
アリスが病気になった。
苦しそうに咳をしながらベッドに横たわっている。脂汗を垂らして顔を紅潮させ、疼痛に近い断続的な苦しみを我慢しているように見えた。
「大丈夫か? 苦しいのかアリス?」
ベッドを覗き込むようにして霧雨魔理沙が言った。アリスと魔理沙は仲のよい友人同士だった。魔理沙の時には無謀とも言える突飛な行動にもアリスは付き合ってくれた。必ず初めは小姑のように愚痴を言うのだが、結局最後には折れて渋い顔をしながらも行動を共にするのだった。
「ん? うん……。私は大丈夫だから……」
そのアリスが風邪をこじらせたのか、今は病臥の状態にあった。酷く苦しそうな咳をして、高熱に苛まれている。アリスはただの風邪よと軽く言っていたが、魔理沙はにはたまらなく不安だった。
ある日アリス邸を訪ねると、いつもの澄ました顔ではなく、ぐったりとした様相でしなびたベッドに横たわっていた。多少調子の悪い面持ちであっても、無理をしてでも気丈な態度を保つアリスからは想像もつかなかった。
「なぁアリス? やっぱりただの風邪じゃないって。もう倒れてから一週間になるんだぜ? 永遠亭でちゃんと診てもらった方がいいって」
「駄目、魔理沙。そんなの迷惑だから……。私は大丈夫よ……。人間よりもずっと丈夫なんだから、これぐらいでまいる訳がないわ。ゴホッ! ゴホゴホッ!」
そんな空元気を見せるアリスがとても悲しかった。今すぐにでも永遠亭に連れていかなければと思い、アリスの肩に手をかける。その肩は――思いのほか痩せていた。
「やめて、本当に、本当に何でもないから……」
アリスは魔理沙の手を無下に払いのけてしまった。
「そ、そうか。じゃあまた来るからなアリス」
魔理沙はそれだけ言ってアリス邸を後にした。
アリスはいつも自分で何とかしなければ思い込んでいるふしがある。魔女としての自分を誇りに思い、決して他人に弱みを見せないように振舞う。その変わらない気丈さは、数年連れ添った友人の魔理沙の前であっても変わらない。その事実について、魔理沙はどうしても不満を感じずにはいられなかった。
「ま、あのアリスのことだ。自分のことは自分でよくわかっているんだろう。私があんまりとやかく言っても、こっちが気疲れするだけだぜ」
そう心の内に納得させて、魔理沙は夕暮れの魔法の森で家路へと急いだ。
鬱蒼と茂る木々は深い緑色を形作る。多種多様な生命体を有する幻想郷の魔法の森。赤い夕日が暮れかければ、その場は一瞬で、血肉を喰らい、か弱い人間や小動物を主食とする妖怪達が、跳梁跋扈する異世界へと変貌する。はるか彼方の山に西日は削られようとしていた。魔理沙は何かに追い詰められるようにして、足早に森の中を突っ切った。
「何だ? あれは?」
ふと前方の視界に地面に蹲っている何者かの影を認めた。箒をぐっと握り締めて、ゆっくりと近づく。魔理沙は警戒を怠らなかった。夜が近いこの時間では妖怪の動きが活発になる。無防備でただの人間が近づいて、その身を喰らわれてしまっても何の文句は言えない。
よくよく近づいてみると、その影の正体がわかった。かなり小柄な体格でふわりとした桃色の髪に、ひらひらとした服装。人間か妖怪かはわからないが、とても可愛らしげな少女が草を握り締めながら、ぐっと歯を食いしばって何かに耐えていた。
「お、おい? どうしたんだぜ?」
魔理沙は当然のようにその人物に声をかけた。ごく一般的な親切心に従いそばへと近づき腰を下ろす。
「あ、ああ……。申し訳ございません。少しばかり、その――差し込んできたものですから」
見ると少女は左手で腹部を押さえて蹲っていた。眉間に皺を寄せて苦しげな表情、肌は夕闇がさす光の中でも際立って白く透き通っていた。どこか人間はありえない――魔の眷属である予感、その第六感の警鐘に魔理沙は一時躊躇した。
