでございます。天人様」
「ふぅむ。わからぬわからぬ。もう勝手にせい」
「ありがとうございます」
曲がった腰を更に曲げておじぎをした。
「む……そなたの言い分主張信義は大体わかったのが……うむ。私はどうも腑に落ちぬことがあってだな。いやつまらぬ疑問だ」
「何なりとどうぞ。私の答えられる範囲でございましたならば」
「まず人と妖の差について」
と言って天子は緋想の剣を出し、がっと地面に突き刺し一本の線を引いた。そして半歩ほど右に移動しまた線を引いた。
「これが意味するのは人と妖の差」
「はい」
「そして」
天子は右に五十歩ほど早足で移動した。ぐっと地を踏みしめ気合を入れてから、地面に砂吹雪を巻き起こるほど大げさに傷をつけた。
「ふぅ。ああこの深さは問題ではない。大事なのは距離だ。人と妖の差、これは天人との差に比べればほんの少しでしかない。私にはこれがわからぬのだ。どうしてこんな些細な――」
子供のような顔でそう聞いた。白蓮はにっこり笑って答えた。
「はい天人様。人も妖もそのほんのわずかな差にこだわりたいのでございます。それが――生きるということでございます。誠に卑小で仕方ありませんわ」
「そうか」
「そうでございます」
「うむ、うむ……」
天子は腕を組んでわざとらしく頷いた。日が暮れかけていたのでそろそろ帰ろうと思った。
「長らく引きとめてしまったな。ではこのへんで。達者でな」
「はい天人様も」
夕焼けの気質を全身に受け止めて天へ舞い戻った。地上を見下ろすと白蓮がまだこちらを見て手を振っていた。
天界にも夜は存在する。天子はそそくさと豪華な宮殿へと帰宅した。蓮華の花が咲き乱れて甘い香りが天界を埋めていた。天人の優雅な生活はここで始まるのだ。
「あ、おかえりなさいませ天子様。すぐにジュースをお持ちします」
教育係の永江衣玖がねぎらった。
「うむ」
天子は柔らかい椅子に座って足をばたばたさせた。ほどなくしてジュースを手に衣玖が戻ってきた。
「衣玖」
「何ですか天子様」
「今日は地上でたくさんいいことをした」
「それはよかったですわ」
衣玖はにこにこと笑った。
「衣玖」
「はい」
「人間というのは面白いものだな。八雲の妖に伝えよ。巫女は人間がいいとな」
「はい畏まりました。確かに伝えておきますわ」
「うむうむ」
天子の政は雄大であった。幻想郷は彼女の手にある。
「衣玖、今日は盛大な宴がいいな。いつもよりも、もっと」
「わかりました天子様」
万歳をして飛び上がった。天界に宴はつきものである。そうだ、巫女にもたくさん宴会をさせればいいと思った。そのためには聞き分けのいい巫女を作らなければならない。手始めに要石を打ちに行こうかそうしようか。
天子は一人わくわくした。
生まれながらにして彼女は天人である。絶大な力を持ち何者にも左右されない超越者であった。今日この日、天子は気まぐれに善行に励もうと思った。ただそれだけである。
「さて、まずはどこへ行こうかしら?」
天子はよく通る声で一人ごとをつぶやいた。ほんの何気ない一言でも、気品があり高貴さが窺える。紛れもない天人の威光の表れであった。
凡人がこの恩寵とも言える波動を授かれば、それはたちまち五臓六腑に染み渡り箴言となる。歪んで凝り固まった概念は、天子の鶴の一声で崩壊する。どんな頑なで意固地な頭も根本から崩れ去るのである。
天子は誰よりも古今東西の事象に深く精通している。
天子は誰よりも深く物事を見通すことができる。
天子は誰よりも万物の本質を理解している。
生まれながらにしてかのような素質を持っている。だからして天子は天人であり天子でもあり得た。これが覆ることは天と地がひっくり返らない限りない。それはこの世の存在意義を根底から破壊することになる。
八雲紫でさえ比那名居天子の手中である。
天子の勇猛な凱旋は今始まったのだった。
まず手始めに小さな湖のほとりに降り立った。いや、湖と形容するにはおこがましかった。これはただの水溜りでしかない。これよりも遥かに広大な存在を天子は知っていた。それに比べればあまりに卑小であった。
「まぁ地上の者はこんなため池で満足なのかしら? 考えも浅薄であれば器も小さい。何から何まで小さい。それが地上か」
そんなことを思案しながら、物憂げに腕を組みながら練り歩いた。天人の鋭敏な視力は遠くに一つの洋館を捕らえた。澄み渡るような白い、のっぺりとした白の館であった。
「ふむ、地上の者も中々たいそうなお屋敷を建てているのね。でも私の豪邸に比べれば物置でしかないわね」
天子はそう下した。
何の当てもなく白い洋館へと歩いた。すたすたと優雅に軽い足取りで歩く。誰よりも美しい足さばきでステップを踏む。一流のバレリーナさながらの美麗さであった。
