
「ねぇねぇ霊夢さん新聞とってくださいよ」
射命丸文は縁側で大福餅を頬張りながらそう声をかけた。
「ふーん。そうね、考えておくわ」
対して博麗霊夢は無表情で返した。
「またまたまた。昨日も一昨日も一週間前もそれでしたよ。そろそろお返事お聞かせ願いたいんですけど……ねっ?」
媚びへつらうような笑顔を浮かべて文は霊夢の顔を見つめた。
新聞の勧誘も彼女の仕事の内である。新聞はすべからく皆読むべきである。そういう信念の元に彼女は生まれている。だからして、今隣で暢気にお茶を飲んでいる霊夢に新聞を読ませるというのは当然のことであった。
「ふふ。何年たっても決められないわね。私には新聞の価値がわからないのよ。射命丸さん」
「いえいえ。そんな人がいるわけないのです。毎日毎日私が新聞の素晴らしさを事細かに説明しているでしょうに」
「私ってば馬鹿だから。わからないわ、ごめんなさいね」
と言ってしおらしげに顔を背けられてしまった。博麗霊夢という人物は中々やっかいであった。小柄な体格の可愛らしい人間の少女――生真面目そうで朴訥でどこか頼りない。あまり大声を出して自己主張することもなく、いつも自分の世界に浸っているように思う。眼差しは澄み渡っているがどこが陰りがある。
文はこの霊夢に対して執拗な新聞勧誘をずっと試みている。当初はすぐに篭絡できると思っていた。こんな線の細い意思の弱そうな少女が自分の説得に抗えるはずがない。いくら幻想郷最強とうたわれている博麗の巫女といえど、それは決められたルールの範疇の中だけである。
ちょっとこづいてやれば直ぐに鼻水と涙をだらしなく流して、新聞を一字一句食い入るように読ませることができると信じていた。しかしその文の目論見は無残にも打ち砕かれた。
霊夢は実に頑なであった。どれだけ新聞の有用性を説いてもにこにことしながら笑っているだけ。少し突っ込めばいつも微妙な距離ではぐらかされてしまう。のれんに腕押しとはまさにこのことであった。
「いえ、謝られても困ります。とにかく新聞というのはですね……」
「射命丸さん。それよりも私は」
「え? 何ですか?」
話を遮られて訝しげに霊夢の顔を見つめる。こうして自分の話を遮ることは今までなかった。文は可憐な少女の唇が開く瞬間を今か今かと待った。
「それより……あなたの話を聞きたいわ」
「えっ」
文は目を丸くしてきょとんした。その微妙な間を取り繕うように、霊夢が空の茶碗にとくとくとお茶を注いだ。
「あ、ありがとうございます霊夢さん。しかしいえいえ。私は確かに毎日この幻想郷を飛び回っています。万事において誰よりも世間のことに精通している自負があります」
「それなら聞かせてちょうだい」
霊夢が首を傾けて覗き込んできた。その仕草に少しドキリとする。
「あのですね。その私が取材した内容を逐一書き記したものが新聞という物なのですよ霊夢さん。いくら博麗の巫女と言えど抜け駆けは許されません。情報という物は万民において平等でなければなりません」
そう文は言い切った。
「ふふふ。あはは」
急に霊夢は笑い転げた。くっくっとお腹をかかえて苦しそうにしている。こんな霊夢の様子を文は今まで見たことがなかった。
「な、何で笑うんですか?」
「くくく……。ごめんなさいね射命丸さん。失礼したわ」
「もう、真面目に考えてくださいよ」
笑われた理由がよくわからなかったが、文は霊夢は屈託のない笑いが見物できて得した気分になった。クールで無愛想な博麗の巫女の隠された一面――。それを自分だけが知っていると思うと心の中でほくそ笑みたくなってくる。あの笑い声、あの表情。しかしその妖精のように可愛げな態度は一瞬で影を潜めた。
「ふぅ」
「ん? ふぅ……」
霊夢が息を吐くと、つられて文も息を吐いてしまった。横を見るとまた仏頂面の愛想のない人間の顔に戻っていた。
「聞かせて」
「はい霊夢さん」
妙に抵抗できなかった。文は不思議な感情を霊夢に抱いてしまった。こんなはずではなかったはずだった。胸の奥がズキズキするようなもどかしい気持ち。なぜだろう? 自分はどうしてこんな少女に心を乱されているのだろうと。
「実は今度妖怪の山に今度大きな工場が建設されるんですよ」
「そう」
「河童の新技術を存分に使った代物です」
「そう」
「それによって幻想郷はもっと豊かになると思うんですよ」
「そうなの」
霊夢はここでも相変わらず無口であった。ただ文の言葉に対して一本調子の相槌を打つだけであった。
文は実に色々なことを霊夢に聞かせてあげた。その無尽蔵に近い話を霊夢はうんうんと言いながら楽しそうに聞いていた。文は滝から無尽蔵に流れ落ちる水ようにべらべらと喋り続けた。
「……あのですね、私は折り合いだと思うのですよ。切り捨てるべきものと残すもの。その見極めこそが大切なのであります。全てを救うとか聖人君子みたいな綺麗ごとを言っておりますといつか後ろから刺されます。犠牲というのは必要悪なものなのです。こちらを立てればあちらが立たぬ。これは当たり前のことです。優劣というものの存在を認識した瞬間に生き物は前に進めるわけです。誰しもが安定した生活を地位を求めているわけです。だからみんな努力するわけですね。それで……」
すっかり夕闇が静かな境内を侵食していた。文は時間のたつのも忘れてとりとめのない話に没頭していた。
「えーと……それでですね」
「射命丸さん」
「はいなんでしょう?」
霊夢が突然割り込んだ。
「あなたの話って面白いようで面白くないわね」
「えっ」
「あっ、ほんの少しは面白いわよ。ふふ」
「な、何ですかもう。藪から棒に……」
文はちょっとむくれて見せた。せっかく霊夢のために幻想郷のあらゆる出来事を面白おかしく聞かせてあげたというのに。
「そろそろ帰りますね。霊夢さん。あーあ、博麗の巫女様のせいですっかり遅くなってしまいました。おお夜道は怖い怖い」
かなり呆れたような声を出してみた。文は実際疲れていた。なぜこんな人間の少女に熱を持って話しかけてしまったのか不思議だった。新聞の勧誘もできなかったしとんだくたびれもうけである。明日からはもう勧誘なんてやめようと心に決めようと思った。
「あ……ちょっと待って」
「何ですか?」
翼を広げて飛び立とうとすると呼び止められた。振り返って言葉を待つ。
「今日は……楽しかったから……いつもより」
「えっ、ええっ?」
想定だにしない言葉がこの少女の口から舞い出たので、文は少々狼狽してしまった。立ちくらみに近い状態に陥りふらっと膝を着きそうになってしまう。
「楽しかったです。射命丸さん」
闇夜にその一言が遠く響き渡った。暗がりでよくは見えないが瞳が軽く濡れているように見えた。
「そ、そそそ、それはどうも」
文はそれだけ言って一目散に逃げ出していた。止まらない胸の高鳴りを押さえるのに必死だった。
文は次の日通常の業務をかたづけてから、真っ先に博麗神社へと勧誘に向かった。二度と訪れはしないと決めていたのにも関わらず浮き立つ足が止まらなかった。楽しかったですと言われた瞬間の脳を惑わす甘美な快感が忘れられなかったのである。
「ふふふ。ここで諦めるのも口惜しいですね。博麗の巫女の正体を暴くために私は戦います。そのためにはまずは勧誘するのです。ふははは」
そう意気込んだものの、本音はただ単に霊夢に会いたいだけであった。射命丸文は博麗霊夢という存在に魅了されていた。嘘偽りではなく心から真摯に。
「霊夢さんこんにちはー」
文は大声をあげて霊夢を呼んだ。程なくしてばたばたと足音をたてて霊夢が目の前に現れた。
「あ……射命丸さん」
どことなく嬉しそうな声だった。
「霊夢さん。今日も新聞の勧誘に参上しました」
「そう、入って。うふふ。今日はお茶請けに芋羊羹を用意しているから」
「あ、これはどうもどうも……」
案内されて、文は日の光が眩しい縁側へと腰を下ろした。
「どうぞ。お茶よ」
「あむ、んむぐ。ありがとうございます。んごくごく……」
芋羊羹はもっちりとして弾力があり美味であった。ほのかで上品な甘みが口の中に広がる。その若干のくどさを渋みのあるお茶が鮮烈に洗い流す。
「ああ美味しいです最高です」
文はもてなされてご機嫌であった。とそこで、ここに来た目的を忘れてはならないと思い口を開いた。
「そろそろ新聞とってくれませんかね霊夢さん?」
「残念だけど私は頭が悪いのよ」
「そうですか。ははは!」
答えになっていないような気がしたがどうでもよかった。霊夢のそばにいるだけで文は満足であった。
「それよりお話してくれない?」
若干猫撫で声に近い音波が文の耳を襲った。ああいけないこれは罠だ。自分は仕事をしにここに来ているのに。相手は年端もいかない鼻垂れ少女だ。今すぐ説得しろ尋問しろそして泣かせろ射命丸文。
「もももちろんです霊夢さん!」
「ありがとう射命丸さん」
にっこりとした笑顔が文を包んだ。結局霊夢に対抗する理由を文はふんだんに失っていた。この少女から与えられる不思議な感情に身を任せきっていた。
「私の仲間に犬走椛という奴がいるんですよ」
「そう」
「彼女はどうしようもないくらいの出不精なんですが、ある時どうしても用事があって外に出たんですよ」
「そう」
「そしたら飛び慣れていないのか木の棒にがつーんってぶつかったんですよ。おかしいったらありゃしない! 犬も歩けば棒に当たるってのはこのことですね……。あ、椛は狼に近いんですよ。だから犬と言っても間違いじゃないんです。八割ぐらいは犬なんですよ彼女は」
「そう、面白いわね」
