
あるところにとても偏屈な男がいた。社会的にもそれなりの地位につき、よどみなく順風満帆に人生を過ごしている。お金にも特に困るようなことは無く、あきれるほど健康で風邪一つひいたことは無い。交友関係も広く、周りからの信頼も厚かった。
しかし、男にはいい年をしていても、伴侶が居なかったのである。別に顔が悪いとか不潔すぎるとかそんな致命的な要素は無い。ごくごく普通の男であるのに。実際言い寄る女性も多く、これまでに良縁の話も多数あったのが、男は全てそれを断っていた。
男には絶対曲げられない信念があった。
それは排泄行為を一切しない女でなければならない。と言う荒唐無稽な信念であった。
男の理想は遠く、遥か高みに存在していたのだ。本当の女様というものは、天女のように美しく妖艶で、妖精のように純粋可愛げでなければならない。世の中のドス黒い怨念に毒されてしまった女などは興味がない。それ故に、毒を出す行為=排泄行為、これをする女は女では無い。女という汚い毛皮を被った醜い獣なのである。
男は生まれつきからそんな偏狂じみた考えたを持っていたので、現実の女とはただの動く人形としか思えなかったのだ。ただし男がただのインポテンツであるというわけではない。人並みの成人男性の性欲があるのだが、単に女は性欲処理のための道具に過ぎない。本当ならばおぞましい排泄行為をする女と肌を合わせるなど、気持ち悪くてしかたないのだが、嫌々ながら付き合いと煩悩に任せて流されてしまうのである。
男は激しく悩んだ。自分はこのままでいいのだろうかと。
ある日男はぶらりと寂れた繁華街の小隅へと立ち寄った。何かあてがあるわけでも無かった。ふらりと誘われるように一軒の店舗の前で足を止める。
薄汚れた玄関口、外からはどんな店であるかは想像つかない。上を見上げてみる。古ぼけた長らく掃除がされていないであろう看板。
キューピットボーダークラブ八雲
何やらいかがわしいような店名だとは思ったが、男は運命的なものを感じて、勇気を持ってそのドアを叩いた。
店内はひっそりとしていた。人間味が無いというか、全く人の気配が無く、ここが現実世界ではなく虚構のパラレルワールドであるかのような錯覚に男は陥った。
「あら、いらっしゃいませ。珍しいですね?」
男は声のする方を向いた。受付らしき場所、そこには妙齢の女性と思われる――不思議な形状の帽子をかぶって、一体何年前のセンスなのだろうか、遠くからでもよくわかる厚い化粧をした人物が座っていた。
「あ、あの……、ここは?」
男はその女性の側まで近寄る。やはり声の枯れ具合といい、随分年齢がいっているように思えた。厚い粉化粧でも覆い隠せないほどの、乾いた砂漠が、間近で見るとよくわかるのだ。
「ここは結婚相談所でございます。男と女の愛の境界をサポートする、我らの信念はそこにあります」
女はわざと一オクターブぐらい高い作り声で言ったが、男にはまるわかりだった。どうしてもこの女性からは、背伸びした若作りをしているという印象しか感じられなかったのだ。
結婚相談所と聞いて、男はなるほどと思った。ここなら自分の理想する女性が見つかるかもしれない。世界は広い、もしかして排泄行為をせずに生きている女性がいるのではと、男は期待に胸躍らせた。やはり偶然足が向いたのも、運命が自分を呼び寄せていると感じた。
「どうなさいますか? ご新規で登録しますか?」
男は少し考える。どうせ仲立ちをしてもらうなら、こんな古ぼけた店でなくてもいいのではないか。そういえばこの妙齢の女性は、皆目一番に珍しいと発言した。男が見る限りもこの店は流行っている様子が無い。店の顔である受付に、こんな食指がわかないような女性を配備しているのがその証拠だ。
「ふむ……。少し考えさせてください」
「あら、そうですか? それではこのボーダークラブの利点でも説明いたしましょうか。とある筋の方には有名なんですのよ? ここ? お客様は運がよろしいですわ、おほほほ……。それでは第一の利点、あらゆる世界から境界を越えて、あなたの理想の伴侶を導き出す、無尽蔵の情報網。どんなに趣味嗜好が偏っていても、きっとあなたに似合う相手は見つかるです。第二に結婚までの熱烈なサポート体制。お二人の仲スムーズに円滑にいくように、手取り足取り如何なる手段をつかっても…………」
女の話は長かった。初めの方を聞いただけで飽きてしまったが、男の欲望を満たすには十分だった。特殊な嗜好でも必ず見合う相手を探すと言ったのだ。なんというか排泄行為をしない女性というのも、男は理想だけで現実には絶対存在しないと、心の奥底では諦めかけていた。だがその願望が今、実現するかもしれないのだ。何を迷うことがあるのか。
男は喜んで登録する旨を伝えた。
「はい、ご登録ありがとうございます。あ、料金の方よろしいでしょうか? よろしければこちらの紙に記入お願いします」
住所性別生年月日趣味特技と諸事項を記入するための用紙が渡される。金額の方は少し高いかなとは思ったが、先ほどの説明により、どうやら通好みの店であるような気がしたので、何の問題も無く受け入れた。
「赤い〇がついた欄は必ず記入お願いしますね」
男は順々に用紙の空白を埋めていった。あなたが相手に一番に求めること、これを見て男は丁寧にやや大き目の文字で、絶対に排泄行為をしないこと、と書いた。普通の店ながら精神鑑定されるレベルではあったが、この店の雰囲気と、謎めいた妙齢の女性の存在により、すらすらとペンが進んだ。
「はい、書き終わりました」
男は誤字が無いかチェックした後、女性に紙を渡した。女性は上から下まで目を皿のようにして用紙を舐め回すように見る。
「すいませんが、ここの種族の欄、空白ですが? 特に拘りが無いでよろしいのですか?」
「は……、それは……」
男は種族の欄には何も書かなかった。種族と言われても人間以外と結婚することなどできないからだ。まさか犬猫と結婚させる気でもあるまいし。
「もしや、動物……とか?」
男は念のため聞いてみた。話がこじれて獣姦にまで発展してしまったら一大事だ。
「あ、いえいえ、紹介するのは見た目は……、人間ですので……」