妖怪は人を騙そうとする。それは魔理沙の友人の博麗霊夢にいつもこっぴどく聞かされていることだった。特に博麗の巫女である霊夢とは違って、妖怪から直接的に身を守る手段は乏しい。だから魔理沙は妖怪につけいる隙を与えまいと、常日頃から肝に銘じていたのだが、今日ばかりは勝手が違っていた。
「は……、あぁ」
少女が甘たるい嗚咽を漏らし身を翻した。その瞬間、熱情的な視線に射止められた。何かを訴えるような、深く底知れない瞳が魔理沙の脳を直撃する。
「お、おい! どうしよう……? ここはもう日が暮れるし、ここまま放ってはおけないぜ」
苦しそうに少女が息をつくと、細い肩が激しく上下した。短く切り揃えられた髪から白く綺麗なうなじがにゅっと覗いた。片手でもゆうに回ってしまいそうな程細い首筋に、魔理沙の心はかき乱されてしまった。守ってやらなければ、辺りが闇に染まれば妖怪達はこの少女を襲うに違いない。魔理沙は信念に従った正義感によって動いたつもりだった。少女が心の奥底に闇を潜めた妖怪という可能性は、万に一つも考えなかった。
「さぁ私の肩につかまるんだ。私の家はすぐだぜ。とりあえずそこで休もう」
魔理沙は少女を立たせて肩を貸してあげた。少女の体重はあまりにも軽かった。魔理沙よりも見た感じでは一回りも小さいが、それはこうやって直に触って見れば、少女の華奢な骨格な否が応にもわかってしまうのだ。
「ああ、ああ、すいません……」
そう言って少女は細い両手首を魔理沙の首に絡ませてきた。手のひらが冷たくて気持ちよかった。触られているとどんどん体温が奪われそうになる感覚に陥る。魔理沙は妙な気持ちになってしまった。このまま白い少女と一つになって闇に溶けてしまいたい――それは極めて危険な思考だった。
「ちょっ……、そんなにきつくしないで欲しいぜ」
何とか気を取り直して、魔理沙は言葉を発した。少女はしなだれかかってくるように身を委ねてくる。その軽すぎる体を魔理沙はもう面倒だと思い、勢いづいておんぶをして背負った。案の定、少女の体を魔理沙は余裕を持って背負うことが出来た。膝裏に両手をかけて、すっと背中に乗せて安定感を保つ。
「よし! これで私の家まですぐだぜ」
「ありがとうございます。ご親切に……」
耳元で少女に囁かれると、心が急に色めきだち早く行かなければと思った。が、気持ちが焦るばかりで歩は進まない。普段から力仕事をしない魔理沙にとっては、軽いと思われた少女一人の重さでも、数メートルで足腰が悲鳴をあげてしまった。加えて少女の柔らかい感触を背中に直接受けて、身悶えするような甘くくすぐったいような気持ちが魔理沙を襲った。膝裏から太腿へと両手がずれる、細い肢体はどこもかしも大理石のように冷たく心地よかった。
首筋に少女の甘い吐息がはぁと降りかかると、脳髄が痺れて倒れ込んでしまいそうになる。魔理沙は焦った。早く早くと思いながら、いつもなら数分で通る道を、数十分にも思える疲労を携えながら何とか力を振り絞って進行した。少女の薄い体がぴたっと張り付き、頬や顎を細く白い指でくすぐられる。魔理沙は何度も異次元の重圧に押しつぶされそうになりながらも、やっとのことで霧雨邸へと到着した。
「や、やっと着いたぜ。はぁ、はぁ」
ほっと一安堵をして少女を背中から下ろす。先ほどまで腹に痛みを抱えていたとは思えないような、軽やかな動作で少女は地面へと着地した。魔理沙をにっこりと満面の笑みでくるむ。その笑顔に魔理沙は取り込まれた。もう腹は痛くはないのかと思ったが、全てがどうでもよくなってきた。
少女を家に招き入れてソファーに座らせた。熱い紅茶を淹れてテーブルにコトリと置く。少女の様子はケロっとしていて至極不気味に思えた。
「うふっ、ありがとうございます。何だか急に楽になったみたいで……」
足をもじもじさせて、恥ずかしげに答える。少女は妙な癖があった。魔理沙を決して正面から見ることはせず、若干体を斜めに傾けて、横目でこちらを窺うようにして視線を送ってくるのだ。