「そそそうでしょう? あはは! それでですね、まだあるんですよ。椛って奴は真性の変人でございましてね。この前も……」
文はしだいにテンションがあがり支離滅裂なことをまくしたてた。嘘八百に尾ひれをつけて大げさに吹聴した。自分でも何を言っているのかわからくらい喋りに没頭していた。
はっと気がつくともう日が暮れかけていた。時間が過ぎ去るのが余りにも早かった。
「おっとこんなに遅くなってしまいました。もう帰らなければ」
「ええ」
と霊夢はぽつりとそれだけ言った。
「射命丸さん」
「はい」
飛び立つ直前で呼び止められた。
「また来てくださいね。楽しかったです」
「は、は、はひ……」
文は蕩けそうになりながらも、どうにかして家路へと着いた。床の中でも霊夢の面影を反芻しながら眠りに落ちた。
「ああ……春麗らかな木漏れ日が差し込む今日この日……。私射命丸文は幸福に満ち溢れたヴァージンロードを一歩づつ踏みしめるのでございます。うふ、うふふふ……」
「昼間から盛ってますね射命丸大統領。発情期ですか?」
文は天狗仲間の犬走椛と共に安っぽい食堂で昼食を共にしていた。霊夢の甘い毒にあてられてから既に数日がたっていた。
「だまらっしゃい椛。あー霊夢さん。あなたはどうして霊夢さんなの? むぎゅー!」
両手を胴に回し唇を尖らす。その様子を見て椛が鼻白んで目を細めた。
「ふーん。よくわかりませんが、その霊夢殿はたいそうな金持ちなんでしょうね?」
「いえ彼女は博麗の巫女ですよ」
「あ、相手は女だったのですか。失敬。いやいや、金のためとはいえ射命丸大臣もみさかいありませんね。同じ天狗の同胞として恥ずかしいです」
「なーにーを言っているんですか椛? 金のためなんかじゃありませんよ。私は霊夢さんが好きで好きでたまらないんですよ」
「へぇ」
と言って椛はいかにもおかしいという風に鼻で笑ってみせた。
「何ですか椛。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「いえあの。あの華々しい功績をあげた射命丸将軍がですね。へへ、同性愛ですか。笑っちゃいますね。はは! それも純愛気取りの乙女に様変わりして。ははは、あの、射命丸文が、ですか!」
この煽りに文はぐっと奥歯を噛み締めた。
「人は変わるんですよ椛。私は博麗霊夢さんに会ったことでですね。そりゃ私も人間なんて……てな具合に思っていたんですがね。これが中々引きこまれてしまうのです。気丈な振りして本当の所は弱弱しくてせつない……みたいな。私の忘れていた母なる母性をぴくぴくと刺激するわけですよあの人は。ああ……。昨日なんてちょっと肩を揉んでもらったんですよ。彼女は上手でした。細い指がですね……私の凝り固まった筋繊維を一本一本解きほぐしていくわけですよ。その上彼女の甘ったるい吐息が首筋をくすぐったりなんかしてですね……」
「は!」
椛が一声で遮断した。
「同胞として言っておきますが射命丸文殿下。せいぜい火傷しないようにしておくんですね。近頃の人間は何を考えているかわかりませんからね。博麗の巫女というのも、案外人間の面をかぶった悪魔なのかもしれませんね。あはははっ――」
高らかに吼えながら椛は去っていった。
「なな何ですか私は本気なのに……。うぐぐ」
頭を抱えていると、二つのうどんが湯気をもうもうと立ててその存在を示していた。今日は暑くなりそうだと思った。
「全くもう椛の奴ったら。胸糞悪いったらないですね。いつかあの馬鹿面を締め上げてやりましょう。……と、もう博麗神社ですね。ああ……私の愛の天使がおわす場所――ああ今行きます霊夢様」
文は仕事も早々に切り上げて神社へと向かっていた。近頃日常の業務が捗らない。何かを思考しようとすれば、博麗霊夢の悩ましげな表情が頭には浮んでは消え浮んでは消えして仕方がなかった。
「霊夢さんこんちにはー」
「あ、待っていたわ射命丸さん……」
鏡に反射するように即座に応答があった。ちょこんとした人形のように可愛らしい少女が文を出迎える。
「霊夢さんどうも。ん……?」
文はあれれと不思議な奇妙な感じを霊夢に抱いた。いつもは平静として口の端をきっちりと結んでいるのに、今はぽかんと半開きになっている。それになぜだか妙に色っぽい。頬も熟したほおずきのように真っ赤に染まって、かすかにうちけぶる眉の美しさもなんとやら。
瞳もはっきりと分かるくらいにじっとりと濡れて、薄い唇も何かを訴えかけるかのようにわなないていた。瞳の奥の暗がりぎゅっと広がっていて、ややもすればそのまま深い奈落の底へと誘いこまれそうになる心地がした。
「どうしたの? 射命丸さん?」
「ひぃ、はぁはぁ」
素っ頓狂な声を絞り上げてなんとか耐えた。人間の面を被った悪魔という椛の言葉が頭を軽くよぎる。天狗であるはずの自分がか弱い人間の瞳術にかかるなどあり得ないと信じていた。
「行きましょう」
「はい」
言われるがままに文はいつもの縁側へと腰をかけた。正面から生暖かい日差しが顔面に降り注ぐ。
「はいどうぞ」
「あ、いただきます。もぐもぐもぐ……」
出された茶菓子をわけも分からずに放り込む。形状も味もどうでもいいくらい混乱していた。ほとんど噛まずにお茶をぐっと流し込んで胃の中へと落とし込む。
「あー最高です。霊夢さんのお茶菓子は」
自然にそう言葉が口をついで出た。
「本当に?」
「ええ本当です。霊夢さんの作るものなら全て受け入れたいです。はは」
「そう嬉しいわ。ふふ。ところで……」
「何ですか?」
声の調子が急に変わったので、文はぎょっとして聞いた。
「今日の射命丸さんは……どこかおかしいわね」
「おおお、おかしくなんかありませんよ。私はいつも清く正しい射命丸文です」
たどたどしく言うとと霊夢はくすくすと声をあげて笑った。
「ふふっ、嘘」
「えっえっ」
挙動不審に陥っていると、霊夢は背伸びをしてはーっと息を吐いた。
「射命丸さん」
「はい」
「今日はちょっと私化粧してみたの? 気づいた?」
「はい」
「本当に?」
「はいぃ……」
そうか、道理で何か雰囲気が違うと思っていた。気づいてはいなかったが了解していたということにしようそうしよう。
「それでね。今日は大事な話があるんだけどぉ……」
「はい、はい……」
ああ何だろうこの展開は。夢にまで見た百合の花園なのだ。こうやって乙女が二人愛を分かち合うのだ。自分が気づかなければならなかったのだった。毎日のように睦まじく逢引をする二人――向かう先は恥じらいながら求め合う愛の告白。自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。こんな呆けた態度ではいけなかったのに、天狗としてのプライドを、淑女という名の紳士らしく圧倒的な包容力で迎え入れなくてはならなかったのに。
「ん……射命丸さん」
「ふぁ」
柔らかい赤子のような指が右手に絡められる。とんと小さくてほとんど重さを感じない顎が文の肩に乗せられる。
「あのね……」
文は次につむがれる愛の言霊を待ち構えた。
「新聞。とるわ」
「えっ?」
「新聞よ新聞。ふふ、毎日毎日疲れるでしょう? 射命丸さんは私のために身を崩しちゃいけないわ。最近疲れ気味なのも私のせいでしょう?」
「はっ、はあぁ。そりゃもう……。とってくれるならそれにこしたことは……」
何か肩透かしくらったような格好であった。しかしそういえば元々は新聞勧誘のためにこうして博麗神社を訪れていたのだった。だがその当初の目的も現在ではどうてもよくなっていた。霊夢のそばにいてお茶をしながらとりとめのない話に興じるだけで満足であったから。
「じゃ決まりね。明日からお願いね」
「は、はい! この射命丸文は全身全霊をかけて新聞をお届けさせていただき申し上げます!」
期待した展開とは違っていたが、これでよかったとも思った。あの博麗霊夢が自分の勧誘にうんと頷いたのだから。愛の告白はゆっくりすればいいのだ。着実に地盤を固めてゆっくりと進めればいい。
「あはははー。私何だかとってもいい気分です。裸になって小躍りしたい気分です!」
「あらあなたったらもう」
「あややっ、あはは」
「うふふふ……」
文は実に上機嫌であった。
「霊夢さーん。夕刊でーす」
次の日、文は新聞配達を自らかって出た。愛する霊夢のためにこの手で新聞を渡したかったからである。
「ああどうも。お疲れさん」
にこにこと笑顔の霊夢が顔を覗かせた。
「はい! 選りすぐりの記事が満載ですよっ」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
「はい!」
そのまま霊夢は奥へと消えていった。文は入り口で何かを待ち続けた。それが無駄な行為であるとも露知らずに。
「あ、あれ?」
文は数秒硬直した後、はっと我に返った。
「霊夢さん、勧誘はOK。新聞を渡した。私は帰るだけ……。あれ? あれれれっ?」
突如として不思議な喪失感に襲われてしまった。背中に悪寒が走り気持ちの悪い汗が腋からじわりと染み出る。
「ひぃ、ひいいい!」
文は脱兎のごとく駆け出した。駆け出さずにはいられなかった。
次の日も文は博麗神社へと向かった。もちろん新聞を配達するためである。
「霊夢さーん。夕刊でーす」
一秒、二秒、三秒、四秒。心の中で数をカウントするとちょうど四秒目で霊夢が現れた。
「ああどうもお疲れさん」
昨日と同じような全く邪気のない笑顔だった。まるで作られたかような虚構の――それに既視感を感じるほど霊夢の行動は脳裏に焼きついていた。
