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小箱の小話
東方二次小説が多目。 エログロ、ホラーミステリ洗脳色仕掛け等。
イケイケ咲夜ちゃんのタイムノフィリア症候群
 荘厳なる紅魔館の大図書館の一室で、パチュリー・ノーレッジは物思いに耽っていた。
「あーあれも欲しいわこれも欲しいわ」
 ぺらぺらと分厚い本をめくりながら想像して夢想する。常日頃からそういう癖があった。
「今度は何が欲しいんですか? 今月の出費はもう無理ですからね? 新たな蔵書を五百冊ほど増強しましたし」
 そんなパチュリーの様子を見て、そばを通りかかった小悪魔が言った。
「あはは、そんなことを言ってもね。欲しいものは欲しいのよ。お金がないなんてそれは甘え。奪取すべきは今しかない。ねぇ小悪魔ちゃん? 小悪魔ちゃんのポケットマネーからどーんと大枚はたいて欲しいわ」
「はいはい。冗談はそこまでにしてくださいね。で、一体何が欲しいんですか?」
 小悪魔がぐっと身を乗り出して、主人の読んでいる本を覗き込む。そこには石膏で作られた人型の彫像――素っ裸の男性器を有する少々恥ずかしげな絵が所狭しと描かれていた。
「ふーん。像……ですか。あらパチュリー様。また変な趣味に走ったんですか。勘弁してくださいよ」
「馬鹿ね小悪魔。これは芸術よ。この完成された精緻な黄金比。あなたにはわからないの?」
「申し訳ないのですが私には学がないもので」
「学とかの問題じゃないの。センスよセンス。裸の男の石膏像。美しい、頑強、隆起、美麗。狂おしいほどにそそるわね」
 両手を胸の前に握り締めて祈るような仕草をする。パチュリーは極度の欲しがりやさんだった。欲しいものはごまんとあるし何でも全て手にいれたかった。彼女の所望する物質は時と気分によってめまぐるしく変化する。今日はたまたま開いた本の筋骨隆々の男の像に心を惹かれた按配であった。
「でもこんな像は幻想郷のどこに売っているんでしょうね? 私は見たことがありません」
「ふふん。それを探すのがあなたの仕事よ」
「嫌ですよ私は。あーそうだ忘れていました。書庫の整理の途中だったんだっけ。それでは失礼しますパチュリー様」
「待ちなさいよ小悪魔。まだ話は終わってないわよー」
 立ち去ろうとする小悪魔を細い腕が捕まえる。
「うわー、離してくださーい」
「駄目小悪魔ちゃん。私の愛しい人! むー」
「きゃー何するんですかもう」
 図書館での魔女と悪魔のむつみごと。いつもの変わらぬ紅魔館の日常風景であった。しかしその空気を異界からの闖入者が打ち砕いた。
「ああっ、あああ、あー! しつ失礼します。ああ忙しい忙しい。あー私十六夜咲夜でございます。何かご用はございませんか? ご用はございませんか? ご用は存在しませんか? 私にご用ですね? 今すぐお申しつけくださいませーはははー」
 凄まじい挙動不審の勢いで登場したのは、最近紅魔館のメイドに就任した十六夜咲夜という人間であった。彼女は変わり者だらけの紅魔勢の中でも最高に変わり者であった。
 常に手足をばたつかせて目は爛々と光り輝いている。咲夜の脳内には停滞という言葉は存在しない。息する間も無く何かを求めて蠢き続けているのである。
「早く早く何でもいいですから。早く早くっ、小悪魔様っ、パチュリー様早く早くぅ――」
 口の中でつぶやくようにして言う。咲夜は大変な早口である。普通の人間が一言しゃべる間に何倍もの単語を発することができた。しかしその内容がちゃんと伝わっているかはまるでお構いなしである。
「んーメイドの咲夜ちゃん。今日は第四書庫から第五書庫に本を移しておいて。全部ね」
「ははははい了解いたしました。この十六夜咲夜、身を粉にして尽力して一切の妥協を許すことなく効率的に能率的にうわああ嬉しい嬉しい私にお仕事嬉しいなぁったらんらんそれ突撃――」
 鉄砲玉のような勢いで咲夜が奥へと消えていった。それを呆れたような目で見つめる小悪魔。
「もうパチュリー様。三日前も同じこと言ったでしょう。それに第四から第五なんて移動させる必要ないでしょうに」
「だってね、彼女困っていたから。ずっと動いてないと禁断症状で死んじゃうと思ったから」
 それは大げさ――と言おうと思ったが小悪魔は口をつぐんだ。あの常軌を逸した様子では、何もやることがなくなったら、本当に口から泡を吹いて死んでしまいそうだったからだ。 
「はは。何と言ったらいいのでしょうか。あの新人のメイドさん。人間にしては異常なお変わり者ですね」
「あなたが言うのね小悪魔。いいのよ、彼女は。好きでやってるの。楽しいの、満足してるの。それはもうたっぷりと充実してね」
「そんなもんですかね。私には狂気としか思えませんが」
 狂気という言葉を使ったがそれが正しいとは限らない。だが悪魔の自分から見ても十六夜咲夜は極めて異常であった。主人の目には大して奇異には映らなかったのだろうか。それもまた魔女である彼女が、酷く常識から逸脱した思考の持ち主であることの証明かなと思った。
「狂気ってのは軽々しく使っちゃ駄目よ小悪魔。彼女はそれほど狂ってはいない。現に私は彼女の30パーセントぐらいは理解できるもの」
「はーそうですか。さすがパチュリー様」
 小悪魔は深くおじぎをしてへりくだった。ここでの30パーセントは高いのか低いのかわからない。ただ三割でも理解できる部分があるのは奇妙に思われた。
「それでねー小悪魔。このガチムチのお兄さんの像を探して欲しいんだけど……」
「嫌ですよそんなの。さっきも言いました。それでは」
「あー待ってよ小悪魔ったらもー」
 図書館は静かに時を刻んでいる。奥では人間離れした超人が、空虚な浪費を厳かに演出していた。




「あはぁんやりましたやりました。計1759冊の本を速やかに最低限の労力を持って適当なしつらえた場所に移動せしめました。うーんさすがは瀟洒人間メイドガールの咲夜ちゃん。あっ……今思い出しても私の手際のよさったら憧れます。二十冊同時手足と頭と肩をお腹を使い縦横無尽に駆け回り最大限の実力を出し切った私は女神にもなるのです。ああこうしてはいられない。早くお嬢様を起こしいかなければ。おお忙しい忙しいいそがしいーん」
 十六夜咲夜は駆け出した。時刻は午後五時を回ろうとしている。今から愛するレミリアお嬢様を起こしにいかなければならない。彼女は実に勤勉あり真面目であり並外れたワーカーホリックであり自己愛の塊でもあった。
 咲夜を止めるものは何もない。真にまずいのは歯止めが利かないことである。どこまでもどこまでも理想の自己像を求めて突き進む。最後に待つのが果てしない地獄だったとしても。
「お嬢様ぁー。おはようございますー。お嬢様起きてください起きてください。十六夜咲夜でございます。あはあはあはー!」
「ん……あ? 咲夜? うーん」
 眠い目をこすりながら、紅魔館当主レミリア・スカーレットは大あくびをして眠りから覚めた。吸血鬼というのは夜間が主な活動時間である。しかして午後五時というのは人間いうならば朝方と同じである。
「さーお嬢様。直ぐに着替えて歯を磨いておめかしして散歩してカリスマをみんなに振りまいてお食事をとって紅魔館の執務に当たらなければなりあません。さーお嬢様早く早く」
「んあ。待って咲夜。私まだねむ……」
「駄目です。主としての威厳に関わります。さーさー」
 なおもぐずるレミリアを、咲夜は転がすようにして着替えさせた。髪をとかして歯をみがかせ靴をはかせてあらゆるみだしなみを効果覿面に整えた。
「はーいできました。今日のお嬢様も可愛らしいですよーうふふ」
「ふぁーあ……ありがとう咲夜。でももっとゆっくりして欲しいわ。それにこんな早起きで……」
 またレミリアは大あくびをした。
「いけません。時間を守らぬもの万死に値します。お嬢様は紅魔館の当主なのですからそれぐらいは完璧に100%パーフェクトにこなさなければなりません」
「うん、もうわかったから咲夜」
「それでよろしいのですお嬢様。……ああしまったフランドール様も起こさなければ。そうだ一緒に起こしていれば二倍の効率アップだったのに……。ああ早くやらなきゃとりかえさなきゃ時間を効率を早く早く早く――」
 フランドールのベッドへ向かって咲夜が突っ込む。フィルムを早送りしたかのような咲夜の姿がそこにはあった。