しばらく進行すると、向かい側から歩いてくる一人の貴婦人を発見した。日傘を差して顔は隠している。おそらくはあの白い館の主人であろう。天子の直感に間違いはなかった。
「もしもし、そこの貴婦人」
すれ違いざまにそう声をかけた。
「なんですのあなたは?」
「私は天人だ。わかるな?」
それだけで十分であった。貴婦人はそれを聞くと、しまったという風に体をびくっと震わせた。そしてこう返した。
「おお申し訳ございません。天人様でございましたか。ご無礼を働きました。どうかご容赦くださいませ」
「うむ。私は今気分がいいからそう案ずるな。ところでそなた? 何か今困ったことがあるのではないか? 何なりと申してみよ」
天子は腕を組んで鷹揚に、誇らしげに口元に笑みをたたえて言った。
「いえ、天人様の手をわずらわすわけには」
「そう言うな。何でも相談してみよ。さすれば道は開ける」
「そうでございますか。ははー。それでは天人様。私、最近酷く悩んでいることがございます。実は私の子供、今年で10歳と5歳になる娘がいるのですが。その子供のことなのでございます」
婦人は長い睫毛をぱちぱちさせながら話した。肌も白くつややかで鼻筋もすっと通り顎も細く、亜麻色の髪の毛が白い簡素な生地の日傘と調和し、何とも言えない妖美な色香を醸し出していた。
明らかに人間ではない。抜けるような白い肌に、ほとんど日はさしていないのに日傘を宝物のように握り締めている。天子は即座にこの婦人が吸血鬼であると了解した。数百数千年を生きてきた重い深みの歴史ある重厚な造形美が感じれた。一体どれだけの血を飲めばこうなるのであろうか。そんなことをちらと思った。
ただし自分自身の完成された美しさ、それに比べればあまりにも劣る。血を義務のように飲み続けなければならない吸血鬼に憐憫の情を感ぜずにはいられなかった。
「子供か。その時期は一番手かかるからな。それで何が困るのだ?」
「ええ天人様。上の子はレミリアと言います。下の子はフランドール。それで、妹のフランドールのことなんですが……」
婦人はここで一つ息を吸った。
「彼女はおもちゃをすぐ壊してしまうのです。新しいのを与えても一時間と持たずに壊してしまうのです。私それには本当に呆れてしまいましたわ。姉のレミリアは真面目で几帳面で優しい性格なんですのに。どうして姉妹でこんなに差がつくのか不思議でなりませんわ」
「ふむ。おもちゃを壊す、か。元気があってよいではないか。何も心配することはない」
天子はそう諭した。
「いえ、悩みというのはその先であります。フランドールはおもちゃを壊すだけでは飽き足らず、その残骸を壁に塗りこめてしまうのです。白い壁に、ああ私の自慢の白壁が穢されてしまうのです。私我慢できませんわ」
「そうかなるほど。話はよくわかった。ふむ……」
腕組んで目をつぶった。今天子の中では、最適な解答を導き出すだめの思考回路が超高速で展開されているのである。
天子は数秒ほど沈黙した。やがて重々しく口を開いた。
「いい案が思いついたぞご婦人。これで解決だ」
「まぁ天人様。何でございますの? 早く聞かせてくださいな」
「何簡単なこと。白い壁にいつまでも未練がましく付き合っていてはよくない。この際、館の壁を全て紅くしてしまえばいい。どうだ?」
片目だけを開けてそう言った。天子は誇らしげであった。
「な、なるほど……。さすが天人様。私の浅はかな頭では思いつかない発想ですわ。おみそれしました。すぐに館全てのありとあらゆるものを紅く塗ってしまいましょう。ああ素晴らしい。天人様、ありがとうございます。感謝しても感謝しきれませんわ」
婦人は感嘆しながら何度も何度もおじぎをした。
「うむ、うむ。ついでにあの館の名前も決めてやろう。紅い屋敷で悪魔の住む館。紅魔館というのはどうか?」
「まぁ、まぁ……。素敵なお名前ですわ。慎んでそのお名前頂戴いたしますわ」
「うむ、それでよい。私がつけた名前だ。遥かな未来に渡り繁栄するであろう」
「本当に、本当にありがとうございます」
未だなお頭を下げている婦人をおいて、天子は振り返り飛び立った。天人の助言はかくも適切であった。
天子は狭い地上の空を旋回した。一回二回三回と気流に乗って移動する。摩擦を極限まで減らした理想的な移動手段であった。
しばらくすると、白いもやがかかった奇妙な僻地にたどり着いた。魑魅魍魎、悪鬼幽鬼餓鬼の臭いがどこからともなく漂ってくる。そんな危険極まりない場所でも天子は慌てない。彼女にとっては簡単に予想される事象の範囲内だからだ。
「ここは地上か地獄か極楽か。何にせよ私にはわかりきっているが」
天子はゆっくりとした足取りで歩を進めた。