女性が何か喉奥に挟まったような言い方をしたのが気になった。見た目がとはどう意味なのだろうか。あまりにも容姿が醜いことの比喩なのか、男は少し迷ってしまった。どうしよう、この機会を逃したら一生排泄しない女性とは会えないかもしれないのだ。この際少々身なり振る舞い年齢その他もろもろも含めて享受しようと思った。
「はい、お願いします。人間ならば問題ありません」
「あ……。はい、それはよかったです」
女性は心の底からほっとしたように息を吐いた。
「はい、これで登録は終わりです。それではお相手が見つかりしだい、連絡しますので……」
その後の細かい質問はあったが、男は抜かりなく答えて店を後にした。
排泄行為をしない女性が本当に見つかるのか――。男は半信半疑ながらも、夢見る女性の面影を想像して天を仰いだ。
相談所に登録してから一週間後、思いがけず連絡があった。男は半ば諦めかけていた。やはりあれは愚行でしかなかったと。あからさまに専門的な雰囲気で客を釣り、それなりの金額を騙し取る詐欺であると、どうしようもなく後悔が襲ってきたのだ。それ故に相談所からの電話は男の思考を激しく混乱させた。
巷には結婚詐欺というのも流行っている。相談所で紹介された相手に無理やりにでも結婚させられ、結婚後一ヶ月ほどで理不尽なこじつけの理由で離婚を承諾させられてしまうのである。男は一度騙されたものの、二度と騙されないぞという気持ちで相談所へ向かった。もし排泄をする女性だったならば確固たる断る理由があるのだから。
「あ、わざわざご足労ありがとうございます」
妙齢の女性が受付で男を笑顔で出迎えた。一週間前とは服装も化粧も違っていた。年齢の割にはお洒落には興味こと欠かないようである。腕を組んで黙っていると、写真が貼り付けられた用紙が男の目の前に出された。
「これがお相手でですよ。あなた様のご希望通りの排泄しない、うら若き乙女の方です」
男は写真をまじまじと見た。ややぽっちゃりの体系で真っ白な餅のような肌。あまりにも白すぎて幽霊かと思うほどだ。名前は西行寺幽々子。幽の字を名前に使うとは珍しい。年齢はと……、男はこれもしかたないと思った。排泄をしない女性のためならと範囲は広く書いたからだ。趣味、食べること。中々結構だ、食事は生きることそのものなのだから。特技、琴、蹴鞠。ほう、西行寺という苗字といい、かなりの身分のお嬢様らしい。この写真も穢れを知らないように無邪気に笑っている。
「お綺麗な方でしょう? この年まで一人身なのが可笑しすぎるくらいですわ。由緒ある家元のお嬢様なので、お金も時間もありあまっているのです。男性の方には特に望むものはないそうですよ。ただ一つ、ずっと愛してくれさえすればいいとのことです」
男はこの写真の女性が一目で気に入ってしまった。しかしまだ油断はできない。写真ぐらいはどうにでも加工できるからだ。男はまだ詐欺かどうか疑っていた。そして肝心要の事実を確かめなければならない。
「あの、排泄の件なのですが」
「あら、写真だけでは信じられませんものね。どうしましょうか、実際会ってみればわかりますよ。彼女は排泄なんてしないことがわかりますから……」
男は妙齢の女性の自信の元がどこにあるかわからなかった。ともあれここまで来たのなら、男はどうしても西行寺幽々子なる人物に会ってみたくなった。色々と決めるのはそれからでも遅くはない。
男と西行寺幽々子は夫婦として絆を結んだ。たった三回ほど会っただけで男は結婚を決めてしまったのだ。
幽々子はとても美しかった。実際の年齢よりも十も二十も若く見えた。薄い着物から見え隠れする白い肉体。透き通るような肌には汗をかいたような不潔感は全くない。息をしていないかように大人しく、何を話しかけてもただニコニコと笑っている。佇まいからは良家の令嬢であるらしき気品が溢れ、動作一つ一つがおしとやかで上品で調和がとれているのだ。
男は幽々子に一目ぼれしていたのだ。何と言ったらいいのだろうか、幽々子には排泄そのものを意識させる要素が見当たらないのだ。趣味が食べることと書いてある通り、店に連れていけば普通の人間の三倍も四倍もの量を平らげた。しかしそれはどこに消えるのだろうか。皮膚は毛穴が存在しないかのように平坦で滑らかで、老廃物を溜め込んでいる様子は微塵もない。
幽々子は美味しそうに食事をした。ずっと見続けていても飽きなかった。
実際幽々子がトイレに行くことは、男が見る限りでは皆無であった。どんなに食べてもどんなに水を飲んでも、ケロッとした表情で笑っている。この笑顔を男はずっと見ていたかった。
男は直ぐに幽々子に告白し、幽々子もそれを受け入れてくれた。
挙式は二人だけでしめやかに行われた。
「あなた、私のことをお幽と呼んでくださいな」
しばらく見つめ合う視線。男は無言で頷き熱い口付けをかわした。
こうして男とお幽の奇妙な同居生活が始まった。お幽は家事全般をそつなくこなした。炊事洗濯掃除、重箱の隅まで目が届くのか、普通の男ならば見逃してしまう部分も、お幽は目ざとく見つけて改善してしまうのだ。狭い男のマンションも花が咲いたかのように、幸せの花びらが舞った。
男はお幽にそれとなく聞いてみた。本当は排泄行為をするのではと。
「いいえ、私はしていません。私には必要ないのです」
男はそれが本当なのか嘘なのかわからなかった。
夫婦となったらからには二人は褥を共にするのが当然だ。
お幽に抱きついて舌を絡めあう。男は気づいていた。お幽には臭いが全く存在しないのだ。これこそが、男がお幽を選んだ理由に相違なかった。いくら何でも真っ当な人間が無味無臭などとはあり得るのだろうか。それは人間とは別の、何か物の怪か魑魅魍魎に等しい――。
その事実も男は気にも留めなかった。汗でべったり濡れて、臭気を撒き散らす女とは比べ物にならない、別格すぎるほどの心地よさだったからだ。簡単に言えば、二次元世界の理想の美少女が、この現実に現れたかのような錯覚――そんな倒錯的な現実感だった。
「ああ、あなた、あなた」
お幽の声がうわずる。男はお幽の白い着物を脱がしにかかった。白くて美味しそうな脂肪が、ふんわりケーキのようにデコレーションされた肉体。顔を紅潮させながら着物を必死につかむお幽の恥じらいがたまらなくいとおしい。