 十六夜咲夜の寝室では甘い嬌声が漏れていた。彼女も人間でもあり年頃の女でもあるから相応の性欲処理をするのである。
「んんっ。はぁはぁん。今日も私は全身全霊をかけて働きづくめでしたぁん。次から次から来る仕事をてきぱきとこなして紅魔館のために多大な恩恵をもたらしましたぁん。はぁん、私ってばすごい、素敵、かっこいい、瀟洒。スーパーメイドのミラクル咲夜ちゃん……。うふふ、でも私はみんなに認められなくてもいいのぉん。私は裏方でいっぱい動いているからぁん。あっでもちょっとは認めて欲しいかもん。そういえば今日のお嬢様の視線とか激ヤバだったわぁん。今思いだしてもぉ……」
 全裸で壁に手をつきながら秘所をまさぐる。ぷっくりと膨らんで赤く充血した肉豆を愛撫しながら、卑猥で淫靡な倒錯した妄想に耽っている。
「ああん。お嬢様がぁ……私の同時仕事を見て……やぁん……そんな羨望のまなざし……いやん。違うんですお嬢さまぁ……私にはこんなことぐらい朝飯前なんですぅ……。本当はフランドール様とお嬢様を同時にお世話もできるんですぅ。ははああああ――いい。すごい、くるぅ。お嬢様、そんなに見つめないでください……そんなに見つめられたら私……。あふぅん、やばい。見ないでくださぁい……。十秒しか節約してませんから私……。そんなの効率化のうちに入りませんから……やん……。あ……え? えええ? お嬢様もぉついに私のこと認めてくれたんですね? 嬉しいお嬢様ぁ……これで私もお嬢様も私と同じ時間を共有……効率化人間の絶対崇高カリスマ瀟洒な万能全能感丸出しでぇ……あんあんあんイクイク! 咲夜ちゃんイッチャウ――――」
 最後に指を女性器深く差し込み、おびただしいほどの快感受け入れる。引き締まった太ももに透明の愛液がつーっとつたっていく。収縮する粘膜の感触を味わいながら、咲夜は甘美なる自慰の余韻をじっくりと楽しんだ。
「あ……はぁ……はぁ……最高ぉ。私ったら、またお嬢様をオカズにしてぇ……んもぉいけない咲夜ちゃん。でへ、でへへへ……待っててくださいねお嬢様。私の頭の中のようにいつか超多忙スーパーカリスマお嬢様にしてあげますからね、うふん」
 咲夜は通常の女性とははるかにかけ離れた妄想で解放していた。快感のスイッチとなる要素の根底にあるものは、あり得ないほどの多忙の状況、そしてそれをこなしていくための効率化の行動である。時間を節約することは、咲夜にとっては気持ちよさを超えた性的な快感である。忙しければ忙しいほどいい。そうすればそれを跳ね除けた時の快感も数倍以上になるからだ。
 加えた愛する主人レミリアへの思考の共有化願望も加わる。咲夜は全ての者が自分のように忙しさで性欲を発散していると信じている。嘘のような話であるが実に本当である。だから周りの者がもっと忙しく立ち回らないか甚だ疑問なのである。
「ふぅ……。あっ一分四十七秒でフィニッシュなんて最高記録ぅー。やったぁー。この節約した時間を使ってまた素敵なことができるし考えられるぅー。私って最高ー抱きしめたいの咲夜ちゃん。私もよ咲夜ちゃん。むぎゅー、むぎゅ」
 時計を見て、自分の自慰行為が最短記録を示したことを素直に喜ぶ。汗と愛液で濡れた体を洗うために浴室へとすべりこむ。ここでも咲夜の脳細胞は恐るべき速度で思考を開始する。どうしたら一秒でも早くシャワーを終えられるか。どれだけ効率的に体の汚れを落とせるか。他の雑事と同時にできることはないか。
 彼女は決して狂人ではないが、かわいそうなほど狂人に近かった。驚くべきほどの思考の早さが全てを無に返す。惜しむべきは彼女自身がそれを自覚することは皆無であることだ。自分が絶対に正しいと思い込む。どんな論理的な指標も、咲夜の前では何の役にもたたない木偶の坊に相違ないのである。
「ふふふーん。おシャワー終了。咲夜ちゃんキレイキレイ。さー早く寝なくちゃ。いつもの通り二時間睡眠。これできっちりばっちりすっきりお目覚めお肌つやつやーん。咲夜ちゃんの考えた絶対的な睡眠理論でーす。栄養素は一片も無駄にはしない。無駄が無駄を呼ぶからなーんも無駄にはしないの。さー寝ながら明日すること一から十までシミュレートしなくちゃーん。あーんやることいっぱいあって最高……咲夜ちゃん最高……生きてるって楽しい! 私はスーパーキューティーミラクル少女の咲夜ちゃん。今日はこんな夢みて寝ちゃおうかな? いいよね? いいよね? うふふっ、うふ、うふふふふ…………」
 全く邪気のない少女の笑みを浮かべて、咲夜はぐっすりと眠りについた。




「掃除掃除掃除ー。どうして掃除ってこんなに楽しいんだろう? らーらららーらーん。もっと私に掃除を与えてもいいのよん掃除の神様ぁ」
 いつもように咲夜能率を第一に考えて業務に徹していた。能率優先といっても決して手を抜いているわけではない。最大限のパフォーマンスを維持しながら最大限の効率を保っているのである。それが十六夜咲夜という存在である。
 しかし完璧すぎるがゆえに、自分の理解できないものは徹底した排除を試みる。絶望的なまでに共感協調能力が欠如しているのである。
「あっ……ああっ! リリー……ホワイトさん!」
 咲夜はその自分の目に映りこんだイレギュラーに攻撃を試みた。リリー・ホワイト。咲夜と同時期にメイドの職についた妖精である。しかし咲夜はリリーの態度に我慢がならなかった。彼女は全体的に怠惰であったから。今も魂が抜けたような死んだ表情をしながら、モップを力なく握り締めて棒立ちしているだけであった。
「……なんですか?」
 リリーは顔をしかめてさも面倒そうに言った。
「リリーさん! いつまでもそんな場所シコシコやっているんですか? 動いてませんよモップ? ほらもっとシャンシャンってやってください。いいですか? 今から私が見本を見せます……それシャンシャンシャーン」
 咲夜は勢いよく手本を見せたが逆効果であった。
「チッ」
「何ですかリリーさん? 今聞こえましたよ? 舌打ちしたでしょ今。いけませんよお嬢様に言いますよ? でも私は寛大だから許してあげるんでーす。私は優しいから何でも出来るから……あっもう時間のロスをしてしまいました……リリーさん、あなたのせいでーあーもうどーしてくれるんですかーもー」
 コロコロと表情を変える咲夜と対象に、リリーは全くといっていいほど表情を変えなかった。数秒後一文字に結ばれた、頑強な口元がゆっくりと地獄の釜の扉のように開いた。
「あーあのですね。私ってば……あれ、あれなんですよね。春……あー春……なんですよ。実は私ってば明るいんですよ。春が来ればですね。そりゃもう……元気溌剌幻想郷バンザーイってですね。だから……今は一時しのぎっていうかぁ……ん……ただ寝るところがあればいいっていうか。本気になっても仕方がないっていうか……」
 その重い口からたどたどしく語られる言葉を、咲夜は鬼のような形相で真っ直ぐに睨みながら聞いていた。
「な、な、何なんですかその言い訳ぇ? はぁ? 何が? 春……ですか? そんなの認めませーん。みーんな一生懸命やっているんです。あなただけがってそれは通りません。紅魔館の発展のためにって思えばそれは素晴らしいことなんですよ? それを何ですか? リリーさん。早く動いてください。せっせと今の五十倍ぐらいの速度で動いてくださいな。いいですか? 私があなたのために貴重な時間を費やしているんですよぉ? 私が、あなたのためにですね。その気持ちわからないんですかぁ? ええ? いくら私が温厚だっていっても怒りますよぉ?」
 リリーは特に心に響いた様子はなく無言だった。この類の輩には、無視を決め込むのが最善とよく理解しているようであった。
「ちょっとなんとか言ったらどうなんですか? もー前にも言ったでしょう? 働くんですよ働き蟻は。それでみんな気持ちいいんですからあなたもそうでしょう? ねーなんとか言ったらどーなんですかーこの、このああうああ――」
 咲夜は明らかに頭に血が上っていた。こめかみに青筋を浮べて目を血走らせながらまくしたてる。未だ仏頂面なリリーの表情も、咲夜のいらだちを否が応にも加速させた。やがて、ぽりぽりと頭をかきながらリリーが口を開いた。
「……春じゃありませんから」
 その答えに数秒停止する。煮えたぎった感情が堰を切ったようにあふれ出していく。
「あーあーあーははははー。わーかりましたリリーさん。盛大にわかりましたよあなたの気持ち。あーもう優しい私の堪忍袋の尾が切れちゃいましたーん。いいですか? 私あなたのために本当に……んもー知らない知らない知らない咲夜ちゃんもう知らないどうなってもしらないーん。げへへ、後悔しちゃえばいいんですよ。ばーか、えへえへ……」
 ばっと振り返って駆け出す咲夜。
「うざ……」
 その声は咲夜の耳には決して届かなかった。赤い廊下は余りにも長すぎて、咲夜への距離ははるかに長大であった。


「お嬢様お嬢様。起きてくださいお嬢様ぁーん」
 咲夜はリリーと別れた後、一目散にレミリアの眠る寝室へと駆け込んだ。
「起きてお嬢様ぁ! お・じょう・さ・ま!」
「ぐっ、ぐるじい……」
 半ば首を絞めるように揺り起こす。ケホケホと空咳をして、半目のレミリアが意識を覚醒した。
「ああっ。お嬢様やっと目覚めてくださいましたね。ああ私、てっきりお嬢様が永遠の眠りについておしまわれたと……おーいおおいおいおいおい」
 咲夜はわざとらしく涙を流して大泣きをした。
「……せっかく寝付いたところなのに何なのよ咲夜。まだ昼間じゃない。ふぁーあ、眠いったらありゃしない。で、何なの? 私をわざわざ起こすだけの用って」
「ああっ、そうなんです大変なんですよ。あわわ一大事です。あの、その、掃除、モップ、妖精、ああははは、で、ん? そう生意気、厚顔無恥、ダラダラいけません。あああのですね、端的に言いますとやめさせて、彼女はゴミクズで使えないんですよ。どんだけかっていうとこーのくらいにですね……」
「んむ……」
 身振りを手振りを交えて説明する咲夜。しかし主人には全くといっていいほど伝わらなかった。
「咲夜。あなたはとても有能だけれどせかせかしすぎるわね。一回息を吸って気持ちを落ち着けてからにして頂戴」
 ほとんどまぶたがくっつきそうな目をしながらレミリアが言う。
「はははははい。すいませんお嬢様。本当にすみませんお嬢様。後で腹を切りますので私、はい。すーーーっ、はーーー。すーーー、はーーーー。あーもう大丈夫です。私ちょっとばかり乱心しておりましたわんうふふふ。えーとそれでですね……リリー・ホワイト! そう、彼女なんです。彼女ったらいけないんです!」
「ふーん。リリーがどうかしたの? ちょっと暗いけどいい子そうじゃない」
「いえ、いえいえいえいえいえ! 全然そんなんじゃありませんって。リリーは妖精の面を被った黒い悪魔でございます。私いつも見逃していましたが今日こそは見過ごすことができませんでした。あの、リリーは恐るべき怠け者、怠惰堕落の化身であります。ことあるごとに仕事をさぼろうとしてお嬢様への忠誠心の欠片も全くございません。近い将来に必ずや過大なる災禍をもたらすゴミ虫のような存在であります。今すぐ今すぐ排除しなければお嬢様の輝かしい威信に傷がつきますわっ。んっ、あの妖精風情がいい気になってぇ……ぷんぷんぷん!」
 レミリアはうんうんと頷く。用件の大体は了解したようである。
「わかったわ咲夜。リリーは確かにそういうところがあるわね。でも、ね。一応は許容範囲よ。紅魔館はそんなにあくせくしなくても回っていけるの。はいこの話はお仕舞い。お休み咲夜……」
「うわああー。まだ寝ないでくださいお嬢様。駄目です! 今すぐやめさせないと謀反が起きてお嬢様を暗殺。いけませんいけません――」
 ベッドに入ろうとする主人の胸倉をつかみぐいぐいと揺り動かす。
「ぐ……はぁ。大げさね咲夜。はぁ……もう眠いから面倒くさいわ。そうね、リリーは今月いっぱいで解雇。そうするわ」
「まぁお嬢様ありがとうございます。あー汚物から生まれた雌豚のリリーを今月いっぱいも住まわせるだなんて……レミリアお嬢様の慈悲のお心は広大無辺な湖よりも遥かに幅広くあああーん」
「うるさい。もう寝るからね」
「はいお嬢様。お休みなさいませ。それでは眠りのキッスを……んむちゅ、ちゅっ」
 嫌がるレミリアの頬を追いかけて、咲夜は何度も何度も接吻をかました。