白いもやは深みを増していく。常人ならば不安に駆られて発狂してしまうかもしれない。天人でなければこの異空間には長時間いられない。それほど不穏な妖気が肩に圧し掛かっていた。
天子は意に介さず直進した。しばらくして、無限にも続くであろう石段の前に立った。
「さて鬼が出るか蛇が出るか? それ!」
意気揚々として一歩踏み出そうとした。
「待たれい客人よ。ここから先は行ってはならぬ」
横から声がかかった。しゃがれたような声。見ると、体格のよい老人が仁王立ちしていた。腰には刀剣を携えて羽織袴を身につけている。剣の心得があることは一目瞭然であった。
「誰だ? 私は天人である。控えよ」
「ははっ。天人様でございましたか。これは多大なる無礼を。私めは魂魄妖忌という者であります。何なりと罰をお与えください」
魂魄妖忌と名乗った老人は、背筋をぴっと伸ばして正座をし深く土下座をした。
「表をあげよ。今日は私は機嫌がいいのだ。何か困っていることはないかご老人? 何なりと申せ。私が導いてしんぜよう」
「は、ははー。ありがたき幸せにござりまする。実は……ちょうど三日前のことでありますが、私めに孫娘ができたのでございます。それはそれは目に入れても痛くないような可愛らしい赤子でございました」
妖忌は年輪が刻まれた顔を嬉しそうにうほころばせた。
「そうか。赤子はいつでも可愛いものだ。それで悩みというのは?」
「ええ。そのことでございますが……。何とこの世には不思議な出来事があったものです。孫娘は人間と幽霊の子供なのです。いや私めは自分の目が耳が信じられませんでした。しかし現実には存在し得たのであります。妖夢……私めが名づけた孫娘の名前でありますが、ちゃんと人間として幽霊として存在しているのです。いやいや」
「ふぅむ。まぁ珍しいがないこともない。いやめでたいことではないか。何を悩んでおる? なぁにそなたの孫娘ならば何とでもなる。人間と幽霊の子などと気に病むことはない」
天子は顎を引いてうんと頷いた。
「いいえ。私めが悩んでいるのはそこではないのです。実は……お役所様に昨日出生届けを出しに行ったのですが。そこで書類につらつらと事項を書き連ねていますと、種族という欄にぶち当たったのです。種族でございます。人間と幽霊の子でございますから……人間か幽霊か私めには決めかねるのでございます。息子に相談したところ私めに決めて欲しいとのことで、ほとほと困りはてていたしだいでございます」
「うむ……それは難儀ではあるな。人か幽か。難しい問題だ。ん? 半人間か半幽霊という垣根は通用しないのであるか? 何も一方に押付けるだけが得策とは言えまい」
「それは私めも考えたのですが……今の今までそのような種族は存在しないとのことで。頑なに拒否をされまして……」
老人は立派な頬髯を手でさすってうな垂れていた。
「妖忌殿よ? 人か幽か、どちらかに傾いているということはないものか?」
天子はそう聞いてみた。
「いえ、私めにはわからないのでございます。人でもあるし幽でもある。本当に半分なのでございます」
「ううむ。しばし待たれよご老人」
「はい天人様」
目をつぶって心を落ち着ける。どうにか一つの解を出してやりたかった。
脳内で化学反応が巻き起こる。天子は数秒で結論を下した。天人の中枢機関はいつでもどこでも臨機応変に働くのである。
「わかったぞ。妖忌殿。すぐに孫娘を殺せ。それで全ては丸く収まる」
「な、なんと……可愛い孫娘を殺せ……とは。いやいや。この魂魄妖忌、いくら堕ちたとしてもそのようなことは……。いくら天人様のお言葉でもそれは……」
「何を言っておる。殺すという字面だけに注目してどうするのだ。いいかよく聞け。そなたの孫娘は人か幽かの間際である。つまりこれを殺めるということ、一般の常識では語れないのだ」
「は、はぁ」
妖忌は口をぽかんと開けている。
「そなたの孫娘、妖夢と言ったな。これを殺す。死ねば幽になる。さすれば種族は幽になる。逆に死なず、つまり元より死んでいれば幽である。どちらにしろ幽だ。わかったかなご老人よ?」
「ははぁなるほど。言われてみればそうかもしれません。しかし……結果が幽と決まっていれば殺すことはないのではございませんか?」
「何を言っている。そなたが決められないから助け舟を出してあげたのだ。いいから行為で示すのだ。可愛い孫娘を些細なことで路頭に迷わせたくはないであろう? 天人様が言ったのだ。問題なく殺すがよい」
と天子はきっぱりと言い切った。それを妖忌は魔に取り込まれたかのように聞き入っていた。天人の輝かしい威光、それが言葉に魔力を持たせていた。
「はいありがとうございます天人様。今すぐ可愛い妖夢をこの手で殺して参ります。おお急がなければ」
「うむ、うむ。それでよい」
天子は大きく頷きながら、妖忌の後ろ姿を見守っていた。