着物はお幽の抵抗もむなしく脱がされる。一糸纏わぬ生まれたままのお幽の姿、男が夢にまで見た理想の彫刻に違いは無かった。
男はお幽の秘所を愛撫しようと顔を近づけた。お幽の白い股、白い白い、どこまで行っても平坦でなだらかな平地。男は頭がおかしくなった。あるはずのものが無いのだ。少し頭を整理してみた。お幽には女性器が存在していなかった。ただ幼い稚児のような真っ白い肌が股を占めているのだ。これでは小便のしようも無いではないか。
男はまさかと思いお幽の腎部を後ろから眺めた。予想通り尻穴も無かった。白い柔らかそうな肉だけが存在している。
「あなた、恥ずかしい、見ないで」
お幽は濡れた声で言った。
男は納得した。これが排泄行為を一切しないという女性の真の姿なのだと。排泄という淫らな行為は穴がなければ出来ない。それを根本から無くすとは何たる発想であろうか。
男は本来ならば人間ではあり得ない化物に、恐れおののき逃げ回るべきだった。何故だろう、排泄をしない女性の神聖化、天使のような超越した存在としてお幽をとらえてしまった。汗もかかない無味無臭の乾燥した肉体が、男の願望そのものを体現していたからだ。
「あなた、あなた……」
残る穴は一つだけだった。お幽は舌をいやらしく絡ませてくる。味も臭いもしない不可思議な涎。それすらも男には性欲を昂進させる強力な媚薬と成り得たのだ。
お幽の舌は長く、清潔で、純真さの塊だった。お幽は男の前で裸になり、少女になったのだ。満足ゆくまで男はお幽と口内性行を楽しんだ。
「あ、ふぅん……」
何十時間にも思える熱い接吻の後、男はいきり立った自分自身をお幽の口元へと持っていく。お幽は全てわかっているかのように、それを小さな口で含んだ。
「あむ……」
お幽の口内は冷たくて、それでいて暖かかった。口を窄められると、まるで軟体動物の吸盤に吸い付かれる心地がした。艶かしい舌は亀頭周囲を重点的に責め嬲る。魂を吸われるかのような吸引力。この口技は一時の経験ではできない。数年数十年の時を経て会得したかのような、凄まじい粘膜運動と舌の滑らかな胎動。
「んー……」
死人のような上目遣いが男を襲った。根元まで全部お幽に捕食されてしまう。
男は爆ぜていた。
白い子種がお幽の体内に消えていく。
「んっ、んっ、ん――」
イッた直後の性器にも容赦なくお幽の舌が這い回る。
口内の粘膜を上手に使いながら残り汁も全て吸い取られてしまった。
「あん……あなた……、おいしい……」
恍惚に染まった表情。口内に射精されて満足したようだった。性器が無いということは子供は絶対にできないのだろう。あの相談所も重要なことを隠しているものだと思ったが、天使の肉体を手に入れた男にとっては、それはとても些細なことだった。
お幽との共同生活は順調にスタートした。食費が数倍に増えたが男にとっては何の痛痒にもならない。
夜の営みも変化を求めて、お幽をを縛ったり逆に男が縛られたりした。お幽はどっちも好きなようである。きつめに緊縛されると涙を目に溜めながら、必死で性器を咥える。あなた、あなたと言いながらせつない声をあげて潤滑液を滴らせて喉奥まで咥え込むのだ。
攻めに回った時のお幽の表情もまた違った。小悪魔の少女のような笑顔。死霊のようにニイと笑い、拘束されて動けない男の体全体を、隅から隅まで舐め尽す。男は動けない己の状態に恐怖しながらも愉悦を感じ取った。顔を飽きるまで舐められた後男根を千切れるかと思われるほど乱暴に扱われ、激しく吸われる。
男とお幽は非常に仲のいい良好な関係を築いていった。
結婚してから瞬く間に一ヶ月が過ぎた。忙しい仕事の合間のつかの間の休日、男はトイレの水が溢れているのに気づいた。男の手には負えず、すぐに業者を呼んで対応してもらった。原因は水道管の詰まりだということだった。
男は長年このマンションに住んでいるので、色々とガタがきたのだと思い込んだ。
また一週間、二週間と時は過ぎた。
そしてある日、トイレの水がまた溢れてしまったのだ。すぐさま業者を呼んだが、原因はまた同じとのこと。男はこれはおかしいと思った。マンションのトイレはほぼ男専用である。それも使用するのは朝と夜と休日ぐらいである。ほとんど一人で使用してこんな短期間に詰まるものなのだろうか。
お幽は排泄行為をしないのだから関係ない。したくてもできないのだ。
男は不思議に思いながらも、忙しい毎日の中に忙殺されていった。
また一週間が経った。
トイレは汚物まみれになっていた。一体どういう詰まり方をすればこうなるのだろうか。まるで逆噴射したかようにトイレのタイルを茶褐色の汚物で塗らしていた。
やはり男の手ではどうしようもなく、業者に頭を下げながら処理してもらった。
男はこの出来事には辟易してしまった。おかしい、立て続けにこんな詰まりが起るわけはない。
男は頭を悩ませてイライラしてしまった。隣に悲しげに座るお幽を見る。小動物のように怯えている。
「あなた、あなた……」
男は優しくお幽を抱き寄せた。
お幽が関係ないことは自分がよくわかっているのだ。たまたま悪い偶然が重なっただけと男は信じたかった。
一度芽生えた不安は中々拭えない。近頃マンションの部屋が臭い気がする。一度トイレが汚物まみれになったからかもしれないが、いくら臭い消しを置いても隠せないのだ。男の不安は更につのった。
ある時意を決して、あの結婚相談所へ行ってみようと思った。何か文句を言いに行くわけではなく、少し話しを聞いてもらいたかったのだ。
以前と同じように繁華街の隅へと歩く。上を見るとあの古ぼけた看板が――無かった。あの店舗自体が忽然と消滅し、閑散とした空き地になっているのだ。記憶違いではない。あの時と絶対に同じ場所。
男は怖くなって何者かに追われるように逃げた。
三度目のトイレ事件が起ってから、男はあまり自宅に帰らなくなっていた。あれほど愛していたお幽が怖いのだ。相変わらず汗もかかずに肌はさらさらなのだが、どうにも居心地が悪いのだ。やはり排泄をしない女など現実にはいないのではないか。お幽とはもう一週間も肌を合わせていない。部屋の中がむせかえるような臭気でそんな気分にはならないのだ。
精神がまいってくると普段の仕事もおぼつかない。男は近頃めっきり痩せていた。まるで亡霊に取り付かれたように、青白い顔をしているのだ。