 次の日咲夜は最高の目覚めを迎えた。体内の老廃物は一切なく精気に満ち溢れた煌きの朝。こぼれる朝日を受けてさえずる小鳥達に向かって、満面の笑みを微笑みを返す。
「ピーチクパーチク! お早う小鳥ちゃん。私もあんな小鳥になってもっと可愛くなりたいなっ。うふっ。今日も最高咲夜ちゃん。顔を洗って歯磨きをしてお着替えしてお化粧してぷるぷるスーパー咲夜ちゃん。今日もどんないいことがあるのかな? あっははははー」
 数分で全ての雑事をパンとコーヒーを頬張る。その時咲夜は重大過ぎる事実に気がついた。そう、十六夜咲夜にとっては死活問題に近い事実である。
「あああー。なんてこと? 今日って今日って……しまったー。昨日から準備しておかなきゃなのに私ったらあきれるほどそっぽでお馬鹿さんでお間抜けさん……どうしようどうしようどうしよう? ど・う・し・よ・う?」
 咲夜の網膜がとらえたのはカレンダーであった。赤いペンでクルリと数字を囲んである。何の事はない、今日という日は休日であった。普通の人間であれば休日とは嬉しいものである。しかし人外の思考を持つ咲夜にとっては、地獄の針の筵に近い苦行であった。
「やばいやばいやばい。何をしようか考えなくちゃ困っちゃう困っちゃう。早くすることしないと死んじゃう死んじゃうの咲夜ちゃん。穴という穴から虫がわいて地面からうじ虫わいてぐちゅぐちゅぐちゅひええ! 怖いの咲夜ちゃん助けて咲夜ちゃんあふあふあふあふあふふふ! 溺れる溺れる咲夜ちゃん。なーんで休みなんてあるのお嬢様。私がいらないっていうのに私をいじめて違う違うの咲夜ちゃん。早くどっかにいかなきゃどっきゅーん!」


 慌てて準備を整えて、咲夜は自室のドアをぶち抜いた。とりあえず歩かなければ走らなければと思った。じっとしているとやんごとなき妄想に取り付かれてしまいそうになるからだ。
「まずは動いて分子分解熱運動! でもまだまだ足りない新陳代謝! 一つや二つじゃ足りないの。だって私はスーパーメイド超人咲夜ちゃんなのだから! さぁ頑張っていくぞ……ん?」
 咲夜はある人影を認めた。リリーだ。昨日と同じ場所で、これまた死んだような顔でモップを握っている。しかしその悲壮感は以前のそれよりも数段深みを増していた。目はうつろで焦点が定まらず、口は半開きで常に細かく震えていた。
「あっ……ああっ! そうか!」
 一瞬で咲夜はリリーの身に起こったことを理解した。そして早速スキップで近寄り大声で声をかける。
「おはようございます。リリーちゃん!」
「あ……」
 リリーの目を見た。意思のない幽霊のようにふらふらと漂っている目。咲夜は自分の勝利を確信した。自分が正しかったと。
「ぬひひひ。言われたんですねお嬢様から。あなたはもうお払い箱なんですよ。だからいわんこっちゃない。私があれほど口をすっぱくして忠告したのですね。あなたが、その善意を邪険にするから。はー歪んだ考えの人って本当に嫌いです。嫌い嫌い嫌い。大好きなのは咲夜ちゃんとお嬢様っ! あはは。でもね、今月いっぱいここにいられるんだからありがたく思いなさいよねー。あのね……本当はお嬢様が一日でリリーさんは解雇って言ったんだけどねぇ……私が泣いて許しをこいて今月いっぱいってたのんだからぁ……ん。あー私ってばなんていい子ちゃん。素敵! みんなから愛される咲夜ちゃん! くっ、くぅぅふふう――。あー何見てるんですかぁ? 私を睨んでもおかど違いですよぉ。あなたがぼけらぼけらしてるからいけないんですよぉ? 私は間違ったことしてませんからね。私はいつでも正しいし一生懸命に勤勉なんですよっ! あはは、本当ならもっともっといじめちゃうんですけどぉ、咲夜ちゃん優しいからこの辺にしておきますねぇ。うふふ、いくらゴミ虫ゴミ小僧さんでも今月だけは紅魔館の一員なんですからね。ひゃふふ、きゃふふふ。あー何ですかその目ぇ? 言いたいことがあるんならはっきり言ったらどうでちゅかぁ? お前のその口はチャック君なんでちゅかぁ? チャックチャック……きゃははは!」
「まだ春……じゃないのに。私来月からどうすれば……」
 重い口をリリーが開く。
「はーん、そんなの私の知ったこっちゃありませんよ。妖精なんでしょぉ? その素敵なよーせいのーみそこーねこーねして何でも臨機応変に対応したらいいじゃないですか? 私を見習ってください。私は生まれてから一分後に全ての人生計画を完了しているんですからね。凡人はもっと努力しなきゃ駄目なんですよ。あーもうこんなに時間をくってしまいましたぁ。いくら休日っていってもゴミのために時間をつぶすなんてありえないありえないぃ! じゃーばいばーい。お馬鹿で愚図のリリーちゃま!」
 振り向いてその場を立ち去る。うきうき気分で満足した咲夜は門番に声をかけて、広い幻想郷に何かを求めて飛び立った。




 咲夜はやたらめったらに走り回っていた。走り続けなければならない。なぜなら一度立ち止まってしまえば、醜悪な魑魅魍魎に近い異形の虫達に全身を喰らい尽くされてしまうからだ。
「私は走る。有酸素運動で全身の筋肉と心臓と肺を有効利用! でもこんなの序の口お茶の子さいさい! もっとエネルギー使わなきゃ私ののーみそ蕩けちゃう。渇望するって素敵! がんがんやる気が湧いてくるもの。早く誰かに会わなきゃ食べられちゃうなったらんらんらん――」
 何の目的も持たずにひた走る。と、そこで道の真ん中をのっしのっしと歩いている白黒の衣装に目を留めた。ああ、と咲夜はこの人物に合点がいった。彼女の名前は霧雨魔理沙。図書館の本を泥棒する意地汚い盗賊である。
「もしもしそこの素敵な霧雨魔理沙さん。御機嫌よう」
「何だ。いきなり声をかけないで欲しいぜ。……誰かと思ったら紅魔館のメイドか。あーそうだ。パチュリーに伝えておいてくれ。借りた本は今度返すってな」
 魔理沙は視線を合わさずにだるそうに言った。
「あはは魔理沙さん。パチュリー様が言ってました。魔理沙さんってゴミでクズでデリカシーがないからもう私の聖域に金輪際近づかないで欲しいって、うふふ」
「パチュリーがそんなこと言うわけないだろ。私達は魔女友達なんだぜ。固い絆で結ばれているんだ」
 真正直な声。咲夜はそれを鼻で笑った。
「あふ、うふうふ。いえ、私の方がパチュリー様のことよく知ってますからぁー。色々と聞くこともあるんですよぉ。魔理沙さんって女の癖にだらしなくてもー繊細さなんって微塵もなくって……。あー口癖の『ぜ』についてもあれこれいってましたよ? もー何をとちくるったか男っぽさアピールとか……もーみんなで呆れてましたぁ。みんな言ってますよぉ。面白いから、笑っているんです。友達だっていっておけばいつでも……。あっあのたまに来る人形使いのアリスさんもですねこの前……」
「もういいよ! お前!」
 大きな声で魔理沙が遮った。そして続けた。
「なぁ……お前確か咲夜って言ったよな? なぁ咲夜? お前って変わってるって言われないか? そんな早口でせかせかして見てられないぜ。一回口を開けば他人の悪口ばっかりで……ん? 生きてて悲しくならないのか?」
 咲夜はにこにこと笑っていた。魔理沙の言葉を右から左へ流し反論を試みる。
「んーいえー変わっているとか全然言われませんー。あーお嬢様にはよく言われるんですよぉー咲夜は仕事できすぎでぇ……可愛いし食べちゃいたいって。んーもし私が変わっているっていうんならーそれは私の魅力のせいかなって思うんですよ。瀟洒なメイドの咲夜ちゃんはみんなから慕われて愛される存在だからぁ。えーっと早口なのは私時間を効率的にですね、何でも早い方がいいからぁ。あー私から見ると他の人は遅すぎるんですよ。何でこんなに暢気にくっちゃべっているんだろうって。時間の無駄ってのは人生の無駄ですからね。一分一秒たりとも無駄にはしたくないんですよ私。せかせかって言いますけどもっともーっと煮詰めて切り詰めて行動したいんですけどね。悪口? 悪口悪口? 違います。どうして私の言葉が悪口になるんでしょうか? いえいえ、忠告です神託ですありがたいんです。私の善意の行動が悪口なんてありえませんわ。世のために人のためお嬢様のため――。あはははーんー私ってば健康すぎて生きてるのが楽しすぎてですねー、私が動かなきゃ誰が動くって感じですね。そして私の影響がみんな伝わったらね、みんながさらによい流れ、循環ですか。海から河口に流れ川をくだりの千客万来呉越同舟。そんな風に、ええ、宇宙へ続く糸なんですよね、つながっているんです。私はそのために――」
「黙れよカス」
 再び魔理沙がドスの聞いた声で遮った。
「いいから今すぐ私の視界から姿を消せ。いいな?」
 そう言って魔理沙は踵を返す。
「あっ待ってください魔理沙さん」
「何だよ。また私の気に触ること言ったら殴るからな」
「何かお仕事ありませんか? でないと私は虫になっちゃうんですよ。ポツポツテラテラリーンってことですよ要約すると」
「知るかよ! 私の前からいなくなるのがお前の仕事だ! クソッ!」
 魔理沙は息をするのもおしい勢いで立ち去った。
 ひゅるりと生暖かい風が咲夜の頬を撫ぜる。
「……はっ、しまった。思考の空白。ピーピーピー。咲夜コンピューターただいま始動します。とりかえさなきゃ今の無駄無駄。魔理沙はゴミゴミインプット。それじゃー突撃開始!」