「今日の記事も活きがいいのが揃ってますよ!」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
空元気を出して声を張り上げてみたが、霊夢の反応は変わり映えがしなかった。そして新聞を片手に持ち奥へと消えようとする。
「まま待ってください霊夢さん」
何とか声帯を振り絞って声を出す。
「何?」
機械のような抑揚のない声だった。
「あ……あのですね。ははは」
話すことを何も決めていなかった。思考回路が酷く混乱している。
「ふふ。おかしな人ね。忙しいんでしょう? 新聞はもらったから他を回った方がいいわよ。じゃあね、射命丸さん」
「あっあっ」
呼び止める言葉は何もなかった。どうしてだろう? 自分の相手を説き伏せることを最も得意としていたはずなのに。現に霊夢は新聞をとっている。それは自分の功績だ。それなのにどうしてかこんなにも胸が痛い。
目が笑っていなかった。あの沼地へと引きずりこむような滲んだ目は息を潜めていた。あるのは冷めきった死人のような冷徹で残酷すぎるガラス玉だけである。徹底的に他人を拒否するような怨念のような光を強烈に放っているのだ。
「いえ……。別に、おかしくありません。私は……新聞を配達しただけです。明日はきっと……」
気だるい憂鬱にかられながら、文はどこか不愉快な幻想郷の空へと舞い上がった。
また明くる日。文は勢い勇んで神社へと足を運んでいた。前もって準備をし、決して物怖じしない覚悟を決めて。
「霊夢さん! 夕刊です!」
「ああどうもお疲れさん」
来るのがわかっていたかのように直ぐに出てきた。
「今日の記事も最高ですよ」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
そう言って逃げようとする。今日は逃がさない。今だ。
「待ってください霊夢さん」
「なぁに?」
妙に甘い声が脳に響いた。その調子にぐっと気圧されそうになってしまう。
「ど、どうして私を無視するんですか?」
「え?」
霊夢はとても驚いたという風に目を丸くした。しかし次の瞬間、菩薩のような柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「私があなたを無視? どうして? 射命丸さん?」
「いえあの……」
文は大事な所で口ごもってしまった。無視ではない。無視ではないが心がチクリと痛いのだ。
「私が新聞を受け取る。あなたはそれで満足する。それがどうしたのかしら。ねぇ?」
「はぁ」
頭がぼうっとする。綿密に組み立ててきた質問も全て根底から瓦解した。文は単純に霊夢と会話がしたかった。かの木漏れ日が香る縁側でいちゃいちゃと。本当は新聞なんかとってもらわなくてもよかった。ただ博麗霊夢のそばにひしと寄り添っていたかった。今はその橋渡しとなる術を完全に失っていたのだ。
「おねお願いします霊夢さん。今までの非礼は謝りますから……」
文は一心不乱に土下座していた。
「あら射命丸さん。急にどうしたの? 本当におかしい人ね。うふふ」
「おかしくなんかありません。ん……そうだ。世間話です霊夢さん。今から私と世間話しましょ。えへへ」
霊夢はそれを聞いて、一度両目をつぶり、軽く右目だけを薄く開けてみた。
「世間話を? 私とあなたで? ふふ、私はあいにく新聞で間に合ってるわよ。あなたが丁寧に持ってきてくれた新聞でね……」
「そんな……そんなのって」
「ふふ。ほら涙で綺麗な顔が台無しよ? 拭いてあげるから早く帰りなさい」
「はい……すいません」
白い布で顔を優しくこすられる。霊夢の言い分はおかしいはずなのに逆らえなかった。
「さようなら射命丸さん」
顔を拭き終わると、一生の別れのような面持ちで低くつぶやかれた。
地底の旧都酒場では絶え間ない喧騒で満たされていた。
「射命丸隊長。おごりとは言っても地底はありませんよ。じめじめしてていっそう気がめいっちゃいますよ」
「黙るのです椛。今の私の心理状態に合致するのはここしかないのです。私の心はもう絶望と虚無とブラックホールでいっぱいなのです。穴埋めできません。終わりです。うわー。どうしてこうなったのでしょう。わかりませんわかりません……」
文は安っぽい冷酒をあおりながらしきりに管を巻いていた。隣ではあからさまに迷惑そうな顔の椛が世話している。
「聞きましたよ? 新聞勧誘は成功したそうじゃないか。それで何の不満があるんですか? それをきっかけにどんどん仲良くなればいいんでしょう? ましてやあの射命丸文じゃないですか? のほほんとした世間知らずのお嬢様なんかお茶の子さいさいのはずでしょう? 一度ガツンと大人の怖さを見せ付けてやればいいんですよ。へへへ」
「馬鹿、椛。あの人はそんなんじゃありません。控えてください。いくら温厚な私でも怒りますよ。んー違うんですよ。霊夢さんは全てが違うんです。育ちから思考から行動理念においてですね。椛みたいな腐った俗物根性の塊の煩悩野郎とはものが違うわけですよ。ああー。霊夢さん霊夢さん。あなたはどうして私の愛をわかってくれないんですかね……ああ!」
「こりゃとんだご執心ですね」
椛は呆れたように言った。
「だってだって霊夢さん。彼女は決して心の内を私に見せないのです。その姿がいじらしい! ああ……彼女は私の心を弄ぶ悪魔なのです。そう、生意気に肌を晒して私を幻惑する妖精の小悪魔……。ぐふ、ぐふふふっ。私とあーしてこーしてえへへ……」
「はぁー。何か射命丸さんの話を聞いていると私もお相手してもらいたくなっちゃいますね。へへ。美人なんでしょ? その子?」
「何を椛! 私の霊夢さんに少しでも手を出したらぶち殺しますよ? 末代まで呪って魂焼き尽くしてあげますからね! 椛、椛ぃ! このぉ」
文がいきり立ってつかみかかったが、椛はひらりと俊敏な動作で身をさっとかわした。
「うわーひどい酒乱ですね。冗談ですよ冗談。ほんの冗談です。それじゃ私はこれで帰りますが……せいぜい他人に迷惑かけないようにしてくださいね。ではでは!」
「こらまだ話は終わっていませんよ。椛、こらー!」
逃げる椛を追おうとしたが、千鳥足でもつれてうまくいかなかった。酔いはどくどくと全身にその深い鬱屈した歪みを浸透させていた。
文は椛と別れた後、ぐだぐだと愚痴をつぶやきながら酒をあおり続けた。
「あーうー。酒は飲んでも飲み飲み飲み? いないんですか椛? おお私のいとしの椛。寝小便たれの椛。本当にいないんですか? ……仕方ありませんね。椛のお墓を作りに出航するとしましょう……それ!」
おぼつかない頭で酒場を後にする。びゅうびゅうと身を切るような風が吹く。地底というのはどうしてこんなにも陰鬱なのだろう。今の自分にはもってこいの空間である。明るすぎるのだ、地上は。ああ霊夢さんと縁側にいたころは絶対にこんな気持ちにはならないはずだった。こんな腐った根性曲がりの巣窟となっている場所なんて絶対に。
ああむしゃくしゃする。おお寒い怖い苦しい憎たらしい。文はふと破滅的で破壊的な感情に身を染めてしまった。それはどうしようもなく蓄積したストレスの為せる自然なエネルギーの暴発であった。
「んー壊したい壊したいです。しかし私にも理性があります。何を壊すべきかを考える。ここでも私は紳士的ってわけです。知性のある天狗の、上位種としての誇りですねっ。はは――それ行きますよ!」
旧都の大通りを低空飛行して突っ切る。当たるも八卦当たらぬも八卦。避けてくれなければ吹き飛ばすのみ。
「ひゅー気持ちいいです。いい感じです。あっ何でしょうあの建物は。あの豪華さは椛の墓標にぴったりですね。うひひ」
文は猛然とその建物に突き進んだ。スピードを落とさずに真正面に突っ込む。そして躊躇せずに一つの窓に頭から突っ込み室内へと踊りこんだ。
ガチャンと金属質の音を頭からかぶる。あちこちが痛むがどうやら致命傷は免れたらしい。
「あややっ。射命丸特攻隊、ただいま侵入いたしました。ただちに犬走椛のために侵攻を開始する所存であります!」
鬱の気が転換して操過ぎる操へと昇華されていく。今や文の脳内はパラダイスであった。鯛や平目が舞い踊り乙姫がてんやわんやの大騒ぎである。
「うひひっ。もう私を止められるものはありません。それそれー」
「ひえええ! 何だいこれは。私のせっかく綺麗にした廊下があああ」
気分の良すぎる進軍を、赤毛の猫妖怪が押し止めた。
「ひひひ。この腐れ天狗……。よくもやってくれたね。それお前たち、この阿呆をやっておしまい!」
「うわー何をするんですかやめてくーだーさーい」
「やめるもんかこの外道。掃除の邪魔をする奴は死んでも仕方ないないのさ! それ噛み付け切り裂け泣き喚け!」
妖怪猫の飛ばす青白い怨霊のような物体が、次々と文に投げかけられていく。素面ではない文はそれを回避する行動もとれずにダメージを蓄積していくのみであった。
「ひえー。痛いです苦しいです。一体私が何をしたっていうんですか? 全く……。この世は神様も仏様もありませんです。うう、うわわー」
「まだ言うかゴミ天狗め。不法侵入に加えて器物損壊。何より私の邪魔をしたことが許せない。ひひひ。どうしてやろうかねこいつ。ひひひひひ」
「何もしてません私は。不法侵入と器物損壊がなんだって言うんですか? 言語道断です。正義の私がどうしてこんな目にあうんですかー」
もはや勢いだけであった。文はもみ合いへし合いしながら妖怪猫と体力を削りあった。
「……どうしたのですか? これは? お燐」