部屋の明かりの中で見ると少女の美しさは際立った。やや切れ長の瞳に整った目鼻立ち、血の気のない白い肌は死化粧を施したかのように透き通っている。桜色の唇がつんと尖っていて、白い肌に紅一点の彩りを添えていた。その少女が何か情のこもった濡れた瞳で、チラチラと見てくるので、魔理沙は同姓ながら何やら変な気分になってくるのだった。
少女がそのあどけない唇を使って紅茶を飲む。ごくりと細い喉が蠢く。少女が美味しそうに目を細める。その動作に逐一、魔理沙はぼんやりと目を奪われて魅入られてしまっていた。
「……ええと、ま、調子が良くなったのならそれはよかったぜ。おっとまだ自己紹介まだだったな。私は霧雨魔理沙、魔理沙でいいぜ」
自分のカップに紅茶を注ぎながら、気分を変えるようにしてそう言った。
「魔理沙さんですね。うふふ、いい名前ですわね。私は、さとり、古明地さとりと申します。か弱き妖怪の仲間ですわ」
魔理沙はさとりと名乗った少女を見据えた。そうか、今まで感じてきた妙な違和感は、全て妖怪だったからだと合点した。さとりの幼子のような可愛らしさの中に秘める妖艶さ。これも魔理沙よりもはるかに長い年月を生きた妖怪なら納得出来る。とりあえず魔理沙はほっとした。さとりは人間に害を為すような妖怪ではない。あの細腕では人間を殺すことは出来ない、ましてや根性の曲がった人間に襲撃される立場であろう。
思案に暮れていると、またじっと横目で見つめられた。魔理沙は自然と頬がほころんでにやけてしまった。さとりに見られると、頭の中がぽかぽかしてどうしようもなくなってしまう。細い腰に細い手足、ちょいと押せばころんと倒れてしまいそうな、儚く脆くも美しい存在。
「さ、さとりかいい名前だと思うぜ。うんそう思う」
魔理沙はうんうんと頷く。さてさとりも良くなったようだし、どうしようかと考えた。窓の外は漆黒の暗闇が広がっていた。このままさとりを帰してしまうのは危険だ。今日は泊まっていった方がいい、うんそうだそうだ。魔理沙は邪な気持ちは微塵もなくそう思った。
相変わらずさとりは陶然とした瞳で見つめてくる。無言の時間が長く、魔理沙は何か話さなければと思ったが、頭が浮ついていて考えがまとまらなかった。さとりの指先や整った顔を見ているだけでも魔理沙は幸せな気持ちになってしまう。この空間の中では言葉はいらなかった。さとりが柔和な笑みで魔理沙を包み、虹色に光るシャボン玉の中にさっくり取り込んでしまう。口を開かなくてもさとりは何もかもわかっているような――そんな歪んだ意思疎通の概念に捉われた空間に落とし込まれていた。
「ああっ、ええと、うーん」
数分にわたる沈黙の後、魔理沙は何か聞こうしたが口ごもってしまった。何を聞こうか? 初対面でいきなり心象を悪くしてはまずい。魔理沙は普段なら考えられないくらいに言葉を選ぼうと思った。さとりに好かれたい、もっとさとりと仲良くなりたいという気持ちがそうさせた。
「……ん?」
未だ考えあぐねていると、魔理沙はある重大な事実に気づいた。二人が紅茶を飲んだティーカップ、それはアリスと人里へ出かけた時に買ったものだった。アリスが無理を言って二つのお揃いのティーカップを購入したのである。自分の家に訪ねてくる人物といえば、アリスがほとんどなのだが、紅茶入れる時には必ずこのカップを使うように言われた。魔理沙としてはたまに来る霊夢と一緒の汎用性カップでも構わないのだが、アリスは気にいらなかったようだ。
そのような出来事があり、お揃いのカップの使用頻度は高かった。そして今さとりと魔理沙が使用しているカップは、アリス専用のカップだったのである。アリスが来てすぐお茶を出せるように、常に取り出しやすい位置に置いていたので、急なさとりの飛び込み訪問もあり、間違ってお揃いのカップを出してしまっていた。