 妖怪の山の麓では、栗の実がそのとげとげしい保護者から、ぽつりぽつりと豊穣の果実を落としていた。
 咲夜は気まぐれに走り抜けてここに到達した。山のあるところ人が集まる。何が何でも咲夜は何かをしたかった。
「はぁはぁはぁ、ひいひいひぃ。私もう限界です。走るだけじゃ私の脳内麻薬が全然足らないんですよ。あれとこれとそれとどれが足りないんですがね、今すぐ補充してくださいお稲荷さんコンコーン。あら私自分を客観視? 私天才だから虫がよすぎるって虫がわいてくるうわぁん。できれば早くオーバーヒートにきりもみ回転……あらここはどこかしら? 山の中かしらん? ぽーんってどさって落ちてもリンゴの木の実じゃありませんね。あーこれは栗の実ですね。栗……栗栗栗。あはは、栗ってのは皮をむくのがとっても大変なんですよなぜそんなに恥ずかしがり屋さんなんでしょうかね困ります。あーあちらに虫の声を発見しました。人間無視人間虫? おそらく人間だといいな……すたこらさっさと……」


「さぁみんな。今日は山の神様と一緒に栗拾いだ。頑張って協力して拾うんだぞ」
「はーい先生!」
 上白沢慧音が子供達を従えていた。今日は寺子屋の屋外実習として、妖怪の山の栗拾いに訪れていた。紅葉が色美しく彩る今日この日は絶好の日和であった。子供達もにこにことに楽しそうな笑顔を浮かべている。妖怪の山を代表する秋穣子と秋静葉の両名とも自然に打ち解けていた。
 教師としては子供達の安全を願うのは当然のことである。毎日のように慧音はそのことを肝に銘じている。子供達に万が一のことがないように常に鋭敏に目を光らせていた。
「……ん」
 その慧音の視力が不穏な人影をとらえた。見た目は人間の女であった。しかしどうみても妖怪じみていた。舌をべろりと口から出し口角には涎の塊が溜まっている。髪はぐしゃぐしゃにほつれて乱れ目は真っ赤に血走っていた。両腕には爪を食い込ませたような赤い痕がいくつもいくつも刻まれている。嗚咽をするようにひっくひっくとしきりにしゃくりあげている様子が、どう見ても平静のそれとは感じられなかった。彼女の後ろの影には異界へのの扉が――単なる思い過ごしではなく本当にそう思った。
 慧音は警戒してその女に声をかけた。
「待ていそこの女。止まって名を名乗れ」
 声高に言う。女はきょろきょろとして、どこから声がかかったか分からないそぶりをしたが、やがて目を丸くさせてこちらに顔を向けた。
「あ……あああっ。あなたは天使ございますね。私をあっちの世界から引き戻してくれました。あああ誠にあぶのうございました。私は十六夜咲夜という若輩でございます。あいつらったら私の髪をひっぱるんですようひひ。痛いっていってもやめないんですよね。だからこんなに抜けちゃいましてね。肩も腰もちょいずれちゃいましてね、脳みそも軽くいかれて平衡感覚とんちんかん! バランスとるのに一苦労で……ああ、あああ。ありがとうございます。私に話しかけてくれてあっちとこっちでね、もう一つだけだと困っちゃうんですよ私。何か私に出来ることはありませんか? 何でもやりますから今すぐに、何でも……何でもいいんですううう!」
「む……むむ?」
 慧音は首を捻った。この咲夜と名乗った人間の内面を非常に計りかねていたからだ。果たして単に追い払っていいものやら――。妖怪ではないようだがこの落ち着きのなさは至極不気味であった。
「どうしたんですか慧音さん? この方は?」
 周囲で子供の世話をしていた静葉が言った。
「あ、うーん。どうやら彼女は私達の手伝いをしたいようだが……」
 と言ってチラリと咲夜を見やる。下を向きながらぶつぶつと念仏を唱えるようにして唸っている。一目、変質者といってもいいすぎではない。
「いいでしょ慧音さん。ほら子供達も人が多い方がいいって言ってるし。ねーお姉ちゃん?」
 片割れの神の嬢子も加勢する。
「ふむ……」
 そう言われてはと慧音は思った。それにこの何かをしでかしそうな咲夜を放置してはおけなかった。少し落ち着くまで面倒をみようと考えた。
「よし咲夜さん。飛び入りのボランティアということで。子供と一緒に遊びましょう。何簡単なことだよ。山に落ちる栗拾いをすればいいのさ。穏便に、頼むよ」
 と言って慧音は咲夜の肩をポンと叩いた。
「えへ。えへえへへへ。嬉しい私。今まで生きててこんな嬉しいことー。ぐすぐすおいおいおい……」
 咲夜は号泣してその場に崩れ落ちた。
「やっぱり変な人だな。やれやれ」
 しかし慧音のこの予測ははずれることになる。変な人止まりであったならどんなにか楽であったことだろう。


「へーなるほどー。わかりました。こうやって火バサミでイガをぐっとして栗をぽーんですか。面白いですねー。歩きながら紅葉見ながら手もつかって景色も目まぐるしく私の脳も涎垂らしてますよにゅふふふ」
 咲夜は大体正気を取り戻していた。複数のことを同時にすることで彼女の脳は存分に満たされる。多ければ多いほどいい。
「わーお姉ちゃん上手」
「すごいすごい」
 子供達からも歓声が上がる。事実彼女は相当に手が器用であったから、このぐらいは朝飯前であった。足でロックした栗のイガを、火バサミで最小限の力を使いポンと栗の実を吐き出させる。数分とかからずに咲夜の籠には栗が次から次へと溜まっていった。
「上手ですね咲夜さん」
「うわー私達より上手だよ。豊穣の神の才能があるんじゃない?」
 二神がおだてたように言った。
「あはっ、とーぜんですよ私。なんたって何でもできる咲夜ちゃんですからぁ。さーどんどん稼ぎますよ。今までの遅れを取り戻さなくっちゃ……。そーれぽーんぽーんぽーん。んーこれって面白いんですけど何か効率悪いですね。はかがいかないっていうかー。あっ、これを使ったらもっと早くなるんじゃないかなーそーれっ」
 と言って咲夜が取り出したのは銀製のナイフであった。護身のために彼女は常にこのナイフを携行している。料理も得意で手先も器用な咲夜はナイフの扱いに非常に長けていた。
「ほいほいほいっと」
 地面に落ちていた栗のイガがすぱすぱっと切れていく。同時に栗の実がぽーんとあり得ない放物線を描いて籠に吸い込まれていった。それはまるで魔術のようでもあった。
「うわーパチパチパチ」
「お姉ちゃんマジシャンみたーい。すごーい」
 あちこちから拍手が巻き起こる。この賛美に、咲夜はどうにも止まらないほど有頂天になってしまった。
「こんなのまだまだ。咲夜ちゃんの実力発揮はこれからよー。……後ろに三秒後……三、ニ、一、今!」
 銀のナイフが背後に向かって一閃する。栗イガがズバッと切り押されて、一瞬で実と分断されていた。
「えーどうして栗が落ちてくるのがわかったの? まるで後ろに目があるみたい!」
「うふふ。目っていうか。初めに山に入った時から今落ちるってわかってたの。勘ってことじゃなく私だけが持ってる絶対感覚……私って何でもできる咲夜ちゃんだからえへへえへへ」
 気持ち悪いぐらいの笑みを浮かべて陶酔する咲夜。見かねて秋姉妹が近寄ってきた。
「あの咲夜さん」
「えっ、えへぇ? 何ですか? 今私とっても気持ちいいんですよ……うふふ」
「あの咲夜さん。ナイフ、しまってくれませんか? 危ないんで……」
「はぁ? 子供達が喜んでいるんですよ。いいじゃないですか? 現に火バサミを使うより早かったんですよ? 私は正しいことを、子供達が喜んで、効率がよかった。それだけです」
「いやそんなにぶんぶん刃物振り回したら危ないから私は……」
「いいえ。私は完璧無敵のナイフ使いですから他人を一切傷つけることはありません! 私がやってることが正しいんです! これが最も最善な方法なんです! ちんたらやってると日が暮れちゃうんですよもう! あーんそれに誰に向かって口を聞いているんですか? 神ってのはそんなに偉いんですか何様なんですか? ちょっと答えてくださいよぐぐぐっつう」
「え……? 何この人……」
 穣子の発言を咲夜がざっくりと切り下ろした。咲夜の表情が人間よりも妖怪に近く変貌していく。鬼のような形相に穣子はぐっとたじろいだ。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃんも何か言ってよー」
「んっ……待って穣子。あっ慧音さんこっちきてください」
 助けを求められた静葉が慧音を呼ぶ。
 実際、咲夜は四面楚歌であった。