それから天子は無限の階段を登らずに引き返した。困り人は他の場所にいると思ったからだ。
またも気質を身に纏い旋回しながら周囲を観察する。
気づけば深い竹林に着地していた。太い丸太のような竹がびっしりと生えている。なよ竹のかぐや姫の伝説。これほどの大きさの竹であれば赤子もいそうなものだと天子は思った。
すたすたと雑草を踏みしめながら竹の海を掻き分ける。豊潤な青の香りが鼻腔をくすぐった。嗅覚も天人は非常に敏感である。どんな些細な変化、それから生じるリスクも見逃さない。天人は常に五感をフル稼働させて状況を把握しているのだ。
「あっ、危ない」
急に声をかけられて天子は立ち止まった。
声の主の方角を見ると、矮躯の兎がちょこんと体育座りをしていた。
「何だ?」
天子は全くの平静で言った。
「ああよかった。そのまま歩いていれば私が掘った落とし穴にまっさかさまでございます。ああよかった、本当に」
前方の地面をよく見ると、そこだけ周りとは明らかに様相が違っていた。無理やり後から土や草を盛った形跡が見受けられた。
「ふん、私は天人だ。そこに落とし穴があることなどわかっていた。試したのだ。私は。そなたの善意をな」
「なな、なんと、天人様でございましたか。何という無礼を。ささ、私の首をはねてくださいませ」
そう言って、兎は頭を打ち付けるようにして土下座した。
「案ずるな。試したと言っている。それより何か困ったことはないか? 私が何でも解決してみせよう」
天子は涼しげな笑みで包み込んだ。
「は、はい。ええあの私見ての通り因幡の白兎でございます。無駄に年ばかりとっている愚かものなのです。そんな卑小な私の趣味はそこに掘ってある落とし穴でして……。何も知らぬ者が、すとんと下降する瞬間の表情を見るのがたまらなく楽しいのでございます。誠にそれは自分でもおかしいと思うのです。いえしかし何年たってもそれはやめられませんでした。もはや私の体にじっとりと染み付いた因縁のようなものでございます。落とし穴をやめることは私にとっては死と同義であるのです」
兎は落涙しながら、身振り手振りを交えて感情を込めて語った。
「うむ、なるほど。まぁ案ずるな。落とし穴、そんな生き方もあるであろう。それで悩みとは?」
天子は先を促した。
「はい、それで私の悩みとは……。その、私は見かけによらず相当な年寄りなのでございます。足も腰もがたがたで、最近は一つ穴を掘るだけでも大仕事なのでございます。そして私一所懸命に作った落とし穴に誰かがはまり込みます。これで私は満足します。しかし一度誰かがはまった落とし穴は二度と使えないのであります。情報はたちまち知れ渡りそこには誰も近づかなくなるのです。あれほど労力をかけて掘った穴がほんの一瞬で終わってしまう。私はこれを大変悲しく思うのです。ああ痛い。膝が腕が腰が……。おお私はこのまま朽ち果ててしまうのでございましょうか……。あの落下する瞬間の驚愕の表情。あれを見れないと思うと私は死んでも死に切れないのでございます」
滔滔と語られる話を天子は微動だにせず聞いている。
「ふむふむ。そなたの落とし穴にかける並々ならぬ気概、しかと受け取った。答えは一つ。私が天人であることが一番の幸運だったな」
「と……言いますと?」
兎はきゅっと目を丸くした。
「いくつだ?」
「は?」
「いくつ欲しいと聞いている。私は天人だ。落とし穴を作ることなど造作もない」
それを聞くと、兎は顔に光がさしたように明るくなった。
「ほ、ほほほ本当によろしいのですか天人様?」
「天人に二言はない」
「そっ、それではっ。私の年の数だけっ!」
大声が竹林に響き渡った。
「ふふふ。そなたは謙虚だな。もっと業突く張りでもいいのだぞ? ご老体には荷が重い。年の二倍の穴を掘ってやろう。天人は何でもお見通しだ。それ!」
そう言って天子は人差し指を天高く掲げた。
指先から小さな要石が無限から不可思議に通じるまでいくつもいくつも。それは竹林中に拡散し固い地面を削岩せしめた。
天子にとっては朝飯前だった。腰を抜かしてひっくり返っている困り人を、満面の笑みでくるんでみせた。
「どうだ?」
「はっ、はひー。何とお礼を言ってよいのやらー」
「長生きせよ。それが後世への道標となる」
「ははー。肝に銘じておきまする」
「ではさらばだ。えい!」
天子は気質にのまれて、また何処へと消え去った。
高い山がそびえ立っていた。と言っても天界に比べれば幼子が作る小山に等しい高さであった。
天子は山の麓へと荘厳に降り立った。
鬱蒼と茂る草木は深く、樹齢を重ねた老齢の樹木が立ち並んでいた。
「ここでも困り人はいるようね。私にはわかる。……そこ!」
天子はぴっと指をさした。その先には一つの切り株があった。凡人には決して見えないものを、天子は余裕の表情で感知していた。