(しまった……。これはアリス専用のティーカップだぜ。んー、まぁいいか。どうせ洗えばわかんないし……。さとりにも……わかるわけないか。こんな地味な柄どこにでもあるしな……)
魔理沙がそんな思案に沈んでいると、さとりはにこっと笑いかけて、もうすっかり冷えたであろう紅茶の残りを啜ろうとした。思わずぷっくりと膨らんだそれでいて形のよい唇を凝視してしまう。カップのへりに唇が吸い付くと、何故かアリスに申し訳ないような気持ちになってしまった。魔理沙は心の中でアリスに頭を下げる振りをした。細い喉を魔理沙に見せ付けるようにして、ごくごくと喉を鳴らし紅茶を飲み干していく。さとりの所作一つ一つが魔理沙を惹きつけた。いつまでも見ていたかった。もっと側で、近づいて、手を取り合って見つめ合って――。
少女じみた妄想は魔理沙の中で飛躍していった。それは親しい友人のアリス・マーガトロイド相手にも感じたことのない、不思議な感情だった。アリスはただ何かとちょっかい出してくる友人であり、時には疎ましく思うことさえあった。アリスも澄ました顔が美人だとは思ったが、さとりのそれは軽く常軌を逸していた。美しさの根源的な象徴と言うべきか、道を歩けば必ず人目を惹く存在であり、男でも女でもその姿態に見惚れずにはいられない。魔理沙は心の底からそう思った。
「はぁ……」
もはや話しかける気力もなくなった魔理沙は、無言の気まずさも無視して、呆然とさとりの整った顔だけを見つめていた。
「ふっ、ふ、ふ、ふふふっ」
さとりが突然、おかめの面のようにケラケラと笑った。口元に手を当てて、腹の底から湧き出る笑いを必死で堪えているように見えた。
「さとり?」
「あらごめんなさい魔理沙さん。とても有意義な時間を過ごして楽しかったですわ。今日は帰ります。今度会ったらもっともっとお話しましょうね……」
音もなく立ち上がり玄関の扉を開ける。魔理沙は後ろ髪が引かれる思いがしたが、さとりを呼び止めるに値する言葉は思い浮ばなかった。
「あ、うん、さよなら、さとり」
魔理沙はそれだけ喉奥から絞り出して、暗い森へ消えていくさとりの後ろ姿を見守った。
さとりと出会ってから三日が経った。あの夜の出来事を反芻してみると、どうもあれは現実だったとは信じ難かった。あそこまで白く美しい美麗の少女。魔理沙は狐にでも騙されたかと思って、八雲紫の式の八雲藍の姿を思い浮かべて、ぽかぽかと頭を殴った。
「うーん、こうしてても仕方ないぜ。もう忘れよう忘れよう!」
そう息巻いたが、あの狂おしいほどの情念に満ちた視線は忘れられるはずがなかった。どうしてさとりのことをもっと聞かなかったのだろう? どこに住んでいて家族は何人だとか何が好きかとか――。聞くべきことはいくつもあったではないか。魔理沙は一人後悔した。
「そういやアリスのとこ行っていなかったぜ。あいつのことだしそろそろ良くなっているかなぁ?」
魔理沙は気晴らしにでもと思い、久しぶりのアリス邸へと向かった。
依然としてアリスは床に臥したままであった。顔色が悪く生気がない。目は空ろで体全体の筋肉が萎縮しているように思えた。どうにも普通の風邪とは違う、何か得体の知れない病気に思えた。体をぶるぶる震わせて、数秒おきに恐怖に襲われるのか、部屋の隅にしきりに視線をやっていた。
魔理沙はドス黒い不安に駆られた。このままアリスが病魔に侵されて消えてなくなってしまう。魔理沙は友人の痩せた体に涙を流した。
あの状態ではロクなものは食べていないと思い、薄いお粥を作ってみた。あまり料理は得意ではなかったが、アリスのためを思って心をこめて作った。
「アリスーできたぞ。これを食べて元気出そうな? なっ?」
ベッドのそばでお盆にお椀を乗せてアリスに差し出す。食欲はあるのかスプーンを手に取ろうとするが、震えて中々つかめない。目がぎらついていて怖かった。やはりこれは風邪ではない。このお粥を食べて少しゆっくりしたら、永遠亭に連れて行こうと思った。