「ははっ。さとり様ぁ! この馬鹿天狗めがこの地霊殿に侵入いたしまして、暴虐の限りを尽くしていたところを私が取り押さえていたわけでございますっ!」
突然、猫とは別の存在が姿を現した。なにやら文の意識外でひそひそと会話が行われている。
「さとり様。こいつどうしてくれましょうか? 煮物にしますか焼き物にしますか? それとも引いてなますにしますか? ひひひっ」
「ふふん。お燐、ちょっと黙っていなさい。さ……射命丸文さん。この水をお飲みなさい」
ぐったりとしている文の口元に、並々と水が注がれたコップが近づけられる。
「な、なんでぇーさとり様?」
「さぁ飲みなさい。美味しいですよ?」
「はいありがとうございます。ごくごくごく。あー美味しいです蘇ります。これ滋養分たっぷりの天然水に違いありません」
全身に力がみなぎってくる感じがした。邪で捻じ曲がった思いが洗い流されて、理性という名の正義が文の心に芽生え始める。えーとここは地底。そして豪華な室内。今目の前にいるちんちくりんな白肌の少女はさとりと呼ばれた。そっちの般若面の化け猫はお燐。……とするとここは。
「はっ、あややっ。私は一体何を?」
「この! 今更我に返ってわびる気か? そんなのここでは通らないんだからな?」
「まぁまぁお燐。あなたは少し頭を冷やしなさい」
激昂するお燐をさとりが頭を撫でて押し止めた。そうすると、あれほど目を釣りあがらせていた妖怪猫がしゅんと大人しくなった。
「よしよし。お燐。いい子ですね。掃除はまたすればいいんですよ」
「はいすいませんさとり様」
「あなたはもう行きなさい」
「はい」
すたすたと廊下の奥へと消えていくお燐の後ろ姿を、文は不思議な気持ちで眺めていた。
「さて」
「はいい!」
「ふふん。いえ大丈夫ですよ。あなたの心に感じいってしまったのです。あなたのお気持ちよぉくわかりますわ」
「は、はぁ……」
今だ頭がふらふらとして合点がいかない。
「私は地霊殿当主古明地さとりですわ。人を愛するってとっても素敵なことですわね射命丸文さん。その気持ちに免じて今日のことには目をつぶって差し上げましょう。幸い私のペット達には被害がなかったようですしね」
そうだ。自分は何回かここに潜入したことがある。他人の心を読む覚妖怪の末裔である古明地姉妹の謎を追って。彼女達の素性は謎に包まれている。地底に押し込められた妖怪の真実とは一体――。
「射命丸さん」
「はい」
「愛は口に出さなければ伝わりませんわ」
「はぁ」
「今すぐ素敵なお相手にその思いをぶちまけるのですわ。それはもう、盛大にですね」
「な、なるほど……」
文の頑なに凝り固まった心が氷解していく。何を迷っていたのだろう自分は。ほんの些細な体裁に拘って大事なものを後回しにしていたのだ。本当に情けないと思う。真実はいつも目の前に存在していたのだ。
「ありがとうございます親切な古明地さとりさん。この恩にどうやって報いればよいか……」
「いえ報いる必要はありません。あなたとあなたの思い人が幸せになればそれで私はそれだけで満足です」
「はぁーなんと素晴らしいお方。本当にありがとうございました」
何度もおじぎをして敬意を表した。
――ああ何て素晴らしいんでしょう。私は思い違いをしていました。このさとりさんと言う方の本性を。心が読めて地底に押し込められるくらいだから、それはもうとてつもなく身の毛もよだつような大悪党――犬畜生以下の存在と勝手に思いこんでおりました。だってそうじゃないですか。他人の心を読めるなんて自分に対する印象が全部フィルターなしで素通りってわけですから。誰だって悪口ぐらい言いますけどそれはそれでそれなりに緩和して口に出すものなのです。現に私がいくら口が悪いからといっても最低限の節度はわきまえてはいるつもりです。いえ本当ですよ。だって私は新聞記者の射命丸文ですからね。で、そんな罵詈雑言を直接受けて捻じ曲がった上でですね、さらに質の悪い能力があるんですよね。読心――あやや、これは相手の秘密も全てまる分かりってわけですよ。これでは相手の人はたまりませんよね。普通の人なら絶対に近づかないと思いますね。過去の私なら絶対にお断りです……。しかし今私の悩みを解き放ってくれたのはさとりさん。心を読むさとりさん。私が忌み嫌っていたさとりさん。なるほどうでしょう。あ……さとりさんが笑っておられます。聖母のような笑顔です。私は間違っていたのでしょうか? 私は……私は……。私に道を示してくれたお方が悪人のわけがないです。ああ……笑っておられる……はっ、そうです、さとりさんは今の私の醜い心さえ読んだうえで笑っておられるのです。何とまぁ慈悲深い。ああ……私は恥ずかしいです。自分の卑小すぎる心が。さとりさん……いやさとり様です。さとり大明神様です。みんなで御神輿にあげて担がなければなりません。そうです、今度妖怪の山に招待してはどうでしょうか。山の神の一人に加えることも視野に入れなければ……。ああさとり様さとり様さとり様――。
「怪我をしてますね。今日は泊まっていきなさい。部屋を用意いたしますわ」
「……はっ。すいません何から何まで。ははーっ」
「ではごゆるりと」
そう言ったさとりの後ろ姿をじっと見つめる。小さいはずの背中が一回りも二回りも大きく見えた。
翌朝一番に文はにっくき博麗神社の境内へと降り立った。
「たのもー。天狗様のご登場ですよ」
「何よ朝っぱらから」
箒を持って寝癖をつけて、寝ぼけ眼の霊夢がぼんやりとして立っていた。
「あっ霊夢さん。ご機嫌麗しゅう」
「はいはい。で、何の用? 朝刊をとったつもりはないんだけど」
と言って面倒くさそうに頭をかく様子も妙にいじらしい。
「霊夢さん」
「何よ改まって」
文は霊夢の正面に立ち真っ直ぐに瞳を通じ合わせた。
「私は霊夢さんが大好きですっ!!」
幻想郷に轟くような大声が辺りに拡散した。
「はぁ……はぁ……」
「ふーん」
それを聞いてにんまりと笑う霊夢。
「それで?」
「し、しましたよ告白。さぁ霊夢さんの気持ちも伝えてください!」
「あはは。射命丸さんは本当におかしいわね」
「おかしくてもいいですっ! 私は霊夢さんを愛していますから!」
時が止まったかのような長い沈黙が場を支配する。霊夢は能面のように表情がなくなり、やがてゆっくりと口を開いた。
「私はね――」
次の言葉を待つ。
「あなたが大嫌いよ」
「えっ」
「まず態度が悪いわね。横柄で他人の都合お構いなしのそのスタンス。何度自分の時間を邪魔されたかわからないわね。勧誘といっても中身のない話をして人を煙に巻くだけよ。勢いと情熱さえあればいいっていう穿った考えが大嫌いだわ」
「ええっ」
「それにねぇ……。あまり言いたくはないんだけど……。こう、射命丸さんって……生理的に気持ち悪いのよね。ううん、あなたのどこが悪いとかじゃないの……こう……あれなのよね。天狗……もう天狗ってだけであれなのよ。わかるでしょう私の気持ち? それは我慢しててもどうにも押し止められないような根源的な嫌悪感なのよね」
「あ……そう……ですか」
文は現実を突きつけられてしまった気がした。そんなに嫌われていたとは。気持ちよくなっていたのは自分だけだったのだ。限界まで我慢させた結果霊夢は新聞をとった。その後の態度の豹変は言わずもがなだ。滑稽だった。哀れに評価されない個人技を続けていたのは自分だけだったのだから。
「待ってよ話はまだ」
霊夢が呼び止めてきた。生理的に気持ち悪い自分に何の用があるのだろう。
「ふふ。でもね――」
小首をかしげて見つめられる。その表情にまた引きこまれる。
「あなたのする話はほんの少し好きよ」
「そ、それはどうも。でも嫌いなんでしょ? 生理的に」
「だからね。私新聞とるのはやめるわ。権威に染まりきった天狗の記事なんてつまらないわ。目線が違うもの」
「え、えーと。それはどういう……」
「わからないの? 射命丸さん」
パチッと片目をつぶり火の出るようなウインク。
「また勧誘しに来てよ。あなたの話が楽しければまた新聞をとるかもしれないわ。ふふっ」
「え、ええ、えへへ。そ、そりゃもう。えへへへ……」
なぜか文は罠にはめられたような気がした。しかし脳を揺るがすような快楽が全ての不穏な蠢きを消し去っていた。
「もっと色んな話を聞かせて欲しいわ」
「そりゃもう。私にかかればどんな特ダネも秘ネタも明るみに出ます」
「頼もしいわね。あなただけが頼りよ射命丸さん」
「はい。この射命丸文は博麗霊夢の忠実な下僕です。どうぞこき使ってくださいませ」
「あら下僕だなんて」
そう言って霊夢はコロコロと笑い転げた。しばらくして突然真顔になりこちらを見据える。
「射命丸さんあのね」
「はい」
「私ってばね……友達が全然いないのよ。博麗の巫女だからって……みんな特別視するから」
「それはいけませんね」
「だから寂しいの……射命丸さん。あなたの勧誘実はとても嬉しかったの。私ってつい反発したくなる体質だから……」
「い、いえもう過ぎたことです」
「そうありがとう。ん……ちゅっ♪」
「はう!」
頬に霊夢の柔らかい唇がふわりと押付けられる。文は天にものぼるような幸せな感情に包まれた。
「あなたの話……もっと聞きたいわ。うふふ」
「ええもちろんですとも!」
文は正直にそう言った。博麗霊夢を必ずや慈しみ守ってやらなければと思う。自我を操られるような不思議な感覚も気持ちいい。幻想郷は博麗の巫女のために存在するのだ。紅白の健気な少女のために一生を捧げようと、射命丸文はここに固く誓うのであった。