「どうした? 何があった?」
 しばらくして慧音が息を切らせながらやって来た。咲夜は憮然として仁王立ちしている。
「いえ何も。子供達が喜んでいるのに。この神様達が私の邪魔をしたんです。ふんっ!」
「なっ、何を言ってるのこの人」
「何もへちまもっ! 私の邪魔をして子供達を惑わすこの悪神めっ。何が、そんな貧相な身なりをして神とか……。ひひひ、崇め奉られておごり高ぶるアホ神ですかぁーあははは……」
「くーっ。私もう怒ったぁ!」
「やめなさい穣子……あなたは黙って」
「何でよっ神が冒涜されているのよ!」
 そんな様子を見て慧音が口を開く。
「む……。いまいち状況がつかめないようだが?」
 視線が静葉に向く。秋の神は半歩前に立って弁舌を開始した。
「あの……。初めは咲夜さんは子供達とそれはもう楽しく栗拾いを楽しんでいました。ええそれはもう理想の先生のようでした。ただ――彼女はふと思いついたことにより、少々道に外れてしまったようですわ。いえ、彼女は本当はとっても子供思いで優しい人なんだと思います。どこまでも気が利いて細部まで目が届きます。いつでも頼りになるという人は何にも換えがたい結晶なのだと思います。けれど、踏み越えていけない一線というのは存在いたしますわ。彼女は子供達に危害が降りかかる心配を、露も考えずナイフを意気揚々と振り回しまわした。菩薩のようかと思っていたその心の内側は、実は夜叉――荼吉尼天だったのでしょうか? 私は彼女が狂気にかられた横顔を見て本気でぞくっとしてしまいました。私は長年神をしていますから様々な人のありよう見てまいりましたが……ああこの方は笑いながら人を殺すのでございます。いえ、人だけではございません。その危害は妖怪はたまた神にさえ及ぶと思うのです。私にはそれが恐ろしくて……ああどうしてこの細腕にこんな力が……。人の子であるのにどうして……」
 そう言いきって静葉はさめざめと泣いた。
「はは、はあぁ? 何ですか何で泣いているんですか? 邪魔されて泣きたいのはこっちですよもう。ん……うふふ……ねぇ……こんな頭のおかしい神様なんかほっといてぇ……お姉さんともっと楽しい栗拾い……しましょ? 籠いっぱいに……いやんなるくらいに……えへへ。そう、止まってなんかいられない……虫がきちゃうからうううう。ねぇ……おいでお姉さんをもっと褒めてちょうだい……ほら」
 咲夜が不気味なオーラを醸し出すと、周囲の子供達がざっと後退った。無理もなかった。妖怪ともつかぬ人間が狂気にかられて光る刃物を握り締めていたからだ。瞳も妖しく濡れて淫らな輝きを放っていた。先ほどまでの優しい笑顔はなく、ある一つの危険な情念に心酔した異常者そのものであった。
「うむ。これで誰が間違っていたかわかったようだな。少し退出願おうか」
 慧音が一歩踏み出すと、奇怪な獣のような声が辺りに響いた。
「ケェーーッ! いひひ、何よ。さっきまで私のことお姉さんお姉さんって言ってたじゃない……。ひひひ、そう……わかったわ。あなた達はそこの悪い神様達に変な信仰植え付けられちゃったのねぇ……。あーんこの世には効率の二文字以外の言葉はないのにうふぐふ。あーもうわかりました。お姉さんがぁ、頭を開いて切り取って、邪悪な考えをくちゅくちゅ吸い出してあげなくちゃそうしなきゃ! うふふ……さぁいらっしゃい。咲夜お姉さんがいいことしてあ・げ・る。きゃ――――」
「この外道めっ! 地獄に落ちろっ!」
 咲夜が子供に飛び掛るより、慧音の頭突きが先だった。
「あぐぅ!」
 腹部に痛打。咲夜はもんどりうって転がった。
「いたいたいたーい。何これぇ……すごく痛い。早く修復しなくちゃ栄養いっぱいとって養生しなくちゃ……。あふっ、私ってばかわいそう……理不尽な仕打ち受けて……。あん誰か助けて私に手を差し伸べて痛いの痛いの。助けてお願い……助けてくれたらキスして接吻してあげる。私の体も自由にしていいからあふふんふん。あ、する時はちゃんと高速効率化じゃないと私満足しないけどああ痛い痛いいたいん誰でもいいから早く助けてに来て……」
 まだ泣き喚く咲夜の髪を慧音がつかむ。そしてぽーんと遠くへ無造作に放り投げた。
「ぐぼっ」
「私の気が変わらない内に失せろ。骨は折れていない。これでも手加減したのだからな」
 言われてみると思ったほど痛くはない。くらくらする頭を持ち上げて何とか地に足を埋めた。
「く、くそ……」
 咲夜はとぼとぼと足を引きずりながら帰った。どうして自分は一生懸命やっているのにこうなるのだろうと思った。きっとこの世界が間違っているはずだと信じたかった。




 思い足取りで我が紅魔館へ帰る。日は暮れかけていたが全然足りなかった。
「美鈴さん」
「あっ、えーっと」
 門番へと声をかける。メイドと門番の関係であるが、今は関係ない。
「門番の仕事一時代わってくださいな。それとパチュリー様から本百冊借りてきてください。何でもいいです。ああ後力のつく食べ物持ってきてください。今すぐです」
「はははい。いや別にいいんですけど……誰でしたっけ? メイドといっても紅魔館は多すぎますから。あはは」
 軽口を叩いた美鈴をぎっと殺意のある目で睨んだ。
「はひっ、すいません」
 猫のように翻って消えていく美鈴。そして十分も立たずに両肩に大量の本を、頭にシュウマイの入った蒸篭を従えた美鈴が戻ってきた。
「ただいま戻りました。これでいいんですか? メイドさん? あいにくシュウマイしか台所にありませんでしたが」
「ええ結構よ。あなたは一生の心の友です美鈴さん」
「あはは。そりゃどうも。じゃ私は裏で油でも売ってますね。では」
 美鈴が立ち去ると、咲夜はふっと息を吐いて深呼吸をした。今日の遅れは絶対に取り返さなければならない。時間はまだまだある。
「あっあっあー。今日は何て最低な日だったのかしら。でもいいの。私は悲劇のヒロイン十六夜咲夜姫ちゃん。きっといつか素敵な王子様が私を救ってくれるから! あーまずは門番門番。門を守るには強くなくちゃいけないの。女でも身を守る術は絶対に必要。えー取り出したりまするのはこの重そうな本。これを一つ多目分量で推測しますと一キログロムの大重量。それをこうやってぐいーって一まとめにして持ち上げますと……ととと。結構重いですね。はぁはぁ……百冊は多すぎましたね……半分の五十冊にしましょう。これで筋肉ムキムキトレーニング! よいしょよいしょ……ああすごいです筋肉のぴちぴち千切れる音が気持ちいいです。切れたら直ぐにたんぱく質を付着させるんです。そうやって筋肉繊維は太く賢くなるんですってよ。だから切れたそばから栄養補給……もぐもぐシュウマイおいひいです。おいしいてのは必要だからおいしいんです絶対そうです。まずいものはあいませんから必要ないんです。栄養が少ない偏っているからまずいんです。鍛えて筋肉食べて筋肉。理想的に忠実に。壊して作って万々歳のめくるめく夢のフルコースでございます。あー本が余りましたねどうしましょうか非効率です。おっと勉強しましょう勉強。両手が塞がっているのにどうやって本をめくるんでしょうか? お口がありましたがシュウマイですね。口でつまんでめくりましょうかそうしましょうか。私のお口って終始忙しいですね。ふーふーふー。うまいシュウマイうまい。栄養万点! 口が減らないって使えば使うほどいいと思うんですね。ああすごいです素敵です。満たされています。私門番しながら筋肉しながら補充しながら学問までしちゃうなんて。あれこれ最高記録じゃないでしょうか。もーこれは今日の無駄なんてぜーんぶ帳消しですねあはは。最初からみんな私に従ってればいいんですよもう。私に私にですね。あーでもこれは最高ですなんて満たされた感情なんでしょうか。今日のオカズはこれに決まりですね。いつも頑張ってる咲夜ちゃん最高です。私はいつだって最高なんです最高最高。お嬢様にもっと気に入られよう頑張れ咲夜ちゃん!」
 