アリスが中々スプーンを持てないので、魔理沙は自分でお粥をよそってあげた。震えるアリスの口元へと湯気がもうもうとするスプーンを持っていく。
「ほらアリス。これ食べたら永遠亭に行こうな?」
「あっ、ああー」
餓鬼のような怨嗟のこもった声がアリスから放たれる。焦点のあっていない目がぎょろぎょろしたかと思うと、お粥をスプーンに齧り付きそうな勢いでぱくっとくわえこんだ。
「あふっ、あふあふっ! あふぃっ!!」
「お、おいおい……」
作ったばかりでまだお粥は十分に熱が残っている。冷まさずに口にかっこめばそうなるのは当たり前だった。アリスは口の端を赤くしてあわてふためいていた。
「まっ、魔理沙ぁ! なんてこと? 病気の私に、ゴホゴホ! おかげでやけろ、火傷しちゃったじゃなぁい! あんた私が死んでも平気なのね? そうなのね? あーっ! もうあっちいけぇ!」
「なっなんだぜ……。アリスがいきなり食べるから……」
魔理沙がなだめようとするが、アリスは取り付くしまもなかった。子供ように足をばたばたさせて腕を振り回している。ベッドの上のお盆が揺れて、お粥が床の上に盛大にぶちまけられてしまった。
「ああ、せっかくの……」
「うわーん。魔理沙の馬鹿馬鹿ぁ!」
なおも泣き叫ぶアリスを見て呆れてしまった。何だ病気だとは思っていたがこんなに元気があり余っているではないか。魔理沙は拍子抜けしてしまった。アリスの言うとおり妖怪とはかなり頑強なのかもしれない。しかし確実にアリスの肉体は痩せ細っていた。肌の色も健康的な肌とはほど遠くて、赤茶けたクレヨンをまぶしたかのようにくすんでいる。
肌――、その連想で魔理沙はついこの前の、さとりの木目細かな染み一つない白い肌を思い出していた。今のアリスとは全く比べ物にならない。精魂込めて作ったお粥を台無しにされた怒りもあり、魔理沙はもうアリスを半ば嫌気が差していた。そうだアリスはいつも一人でなんとかしようとする。そんなに一人が好きなら勝手にすればいいと思った。
「……じゃあなアリス」
魔理沙はそれだけ言って玄関へと向かった。アリスは後ろから何やら喚いていたが全て黙殺した。
明くる朝、眠たい目をこすって気だるい動作でベッドから起きた。魔理沙はさとりと会ってからというものよく眠れなかった。いざ眠ろうとすると、さとりの白い身体がくるくると曲線を描いて踊り、魔理沙の目を惑わして眠りにつかせないのだ。追いかけようとしても、その距離は永遠に詰まらない。そして疲れて立ち止まると、手を伸ばせば直ぐに届きそうな位置で、静かにあの優しい笑顔で笑っているのだ。
今さとりはどこで何をしているのだろうか? 魔理沙はその思いが伝わればいいと思いながら、ぼんやりと午前中を過ごした。
「ふぁーあ……」
かなり遅めの朝食と言う名の昼飯を軽くとり、ほっと一息をつく。アリスのとこへは昨日行ったからもういいやと思い、森でキノコ採取でもしようかと考えた。
「そうと決まったらさっそく実行と」
魔理沙は箒を持ち魔女帽を被り、手早く準備をして外へ出ようとした。玄関の扉を開けようとする。と、そのほんの微細な時間差で、扉の外からドンドンと魔理沙を呼ぶ音がしたのだ。
「なんだなんだ。せっかく人が外出しようって時に」
不測の事態に魔理沙は少々気が滅入ってしまった。一体昼間っから自分を訪ねてくるのは誰だろうか。色々予測を立てても当てはまるのは数人しかいない。アリスは病気なのだからここに来ることはない。だとしたら確率的に導き出される解は一つ。一番の信頼できる友人である博麗霊夢に違いない。そうだ霊夢が来てくれたのなら、ついでに聞き分けのないアリスを永遠亭に連れてってくれればいいと思った。あの狂乱したアリスの相手はもうごめんだ。霊夢なら異変が起きていないから暇そうだし適役だ。そうだそうだ霊夢に頼めば万事解決だ。