射命丸文は縁側で大福餅を頬張りながらそう声をかけた。
「ふーん。そうね、考えておくわ」
対して博麗霊夢は無表情で返した。
「またまたまた。昨日も一昨日も一週間前もそれでしたよ。そろそろお返事お聞かせ願いたいんですけど……ねっ?」
媚びへつらうような笑顔を浮かべて文は霊夢の顔を見つめた。
新聞の勧誘も彼女の仕事の内である。新聞はすべからく皆読むべきである。そういう信念の元に彼女は生まれている。だからして、今隣で暢気にお茶を飲んでいる霊夢に新聞を読ませるというのは当然のことであった。
「ふふ。何年たっても決められないわね。私には新聞の価値がわからないのよ。射命丸さん」
「いえいえ。そんな人がいるわけないのです。毎日毎日私が新聞の素晴らしさを事細かに説明しているでしょうに」
「私ってば馬鹿だから。わからないわ、ごめんなさいね」
と言ってしおらしげに顔を背けられてしまった。博麗霊夢という人物は中々やっかいであった。小柄な体格の可愛らしい人間の少女――生真面目そうで朴訥でどこか頼りない。あまり大声を出して自己主張することもなく、いつも自分の世界に浸っているように思う。眼差しは澄み渡っているがどこが陰りがある。
文はこの霊夢に対して執拗な新聞勧誘をずっと試みている。当初はすぐに篭絡できると思っていた。こんな線の細い意思の弱そうな少女が自分の説得に抗えるはずがない。いくら幻想郷最強とうたわれている博麗の巫女といえど、それは決められたルールの範疇の中だけである。
ちょっとこづいてやれば直ぐに鼻水と涙をだらしなく流して、新聞を一字一句食い入るように読ませることができると信じていた。しかしその文の目論見は無残にも打ち砕かれた。
霊夢は実に頑なであった。どれだけ新聞の有用性を説いてもにこにことしながら笑っているだけ。少し突っ込めばいつも微妙な距離ではぐらかされてしまう。のれんに腕押しとはまさにこのことであった。
「いえ、謝られても困ります。とにかく新聞というのはですね……」
「射命丸さん。それよりも私は」
「え? 何ですか?」
話を遮られて訝しげに霊夢の顔を見つめる。こうして自分の話を遮ることは今までなかった。文は可憐な少女の唇が開く瞬間を今か今かと待った。
「それより……あなたの話を聞きたいわ」
「えっ」
文は目を丸くしてきょとんした。その微妙な間を取り繕うように、霊夢が空の茶碗にとくとくとお茶を注いだ。
「あ、ありがとうございます霊夢さん。しかしいえいえ。私は確かに毎日この幻想郷を飛び回っています。万事において誰よりも世間のことに精通している自負があります」
「それなら聞かせてちょうだい」
霊夢が首を傾けて覗き込んできた。その仕草に少しドキリとする。
「あのですね。その私が取材した内容を逐一書き記したものが新聞という物なのですよ霊夢さん。いくら博麗の巫女と言えど抜け駆けは許されません。情報という物は万民において平等でなければなりません」
そう文は言い切った。
「ふふふ。あはは」
急に霊夢は笑い転げた。くっくっとお腹をかかえて苦しそうにしている。こんな霊夢の様子を文は今まで見たことがなかった。
「な、何で笑うんですか?」
「くくく……。ごめんなさいね射命丸さん。失礼したわ」
「もう、真面目に考えてくださいよ」
笑われた理由がよくわからなかったが、文は霊夢は屈託のない笑いが見物できて得した気分になった。クールで無愛想な博麗の巫女の隠された一面――。それを自分だけが知っていると思うと心の中でほくそ笑みたくなってくる。あの笑い声、あの表情。しかしその妖精のように可愛げな態度は一瞬で影を潜めた。
「ふぅ」
「ん? ふぅ……」
霊夢が息を吐くと、つられて文も息を吐いてしまった。横を見るとまた仏頂面の愛想のない人間の顔に戻っていた。
「聞かせて」
「はい霊夢さん」
妙に抵抗できなかった。文は不思議な感情を霊夢に抱いてしまった。こんなはずではなかったはずだった。胸の奥がズキズキするようなもどかしい気持ち。なぜだろう? 自分はどうしてこんな少女に心を乱されているのだろうと。
「実は今度妖怪の山に今度大きな工場が建設されるんですよ」
「そう」
「河童の新技術を存分に使った代物です」
「そう」
「それによって幻想郷はもっと豊かになると思うんですよ」
「そうなの」
霊夢はここでも相変わらず無口であった。ただ文の言葉に対して一本調子の相槌を打つだけであった。
文は実に色々なことを霊夢に聞かせてあげた。その無尽蔵に近い話を霊夢はうんうんと言いながら楽しそうに聞いていた。文は滝から無尽蔵に流れ落ちる水ようにべらべらと喋り続けた。
「……あのですね、私は折り合いだと思うのですよ。切り捨てるべきものと残すもの。その見極めこそが大切なのであります。全てを救うとか聖人君子みたいな綺麗ごとを言っておりますといつか後ろから刺されます。犠牲というのは必要悪なものなのです。こちらを立てればあちらが立たぬ。これは当たり前のことです。優劣というものの存在を認識した瞬間に生き物は前に進めるわけです。誰しもが安定した生活を地位を求めているわけです。だからみんな努力するわけですね。それで……」
すっかり夕闇が静かな境内を侵食していた。文は時間のたつのも忘れてとりとめのない話に没頭していた。
「えーと……それでですね」
「射命丸さん」
「はいなんでしょう?」
霊夢が突然割り込んだ。
「あなたの話って面白いようで面白くないわね」
「えっ」
「あっ、ほんの少しは面白いわよ。ふふ」
「な、何ですかもう。藪から棒に……」
文はちょっとむくれて見せた。せっかく霊夢のために幻想郷のあらゆる出来事を面白おかしく聞かせてあげたというのに。
「そろそろ帰りますね。霊夢さん。あーあ、博麗の巫女様のせいですっかり遅くなってしまいました。おお夜道は怖い怖い」
かなり呆れたような声を出してみた。文は実際疲れていた。なぜこんな人間の少女に熱を持って話しかけてしまったのか不思議だった。新聞の勧誘もできなかったしとんだくたびれもうけである。明日からはもう勧誘なんてやめようと心に決めようと思った。
「あ……ちょっと待って」
「何ですか?」
翼を広げて飛び立とうとすると呼び止められた。振り返って言葉を待つ。
「今日は……楽しかったから……いつもより」
「えっ、ええっ?」
想定だにしない言葉がこの少女の口から舞い出たので、文は少々狼狽してしまった。立ちくらみに近い状態に陥りふらっと膝を着きそうになってしまう。
「楽しかったです。射命丸さん」
闇夜にその一言が遠く響き渡った。暗がりでよくは見えないが瞳が軽く濡れているように見えた。
「そ、そそそ、それはどうも」
文はそれだけ言って一目散に逃げ出していた。止まらない胸の高鳴りを押さえるのに必死だった。
文は次の日通常の業務をかたづけてから、真っ先に博麗神社へと勧誘に向かった。二度と訪れはしないと決めていたのにも関わらず浮き立つ足が止まらなかった。楽しかったですと言われた瞬間の脳を惑わす甘美な快感が忘れられなかったのである。
「ふふふ。ここで諦めるのも口惜しいですね。博麗の巫女の正体を暴くために私は戦います。そのためにはまずは勧誘するのです。ふははは」
そう意気込んだものの、本音はただ単に霊夢に会いたいだけであった。射命丸文は博麗霊夢という存在に魅了されていた。嘘偽りではなく心から真摯に。
「霊夢さんこんにちはー」
文は大声をあげて霊夢を呼んだ。程なくしてばたばたと足音をたてて霊夢が目の前に現れた。
「あ……射命丸さん」
どことなく嬉しそうな声だった。
「霊夢さん。今日も新聞の勧誘に参上しました」
「そう、入って。うふふ。今日はお茶請けに芋羊羹を用意しているから」
「あ、これはどうもどうも……」
案内されて、文は日の光が眩しい縁側へと腰を下ろした。
「どうぞ。お茶よ」
「あむ、んむぐ。ありがとうございます。んごくごく……」
芋羊羹はもっちりとして弾力があり美味であった。ほのかで上品な甘みが口の中に広がる。その若干のくどさを渋みのあるお茶が鮮烈に洗い流す。
「ああ美味しいです最高です」
文はもてなされてご機嫌であった。とそこで、ここに来た目的を忘れてはならないと思い口を開いた。
「そろそろ新聞とってくれませんかね霊夢さん?」
「残念だけど私は頭が悪いのよ」
「そうですか。ははは!」
答えになっていないような気がしたがどうでもよかった。霊夢のそばにいるだけで文は満足であった。
「それよりお話してくれない?」
若干猫撫で声に近い音波が文の耳を襲った。ああいけないこれは罠だ。自分は仕事をしにここに来ているのに。相手は年端もいかない鼻垂れ少女だ。今すぐ説得しろ尋問しろそして泣かせろ射命丸文。
「もももちろんです霊夢さん!」
「ありがとう射命丸さん」
にっこりとした笑顔が文を包んだ。結局霊夢に対抗する理由を文はふんだんに失っていた。この少女から与えられる不思議な感情に身を任せきっていた。
「私の仲間に犬走椛という奴がいるんですよ」
「そう」
「彼女はどうしようもないくらいの出不精なんですが、ある時どうしても用事があって外に出たんですよ」
「そう」
「そしたら飛び慣れていないのか木の棒にがつーんってぶつかったんですよ。おかしいったらありゃしない! 犬も歩けば棒に当たるってのはこのことですね……。あ、椛は狼に近いんですよ。だから犬と言っても間違いじゃないんです。八割ぐらいは犬なんですよ彼女は」
「そう、面白いわね」