 リリー・ホワイトが紅魔館を去った数日後。
 レミリア・スカーレットは一つの悩みことを抱えたいた。それはメイドである十六夜咲夜のことについてであった。レミリアは中々非常に鈍感な体質であった。だからして咲夜の異常とも思える行動に対してかなり寛容でもあった。
 早すぎる午後五時の目覚めも、全てのことを同時に能率よくさせるための心意気。自分は悪魔だから、彼女は人間だから。そういう垣根があるから、多少は理解しえない壁というものを熟知していたはずだった。
 しかし最近の咲夜の行動は目に余るものがあった。昼間でもお構いなしに起こされて、耳元でずっととりとめのないことを囁かれ続けるのだ。内容は最もなこともあるが、大半は今すぐではなくてもいいことである。起きれば起きたで終始行動を観察され、一挙一動をフィルムに映すかのようにべたべたと付きまとわれる。レミリアはほとほと疲れ果てて憔悴してしまっていた。
「はーカリスマって思ってたけどやっぱり素直にならなきゃね。いくら悪魔でも我慢の限界があるわ」
 自室の椅子に座りながら頬杖をつく。チラと時計を見ると午前三時まで後少し。いつものようにあのせわしない咲夜がお茶の用意に訪れるはずであった。後三秒、三、ニ、一――。
「お嬢様お茶の時間でございます!」
 運命でもないが予測は当たった。うざったいほどの黄色い声で咲夜が登場した。
「さー今日のお茶はすごくおいしいですよ。うふふ。あのですね、産地が……」
「あー咲夜咲夜。今日のお茶はいいから。それよりちょっと話があるの」
 押し止めて咲夜を座らせた。
「まぁお嬢様……話……ですか。まぁ……」
 頬に手を当てて赤面する咲夜。レミリアがこの意味を知ることは絶対にない。
「あのね咲夜」
「はい」
「こういっては何だけど――あなたって気持ち悪い」
「はっ」
 その言葉を聞いた時の表情。レミリアには特に印象的であった。鳩が豆鉄砲がくらったようなとはこの顔であるに違いない。
「聞こえなかったの? あなたって気持ち悪いわ。こう……一緒にいると疲れるわ。私がいうんだからそれはもう確実だわ」
「は、は、はぁあ? えっ、お嬢様? 私……が? え? えええ?」
 咲夜はきょどきょどと首を振って、目を激しく左右に泳がせた。金魚のように口をぱくぱくとして息つぎさえ苦しそうである。
「あ……はぁはぁ。うー、うう」
「どうしたの咲夜? 私の言ったことわかったでしょう? 主人の命令よ。紅魔館にはおいてあげるから、今度から私の身の回りのことは他のメイドにやってもらうわ」
「は……はひ……す……す……ん」
 咲夜は無表情で立ち上がって部屋を辞した。
「ん……もっと食い下がるかと思ったけど案外素直だったわね。ちょっと言い過ぎだったかしら? まぁいいわ……ふぁーあ……これで今日からゆっくりできるわ……」
 レミリアにとって気持ち悪いの一言はほんの些細な出来事であった。しかし咲夜にとってはそうではない。運命を見通すことができるレミリアといえど、ここから生じる現象を予測することは出来なかった。




 咲夜は自室に戻りベッドへと倒れこんだ。息が苦しい。吸って吸って肺を満杯にしているとても苦しい。
「ぁ……はぁ……ん……お嬢様が……私を……きもち……わる……うううう……嘘ですお嬢様ぁああ……ひっくひっく……す……すぅ……う……これ……過呼吸? す……はぁ……吸い込んで酸素、出して二酸化炭素……ゆっくり……おっけー自己修復! ううう……咲夜ちゃんはこんものには負けないんだから……うう、うううううー。気持ち悪いって……お嬢様が? 何で? 私といると疲れる? 何で? いっぱいお嬢様のためにしてあげてるのにーん。うふあはうふふーん。ありえないったらありえない。んー何が違うんだろう? お嬢様ーわたしー、そーしそーあい……運命の糸で結ばれた紅い絆の恋人ぉ。きっと結ばれるからぁ、ん……あ……あああ、あはぁそっか……そうだよね。これはぁお嬢様が私に課した試験なのねぇ。そうそうそう! そー考えれば全てうまくいくからぁ……なーんだ心配して損しちゃったぁ。つまりー、私にもっと忙しくなれってことでしょ? そーゆーことでしょお嬢様? お嬢様に構ってばっかりだとぉ、あんまり私が成長しないからぁ……うふふ。もーお嬢様ったら奥手なんだから……そうやって人の心を弄んで……きゃぁあああいやらしいわお嬢様。そんな操り方されたら私メロメロですぅ。あはっ、あはあはうふふ。そーと決まったらぁ、もーっと忙しくする計画たてなくちゃ……」
 頭から毛布を被って視界を隠して甘美な妄想に耽る。毛布の重さ、それを夢の中で最大限にまで押し広げる。
「あーんむむむむ。おおきぃん……明日からも私を包むこの膨大な重量感っ……。押しつぶされる……それだけでイキそう……。あっ苦しい……駄目そんなにむぎゅってされたらぁ……私、私……。ああ多忙に興奮していっちゃう……やることいっぱいでどんな風に攻略していくか考えるだけで……ん……。あん犯されるう……多忙の触手が私の中にずぶずぶって入ってくるぅ……。駄目そんなに巻きついちゃ……手も足もからめとられてぇ……胸も……やんそんなとこまで私使えないからいくらなんでも……。あああやばいやばいニ穴三穴同時絶頂お仕事やばぁい……。んっんっ、んっイクイクっ! 大いなる宇宙に開発されていっちゃう! いっ……いいん。頭の中めちゃくちゃにされて犯されちゃうう! あはぁ咲夜はあなたの雌豚でございますぅ……好きなだけぶってくださいませ……そして私をあなたの奴隷にしてくださいませ……。ううん、やばい手帳の予定が全部埋まっちゃうん……そんなに詰め込んでも入らないからぁ……無理、絶対無理……そんな大きいの……そんなの入れたら私壊れちゃ――や、あん、入ってくるぅ、おおきいおっきぃ、あ、前から後ろから追い詰められてるぅ、んんっんっ、イクイクイッちゃう! 出る! イクぅ! あはぁイクぅ! 操られてボロボロにされて雌マゾにされちゃうう! やんスケジュールパンパンでお腹もパンパンで……妊娠しちゃう! 妊娠……にんしん、あっ、生まれる、イクイクッ、イク、イク――――」
 毛布をぎゅっと握りしめながら、咲夜は何度も絶頂に達した。咲夜の脳はこの時さらなる進化を遂げていた。それが最終的にどんな結果を生むかも露知らずに。




 咲夜に釘を刺してからはや一週間が過ぎた。あの咲夜のことだから何か小言をぐちぐちと言ってくると思ったが、決してそんなことはなかった。実に平和的な悪魔的でカリスマな生活が戻ってきたのである。
「さてと」
 レミリアは深い息を吐いて立ち上がった。主君とは上に立つものである。その存在感を、いつも如実に誇示しておかなくてはならない。
「久しぶりに紅魔館を一周でもしてみるか」
 扉を開けて外に出る。紅い館の高貴な香りが満ちている。
 スタスタと軽い足音をたてて廊下を歩く。突如違和感――。
 何が違うと言われてもはっきりとはわからないが確かに違う。レミリアはそのズレをいち早く理解しようと頭を回転させた。
「何かおかしいわ。一体?」
 レミリアは帽子をくしゃっとつぶしてうんうんと考えた。
「あっレミリア様」
 偶然通りかかった一人の妖精がそう声をかけた。
「あら御機嫌よう。ちゃんと仕事してる」
「え、ええ……まぁ」
 妙に歯切れが悪いのが気になった。おや、この妖精も何かおかしいなとレミリアは感づいた。おかしいのは何だろう。者? 人? 一体何がおかしいのか。
「はっきりしないわね。何か悩みごとがあるなら言いなさいよ。私が聞いてあげるわ」
「あ、あのですねレミリア様。実は……」
 レミリアは妖精の口に耳をぐっと近づけた。
「メイドの……十六夜咲夜のことなのですが……」
「咲夜がどうかしたの?」
「はい、こう、何といっていいものやら。とにかくおかしいんです」
「おかしいのは元からよ。あの子は」
「いえ。もうはっきりとわかるくらいのおかしさでございます。空間が何となくですね……歪んで……」
「何かむずがゆいわね」
 どうも合点がいかない。空間がと言われても咲夜は人間である。一体ただの人間に何の空間操作ができようか。
「そばで見てみればわかりますよ。ありえなくらい――乖離して――異常ですよあれは。早いんです。とにかく早いんです」
「だから元から彼女は何でも早いわよ。馬鹿らしいぐらいにね」
「いいえ、次元を超えた早さなんですよ。だから私達――」
「何?」
 妖精の顔をぐいと覗き込む。
「それで悩んでいるんですよ。咲夜さんが私達の仕事をほとんど持っていっているんです。恐るべき早さです。現在の館の仕事の八割はあの人がこなしています。恐ろしいっていうよりも理解できないんです。あり得ない。だから他の妖精は最近みんなぐうたらしてますよ。私も恥ずかしながら外の星を見たかっただけで……」
 やっと館に蔓延する違和感の正体に気がついた。いくら夜とはいえメイド達の数が少なすぎる。
「レミリア様……私恐怖を感じていますあの人に。普通の人間とは思えませんわ……。いえ、人間の振りをしたばけも――」
 その瞬間その妖精ははっと口をつぐんだ。妖精の小さな瞳の中を見た。そこには十六夜咲夜の像がしっかりと映りこんでいたからだ。
「咲夜!」
 振り返る――がいない。どこ? 自分が見間違えるはずがない。
「ここですよお嬢様。うふふ」
 振り向いた逆の方向から声が聞こえる。肩を震わせている妖精の隣に、あのにんまりといやらしい笑みを浮かべた咲夜がぼうっと佇んでいた。
「さっ、咲夜……あなた」
「お久しぶりです。お嬢様。私お嬢様のおかげでもっと忙しくなりました。私を鍛えてくれてありがとうございますうふふーん」
 妖精の肩をぼんと叩きながら大声を張り上げている。レミリアはぞっとするような寒気を感じた。自分がただの人間の動きについていけなかったこと、それに少なからず驚愕していた。
「一体あなた何を考えているの?」
「ええ何ですかぁ? 私はいつでもお嬢様と紅魔館のためぇ。うふふ。まだまだ忙しくなりますよー。大変たいへーん。らんららんららーん」
 鼻歌を歌いながら咲夜は立ち去った。妖精の顔が恐ろしく凍りついていた。