男は怖くて怖くてたまらなかった。
当ても無く繁華街を歩く。ふと立ち止まり店舗の看板を見る。
河童の便利屋さん
男は誘われるようにその店に立ち寄った。店内は専門的な工具や機械部品が所狭しと並べられている。男はぼんやりとして歩き回った。
「あー、古明地さーん。ちょっとそこ片付けといてー」
「はーい店長。今すぐにー」
緑っぽい帽子被った女の店員が、別の背の低い店員を呼んだ。男は別に気にするまでもなく金槌がおかれた棚を眺めている。
「えーっ? 本当に? でもあれは特注品だし……」
「大丈夫ですわ。きっといけますわ……」
「……この世界では、やばかったり……まぁ、我々でも……」
「……困っている人には救いが必要なんですのよ?」
店員二人がぼそぼそ話している。当然男の耳には何も入らない。
「お客さんお客さん! ちょっとちょっと!」
気立てのよさそうな女の顔が男の顔が目の前に広がる。どうも日本人とは思えない容姿だった。なんというのだろう。爬虫類とか魚類とか、そっちの方面に似た顔だった。
「いいもの、いいものありますよ。お客さんにピッタリのブツがあるよ! へっへへっ!」
緑っぽい店員は妙な言葉使いで男に話かけた。
「こっちこっち!」
何事かと思い男は躊躇したが、思いのほか力強い店員の手に引っ張られて、店の奥まで連れ込まれてしまった。
「大丈夫大丈夫、とって喰おうなんてしないから! ここではね!」
店員は訳のわからないことを言った。男は狼狽するしか無かった。一体何をする気なのだろうか。さっきから緑の店員の後ろから、もの凄い形相で睨んでいる小柄な店員の目が恐ろしかった。
「これこれ! 超小型マイクロカメラ。他所ではおいそれと手に入らないよ! 簡単装着擬態光化学カムフラージュ機能標準装備の優れもの! 簡単録画で即時再生。この機能つきてお手軽価格のこの値段! どう? 欲しいでしょ?」
男は不思議に思った。どうしてそんな盗撮にしか使えないような物を、自分に売りつけようとするのか――。男は恐怖を感じてやんわりと断った。それに持ち合わせが足りなくて今すぐは払えなかったからだ。
小柄な桃色の髪の店員が何か耳打ちをしている。
「これはこれは! お客さん買い物上手だね! 半額、半額でどうだい? これ以上はまけられないよ!」
緑の店員はどうしてもこの品物を売りつけたいらしい。男が断っても断っても逃がさずに商品を勧めた。
突然ポンと肩を叩かれる。振り向くと桃色の髪の店員がニヤリと不気味な笑いを浮かべていた。男の思考は無情にもそこで途切れた。
「お買い上げ、ありがとうございまーす!」
「ありがとうございます」
男が気づくとレジで会計を済ませていた。悄然としない気持ちを抱えながらも、男は何故か納得して家路についた。
ドアを開けると溜まった臭気がむわっと膨張する。久しぶりの帰宅だった。お幽はそんな男も笑顔で出迎えてくれる。
男は夜お幽が寝静まった後、こっそりと起き出しトイレへと向かった。自分の心が恐ろしかった。非人道的な行為に身を染めようとしているのだ。大丈夫、大丈夫と男は根拠の無い念仏を唱えながら装置を取り付ける。
小型カメラは簡単に取り付けられた。どんな構造になっているのか不明だが、白いタイルにすっかり同化して、装着した本人でさえわからないくらいだ。
気持ちの悪い汗をかきながらベッドに戻る。
男はお幽に心の中で詫びながらずぶずぶと眠りに落ちた。
仕事が山積みになっている。男が家に帰ったのは一週間後だった。もう臭気は最高潮に達していた。鼻というものは有る程度まで臭いに慣れるものであるが、この臭いは度を超しているのだ。とても我慢できるものではない。
お幽はやはりいつもと変わらずにこにことしていた。臭くはないのだろうか、その疑問を聞くのさえ躊躇われた。初めはあれほど優美に思えたお幽の笑顔が怖くなった。この世ものではない、悪魔か、それとも――。
「買い物に行って来ますね……」
居間に座っていたお幽がぼそりとつぶやいた。男は首だけで返事をしてお幽を送り出す。
お幽が扉を閉める音がすると、男は飛び上がって自室へと転がりこんだ。すぐに小型カメラの再生の準備をする。
男はどうしても確かめたかった。自分は悪くないのだ、これに何も映ってなければ問題ないのだ。そうだそうだ――。
画面に録画内容が再生される。
一日目。
男が一度も帰ってないのだから、トイレを使用する者は誰もいない。
退屈な変化しない映像。早送りで飛ばす。
二日目。
やはり変化無し。
三日目。
心臓がどきどきした。変わった様子は無い。
四日目。
腕を掻きむしって耐えた。
五日目。
半分ほど再生してみる。やはり妄想はただの妄想でしか無かったと思った。男はへらへらと笑う。
四分の三ほど過ぎた頃、ガチャっと金属的な音が聞こえた。
ドアのノブを動かす音。
入ってきたのは当然お幽だった。
男は見たく無かった。どうせならこのまま目をつぶして盲目になりたかった。
それでも両手の隙間から盗み見る。
お幽は便座をあげて口に手を当てている。お腹を押さえて苦しそうだ。
――オエエーーッ!
今まで男の前では一度も見せたことの無い醜怪な表情だった。
地獄の亡者のような嗚咽の声をあげている。
――ゴボッ!
手で押さえていた口から薄い黄色の汁が滴り落ちた。
お幽は我慢できないのか、便器に向かって大量の黄色い汁を、滝のように垂れ流した。
――フゥー! ――フゥー!
獣が息をつくように肩を揺らす。
――はぁ、はぁ……
――こっちは思ったより空気が悪いわねぇ
――どうせもう十分楽しんだからいいけど
お幽とは別の何かが映っていた。
男は目を逸らそうにも逸らせない。
いつも笑いかけてくれたお幽はもういない。
――ああ気持ち悪い
――オオオオオオ――――
男は一つ思い違いをしていた。
お幽は胃液を吐いたわけではない。
純粋な排泄物を口から吐き出していたのだ。
茶色の固形物がお幽の狭い口からひり出されてきた。
それは見るのもおぞましかった。
あの綺麗な口から十センチ大の太い糞便が湧き上がってくるのだ。
男は涙を流していた。
あの口は何度も男が愛した口だったからだ。
――オッオッボオボォ!!