「そそそうでしょう? あはは! それでですね、まだあるんですよ。椛って奴は真性の変人でございましてね。この前も……」
文はしだいにテンションがあがり支離滅裂なことをまくしたてた。嘘八百に尾ひれをつけて大げさに吹聴した。自分でも何を言っているのかわからくらい喋りに没頭していた。
はっと気がつくともう日が暮れかけていた。時間が過ぎ去るのが余りにも早かった。
「おっとこんなに遅くなってしまいました。もう帰らなければ」
「ええ」
と霊夢はぽつりとそれだけ言った。
「射命丸さん」
「はい」
飛び立つ直前で呼び止められた。
「また来てくださいね。楽しかったです」
「は、は、はひ……」
文は蕩けそうになりながらも、どうにかして家路へと着いた。床の中でも霊夢の面影を反芻しながら眠りに落ちた。
「ああ……春麗らかな木漏れ日が差し込む今日この日……。私射命丸文は幸福に満ち溢れたヴァージンロードを一歩づつ踏みしめるのでございます。うふ、うふふふ……」
「昼間から盛ってますね射命丸大統領。発情期ですか?」
文は天狗仲間の犬走椛と共に安っぽい食堂で昼食を共にしていた。霊夢の甘い毒にあてられてから既に数日がたっていた。
「だまらっしゃい椛。あー霊夢さん。あなたはどうして霊夢さんなの? むぎゅー!」
両手を胴に回し唇を尖らす。その様子を見て椛が鼻白んで目を細めた。
「ふーん。よくわかりませんが、その霊夢殿はたいそうな金持ちなんでしょうね?」
「いえ彼女は博麗の巫女ですよ」
「あ、相手は女だったのですか。失敬。いやいや、金のためとはいえ射命丸大臣もみさかいありませんね。同じ天狗の同胞として恥ずかしいです」
「なーにーを言っているんですか椛? 金のためなんかじゃありませんよ。私は霊夢さんが好きで好きでたまらないんですよ」
「へぇ」
と言って椛はいかにもおかしいという風に鼻で笑ってみせた。
「何ですか椛。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「いえあの。あの華々しい功績をあげた射命丸将軍がですね。へへ、同性愛ですか。笑っちゃいますね。はは! それも純愛気取りの乙女に様変わりして。ははは、あの、射命丸文が、ですか!」
この煽りに文はぐっと奥歯を噛み締めた。
「人は変わるんですよ椛。私は博麗霊夢さんに会ったことでですね。そりゃ私も人間なんて……てな具合に思っていたんですがね。これが中々引きこまれてしまうのです。気丈な振りして本当の所は弱弱しくてせつない……みたいな。私の忘れていた母なる母性をぴくぴくと刺激するわけですよあの人は。ああ……。昨日なんてちょっと肩を揉んでもらったんですよ。彼女は上手でした。細い指がですね……私の凝り固まった筋繊維を一本一本解きほぐしていくわけですよ。その上彼女の甘ったるい吐息が首筋をくすぐったりなんかしてですね……」
「は!」
椛が一声で遮断した。
「同胞として言っておきますが射命丸文殿下。せいぜい火傷しないようにしておくんですね。近頃の人間は何を考えているかわかりませんからね。博麗の巫女というのも、案外人間の面をかぶった悪魔なのかもしれませんね。あはははっ――」
高らかに吼えながら椛は去っていった。
「なな何ですか私は本気なのに……。うぐぐ」
頭を抱えていると、二つのうどんが湯気をもうもうと立ててその存在を示していた。今日は暑くなりそうだと思った。
「全くもう椛の奴ったら。胸糞悪いったらないですね。いつかあの馬鹿面を締め上げてやりましょう。……と、もう博麗神社ですね。ああ……私の愛の天使がおわす場所――ああ今行きます霊夢様」
文は仕事も早々に切り上げて神社へと向かっていた。近頃日常の業務が捗らない。何かを思考しようとすれば、博麗霊夢の悩ましげな表情が頭には浮んでは消え浮んでは消えして仕方がなかった。
「霊夢さんこんちにはー」
「あ、待っていたわ射命丸さん……」
鏡に反射するように即座に応答があった。ちょこんとした人形のように可愛らしい少女が文を出迎える。
「霊夢さんどうも。ん……?」
文はあれれと不思議な奇妙な感じを霊夢に抱いた。いつもは平静として口の端をきっちりと結んでいるのに、今はぽかんと半開きになっている。それになぜだか妙に色っぽい。頬も熟したほおずきのように真っ赤に染まって、かすかにうちけぶる眉の美しさもなんとやら。
瞳もはっきりと分かるくらいにじっとりと濡れて、薄い唇も何かを訴えかけるかのようにわなないていた。瞳の奥の暗がりぎゅっと広がっていて、ややもすればそのまま深い奈落の底へと誘いこまれそうになる心地がした。
「どうしたの? 射命丸さん?」
「ひぃ、はぁはぁ」
素っ頓狂な声を絞り上げてなんとか耐えた。人間の面を被った悪魔という椛の言葉が頭を軽くよぎる。天狗であるはずの自分がか弱い人間の瞳術にかかるなどあり得ないと信じていた。
「行きましょう」
「はい」
言われるがままに文はいつもの縁側へと腰をかけた。正面から生暖かい日差しが顔面に降り注ぐ。
「はいどうぞ」
「あ、いただきます。もぐもぐもぐ……」
出された茶菓子をわけも分からずに放り込む。形状も味もどうでもいいくらい混乱していた。ほとんど噛まずにお茶をぐっと流し込んで胃の中へと落とし込む。
「あー最高です。霊夢さんのお茶菓子は」
自然にそう言葉が口をついで出た。
「本当に?」
「ええ本当です。霊夢さんの作るものなら全て受け入れたいです。はは」
「そう嬉しいわ。ふふ。ところで……」
「何ですか?」
声の調子が急に変わったので、文はぎょっとして聞いた。
「今日の射命丸さんは……どこかおかしいわね」
「おおお、おかしくなんかありませんよ。私はいつも清く正しい射命丸文です」
たどたどしく言うとと霊夢はくすくすと声をあげて笑った。
「ふふっ、嘘」
「えっえっ」
挙動不審に陥っていると、霊夢は背伸びをしてはーっと息を吐いた。
「射命丸さん」
「はい」
「今日はちょっと私化粧してみたの? 気づいた?」
「はい」
「本当に?」
「はいぃ……」
そうか、道理で何か雰囲気が違うと思っていた。気づいてはいなかったが了解していたということにしようそうしよう。
「それでね。今日は大事な話があるんだけどぉ……」
「はい、はい……」
ああ何だろうこの展開は。夢にまで見た百合の花園なのだ。こうやって乙女が二人愛を分かち合うのだ。自分が気づかなければならなかったのだった。毎日のように睦まじく逢引をする二人――向かう先は恥じらいながら求め合う愛の告白。自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。こんな呆けた態度ではいけなかったのに、天狗としてのプライドを、淑女という名の紳士らしく圧倒的な包容力で迎え入れなくてはならなかったのに。
「ん……射命丸さん」
「ふぁ」
柔らかい赤子のような指が右手に絡められる。とんと小さくてほとんど重さを感じない顎が文の肩に乗せられる。
「あのね……」
文は次につむがれる愛の言霊を待ち構えた。
「新聞。とるわ」
「えっ?」
「新聞よ新聞。ふふ、毎日毎日疲れるでしょう? 射命丸さんは私のために身を崩しちゃいけないわ。最近疲れ気味なのも私のせいでしょう?」
「はっ、はあぁ。そりゃもう……。とってくれるならそれにこしたことは……」
何か肩透かしくらったような格好であった。しかしそういえば元々は新聞勧誘のためにこうして博麗神社を訪れていたのだった。だがその当初の目的も現在ではどうてもよくなっていた。霊夢のそばにいてお茶をしながらとりとめのない話に興じるだけで満足であったから。
「じゃ決まりね。明日からお願いね」
「は、はい! この射命丸文は全身全霊をかけて新聞をお届けさせていただき申し上げます!」
期待した展開とは違っていたが、これでよかったとも思った。あの博麗霊夢が自分の勧誘にうんと頷いたのだから。愛の告白はゆっくりすればいいのだ。着実に地盤を固めてゆっくりと進めればいい。
「あはははー。私何だかとってもいい気分です。裸になって小躍りしたい気分です!」
「あらあなたったらもう」
「あややっ、あはは」
「うふふふ……」
文は実に上機嫌であった。
「霊夢さーん。夕刊でーす」
次の日、文は新聞配達を自らかって出た。愛する霊夢のためにこの手で新聞を渡したかったからである。
「ああどうも。お疲れさん」
にこにこと笑顔の霊夢が顔を覗かせた。
「はい! 選りすぐりの記事が満載ですよっ」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
「はい!」
そのまま霊夢は奥へと消えていった。文は入り口で何かを待ち続けた。それが無駄な行為であるとも露知らずに。
「あ、あれ?」
文は数秒硬直した後、はっと我に返った。
「霊夢さん、勧誘はOK。新聞を渡した。私は帰るだけ……。あれ? あれれれっ?」
突如として不思議な喪失感に襲われてしまった。背中に悪寒が走り気持ちの悪い汗が腋からじわりと染み出る。
「ひぃ、ひいいい!」
文は脱兎のごとく駆け出した。駆け出さずにはいられなかった。
次の日も文は博麗神社へと向かった。もちろん新聞を配達するためである。
「霊夢さーん。夕刊でーす」
一秒、二秒、三秒、四秒。心の中で数をカウントするとちょうど四秒目で霊夢が現れた。
「ああどうもお疲れさん」
昨日と同じような全く邪気のない笑顔だった。まるで作られたかような虚構の――それに既視感を感じるほど霊夢の行動は脳裏に焼きついていた。