「おお私が見えるのでございますか? 何と、一体あなたは?」
「私は天人だ。それだけが真実だ」
「ははっ。天人様でございますか。私は八坂神奈子という神のはしくれでございます。以後お見知りおきを」
何もない空間だと思われていた太い切り株の上、大きな注連縄をつけた大柄な女がどっしりと頬杖をついて安座していた。
天子は特に驚きもしなかった。大体の神は天人の下にあったからだ。
「うむ。ところでそなた悩みがあるのであろう? 顔を見ればわかる。何なりと申してみよ。なぁに、神だからと言って遠慮することはない。私は天人だからな」
「そうでございますか。ありがたき幸せ。ええ私の素性を少々説明させてもらいますが。見ての通り軍神なのでございます。恥ずかしながら若気の至りでやんちゃな子供じみた愚かな精神でございました。神というものは民の信仰なしでは存在し得ません。ですから私は武を自らに下ろすことにより、それを獲得しようとしたわけです。盟友の洩矢諏訪子も、程度の違いはあれど似通った心持ちでありましたから、私は何一つそれを疑問を持たず夜明けのない戦いを繰り返しておりました。しかしそれは大きな間違いでありました。信仰とはそう容易いものではなかったのです。私は力で押さえつけるのが正しいと信じきっておりました。どうか私の愚鈍な考えをお笑いください天人様」
「いや自分で気づいたのならよろしい。さすがは神だ。うむうむ」
と言って天子はいたく感心して頷いた。
「それで罪滅ぼしというわけではないのですが、神を身近に感じてもらうために社を建てたいと思うのです。ええ悩みというのはその位置、神の居場所はどこにしたらいいかということです。私は数年頭を悩ませて、この切り株の上で安座しておりましたがどうも結論が出ないのでございます。どうか天人様いい知恵をお貸しください」
「ほほう、神が居場所とな。神の誇りを持て。そなたの今いる場所が神のおわす場所だ。民はそれについてくる」
「いえいえ。それは偉大なる力を持つ神の場合であります。私のような若輩は力を持ちませぬ。自分自身を知らしめる社が必要なのでございます」
神奈子はそこまでかなり憔悴したような顔で答えた。
「ほうそうであるか。それならば道を示してみせよう。神の居場所はそこだ」
と言って天子は指で天を貫いた。
「どこでございましょうか天人様? 空には人は行けませぬ」
「馬鹿、どこを見ておる。あの山の頂だ。あそこに社を建てるのだ。高いというのはそれだけで権威の象徴である。きっとこぞって信仰を授けてくれるであろう」
「ははぁ。あの、高い山のてっぺんでございますか。さすが天人様。しかししかし、もっと身近な場所が良いのではないでしょうか? 神を身近に信仰も身近にの精神でございます。洩矢の諏訪子などは土着信仰などとのたまわれていますが……」
「違う。近いは遠い。遠いは近いのだ。そなたも神ならわかるであろう。いつもそばにいてはありがたみを感じないのだ」
天子はそう言い切った。
神奈子は悟ったように、ああと天を仰いだ。
「なるほど、さすが天人様。これで私の迷いが晴れました。あの山の頂を私の拠り所といたしましょう。あの、差し支えなければ天人様の名前をお聞かせ願えないでしょうか?」
「よかろう。私は比那名居の娘、比那名居天子だ。私はいつもお前達をはるか天界から見下ろしている。こころして善行を積むように、以上」
「ははー。以後よしなに」
神奈子はふかぶかとへりくだった。
「うむ、うむ」
山には紅葉が世界を埋めていた。天子はまた気流に乗る。困り人は何処へと流れるか。そこに天子は存在するのである。
天子はひた走った。景色が変わり草一本生えない砂地へと降り立った。
「なんと寂しい場所。ここにも悩む人がいるのかしら?」
そう思いながら仁王立ちして待っていると、はるか前方から一人の女が歩いてきた。桃色の髪がくせっ毛で、肌は死んだように色白の、やせぎすの神経が尖ったような女だった。
女は下を向いて伏目がちにして、足を引きずるようにして歩いていた。天子はこれ困り人と確認し、直ぐに声をかけた。
「これこれそこの女。何なりと申せ」
しかし女は気に止めた様子はなく、そのまま立ち去ろうとした。天子はそれを呼び止めた。
「これこれ。待つのだ女」
「何でございますの。離してくださいな」
女はぎろりとした目で睨んだ。眉間に深いしわが寄り、白目は泣き腫らしたかのように赤く充血していた。
「まぁそう言わずに。どれ、私がそなたの悩みを聞いてしんぜよう。何なりと申すがよい」
「ふん、何ですか。何も困っていませんわ。おお、つらい怖い悲しい苦しい」
「何かおかしいな。私の耳がおかしくなったか女?」