 次の日、レミリア自室でくつろいでいると、外から戸を叩く音がした。
「入って」
「失礼しますお嬢様」
 案の定十六夜咲夜であった。相変わらず気色の悪い顔で、手には白い用紙を何枚も抱えている。
「何よこれ」
「お嬢様。紅魔館のメイドは多すぎますわ。いくら膨大な土地と資産があっても無駄は省かなくてはなりません。この際大幅な人員整理をしましょう。働きの悪い者はがんがん首を切ります。少数精鋭の体制をしいた方が士気があがりますわ」
 レミリアは一枚の紙を手に取り眺めた。一人の妖精の勤務態度から趣味思考性癖まで事細かに書かれていた。明らかにストーカーのように張り付いていなければならないようなディープな事実まで。レミリアは数十枚はあるであろう紙の山を見て、呆れたようにため息をついた。
「これ……全部あなたが一人で? 嘘書いたら承知しないわよ?」
「いいえお嬢様。私のすることに嘘偽りはありません。主君への裏切りなど絶対にいたしません」
「ふん……」
 咲夜は妙に落ち着いていて余裕があった。まるで嘘をついているようには見えない。ただこれだけの人数の資料を集めるなど容易なことではない。一体どうやって? 歪み……空間……早い……。昨日の妖精の言ったことが急に思い出された。まさか、咲夜は未知なる特殊な能力を使い、この館の妖精メイドの生活その他を詳細に調査したというのか。
 いくらなんでもそれは蚊帳の外であった。いくら咲夜が超人的に仕事が出来るといっても、ただのか弱い人間のはずである。どう頑張っても無理なはずである。
「咲夜」
「何ですかお嬢様?」
「教えて」
「はい?」
 一人でやきもきしてるのも嫌なので、もう直接聞いてみることにした。奥歯に物が挟まったような状態というのは非常につらい。
「隠さなくてもいいわよ咲夜。人間も稀に能力を持つってことはあることだから」
「何をおっしゃっているのかお嬢様……あ! あのことですね。えへへ。あれですよ。私、ご本で、パチュリー様の、シュウマイ筋肉とご本ですね。目覚めたんだと思います。お勉強、毛布ががーっと。生まれちゃうんです。数学ですか? ぎりぎりまで無限大、微分積分は漸近するって言いますよね? ベクトルとスカラーが混在して虚数は表と裏側がぴったんこ。 あれなんですよ、だから私もっと頑張れるって。おかしいんです、私。流れが、私だけの、うふふ。あはっ、もうお嬢様に教えるのももったいないです。もっとぐつぐつシチューのように煮詰めてから教えてあげますね。んふん」
 へらへらと笑いながら、咲夜はわけのわからないことを述べた。ネジがはずれたような人間。一体全体全く理解できない。
「それでは人員整理の件お願いしますね。お嬢様」
「あ、うん」
 咲夜の並々ならぬ気迫に押されてそれだけ言った。
「では御機嫌よう。うふふふーん」
 パタリと扉が閉じる。後にむなしい静寂が広がる。
 結局能力のことはわからずじまいであったが、咲夜の言う人員整理も最もなことだと思った。
「まいっか。カリスマな紅魔館にもたまには刺激が必要よね。それにしても、ここまで他人の弱いとこを調べられるなんて……」
 渡されたデータの中身を見て、ぶるっと震える。
 おおよそ、血の通った人間の所業ではなかった。




 半月ほどまた月日が経った。紅魔館のメイドの数は以前の半分ほどになっていた。それでも滞りなく通常の業務は遂行されていた。レミリアは不思議でならなかった。これだけ減らせば、さすがの咲夜も音をあげるだろうと思ったがそうではなかった。
 日を追うごとにますます精力活発に館の仕事を行い続けているのであった。その動きを観察してみるとまるで理解できない。あれをしてこれをしてあれとこれが繋がるという、誠に意味不明な構築力なのである。例えて言うならば、ルービックキューブを正規の手順を踏まずにほとんど数手で完成させてしまうような、そんな怪奇理不尽に満ちた異様さであった。
 阿修羅なようなスピードで咲夜の回りでは物事が進行する。それはおいそれと立ち入ってはいけない空間のようであった。
「とはいうものの。紅魔館にとっては別に問題ないわね。少数精鋭、間違ってない。私もいつものように暇だわ」
 レミリアは眠そうな目をして大あくびした。孤軍奮闘、ワンマン。そんな言葉は出てこない。近頃はほとんどの業務を咲夜に任せていた。その方がとても捗るのである。何をやらせても咲夜は万能であった。あの馬鹿みたいな性格をのぞけば、最も有能な部下に違いなかった。
「それにしてもメイドの減りが早いわね。やめろって言ってもすぐやめる妖精ばかりじゃないと思うんだけど……。咲夜は一体どんな説得をしているのかしら?」
 それが不思議だった。妖精にも一応の生活はかかっている。前のリリーのように明らかな理由があれば別だが。
「まーいっか。私はレミリア・スカーレットだしね。ふぁああ……」
「お嬢様、お嬢さまー!」
 大口を開けていると、咲夜が部屋に飛び込んできた。
「うふふ、やりました絶好調です。メイドを今のさらに半分に……ひひひ。私ってば到達しそうなんです。近づいているんですよ真実に! 大丈夫、私めに任せてくれれば万事うまくいきますので。あはは!」
「頼りにしてるわ咲夜」
 レミリアは無責任に言い放った。




 ある日のことであった。レミリアは気まぐれに紅魔館内の大図書館へと足を運んだ。パチュリーはレミリアの友人で、この図書館に長らく居候として住んでいる。いわゆる腐れ縁というやつであろうか。
 性格は少々とっつきが悪くおまけに口も悪い。が、その蓄積された知識にレミリアは一目おいていた。彼女に聞けばこの世界のことはほぼ教えてくれるだろうから。 
「パチェー。入るわよー」
 当然返事はない。真正面に歩き魔女の待つテーブルへと向かう。
「もう返事ぐらいしなさいよ」
「あ、レミィいたの。久しぶりね」
 そう言って視線を合わさずに答える。華奢な友人の目は落ち窪んで今もか細い。
「あなたっているんだかいないんだか。ここに来てないと忘れそうよもう」
「うふふ。忘れちゃってもいいのよ。そしたらもっと本が読めるし」
「何言ってるの。あーそれでね。今日はちょっと相談があるの」
「どんな?」
 本から絶対に目を離そうとはしない。レミリアは息を吸って口を開いた。
「あの咲夜のことなんだけど」
「うん」
「おかしいのよ」
「あはは。彼女は元からおかしいわよ」
 パチュリーはどこかツボに入ったかのようにくっくっと笑った。
「それは重々承知しているんだけど。近頃紅魔館もおかしいのよ」
「それは初耳ね。私の周りは問題ないわ。はい終了」
「んもー真面目に考えてよ」
「はいはい」
「あのね、紅魔館のメイドの数が激減しているのよ。最大時の半分の半分の半分……ううんそれ以下! それでもこの館は回っている。これってどういうことなの? わからないわ? 十六夜咲夜の周りで一体何が起こっているっていうの? ねぇ?」
 レミリアは少々取り乱し、息を荒げて言った。
「少し落ち着きなさいよレミィ」
「はぁはぁ……」
「うーんまず状況を整理した方がいいわよレミィ。日常に支障がないのなら何に心配するのかしら?」
「心配よ。人間のメイドが恐るべきスピードで業務をこなしているのよ。異常よ、奇怪、異変だわ」
「ふふ。まぁいいんじゃない? そういう人間もいるってこと」
「でも……」
「スピード、時間、無限大? はて? やっぱり有限よね。だとすると最終的にはどうなるのかしら?」
「何よパチェまで変なこと言って。私にもわかるように説明してよ」
 とんと本を置くパチュリー。どうやら真面目に答えてくれそうだった。細い指にくるりと紫の髪を絡みつかせながら説明する。
「あのねレミィ。ある組織を例にとるとね。組織全体の収益を支えているのは三割ぐらいの人だけなの。他はたださぼり……ってわけじゃないけど、その一番動いている人に比べたら働きがかなり悪いのよね。うん時には全く動かない奴もいるけどね。私みたいに、あはは」
「それが今何の関係があるの?」
「黙って聞きなさいよ。組織が例えば100人いるとするわね。その100人の能力は組織に入った時点でほとんど差はないの。みんなが同じ能力。この場合だと何割が真面目に働くと思う?」
「うーん……みんな同じだから十割」
「ブー不正解。やっぱり忠実に働くのは三割ぐらいに収束するのよね。必ず自分だけはいいってサボる奴が出る。そこの道端にいる働き蟻さんもそうみたいよ。悲しいことに。優劣ってのはいつでもどこでも存在するのよ。あっちがたてばこちらがたたぬ。面白いわね」
「えーそんなの嘘だって。現に紅魔館のみんなは頑張って……」
 と言ってレミリアは床に視線を落とした。
「本当にそう言えるのレミィ? あなただって吸血鬼なんですもの昼は眠るでしょう? みんな適当に手を抜いているのよ。堕落ってのは恐ろしいわね。他力本願の事なかれ主義――。誰しもが容易く楽な方にと流れちゃうからね……あ、レミィそんな悲しい顔しなくても。大丈夫紅魔館のみんなは五割は本気で動いているわ。門番は門をきっちり守っているし私はあなたが大好きよ。それでいいじゃない」
「うーんそうかな。私もパチェが大好きよ」
「ありがとうレミィ。ん……それを踏まえて今の状況を考えてみると……これはとっても面白いわ。一人の人間が……紅魔館全体を統括する。比率にすると何パーセントかしらね? このあり得ない状況が意味するところ……人智を超えた存在の登場かしら? 私達もうかうかしてられないかもね。うふふ」
「どういうこと?」
「イレギュラーよ。破綻するのも時間の問題。宿主を食いつぶして下克上? でも相手は人間ね……はて?」
「もうパチェったら自分の世界にばっか引きこもって!」
 レミリアは腕組んでへそを曲げた。
 再び読みかけの本に視線を戻すパチュリー。
 と、その時――。
「レミリア様レミリア様ぁ! 大変でございます!」
 一人の妖精が必死の形相で叫びながら転がりこんで来た。
「何? どうしたの?」
「ひいいぃ! もう私限界でございます。あの人の皮を被った悪魔はあああ……みんなあいつにやられて……」
 妖精は顔を泣き腫らしながら訴える。
「何やら一大事みたいね。行きましょうかレミィ。主君はまだあなたよ」
「え、ええ?」
 混乱しているレミィをよそに、動かない図書館は重い腰を上げた。