「今日の記事も活きがいいのが揃ってますよ!」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
空元気を出して声を張り上げてみたが、霊夢の反応は変わり映えがしなかった。そして新聞を片手に持ち奥へと消えようとする。
「まま待ってください霊夢さん」
何とか声帯を振り絞って声を出す。
「何?」
機械のような抑揚のない声だった。
「あ……あのですね。ははは」
話すことを何も決めていなかった。思考回路が酷く混乱している。
「ふふ。おかしな人ね。忙しいんでしょう? 新聞はもらったから他を回った方がいいわよ。じゃあね、射命丸さん」
「あっあっ」
呼び止める言葉は何もなかった。どうしてだろう? 自分の相手を説き伏せることを最も得意としていたはずなのに。現に霊夢は新聞をとっている。それは自分の功績だ。それなのにどうしてかこんなにも胸が痛い。
目が笑っていなかった。あの沼地へと引きずりこむような滲んだ目は息を潜めていた。あるのは冷めきった死人のような冷徹で残酷すぎるガラス玉だけである。徹底的に他人を拒否するような怨念のような光を強烈に放っているのだ。
「いえ……。別に、おかしくありません。私は……新聞を配達しただけです。明日はきっと……」
気だるい憂鬱にかられながら、文はどこか不愉快な幻想郷の空へと舞い上がった。
また明くる日。文は勢い勇んで神社へと足を運んでいた。前もって準備をし、決して物怖じしない覚悟を決めて。
「霊夢さん! 夕刊です!」
「ああどうもお疲れさん」
来るのがわかっていたかのように直ぐに出てきた。
「今日の記事も最高ですよ」
「そうなの。じっくり読ませてもらうわ」
そう言って逃げようとする。今日は逃がさない。今だ。
「待ってください霊夢さん」
「なぁに?」
妙に甘い声が脳に響いた。その調子にぐっと気圧されそうになってしまう。
「ど、どうして私を無視するんですか?」
「え?」
霊夢はとても驚いたという風に目を丸くした。しかし次の瞬間、菩薩のような柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「私があなたを無視? どうして? 射命丸さん?」
「いえあの……」
文は大事な所で口ごもってしまった。無視ではない。無視ではないが心がチクリと痛いのだ。
「私が新聞を受け取る。あなたはそれで満足する。それがどうしたのかしら。ねぇ?」
「はぁ」
頭がぼうっとする。綿密に組み立ててきた質問も全て根底から瓦解した。文は単純に霊夢と会話がしたかった。かの木漏れ日が香る縁側でいちゃいちゃと。本当は新聞なんかとってもらわなくてもよかった。ただ博麗霊夢のそばにひしと寄り添っていたかった。今はその橋渡しとなる術を完全に失っていたのだ。
「おねお願いします霊夢さん。今までの非礼は謝りますから……」
文は一心不乱に土下座していた。
「あら射命丸さん。急にどうしたの? 本当におかしい人ね。うふふ」
「おかしくなんかありません。ん……そうだ。世間話です霊夢さん。今から私と世間話しましょ。えへへ」
霊夢はそれを聞いて、一度両目をつぶり、軽く右目だけを薄く開けてみた。
「世間話を? 私とあなたで? ふふ、私はあいにく新聞で間に合ってるわよ。あなたが丁寧に持ってきてくれた新聞でね……」
「そんな……そんなのって」
「ふふ。ほら涙で綺麗な顔が台無しよ? 拭いてあげるから早く帰りなさい」
「はい……すいません」
白い布で顔を優しくこすられる。霊夢の言い分はおかしいはずなのに逆らえなかった。
「さようなら射命丸さん」
顔を拭き終わると、一生の別れのような面持ちで低くつぶやかれた。
地底の旧都酒場では絶え間ない喧騒で満たされていた。
「射命丸隊長。おごりとは言っても地底はありませんよ。じめじめしてていっそう気がめいっちゃいますよ」
「黙るのです椛。今の私の心理状態に合致するのはここしかないのです。私の心はもう絶望と虚無とブラックホールでいっぱいなのです。穴埋めできません。終わりです。うわー。どうしてこうなったのでしょう。わかりませんわかりません……」
文は安っぽい冷酒をあおりながらしきりに管を巻いていた。隣ではあからさまに迷惑そうな顔の椛が世話している。
「聞きましたよ? 新聞勧誘は成功したそうじゃないか。それで何の不満があるんですか? それをきっかけにどんどん仲良くなればいいんでしょう? ましてやあの射命丸文じゃないですか? のほほんとした世間知らずのお嬢様なんかお茶の子さいさいのはずでしょう? 一度ガツンと大人の怖さを見せ付けてやればいいんですよ。へへへ」
「馬鹿、椛。あの人はそんなんじゃありません。控えてください。いくら温厚な私でも怒りますよ。んー違うんですよ。霊夢さんは全てが違うんです。育ちから思考から行動理念においてですね。椛みたいな腐った俗物根性の塊の煩悩野郎とはものが違うわけですよ。ああー。霊夢さん霊夢さん。あなたはどうして私の愛をわかってくれないんですかね……ああ!」
「こりゃとんだご執心ですね」
椛は呆れたように言った。
「だってだって霊夢さん。彼女は決して心の内を私に見せないのです。その姿がいじらしい! ああ……彼女は私の心を弄ぶ悪魔なのです。そう、生意気に肌を晒して私を幻惑する妖精の小悪魔……。ぐふ、ぐふふふっ。私とあーしてこーしてえへへ……」
「はぁー。何か射命丸さんの話を聞いていると私もお相手してもらいたくなっちゃいますね。へへ。美人なんでしょ? その子?」
「何を椛! 私の霊夢さんに少しでも手を出したらぶち殺しますよ? 末代まで呪って魂焼き尽くしてあげますからね! 椛、椛ぃ! このぉ」
文がいきり立ってつかみかかったが、椛はひらりと俊敏な動作で身をさっとかわした。
「うわーひどい酒乱ですね。冗談ですよ冗談。ほんの冗談です。それじゃ私はこれで帰りますが……せいぜい他人に迷惑かけないようにしてくださいね。ではでは!」
「こらまだ話は終わっていませんよ。椛、こらー!」
逃げる椛を追おうとしたが、千鳥足でもつれてうまくいかなかった。酔いはどくどくと全身にその深い鬱屈した歪みを浸透させていた。
文は椛と別れた後、ぐだぐだと愚痴をつぶやきながら酒をあおり続けた。
「あーうー。酒は飲んでも飲み飲み飲み? いないんですか椛? おお私のいとしの椛。寝小便たれの椛。本当にいないんですか? ……仕方ありませんね。椛のお墓を作りに出航するとしましょう……それ!」
おぼつかない頭で酒場を後にする。びゅうびゅうと身を切るような風が吹く。地底というのはどうしてこんなにも陰鬱なのだろう。今の自分にはもってこいの空間である。明るすぎるのだ、地上は。ああ霊夢さんと縁側にいたころは絶対にこんな気持ちにはならないはずだった。こんな腐った根性曲がりの巣窟となっている場所なんて絶対に。
ああむしゃくしゃする。おお寒い怖い苦しい憎たらしい。文はふと破滅的で破壊的な感情に身を染めてしまった。それはどうしようもなく蓄積したストレスの為せる自然なエネルギーの暴発であった。
「んー壊したい壊したいです。しかし私にも理性があります。何を壊すべきかを考える。ここでも私は紳士的ってわけです。知性のある天狗の、上位種としての誇りですねっ。はは――それ行きますよ!」
旧都の大通りを低空飛行して突っ切る。当たるも八卦当たらぬも八卦。避けてくれなければ吹き飛ばすのみ。
「ひゅー気持ちいいです。いい感じです。あっ何でしょうあの建物は。あの豪華さは椛の墓標にぴったりですね。うひひ」
文は猛然とその建物に突き進んだ。スピードを落とさずに真正面に突っ込む。そして躊躇せずに一つの窓に頭から突っ込み室内へと踊りこんだ。
ガチャンと金属質の音を頭からかぶる。あちこちが痛むがどうやら致命傷は免れたらしい。
「あややっ。射命丸特攻隊、ただいま侵入いたしました。ただちに犬走椛のために侵攻を開始する所存であります!」
鬱の気が転換して操過ぎる操へと昇華されていく。今や文の脳内はパラダイスであった。鯛や平目が舞い踊り乙姫がてんやわんやの大騒ぎである。
「うひひっ。もう私を止められるものはありません。それそれー」
「ひえええ! 何だいこれは。私のせっかく綺麗にした廊下があああ」
気分の良すぎる進軍を、赤毛の猫妖怪が押し止めた。
「ひひひ。この腐れ天狗……。よくもやってくれたね。それお前たち、この阿呆をやっておしまい!」
「うわー何をするんですかやめてくーだーさーい」
「やめるもんかこの外道。掃除の邪魔をする奴は死んでも仕方ないないのさ! それ噛み付け切り裂け泣き喚け!」
妖怪猫の飛ばす青白い怨霊のような物体が、次々と文に投げかけられていく。素面ではない文はそれを回避する行動もとれずにダメージを蓄積していくのみであった。
「ひえー。痛いです苦しいです。一体私が何をしたっていうんですか? 全く……。この世は神様も仏様もありませんです。うう、うわわー」
「まだ言うかゴミ天狗め。不法侵入に加えて器物損壊。何より私の邪魔をしたことが許せない。ひひひ。どうしてやろうかねこいつ。ひひひひひ」
「何もしてません私は。不法侵入と器物損壊がなんだって言うんですか? 言語道断です。正義の私がどうしてこんな目にあうんですかー」
もはや勢いだけであった。文はもみ合いへし合いしながら妖怪猫と体力を削りあった。
「……どうしたのですか? これは? お燐」