「いえいえ。何もおかしくありませんし困っていません。ああ寒い熱いひもじい話を聞いて欲しい優しくして欲しい」
女は無意識で口から言葉が流れ落ちているようであった。天子はこの女の気質も大体理解し終えた。
「ふむ、そうか。何が悩みなのだ?」
「いいえ、本当に困ってなんかいないんですけどね。ああ私は名無しの妖怪なのですが、人は私を覚と呼びます。なぜだかどうしてそうなのです。突然見ず知らずの方に言うことではないのですが、私はもう少しの間しか地上にいられません。おお悲しい。寒くて光の届かない地底に押し込められてしまうのです。おお……」
心の奥底に染み渡るような声だった。天子は特に同情もせず、高みから女の話をじっと聞いた。
「地底にか。それは何ゆえに? 地上を追われるというのはそれなりの理由があるのだろう?」
「はい。ああこれが何とも理不尽な理由なのでございます。それは私が心を読める妖怪であるという間違ったレッテル張りです。私はそんな妖怪では決してないのでございます。私が何度否定しても、頭の固い連中は上から頭ごなしに決め付けるのです。とはいうものの、私にもいくばくかの責任はございます。私は人に何か一言二言、時には三言四言を助言しなければ気がすまない質なのであります。人にはそれが気に触るのでございましょう。しかしそれは私の善意からくる衝動でございまして、決して歪んだ悪意からくるものではないのです。世間の人はこれを誤解しているのです。私はちょっと勘がいい方ですから、それを曲解して心が読めるなどと……本当に浅はかな邪推をしたり顔で行うのであります。ああ……私の妹などあんまりつっつかれたものですから心に酷い傷を負ってしまいましたの……。本当に心の優しい子でしたのに。……ですからこのように私が地底に落とされる理由は全くないのでございます。私は正真正銘の潔白でございます」
と女は一息に言い切った。すっと息をつぐ様子や肩の振るわせ方、しおらしげにして人の気を引くような流し目も全て、傍目には洗練された舞台女優さながらの演技であった。しかし心には響かなかった。天子にとっては安っぽい場末の、三文芝居以下の虚構で塗り固めた一枚板でしかなかったからだ。
女はどうだと言わんばかりにふんと息を吐いた。それが天子の気におおいに触った。
「それは困りましたな。世間は世知辛い。私が取り持ってやらないこともない」
「まぁ……。そんな迷惑はかけられませんわ。自分の手で何とかしますわ。ふふふ。おお寂しい」
「そう言うな。世間というのは天の一言でいかようにも操作されるのだ。それが大衆というものだ」
「そうですか……。……ん? あらあなた? まさか天人様でいらっしゃいますの? あらあら……。うふふ。ねぇ天人様……あはーん……うふーん。私天人様のためなら何でもいたしますわ……むふふふふふふ」
突然女の態度ががらりと変わった。俗物の下卑た粘りつくような視線が這い回った。そこらの凡人であれば、この女の毒牙に身を任せていたかもしれない。ただ天人はやはり用意周到であった。
「触るな女。貴様の歪み切った根性、この鏡に映してみるがよい」
「な、なに……を」
天子は周囲の気質を集め、光輝く鏡を形づくった。七色に煌く鏡はこの世の全ての光を反射し内包すると思われた。
「これを見るのだ目玉の妖怪」
「いや、いやー」
女は突如として苦しみだした。顔を必死に押さえながら悶え苦しんでいる。
「どうだ自分自身の歪んだ心をかいまみた気分は? ほれほれ。よく見てみるがいい」
「ああ、やめて。うわ、目が、保てない、形が」
数秒後、女は目になった。人の形を成していない目の妖である。
「わきまえよ妖怪。私は天人である」
「く、くーーっ。このぉ。何が天人。恨みつらみ……どこまでも……深く」
「ふん、地底に落とすというのも当然の判断か。それ、今すぐ落ちるがよい。穴は掘っておいた。既にここにある」
天子は鏡を操りながら要石を落としていた。直径五メートルほどの大穴がぽっかりと口を広げていた。
「馬鹿な。私は迫害された被害者なんですのよ? 私はただ……」
「頭に血が上っておる。やはり地底で頭を冷やせ」
「うう、うわぁー」
目の妖は吸い込まれるようにして、地底の虚空へと消え去っていた。天子はそれを無表情で見下ろした。
「ふむ。困り人のつもりが困らせ人であったか。だがしかし、結果的には困り人が減った按配になる。善行は成し遂げられたのだ」
天子はそう了解してまた空へと舞い上がった。
威風堂々、天子はご満悦であった。歩幅も広く邪魔するものは何もなかった。
「さてとそろそろ疲れてきたな。次で最後にしようか。いや、天人は疲れない。他にもすべきことはまだまだあるからな。さて今度の困り人は如何なる者であろうか」