ひときわ大きい唸り声をあげて、お幽の口から茶色の糞便がこの世に生を受けた。
それはたっぷり栄養を吸い込んだかのように豊潤で、かぐわしい香りが画面を通してでも伝わってきそうだった。
お幽は口の周りを吹きながらふーふーと息をしている。
手が伸びた。
茶色く汚れた手がカメラの画面を覆った。
「あなたぁ?」
その声で急に現実に引き戻される。
お幽の声だ。何故だ。
部屋の鍵は確かに掛けていたはずなのに――――
後ろを振り向く。
白い肌と柔和な笑み。
男は理解していたが信じたくは無かった。
立ち込める臭気はお幽の口から発せられていた。
怖くてとても言い出せなかった。
見るとお幽は手に何か持っている。
緊縛プレイに使った縄だった。
男は理解した。
お幽が何をしたがっているのかを。
手を出してはならない存在。
分不相応の高望みはえてして身を滅ぼす。
薄れゆく意識の中で男は最後の後悔をするのである。
しかし、男にはいい年をしていても、伴侶が居なかったのである。別に顔が悪いとか不潔すぎるとかそんな致命的な要素は無い。ごくごく普通の男であるのに。実際言い寄る女性も多く、これまでに良縁の話も多数あったのが、男は全てそれを断っていた。
男には絶対曲げられない信念があった。
それは排泄行為を一切しない女でなければならない。と言う荒唐無稽な信念であった。
男の理想は遠く、遥か高みに存在していたのだ。本当の女様というものは、天女のように美しく妖艶で、妖精のように純粋可愛げでなければならない。世の中のドス黒い怨念に毒されてしまった女などは興味がない。それ故に、毒を出す行為=排泄行為、これをする女は女では無い。女という汚い毛皮を被った醜い獣なのである。
男は生まれつきからそんな偏狂じみた考えたを持っていたので、現実の女とはただの動く人形としか思えなかったのだ。ただし男がただのインポテンツであるというわけではない。人並みの成人男性の性欲があるのだが、単に女は性欲処理のための道具に過ぎない。本当ならばおぞましい排泄行為をする女と肌を合わせるなど、気持ち悪くてしかたないのだが、嫌々ながら付き合いと煩悩に任せて流されてしまうのである。
男は激しく悩んだ。自分はこのままでいいのだろうかと。
ある日男はぶらりと寂れた繁華街の小隅へと立ち寄った。何かあてがあるわけでも無かった。ふらりと誘われるように一軒の店舗の前で足を止める。
薄汚れた玄関口、外からはどんな店であるかは想像つかない。上を見上げてみる。古ぼけた長らく掃除がされていないであろう看板。
キューピットボーダークラブ八雲
何やらいかがわしいような店名だとは思ったが、男は運命的なものを感じて、勇気を持ってそのドアを叩いた。
店内はひっそりとしていた。人間味が無いというか、全く人の気配が無く、ここが現実世界ではなく虚構のパラレルワールドであるかのような錯覚に男は陥った。
「あら、いらっしゃいませ。珍しいですね?」
男は声のする方を向いた。受付らしき場所、そこには妙齢の女性と思われる――不思議な形状の帽子をかぶって、一体何年前のセンスなのだろうか、遠くからでもよくわかる厚い化粧をした人物が座っていた。
「あ、あの……、ここは?」
男はその女性の側まで近寄る。やはり声の枯れ具合といい、随分年齢がいっているように思えた。厚い粉化粧でも覆い隠せないほどの、乾いた砂漠が、間近で見るとよくわかるのだ。
「ここは結婚相談所でございます。男と女の愛の境界をサポートする、我らの信念はそこにあります」
女はわざと一オクターブぐらい高い作り声で言ったが、男にはまるわかりだった。どうしてもこの女性からは、背伸びした若作りをしているという印象しか感じられなかったのだ。
結婚相談所と聞いて、男はなるほどと思った。ここなら自分の理想する女性が見つかるかもしれない。世界は広い、もしかして排泄行為をせずに生きている女性がいるのではと、男は期待に胸躍らせた。やはり偶然足が向いたのも、運命が自分を呼び寄せていると感じた。
「どうなさいますか? ご新規で登録しますか?」
男は少し考える。どうせ仲立ちをしてもらうなら、こんな古ぼけた店でなくてもいいのではないか。そういえばこの妙齢の女性は、皆目一番に珍しいと発言した。男が見る限りもこの店は流行っている様子が無い。店の顔である受付に、こんな食指がわかないような女性を配備しているのがその証拠だ。
「ふむ……。少し考えさせてください」
「あら、そうですか? それではこのボーダークラブの利点でも説明いたしましょうか。とある筋の方には有名なんですのよ? ここ? お客様は運がよろしいですわ、おほほほ……。それでは第一の利点、あらゆる世界から境界を越えて、あなたの理想の伴侶を導き出す、無尽蔵の情報網。どんなに趣味嗜好が偏っていても、きっとあなたに似合う相手は見つかるです。第二に結婚までの熱烈なサポート体制。お二人の仲スムーズに円滑にいくように、手取り足取り如何なる手段をつかっても…………」
女の話は長かった。初めの方を聞いただけで飽きてしまったが、男の欲望を満たすには十分だった。特殊な嗜好でも必ず見合う相手を探すと言ったのだ。なんというか排泄行為をしない女性というのも、男は理想だけで現実には絶対存在しないと、心の奥底では諦めかけていた。だがその願望が今、実現するかもしれないのだ。何を迷うことがあるのか。
男は喜んで登録する旨を伝えた。
「はい、ご登録ありがとうございます。あ、料金の方よろしいでしょうか? よろしければこちらの紙に記入お願いします」
住所性別生年月日趣味特技と諸事項を記入するための用紙が渡される。金額の方は少し高いかなとは思ったが、先ほどの説明により、どうやら通好みの店であるような気がしたので、何の問題も無く受け入れた。
「赤い〇がついた欄は必ず記入お願いしますね」
男は順々に用紙の空白を埋めていった。あなたが相手に一番に求めること、これを見て男は丁寧にやや大き目の文字で、絶対に排泄行為をしないこと、と書いた。普通の店ながら精神鑑定されるレベルではあったが、この店の雰囲気と、謎めいた妙齢の女性の存在により、すらすらとペンが進んだ。
「はい、書き終わりました」
男は誤字が無いかチェックした後、女性に紙を渡した。女性は上から下まで目を皿のようにして用紙を舐め回すように見る。
「すいませんが、ここの種族の欄、空白ですが? 特に拘りが無いでよろしいのですか?」
「は……、それは……」
男は種族の欄には何も書かなかった。種族と言われても人間以外と結婚することなどできないからだ。まさか犬猫と結婚させる気でもあるまいし。
「もしや、動物……とか?」