「待たせたな霊夢……?」
その人物は魔理沙の予想を大きくはずしていた。博麗霊夢の容姿と一分たりともかすらない、ちょこんとした背格好で、あの夜に出会った奇妙な少女のさとりの姿があった。寸分たがわぬ白い肌と、人の心を進んで弄ぶかのような憂いを帯びた瞳。際どく露出した細く白い足も健在で、魔理沙の記憶と完全に合致していた。
「あ、あの……」
この突然の襲撃に魔理沙は声を失ってしまった。
「魔理沙さんこんにちは……。あら? その格好はお出かけ前でしたか? ご迷惑なら、私出直しますので」
さとりは穏やかに言う。
「いやいや、全然そんなことないぜ。ちょうど森から帰ったとこなんだ。ほら、入って入って!」
魔理沙は嬉しさを隠せなかった。まさかさとりの方から訪ねて来てくれるとは。散らかした部屋を適当に片付けてさとりを招き入れる。テーブルにちょんと腰掛ける。やはり体を傾けて物憂げな表情で視線を向けてくる。
「これ、クッキーですのよ。助けてくれたお返しにと。魔理沙さんと二人で食べようと思って」
ふと見ると小さな赤いリボンで包んだ箱が置かれていた。白い手がしゅるしゅると器用にリボンをはずすと、中には茶色い固形の甘い匂いがしそうなクッキーの山があった。
「こ、こんなに……。おっとすぐに紅茶を入れるぜ」
「ええ、お願いします。ふふふ」
さとりは上品そうに口に手を当てて笑った。魔理沙は不思議な気分だった。ほとんど初対面に近いのに、さとりは何年も連れ添った恋人のような感覚がした。こちらの好み嗜好を全てわかっているような、悩みも喜びも分かちあえるようなそんな錯覚。実際にそんなことはないと思いながらも、魔理沙はもうさとりと仲睦まじい親友の気分だった。そうアリスより、アリス? アリスって誰だっけ? ああ、あの口が酸っぱくてプライドだけが高いだけの知り合いだ。綺麗で優しいさとりとは比べ物にならない。優しい? 何でそう思ったのだろう。綺麗はともかくまだほんの少ししか付き合っていないのに。まだ相手のことも全然わからないのに、何故? 何故?
魔理沙は自問自答しながら、ティーカップに紅茶をとくとくと注いだ。またアリス専用のカップだったがもう気にしなかった。さとりが口をつけたからもうそれはさとりの物に思えてしまった。
「ふぅ……」
自身も椅子に座りため息をついた。何だかそわそわして落ち着かないのだ。さとりに全ての所作を見られているかと思うと、むず痒くてたまらない。
「このクッキー紅茶とよく合いますのよ? どうぞ食べてくださいな?」
「あ……、う、うん」
ぼけっとしているとさとりが声をかけてきた。小さな口がクッキーを割りほぐす。不覚にも魔理沙は固形の菓子が、さとりの口内でどう咀嚼されるかを想像してしまった。しんと静まった室内ではどう隠そうとしても、咀嚼音が聞こえてしまう。魔理沙はそんないやらしい妄想をしたことを恥てしまった。気まずく思い顔を下に向ける。さとりは意に介した様子はなく、カップを手に取り紅茶を一口美味しそうに飲んだ。
「ふふっ、ほらとっても美味しいですわよ? このクッキー私の手作りなんですの。魔理沙さんと一緒に食べようと思って――魔理沙さんのために作ったんです。魔理沙さんと、二人きりで……」
さとりが身を乗り出してきたので、透き通る肌をよく観察できた。毛穴というものが存在していないかのように、つるんとして潤っていた。ほぼ初対面なはずなのにさとりの言葉はおかしかった。何でここまでして自分とクッキーを食べたいのか。その疑問も魔性を秘めた悪魔の瞳に包まれると、全てがどうでもよくなってしまった。自分のために、自分と二人きりでと言う言葉が、脳内に軽い恍惚状態をもたらした。
「もぐもぐ……。あ、これ美味しいぜ」