天子は歩いた。古代の英雄のごとく胸を張ってずんずんと歩いた。
どんと何かにぶつかった。下を見ると一人の老婆がうめいていた。僧衣を身につけた、今にも死にそうなほど痩せこけている老女であった。手は節くれだってごつごつとし、首には深い皺が刻まれていた。首を見れば大体の年齢はわかる。首とは脳と体をつなぐ根幹であるからそれが顕著なのであろう。
「おおすまない。天人としたことが」
天子は慌てて老婆を抱き起こした。
老婆はこんこんと咳をしながら立ち上がり、
「いえすいません。私が悪いのでございます。もう目も耳も悪くなってしまいました。私の不注意でございます」
と言った。
「ふむ。老いというのは悲しくも儚いな。さてそなた。こうして出会ったのも何かの縁。何なりと頼みごとを申すがよい。私は天人だ」
「まぁ……天人様。ええ私にはわかりますわ。あなたのご威光、目がよくなくてもわかります。きっと素晴らしいお方なのでしょうね。……申し遅れました。私の名は聖白蓮と申します。弟にならって仏門に帰依してまいりましたが……近頃弟がなくなり、私もこの有様でございます」
「そうかそうか。それで、悩みは?」
天子は真っ直ぐに言った。白蓮と言った老婆はすっかり水分を失った唇を震わせていた。
「いえ……悩みなどは」
「ふむ、そなたは何か隠している。私にはわかる。死ぬ前に隠し事などはいらぬ。さぁ申すがよい。今すぐに」
それを聞いて白蓮を首をぶんと二回振った。
「何もありませんわ天人様。私は人としての生涯を全うするだけでございます。悔いはありません」
「本当か?」
「はい」
「本当に嘘偽りはないか?」
目を射抜いた。奥の滲みが濁っていた。白蓮は直視に耐えられず自分から目をそらした。
「すいません嘘をつきました天人様。どうかお許しくださいませ」
取りなして白蓮は言った。
「それでよい。何でも話せ」
「はい。私の心残りとでも言いましょうか。天人様も知っての通りこの世は人と妖とが同時に存在します。妖は人を襲い喰らう。私も仲間や知り合いが妖の手にかかるのを何度も見てまいりました。それで私も妖は悪いもの、悪であると当たり前のように思っていました」
「まぁそれが普通の感覚であるな」
「はい。しかし寿命残り少なくなってまいりますと、本当に妖は悪鬼羅刹のような極悪であるのか、はなはだ疑問になってきたのです。私は人間ですからおかしいのですが。妖は人を虐げます。これは何故なのでしょう? 肉を喰らい食料とするからただの気晴らしとか――やはり妖の言い分もあります。人の概念で決め付けるのは少々思慮が足りないのではと、私はたびたび考えるようになったのです。妖は人を虐げますが逆に人も妖を虐げているのです。それは無意識にも意識的にでもあります」
「ふむ。それで?」
天子は顎を指で触って促した。
「はい。私の考えますことは、この人と妖が同時に存在する空間で理想の境地を創造することなのです。人と妖が認め合うのです。弟は優れた僧でしたがこの点に関しましては沈黙しておりました。常日頃から法華経法華経と言うばかりでございます。仏様を信じて祈ることはとてもいいことだと思います。何かを信じて祈ること。そして自分を信じること。私それは重々承知なのですが、どうしてどうして妖のためには祈れないのでしょうか? この疑問が氷解するならば私の命など投げ捨ててしまいたいのです。ええ」
「そう自暴自棄になりなさんな。そなたは少し焦っておられるのだ。もう少し冷静になってみよ」
「いえいえ。実は――あの、ああ。これは、言ってはいけないこと……私の腹の中に……」
「続けて申せ。楽になるぞ」
天子が言うと、白蓮は諦めたように口を開いた。
「はい。私は弟を裏切ってしまったのです。弟の寺の古い蔵の中でした。この中に決して開けてはならぬ巻物があったのでございます。いえしかし、開けてはならぬと言われては開けたくなるのが人情でございます。私は開けてしまいました。未知の誘惑に勝てなかったのでございます。中身は――古の禁術が記されていました。私は悪い目をこすりながら必死で理解に努めました。それは若返りの秘術でした。それも、半永久的に若いままで生を享受しうるという。まぁ信じられない、滑稽でもありましたが、私には天からの誘いでありました。だって、これがあれば、ふふふ。人と妖。私が求めるのは真の平等で……」
口元に奇妙な皺が寄っていた。天子は白蓮の言うことが事実だと理解していた。天人は全てを見通していたから。
「ほほう。だがそれは天からの授かりものではないな。天人は若返りの法などいらぬからな。どこぞの邪教の輩が書き記したものであろう。む……となるとそなたの弟というのも怪しいのう」
「何を天人様。弟の悪口は言わせません」