男は念のため聞いてみた。話がこじれて獣姦にまで発展してしまったら一大事だ。
「あ、いえいえ、紹介するのは見た目は……、人間ですので……」
女性が何か喉奥に挟まったような言い方をしたのが気になった。見た目がとはどう意味なのだろうか。あまりにも容姿が醜いことの比喩なのか、男は少し迷ってしまった。どうしよう、この機会を逃したら一生排泄しない女性とは会えないかもしれないのだ。この際少々身なり振る舞い年齢その他もろもろも含めて享受しようと思った。
「はい、お願いします。人間ならば問題ありません」
「あ……。はい、それはよかったです」
女性は心の底からほっとしたように息を吐いた。
「はい、これで登録は終わりです。それではお相手が見つかりしだい、連絡しますので……」
その後の細かい質問はあったが、男は抜かりなく答えて店を後にした。
排泄行為をしない女性が本当に見つかるのか――。男は半信半疑ながらも、夢見る女性の面影を想像して天を仰いだ。
相談所に登録してから一週間後、思いがけず連絡があった。男は半ば諦めかけていた。やはりあれは愚行でしかなかったと。あからさまに専門的な雰囲気で客を釣り、それなりの金額を騙し取る詐欺であると、どうしようもなく後悔が襲ってきたのだ。それ故に相談所からの電話は男の思考を激しく混乱させた。
巷には結婚詐欺というのも流行っている。相談所で紹介された相手に無理やりにでも結婚させられ、結婚後一ヶ月ほどで理不尽なこじつけの理由で離婚を承諾させられてしまうのである。男は一度騙されたものの、二度と騙されないぞという気持ちで相談所へ向かった。もし排泄をする女性だったならば確固たる断る理由があるのだから。
「あ、わざわざご足労ありがとうございます」
妙齢の女性が受付で男を笑顔で出迎えた。一週間前とは服装も化粧も違っていた。年齢の割にはお洒落には興味こと欠かないようである。腕を組んで黙っていると、写真が貼り付けられた用紙が男の目の前に出された。
「これがお相手でですよ。あなた様のご希望通りの排泄しない、うら若き乙女の方です」
男は写真をまじまじと見た。ややぽっちゃりの体系で真っ白な餅のような肌。あまりにも白すぎて幽霊かと思うほどだ。名前は西行寺幽々子。幽の字を名前に使うとは珍しい。年齢はと……、男はこれもしかたないと思った。排泄をしない女性のためならと範囲は広く書いたからだ。趣味、食べること。中々結構だ、食事は生きることそのものなのだから。特技、琴、蹴鞠。ほう、西行寺という苗字といい、かなりの身分のお嬢様らしい。この写真も穢れを知らないように無邪気に笑っている。
「お綺麗な方でしょう? この年まで一人身なのが可笑しすぎるくらいですわ。由緒ある家元のお嬢様なので、お金も時間もありあまっているのです。男性の方には特に望むものはないそうですよ。ただ一つ、ずっと愛してくれさえすればいいとのことです」
男はこの写真の女性が一目で気に入ってしまった。しかしまだ油断はできない。写真ぐらいはどうにでも加工できるからだ。男はまだ詐欺かどうか疑っていた。そして肝心要の事実を確かめなければならない。
「あの、排泄の件なのですが」
「あら、写真だけでは信じられませんものね。どうしましょうか、実際会ってみればわかりますよ。彼女は排泄なんてしないことがわかりますから……」
男は妙齢の女性の自信の元がどこにあるかわからなかった。ともあれここまで来たのなら、男はどうしても西行寺幽々子なる人物に会ってみたくなった。色々と決めるのはそれからでも遅くはない。
男と西行寺幽々子は夫婦として絆を結んだ。たった三回ほど会っただけで男は結婚を決めてしまったのだ。
幽々子はとても美しかった。実際の年齢よりも十も二十も若く見えた。薄い着物から見え隠れする白い肉体。透き通るような肌には汗をかいたような不潔感は全くない。息をしていないかように大人しく、何を話しかけてもただニコニコと笑っている。佇まいからは良家の令嬢であるらしき気品が溢れ、動作一つ一つがおしとやかで上品で調和がとれているのだ。
男は幽々子に一目ぼれしていたのだ。何と言ったらいいのだろうか、幽々子には排泄そのものを意識させる要素が見当たらないのだ。趣味が食べることと書いてある通り、店に連れていけば普通の人間の三倍も四倍もの量を平らげた。しかしそれはどこに消えるのだろうか。皮膚は毛穴が存在しないかのように平坦で滑らかで、老廃物を溜め込んでいる様子は微塵もない。
幽々子は美味しそうに食事をした。ずっと見続けていても飽きなかった。
実際幽々子がトイレに行くことは、男が見る限りでは皆無であった。どんなに食べてもどんなに水を飲んでも、ケロッとした表情で笑っている。この笑顔を男はずっと見ていたかった。
男は直ぐに幽々子に告白し、幽々子もそれを受け入れてくれた。
挙式は二人だけでしめやかに行われた。
「あなた、私のことをお幽と呼んでくださいな」
しばらく見つめ合う視線。男は無言で頷き熱い口付けをかわした。
こうして男とお幽の奇妙な同居生活が始まった。お幽は家事全般をそつなくこなした。炊事洗濯掃除、重箱の隅まで目が届くのか、普通の男ならば見逃してしまう部分も、お幽は目ざとく見つけて改善してしまうのだ。狭い男のマンションも花が咲いたかのように、幸せの花びらが舞った。
男はお幽にそれとなく聞いてみた。本当は排泄行為をするのではと。
「いいえ、私はしていません。私には必要ないのです」
男はそれが本当なのか嘘なのかわからなかった。
夫婦となったらからには二人は褥を共にするのが当然だ。
お幽に抱きついて舌を絡めあう。男は気づいていた。お幽には臭いが全く存在しないのだ。これこそが、男がお幽を選んだ理由に相違なかった。いくら何でも真っ当な人間が無味無臭などとはあり得るのだろうか。それは人間とは別の、何か物の怪か魑魅魍魎に等しい――。
その事実も男は気にも留めなかった。汗でべったり濡れて、臭気を撒き散らす女とは比べ物にならない、別格すぎるほどの心地よさだったからだ。簡単に言えば、二次元世界の理想の美少女が、この現実に現れたかのような錯覚――そんな倒錯的な現実感だった。
「ああ、あなた、あなた」
お幽の声がうわずる。男はお幽の白い着物を脱がしにかかった。白くて美味しそうな脂肪が、ふんわりケーキのようにデコレーションされた肉体。顔を紅潮させながら着物を必死につかむお幽の恥じらいがたまらなくいとおしい。
着物はお幽の抵抗もむなしく脱がされる。一糸纏わぬ生まれたままのお幽の姿、男が夢にまで見た理想の彫刻に違いは無かった。