「ひぃー、ひーひーひー。ひーひひひ! もう限界です十六夜咲夜は。忙しいの通りこして桃源郷であります。あああ、憎い憎い邪魔邪魔邪魔! 私とお嬢様以外誰もいらないのもう。私の仕事をとらないでっ! 全部私がするんだから。ん気持ちいい気持ちいいいん! いっぱいお仕事いいいいいっ! ほらお前も消えるんだよぉ。妖精でも構いやしないから私の空間でねじ込んで捻ってぐちゃって存在こと消しちゃえばいいんだよぉ! 私は目覚めたんだからな? あー初めは時が……ゆっくり……でも心地よくてふわーってして……理解すれば私は私だけの空間でイメージを取り込んで自由に存在を画策することができたんですから。あーはっはは……。時ってのはこうやって手づかみにできるものなんです。私は気づきました。選ばれた唯一のポテンシャル、それが私。相対的に絶対的を司るです。近づくってのはそういうこと。あーイキソウイキソウ……もう少しなんです。極限ぎりぎりまで迫ったらどんなにいとおしいんだろうなぁ? お嬢様はきっとこの高みなのかなぁ? 嬉しいなぁどこなのかなぁ? そのためにはまず……こいつら全部処分処分しなくちゃあなりません。ゴミはゴミ箱妖精箱。殺す殺す全部抹殺。アトランチスからバミューダまで五次元と七十ニ次元に溶かしてあげますよいひひひひ」
 廊下の真ん中で、一人の妖精が咲夜に首根っこをつかまれて悶えていた。顔面を蒼白にしながら、今にも気を失いそうな様子であった。
「咲夜っ!」
 レミリアが紅い絶叫を放った。
「ふーん面白そうねお手並み拝見」
 パチュリーが後から続く。
「あっお嬢様申し訳ございません。今すぐこの妖精めを処分する所存であります。こら、お前、いつも言ってるじゃない。一番効率のいいモップと雑巾とバケツは120度ひし形だってさぁ。一体何度言ったらわかるんですか? すいませんお嬢様。こら、時間と体の使い方もなってませんよ? 穴を利用して貫通しろって言ったじゃないですか? 馬鹿なんですか? つなげたら発光できるじゃないですか。すいませんお嬢様。あれ、いいの咲夜……私、あなたのこと。すいませんお嬢様。いますぐ……やり……ま……」
「このっ!」
 痛打。幼い悪魔の拳が咲夜の腹に打ち込まれる。
 油断していたのか見えていなかったのか、咲夜は回避行動することなく崩れ落ちた。
「あふぇっ? なんでぇ? おじょぉ? さまぁ? あふえ? わらひ、さくや、ですよ。わたし、めざめ、もうすこひ……ときが……あふぐっ!」
 ぐずる咲夜の頬に破壊的な平手打ちが迸る。
「出て行きなさい咲夜。ここから今すぐ……紅魔館から!」
「えへぇ? えふっ、えふ。お、お、あ――――」
 咲夜は突然金切り声を上げて駆け出した。誰も追いつけるものはいなかった。スピードとか錯覚ではない究極的な神通力が展開されていた。
「まっ、待ちなさい咲夜! ちっ逃がした……。何で? 私ずっと見ていたのに」
 ぎりりと唇を噛むレミリア。
「おー何て急展開。人間と悪魔、勝つのはどっちかしら?」
「何暢気なこと言ってるのパチェ。追うわよ!」
「はいはい」
 パチュリーはやる気なく言った。




 十六夜咲夜の自室。室内の至るところに妖精の残骸――というべきか抜け殻の残滓がこびりついていた。
 時を操る力、その発現に咲夜は未曾有の快感を覚えていた。初めはゆっくりであったが次第に技術が増していった。時を限界まで凝縮し狭い範囲の中だけで自分だけが動ける。咲夜は多忙を極め時を極めた。ただし究極の臨界点までは未だ届かなかった。
 そのために彼女は無慈悲な殺戮を行った。難癖をつけてやめさせたのはほんの初めだけ。しだいに他人の荒を探すのも面倒くさくなった。こっちの方が手っ取り早い。何も喋ることはないし簡単だ。妖精などこの時間の渦に飲み込んでしまえば、赤子の手を捻るようなものである。
 でもどうしてお嬢様が邪魔をしたのだろう? 愛するお嬢様のために。もう少しで理想郷に到達できそうだったのに。
「あーあー。嘘。私の目が。あー。いえ、否。あ……また私たら勘違い。いけない咲夜ちゃん。これはお嬢様がくだすった試験。私を遥か高みから試して……うふ。お嬢様は極度の恥ずかしがり屋さんだから……。あはっ、そう……なのですねお嬢様。自分の力で悟りを開けと……そうおっしゃるのですね。いいでしょう、私甘えてました……結局甘えてたんです。横取り強奪火事場泥棒。そんなんじゃお嬢様に笑顔で並べませんよね。そうなんですそうなんです。紅魔館のみんなが優しいから甘えてたんです。はぁ……あ……くる……次元の渦……私を飲み込むセレナーデ。この荒れ狂う潮流に乗ったら私は脱皮できるんですよ……あ……お嬢様、お嬢様ぁ……ひっ、きたっ、止まり……そう? でもとまらな――ひぃ――――」




「それで、咲夜はどうなるの?」
 レミリアが聞いた。
 咲夜の寝室にはパチュリー小悪魔他、博麗霊夢と八雲紫が集まっていた。
 あの後咲夜は自室にこもって篭城の姿勢であった。扉も固く締め切られている。何度叩いても返事がないので、もったいないと思いながら蹴破った。
 そこでレミリアが見たものは――立方体であった。正確には十六夜咲夜が封じ込まれた空間である。どう形容していいのか言葉に窮するが、咲夜はその擬似的な箱の中で、聖母のような笑みを浮かべて固まっていた。
 パチュリーに聞いてもこんな症状知らないわ、と言うので専門家の知恵を扇いだしだいである。
「どーにもこーにも。ただ一つわかること。彼女は生きてるわね。この中でね、たぶん延々と」
 八雲紫がぽつりと言う。
「生きてるって……全然動いてないわよ?」
「いや生きてるわよ。ほんの微細な時間の流れがこの中で構築されているの。彼女だけしか入れないプライベートな密室でね」
 生きている――。そう言われても信じられなかった。まるで彫像のように瞬き一つせず静止しているのだから。
「あきらめなさいよレミリア。それとも何かこいつに思い入れでもあるの?」
 黙っていた霊夢が聞いた。
「いえ……咲夜は優秀だった。誰よりも。そしておかしかった」
「ふん……。」
 霊夢は軽く息を吐いた。そして直ぐに続けた。
「優秀ってのもせつないもんよ。まぁそれよりあんたが無事でよかったわ」
「ありがとう霊夢」
 そう言ってレミリアはもう一度咲夜の箱に目を向けた。色は薄暗い黒。彼女の体をすっぽり包むような空間は、無明の時を刻んでいるように見えた。
「八雲先生!」
「はいなんでしょうパチュリーさん」
 いきなり声をかけられて紫がぴくりと肩を振るわせる。
「この現象について詳しく消極的に説明してください」
「了解しましたパチュリーさん。人間が能力を有すること、本来ならば非常な努力を必要とします。よしんば先天的に目覚めていたとしてもそれに耐えるだけの受け皿がなければならない。つまりこの咲夜ちゃんはちょっと足りなかった。経験不足の少女の体は軽くリミットを越えてしまった。と推測できるわけです。わかりましたかパチュリーさん?」
 パチュリーはそれを聞いてぶんと首を振った。
「いえまだ半分。この不可思議な立方体少女オブジェの組成構造について一言お願いします!」
「なんて難しい質問。紫先生困っちゃう! えーあのこれは非常に難しい質問でございます。時の境界を操るというのは私でも未知の領域ですから。あー多分がんばればできる……いやできません。だって面倒くさいもの。時の空間。彼女は極限までの世界で到達しかけた……それだけが事実です。あそこがあーなってこーなってこーだからこーなるとか先生馬鹿だから一切わかりません。以上!」
 幻想郷の賢者の鶴の一声であった。この場に自然に解散ムードが漂った。
「え、ちょっと。咲夜はこのままどうなるの? ねぇ?」
 うろたえるレミリア。その横でパチュリーがぽんと手を叩いた。
「あ、そういえば私こんな像が欲しかったんだっけ。聖なる十六夜咲夜の極限心理像……なんて名前でいいわね。小悪魔ーこれ図書館に持っていくわよー。あ……固いのねこれ。よかったもっていけるわね。うひひひ……」
「パ、パチェ。いくら咲夜だからってそれは……。それに生きてるか死んでいるかもわからないのに」
「いいのよ私こういうの欲しかったから。あっ女の子にしてはあんよも腕もむっきむっきじゃなーい。こんなに鍛えてたのね。あらほお擦りできないのが残念! 小悪魔、早くこれ持って行きましょうよ」
「了解パチュリー様」
「あっ待って……」
 止めようとしたが、咲夜箱はもう既に部屋の外に移動していた。
 この短い期間あった出来事は一体なんなのだろう。自分はどうすればよかったのか。咲夜が見た極限の世界とはどんな境地なのか。レミリアには考えが及ぶ範囲ではなかった。なぜなら彼女は優秀すぎたから。幻想郷で最も瀟洒なメイドであったはずだ。
「ん……咲夜がいないとなると。明日からは……」
 帽子をぐしゃりとつぶし視界を隠す。そうか。これからは多大なる労力が自分の手にかかることを。楽すぎた生活に慣れきった体に活を入れなければならない。そう、組織とはやはりトップがしっかり見本を見せなければならない。
「今こそ私の力が試される時ね」
 レミリアは大きく吼えた。 

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