それを聞くと白蓮は光が薄い目をかっと見開いた。
「そうかすまぬ。で、そなたはその禁術を使うつもりか? 偽物かも知れぬぞ? 若返りではなく牛や豚に変化してしまうかもな。ははは」
「いえ天人様。畜生になっても構いませんわ。若返りの可能性――それだけで今の私には希望なのでございます。それはもう甘露のような甘さであります」
と言った時の顔は菩薩のように柔和であった。しかしどこか陰りがあった。
「それで若返って人と妖の平等を……ははは。哀れだな尼僧よ。禁術に身をまかせた瞬間、そなたは平等を説く資格を失うのだ。何故それがわからない?」
「何故でございます?」
白蓮は真顔で聞き返した。
「よく聞くがよい。若返るのはもう人ではない。人ではないなら妖であるかもしれん。もしや若返る妖もあるやもしれん。しかし、そなたは人から妖になった。もう純粋な妖ではないのだ。つまりそなたは平等を説きたいはずの人と妖のどちらの存在でもなくなるのだ。ふむ……言わば化け物? いやすまぬ超越者か? ふふん。しかし本当の超越者は天人でしかありえないのだ。どうだ尼僧よ? そんな若返りの法に頼るより、天人見習いにでもなった方が早いぞ。ただし天人見習いは仙人見習いよりもきつく厳しい。ふふ……ははは……ははは……」
天子は高らかに笑った。腹の底から自然に笑ったのだった。
「お止めください天人様。私は化け物でも超越者でもありません」
「ではなんだ?」
さっと笑いを止めて言った。
「人であります。この一生を生き抜いた経験、それはやはり人でしかありえません」
「その結果が輪廻に背いた若返りか。滑稽なことだ」
「それは私の信念に基づいて……」
「何が信念か。生ある内に成し遂げられないそなたの怠慢が招いた結果だ。都合のいいように捻じ曲げているのだ」
「それでも――」
何故か白蓮は涙を流していた。
「それでも私は貫き通したいのでございます。天人様」
「ふぅむ。わからぬわからぬ。もう勝手にせい」
「ありがとうございます」
曲がった腰を更に曲げておじぎをした。
「む……そなたの言い分主張信義は大体わかったのが……うむ。私はどうも腑に落ちぬことがあってだな。いやつまらぬ疑問だ」
「何なりとどうぞ。私の答えられる範囲でございましたならば」
「まず人と妖の差について」
と言って天子は緋想の剣を出し、がっと地面に突き刺し一本の線を引いた。そして半歩ほど右に移動しまた線を引いた。
「これが意味するのは人と妖の差」
「はい」
「そして」
天子は右に五十歩ほど早足で移動した。ぐっと地を踏みしめ気合を入れてから、地面に砂吹雪を巻き起こるほど大げさに傷をつけた。
「ふぅ。ああこの深さは問題ではない。大事なのは距離だ。人と妖の差、これは天人との差に比べればほんの少しでしかない。私にはこれがわからぬのだ。どうしてこんな些細な――」
子供のような顔でそう聞いた。白蓮はにっこり笑って答えた。
「はい天人様。人も妖もそのほんのわずかな差にこだわりたいのでございます。それが――生きるということでございます。誠に卑小で仕方ありませんわ」
「そうか」
「そうでございます」
「うむ、うむ……」
天子は腕を組んでわざとらしく頷いた。日が暮れかけていたのでそろそろ帰ろうと思った。
「長らく引きとめてしまったな。ではこのへんで。達者でな」
「はい天人様も」
夕焼けの気質を全身に受け止めて天へ舞い戻った。地上を見下ろすと白蓮がまだこちらを見て手を振っていた。
天界にも夜は存在する。天子はそそくさと豪華な宮殿へと帰宅した。蓮華の花が咲き乱れて甘い香りが天界を埋めていた。天人の優雅な生活はここで始まるのだ。
「あ、おかえりなさいませ天子様。すぐにジュースをお持ちします」
教育係の永江衣玖がねぎらった。
「うむ」
天子は柔らかい椅子に座って足をばたばたさせた。ほどなくしてジュースを手に衣玖が戻ってきた。
「衣玖」
「何ですか天子様」
「今日は地上でたくさんいいことをした」
「それはよかったですわ」
衣玖はにこにこと笑った。
「衣玖」
「はい」
「人間というのは面白いものだな。八雲の妖に伝えよ。巫女は人間がいいとな」
「はい畏まりました。確かに伝えておきますわ」
「うむうむ」
天子の政は雄大であった。幻想郷は彼女の手にある。
「衣玖、今日は盛大な宴がいいな。いつもよりも、もっと」
「わかりました天子様」
万歳をして飛び上がった。天界に宴はつきものである。そうだ、巫女にもたくさん宴会をさせればいいと思った。そのためには聞き分けのいい巫女を作らなければならない。手始めに要石を打ちに行こうかそうしようか。
天子は一人わくわくした。
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