男はお幽の秘所を愛撫しようと顔を近づけた。お幽の白い股、白い白い、どこまで行っても平坦でなだらかな平地。男は頭がおかしくなった。あるはずのものが無いのだ。少し頭を整理してみた。お幽には女性器が存在していなかった。ただ幼い稚児のような真っ白い肌が股を占めているのだ。これでは小便のしようも無いではないか。
男はまさかと思いお幽の腎部を後ろから眺めた。予想通り尻穴も無かった。白い柔らかそうな肉だけが存在している。
「あなた、恥ずかしい、見ないで」
お幽は濡れた声で言った。
男は納得した。これが排泄行為を一切しないという女性の真の姿なのだと。排泄という淫らな行為は穴がなければ出来ない。それを根本から無くすとは何たる発想であろうか。
男は本来ならば人間ではあり得ない化物に、恐れおののき逃げ回るべきだった。何故だろう、排泄をしない女性の神聖化、天使のような超越した存在としてお幽をとらえてしまった。汗もかかない無味無臭の乾燥した肉体が、男の願望そのものを体現していたからだ。
「あなた、あなた……」
残る穴は一つだけだった。お幽は舌をいやらしく絡ませてくる。味も臭いもしない不可思議な涎。それすらも男には性欲を昂進させる強力な媚薬と成り得たのだ。
お幽の舌は長く、清潔で、純真さの塊だった。お幽は男の前で裸になり、少女になったのだ。満足ゆくまで男はお幽と口内性行を楽しんだ。
「あ、ふぅん……」
何十時間にも思える熱い接吻の後、男はいきり立った自分自身をお幽の口元へと持っていく。お幽は全てわかっているかのように、それを小さな口で含んだ。
「あむ……」
お幽の口内は冷たくて、それでいて暖かかった。口を窄められると、まるで軟体動物の吸盤に吸い付かれる心地がした。艶かしい舌は亀頭周囲を重点的に責め嬲る。魂を吸われるかのような吸引力。この口技は一時の経験ではできない。数年数十年の時を経て会得したかのような、凄まじい粘膜運動と舌の滑らかな胎動。
「んー……」
死人のような上目遣いが男を襲った。根元まで全部お幽に捕食されてしまう。
男は爆ぜていた。
白い子種がお幽の体内に消えていく。
「んっ、んっ、ん――」
イッた直後の性器にも容赦なくお幽の舌が這い回る。
口内の粘膜を上手に使いながら残り汁も全て吸い取られてしまった。
「あん……あなた……、おいしい……」
恍惚に染まった表情。口内に射精されて満足したようだった。性器が無いということは子供は絶対にできないのだろう。あの相談所も重要なことを隠しているものだと思ったが、天使の肉体を手に入れた男にとっては、それはとても些細なことだった。
お幽との共同生活は順調にスタートした。食費が数倍に増えたが男にとっては何の痛痒にもならない。
夜の営みも変化を求めて、お幽をを縛ったり逆に男が縛られたりした。お幽はどっちも好きなようである。きつめに緊縛されると涙を目に溜めながら、必死で性器を咥える。あなた、あなたと言いながらせつない声をあげて潤滑液を滴らせて喉奥まで咥え込むのだ。
攻めに回った時のお幽の表情もまた違った。小悪魔の少女のような笑顔。死霊のようにニイと笑い、拘束されて動けない男の体全体を、隅から隅まで舐め尽す。男は動けない己の状態に恐怖しながらも愉悦を感じ取った。顔を飽きるまで舐められた後男根を千切れるかと思われるほど乱暴に扱われ、激しく吸われる。
男とお幽は非常に仲のいい良好な関係を築いていった。
結婚してから瞬く間に一ヶ月が過ぎた。忙しい仕事の合間のつかの間の休日、男はトイレの水が溢れているのに気づいた。男の手には負えず、すぐに業者を呼んで対応してもらった。原因は水道管の詰まりだということだった。
男は長年このマンションに住んでいるので、色々とガタがきたのだと思い込んだ。
また一週間、二週間と時は過ぎた。
そしてある日、トイレの水がまた溢れてしまったのだ。すぐさま業者を呼んだが、原因はまた同じとのこと。男はこれはおかしいと思った。マンションのトイレはほぼ男専用である。それも使用するのは朝と夜と休日ぐらいである。ほとんど一人で使用してこんな短期間に詰まるものなのだろうか。
お幽は排泄行為をしないのだから関係ない。したくてもできないのだ。
男は不思議に思いながらも、忙しい毎日の中に忙殺されていった。
また一週間が経った。
トイレは汚物まみれになっていた。一体どういう詰まり方をすればこうなるのだろうか。まるで逆噴射したかようにトイレのタイルを茶褐色の汚物で塗らしていた。
やはり男の手ではどうしようもなく、業者に頭を下げながら処理してもらった。
男はこの出来事には辟易してしまった。おかしい、立て続けにこんな詰まりが起るわけはない。
男は頭を悩ませてイライラしてしまった。隣に悲しげに座るお幽を見る。小動物のように怯えている。
「あなた、あなた……」
男は優しくお幽を抱き寄せた。
お幽が関係ないことは自分がよくわかっているのだ。たまたま悪い偶然が重なっただけと男は信じたかった。
一度芽生えた不安は中々拭えない。近頃マンションの部屋が臭い気がする。一度トイレが汚物まみれになったからかもしれないが、いくら臭い消しを置いても隠せないのだ。男の不安は更につのった。
ある時意を決して、あの結婚相談所へ行ってみようと思った。何か文句を言いに行くわけではなく、少し話しを聞いてもらいたかったのだ。
以前と同じように繁華街の隅へと歩く。上を見るとあの古ぼけた看板が――無かった。あの店舗自体が忽然と消滅し、閑散とした空き地になっているのだ。記憶違いではない。あの時と絶対に同じ場所。
男は怖くなって何者かに追われるように逃げた。
三度目のトイレ事件が起ってから、男はあまり自宅に帰らなくなっていた。あれほど愛していたお幽が怖いのだ。相変わらず汗もかかずに肌はさらさらなのだが、どうにも居心地が悪いのだ。やはり排泄をしない女など現実にはいないのではないか。お幽とはもう一週間も肌を合わせていない。部屋の中がむせかえるような臭気でそんな気分にはならないのだ。
精神がまいってくると普段の仕事もおぼつかない。男は近頃めっきり痩せていた。まるで亡霊に取り付かれたように、青白い顔をしているのだ。
男は怖くて怖くてたまらなかった。
当ても無く繁華街を歩く。ふと立ち止まり店舗の看板を見る。
河童の便利屋さん
男は誘われるようにその店に立ち寄った。店内は専門的な工具や機械部品が所狭しと並べられている。男はぼんやりとして歩き回った。
「あー、古明地さーん。ちょっとそこ片付けといてー」
「はーい店長。今すぐにー」
緑っぽい帽子被った女の店員が、別の背の低い店員を呼んだ。男は別に気にするまでもなく金槌がおかれた棚を眺めている。
「えーっ? 本当に? でもあれは特注品だし……」