自分も食べなければと思い、茶色のクッキーに手を伸ばし、やおら口に放り込む。魔理沙はほとんど味を感じなかったが、盲目的にそう言った。いや、言わされたというのが適当か。頭がくらくらして気持ちが悪くなってきた。魔理沙は何とか流れを変えようと、素朴な疑問を聞いてみようと思った。
「ああそうそう、魔理沙さんの家は親切な妖精さん達に聞きましたわ。うふふ……」
タイミングよく聞こうとしたことを言われてしまった。何だろうか、さとりには全てこちらの考えることをわかっているような気分になってしまう。心が読まれるとは如何なる状態であろうか。妖怪、そうさとりは妖怪だ。もしかして心が読めても不思議ではない。心を読まれる。全てわかってくれる。い、いいやおかしい、気持ち悪いはずなのに何故か気持ちいい。あの目、あの目がいけないんだ。薄赤く光る瞳を見ていると変な気分になってくる。取り込まれて全て支配されてしまう。しかもそれが不思議と心地よいのだ。自分がさとり自身になったような倒錯的な感情。ああ自分は誰なのだろう。今も目を細めて柔和な笑みで見つめられている。ああどうかこのまま――――。
「どうしたんですか? 魔理沙さん? もっとお話しません?」
その声ではっと目を見開くと、さとりは顔を背けていた。長い長い妄想が魔理沙の時間を侵食しかけていたのだった。魔理沙はもう出来るだけさとりと目を合わさないようにと思った。変に思われても仕方ない。そうしなければ、妙な磁力に押しつぶされてまともに話なんか出来ないからだ。
「へぇそうなんですか、私にも可愛い妹とペット達がいますの。ですからちっとも寂しくなんかありません……」
「そっ、そうか、ははは……」
魔理沙は上の空でさとりと色々な話をしてみた。さとりには妹がいて、二人で暮らしているとのこと。動物を飼うのが趣味でたくさんのペットに囲まれているなど。どこに住んでいるのかとも聞いてみたが、さとりは決して明かそうとしなかった。深く聞こうとしても、首を傾けてにこにこ笑うばかりでさっぱり要領を得なかった。誰にだって聞かれたくないことはあるし、魔理沙もそれでいいと思った。
ひとしきり会話が終わるとまた無言の時間が来てしまった。頬杖をついて慈愛に満ちたような表情でじっと見据えられる。魔理沙はこの時間が好きになってしまった。言葉に出さなくてもお互いがわかりえると感じる。ずっとさとりを見ていると、脳が蕩けそうになる。魔理沙はさとりを無意識に愛してしまっていた。
数日おきにさとりは霧雨邸を訪ねて来た。魔理沙はいつも家にいるわけではないのだが、決まってさとりは魔理沙が在中の時にやってくるのだ。特に会う日時も決めていないのに不思議だった。
魔理沙はさとりで二人で他愛のない話をして笑いあった。さとりとは何を話しても会話がはずみ、いつもくすくすと笑ってくれた。時に疲れて無言になっても全く気遣いこともなく安心出来る。むしろこの無言で見詰め合う濃密な時間こそが、魔理沙の求めるものだった。目を射抜かれ脳を射抜かれ心臓を射抜かれる。魔理沙はしだいにさとりという存在に感化されていった。
さとりの白過ぎる肌、魔理沙はそれに憧れた。部屋の大きな鏡の前で自分の顔を見てみる。肌は褐色に近くて、顔立ちもどこか野暮ったかった。さとりの調和された美しさと比べて、あまりにも劣っている。魔理沙は酷い自己嫌悪に陥ってしまった。自分の顔も肉体も全てが嫌になってくる。どうしてこんな汚くて醜い体をしているのだろうかと。さとりはもっと綺麗だった。小柄で小さくて柔らかそうで妖艶で――。少しでもさとりに近づきたいと、しだいに魔理沙は考えるようになった。白く白く、もっと白く綺麗になりたいと。
「うーんどうもうざったいし、髪でも切ってみようかな?」
魔理沙は突然思い立った。さとりのように短髪にすれば少しは変わるかもしれないと。長い金髪はほとんど手入れがされていなくて痛み放題であった。それならいっそのこと、ばっさりいったほうがいい。
「ええい、ままよ!」