「ははっ。さとり様ぁ! この馬鹿天狗めがこの地霊殿に侵入いたしまして、暴虐の限りを尽くしていたところを私が取り押さえていたわけでございますっ!」
突然、猫とは別の存在が姿を現した。なにやら文の意識外でひそひそと会話が行われている。
「さとり様。こいつどうしてくれましょうか? 煮物にしますか焼き物にしますか? それとも引いてなますにしますか? ひひひっ」
「ふふん。お燐、ちょっと黙っていなさい。さ……射命丸文さん。この水をお飲みなさい」
ぐったりとしている文の口元に、並々と水が注がれたコップが近づけられる。
「な、なんでぇーさとり様?」
「さぁ飲みなさい。美味しいですよ?」
「はいありがとうございます。ごくごくごく。あー美味しいです蘇ります。これ滋養分たっぷりの天然水に違いありません」
全身に力がみなぎってくる感じがした。邪で捻じ曲がった思いが洗い流されて、理性という名の正義が文の心に芽生え始める。えーとここは地底。そして豪華な室内。今目の前にいるちんちくりんな白肌の少女はさとりと呼ばれた。そっちの般若面の化け猫はお燐。……とするとここは。
「はっ、あややっ。私は一体何を?」
「この! 今更我に返ってわびる気か? そんなのここでは通らないんだからな?」
「まぁまぁお燐。あなたは少し頭を冷やしなさい」
激昂するお燐をさとりが頭を撫でて押し止めた。そうすると、あれほど目を釣りあがらせていた妖怪猫がしゅんと大人しくなった。
「よしよし。お燐。いい子ですね。掃除はまたすればいいんですよ」
「はいすいませんさとり様」
「あなたはもう行きなさい」
「はい」
すたすたと廊下の奥へと消えていくお燐の後ろ姿を、文は不思議な気持ちで眺めていた。
「さて」
「はいい!」
「ふふん。いえ大丈夫ですよ。あなたの心に感じいってしまったのです。あなたのお気持ちよぉくわかりますわ」
「は、はぁ……」
今だ頭がふらふらとして合点がいかない。
「私は地霊殿当主古明地さとりですわ。人を愛するってとっても素敵なことですわね射命丸文さん。その気持ちに免じて今日のことには目をつぶって差し上げましょう。幸い私のペット達には被害がなかったようですしね」
そうだ。自分は何回かここに潜入したことがある。他人の心を読む覚妖怪の末裔である古明地姉妹の謎を追って。彼女達の素性は謎に包まれている。地底に押し込められた妖怪の真実とは一体――。
「射命丸さん」
「はい」
「愛は口に出さなければ伝わりませんわ」
「はぁ」
「今すぐ素敵なお相手にその思いをぶちまけるのですわ。それはもう、盛大にですね」
「な、なるほど……」
文の頑なに凝り固まった心が氷解していく。何を迷っていたのだろう自分は。ほんの些細な体裁に拘って大事なものを後回しにしていたのだ。本当に情けないと思う。真実はいつも目の前に存在していたのだ。
「ありがとうございます親切な古明地さとりさん。この恩にどうやって報いればよいか……」
「いえ報いる必要はありません。あなたとあなたの思い人が幸せになればそれで私はそれだけで満足です」
「はぁーなんと素晴らしいお方。本当にありがとうございました」
何度もおじぎをして敬意を表した。
――ああ何て素晴らしいんでしょう。私は思い違いをしていました。このさとりさんと言う方の本性を。心が読めて地底に押し込められるくらいだから、それはもうとてつもなく身の毛もよだつような大悪党――犬畜生以下の存在と勝手に思いこんでおりました。だってそうじゃないですか。他人の心を読めるなんて自分に対する印象が全部フィルターなしで素通りってわけですから。誰だって悪口ぐらい言いますけどそれはそれでそれなりに緩和して口に出すものなのです。現に私がいくら口が悪いからといっても最低限の節度はわきまえてはいるつもりです。いえ本当ですよ。だって私は新聞記者の射命丸文ですからね。で、そんな罵詈雑言を直接受けて捻じ曲がった上でですね、さらに質の悪い能力があるんですよね。読心――あやや、これは相手の秘密も全てまる分かりってわけですよ。これでは相手の人はたまりませんよね。普通の人なら絶対に近づかないと思いますね。過去の私なら絶対にお断りです……。しかし今私の悩みを解き放ってくれたのはさとりさん。心を読むさとりさん。私が忌み嫌っていたさとりさん。なるほどうでしょう。あ……さとりさんが笑っておられます。聖母のような笑顔です。私は間違っていたのでしょうか? 私は……私は……。私に道を示してくれたお方が悪人のわけがないです。ああ……笑っておられる……はっ、そうです、さとりさんは今の私の醜い心さえ読んだうえで笑っておられるのです。何とまぁ慈悲深い。ああ……私は恥ずかしいです。自分の卑小すぎる心が。さとりさん……いやさとり様です。さとり大明神様です。みんなで御神輿にあげて担がなければなりません。そうです、今度妖怪の山に招待してはどうでしょうか。山の神の一人に加えることも視野に入れなければ……。ああさとり様さとり様さとり様――。
「怪我をしてますね。今日は泊まっていきなさい。部屋を用意いたしますわ」
「……はっ。すいません何から何まで。ははーっ」
「ではごゆるりと」
そう言ったさとりの後ろ姿をじっと見つめる。小さいはずの背中が一回りも二回りも大きく見えた。
翌朝一番に文はにっくき博麗神社の境内へと降り立った。
「たのもー。天狗様のご登場ですよ」
「何よ朝っぱらから」
箒を持って寝癖をつけて、寝ぼけ眼の霊夢がぼんやりとして立っていた。
「あっ霊夢さん。ご機嫌麗しゅう」
「はいはい。で、何の用? 朝刊をとったつもりはないんだけど」
と言って面倒くさそうに頭をかく様子も妙にいじらしい。
「霊夢さん」
「何よ改まって」
文は霊夢の正面に立ち真っ直ぐに瞳を通じ合わせた。
「私は霊夢さんが大好きですっ!!」
幻想郷に轟くような大声が辺りに拡散した。
「はぁ……はぁ……」
「ふーん」
それを聞いてにんまりと笑う霊夢。
「それで?」
「し、しましたよ告白。さぁ霊夢さんの気持ちも伝えてください!」
「あはは。射命丸さんは本当におかしいわね」
「おかしくてもいいですっ! 私は霊夢さんを愛していますから!」
時が止まったかのような長い沈黙が場を支配する。霊夢は能面のように表情がなくなり、やがてゆっくりと口を開いた。
「私はね――」
次の言葉を待つ。
「あなたが大嫌いよ」
「えっ」
「まず態度が悪いわね。横柄で他人の都合お構いなしのそのスタンス。何度自分の時間を邪魔されたかわからないわね。勧誘といっても中身のない話をして人を煙に巻くだけよ。勢いと情熱さえあればいいっていう穿った考えが大嫌いだわ」
「ええっ」
「それにねぇ……。あまり言いたくはないんだけど……。こう、射命丸さんって……生理的に気持ち悪いのよね。ううん、あなたのどこが悪いとかじゃないの……こう……あれなのよね。天狗……もう天狗ってだけであれなのよ。わかるでしょう私の気持ち? それは我慢しててもどうにも押し止められないような根源的な嫌悪感なのよね」
「あ……そう……ですか」
文は現実を突きつけられてしまった気がした。そんなに嫌われていたとは。気持ちよくなっていたのは自分だけだったのだ。限界まで我慢させた結果霊夢は新聞をとった。その後の態度の豹変は言わずもがなだ。滑稽だった。哀れに評価されない個人技を続けていたのは自分だけだったのだから。
「待ってよ話はまだ」
霊夢が呼び止めてきた。生理的に気持ち悪い自分に何の用があるのだろう。
「ふふ。でもね――」
小首をかしげて見つめられる。その表情にまた引きこまれる。
「あなたのする話はほんの少し好きよ」
「そ、それはどうも。でも嫌いなんでしょ? 生理的に」
「だからね。私新聞とるのはやめるわ。権威に染まりきった天狗の記事なんてつまらないわ。目線が違うもの」
「え、えーと。それはどういう……」
「わからないの? 射命丸さん」
パチッと片目をつぶり火の出るようなウインク。
「また勧誘しに来てよ。あなたの話が楽しければまた新聞をとるかもしれないわ。ふふっ」
「え、ええ、えへへ。そ、そりゃもう。えへへへ……」
なぜか文は罠にはめられたような気がした。しかし脳を揺るがすような快楽が全ての不穏な蠢きを消し去っていた。
「もっと色んな話を聞かせて欲しいわ」
「そりゃもう。私にかかればどんな特ダネも秘ネタも明るみに出ます」
「頼もしいわね。あなただけが頼りよ射命丸さん」
「はい。この射命丸文は博麗霊夢の忠実な下僕です。どうぞこき使ってくださいませ」
「あら下僕だなんて」
そう言って霊夢はコロコロと笑い転げた。しばらくして突然真顔になりこちらを見据える。
「射命丸さんあのね」
「はい」
「私ってばね……友達が全然いないのよ。博麗の巫女だからって……みんな特別視するから」
「それはいけませんね」
「だから寂しいの……射命丸さん。あなたの勧誘実はとても嬉しかったの。私ってつい反発したくなる体質だから……」
「い、いえもう過ぎたことです」
「そうありがとう。ん……ちゅっ♪」
「はう!」
頬に霊夢の柔らかい唇がふわりと押付けられる。文は天にものぼるような幸せな感情に包まれた。
「あなたの話……もっと聞きたいわ。うふふ」
「ええもちろんですとも!」
文は正直にそう言った。博麗霊夢を必ずや慈しみ守ってやらなければと思う。自我を操られるような不思議な感覚も気持ちいい。幻想郷は博麗の巫女のために存在するのだ。紅白の健気な少女のために一生を捧げようと、射命丸文はここに固く誓うのであった。
スポンサーサイト

| ホーム |