「大丈夫ですわ。きっといけますわ……」
「……この世界では、やばかったり……まぁ、我々でも……」
「……困っている人には救いが必要なんですのよ?」
店員二人がぼそぼそ話している。当然男の耳には何も入らない。
「お客さんお客さん! ちょっとちょっと!」
気立てのよさそうな女の顔が男の顔が目の前に広がる。どうも日本人とは思えない容姿だった。なんというのだろう。爬虫類とか魚類とか、そっちの方面に似た顔だった。
「いいもの、いいものありますよ。お客さんにピッタリのブツがあるよ! へっへへっ!」
緑っぽい店員は妙な言葉使いで男に話かけた。
「こっちこっち!」
何事かと思い男は躊躇したが、思いのほか力強い店員の手に引っ張られて、店の奥まで連れ込まれてしまった。
「大丈夫大丈夫、とって喰おうなんてしないから! ここではね!」
店員は訳のわからないことを言った。男は狼狽するしか無かった。一体何をする気なのだろうか。さっきから緑の店員の後ろから、もの凄い形相で睨んでいる小柄な店員の目が恐ろしかった。
「これこれ! 超小型マイクロカメラ。他所ではおいそれと手に入らないよ! 簡単装着擬態光化学カムフラージュ機能標準装備の優れもの! 簡単録画で即時再生。この機能つきてお手軽価格のこの値段! どう? 欲しいでしょ?」
男は不思議に思った。どうしてそんな盗撮にしか使えないような物を、自分に売りつけようとするのか――。男は恐怖を感じてやんわりと断った。それに持ち合わせが足りなくて今すぐは払えなかったからだ。
小柄な桃色の髪の店員が何か耳打ちをしている。
「これはこれは! お客さん買い物上手だね! 半額、半額でどうだい? これ以上はまけられないよ!」
緑の店員はどうしてもこの品物を売りつけたいらしい。男が断っても断っても逃がさずに商品を勧めた。
突然ポンと肩を叩かれる。振り向くと桃色の髪の店員がニヤリと不気味な笑いを浮かべていた。男の思考は無情にもそこで途切れた。
「お買い上げ、ありがとうございまーす!」
「ありがとうございます」
男が気づくとレジで会計を済ませていた。悄然としない気持ちを抱えながらも、男は何故か納得して家路についた。
ドアを開けると溜まった臭気がむわっと膨張する。久しぶりの帰宅だった。お幽はそんな男も笑顔で出迎えてくれる。
男は夜お幽が寝静まった後、こっそりと起き出しトイレへと向かった。自分の心が恐ろしかった。非人道的な行為に身を染めようとしているのだ。大丈夫、大丈夫と男は根拠の無い念仏を唱えながら装置を取り付ける。
小型カメラは簡単に取り付けられた。どんな構造になっているのか不明だが、白いタイルにすっかり同化して、装着した本人でさえわからないくらいだ。
気持ちの悪い汗をかきながらベッドに戻る。
男はお幽に心の中で詫びながらずぶずぶと眠りに落ちた。
仕事が山積みになっている。男が家に帰ったのは一週間後だった。もう臭気は最高潮に達していた。鼻というものは有る程度まで臭いに慣れるものであるが、この臭いは度を超しているのだ。とても我慢できるものではない。
お幽はやはりいつもと変わらずにこにことしていた。臭くはないのだろうか、その疑問を聞くのさえ躊躇われた。初めはあれほど優美に思えたお幽の笑顔が怖くなった。この世ものではない、悪魔か、それとも――。
「買い物に行って来ますね……」
居間に座っていたお幽がぼそりとつぶやいた。男は首だけで返事をしてお幽を送り出す。
お幽が扉を閉める音がすると、男は飛び上がって自室へと転がりこんだ。すぐに小型カメラの再生の準備をする。
男はどうしても確かめたかった。自分は悪くないのだ、これに何も映ってなければ問題ないのだ。そうだそうだ――。
画面に録画内容が再生される。
一日目。
男が一度も帰ってないのだから、トイレを使用する者は誰もいない。
退屈な変化しない映像。早送りで飛ばす。
二日目。
やはり変化無し。
三日目。
心臓がどきどきした。変わった様子は無い。
四日目。
腕を掻きむしって耐えた。
五日目。
半分ほど再生してみる。やはり妄想はただの妄想でしか無かったと思った。男はへらへらと笑う。
四分の三ほど過ぎた頃、ガチャっと金属的な音が聞こえた。
ドアのノブを動かす音。
入ってきたのは当然お幽だった。
男は見たく無かった。どうせならこのまま目をつぶして盲目になりたかった。
それでも両手の隙間から盗み見る。
お幽は便座をあげて口に手を当てている。お腹を押さえて苦しそうだ。
――オエエーーッ!
今まで男の前では一度も見せたことの無い醜怪な表情だった。
地獄の亡者のような嗚咽の声をあげている。
――ゴボッ!
手で押さえていた口から薄い黄色の汁が滴り落ちた。
お幽は我慢できないのか、便器に向かって大量の黄色い汁を、滝のように垂れ流した。
――フゥー! ――フゥー!
獣が息をつくように肩を揺らす。
――はぁ、はぁ……
――こっちは思ったより空気が悪いわねぇ
――どうせもう十分楽しんだからいいけど
お幽とは別の何かが映っていた。
男は目を逸らそうにも逸らせない。
いつも笑いかけてくれたお幽はもういない。
――ああ気持ち悪い
――オオオオオオ――――
男は一つ思い違いをしていた。
お幽は胃液を吐いたわけではない。
純粋な排泄物を口から吐き出していたのだ。
茶色の固形物がお幽の狭い口からひり出されてきた。
それは見るのもおぞましかった。
あの綺麗な口から十センチ大の太い糞便が湧き上がってくるのだ。
男は涙を流していた。
あの口は何度も男が愛した口だったからだ。
――オッオッボオボォ!!
ひときわ大きい唸り声をあげて、お幽の口から茶色の糞便がこの世に生を受けた。
それはたっぷり栄養を吸い込んだかのように豊潤で、かぐわしい香りが画面を通してでも伝わってきそうだった。
お幽は口の周りを吹きながらふーふーと息をしている。
手が伸びた。
茶色く汚れた手がカメラの画面を覆った。
「あなたぁ?」
その声で急に現実に引き戻される。
お幽の声だ。何故だ。
部屋の鍵は確かに掛けていたはずなのに――――
後ろを振り向く。
白い肌と柔和な笑み。
男は理解していたが信じたくは無かった。
立ち込める臭気はお幽の口から発せられていた。
怖くてとても言い出せなかった。
見るとお幽は手に何か持っている。
緊縛プレイに使った縄だった。
男は理解した。
お幽が何をしたがっているのかを。
手を出してはならない存在。
分不相応の高望みはえてして身を滅ぼす。
薄れゆく意識の中で男は最後の後悔をするのである。
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