魔理沙は適当に当たりをつけて髪を切った。少々切りすぎたと思ったが、微調整を施して何とか体裁を保つ。冷水で風邪をひきそうになりながらも、細かい髪を洗い落とす。
髪型だけはさとりに似せた自分自身の姿が鏡に映った。どうもしっくりこない。さとりはもっとすらっとした感じだった。顔も小さくて肩幅ももっと狭かった。と、ここまで考えて魔理沙は後悔してしまった。努力とか技術ではどうにもならない根本的な問題の存在を。長い髪を切ったせいで余計に顔の輪郭がはっきりわかってしまう。顔のラインが無作法に見えた。肩も腕もいかつく硬い感じがして、どこか男らしさまである。
「……ま、慣れだぜ慣れ。すぐに慣れるさ」
そう言い聞かせて魔理沙はほっと一息ついた。髪型だけさとりに近づいてもまだまだ遠すぎる。あの白い肌が欲しかった。どんな生活してればあんな白い肌になるのだろうか。生まれつき白いのかもしれないが、日常的に太陽の下にあれば、嫌でも紫外線の恐怖を味わってしまうはずなのに。
魔理沙は一年に数回した使わない化粧台の前に座った。徐に白粉を取り出して顔にはためかせる。慣れない化粧に魔理沙は手間取った。
「んー、うーん……」
数分後魔理沙は頭を抱えていた。白いことは白いが顔だけ白くて首とのバランスが悪すぎるし、それにさとりのように自然な白さではなく、人工物の塗料で模倣された偽の白さだった。これではさとりに近づけないとがっかりした。魔理沙は何やらどっと疲れて、ぐったりとしてベットに大の字になりそのまま寝てしまった。度重なる徒労と焦燥感が魔理沙を追い詰めた。自分は絶対にさとりにはなれない、その思いが何度も頭をよぎった。さとりは妖怪なのに、人間とは全く違う生き物なのに。別に望みが叶わなくても、人間として生きていくのに問題はないのに、魔理沙はどうしても底知れぬ恐怖に襲われて仕方がなかった。
髪を切った翌日にさとりは来訪した。魔理沙は気が気でなかった。首がスースーする奇妙な感覚と同時に、見た目を大幅に変えた時の、回りの反応に対する気恥ずかしさ。それを享受するのはどこかくすぐったい気がしてしまうのだ。化粧はどうしても白お化けになってしまうので、薄く粉をはたいた程度に収めた。これでも少しはましになると魔理沙は信じていた。
「あら……?」
さとりは皆目一番に魔理沙の変化に気づいたようだ。顔が紅潮するのがわかり、まともに目を合わせられない。
「髪――切ったんですね?」
嬉しいとも悲しいとも似つかない抑揚のない声だった。笑われると思ったがそうではなく、魔理沙は幾分ほっとした。
「ふふっ、可愛いですね。魔理沙さんの魅力、この方がよく出ていますよ」
「え……? うん、ありがとう、さとり」
魔理沙は褒められて、胸がきゅうと縮む思いがした。さとりは魔理沙の後ろに回り、首筋を触りながら髪の先を撫でた。
「でも短いからといって、お手入れはぞんざいにしてはいけませんよ? どれ私が梳かしてあげましょうか?」
「うん……、うん」
断る理由は何もなかった。
二人は部屋に入って並んで立つ。安物のくしを手に取りさとりは魔理沙の髪を丹念に梳かしている。
「私の妹も髪には無頓着で、いつも荒れた髪の毛をもしゃもしゃにしているんですよ。私が梳かしてあげようと言っても、面倒くさいからと言って……直ぐに暴れるんですのよ。うふふ……」
魔理沙は無言でさとりのするがままにさせていた。体が密着しそうになって心臓がドキドキして、何かを話すどころではなかった。
「綺麗な髪ですね。ちゃんと手入れすればもっと綺麗になりますよ……」
「あ、ありがとうさとり」
さとりの髪を梳く手つきは優しい愛撫のようだった。地肌に軽く刺激が通りそれは一瞬で消えてしまう。そして段々と体を寄せながら、首や顎をさすったり手ぐしで器用にマッサージもされたりする。
「あっ、ああっ!」
指の腹が地肌に吸い付くように展開されると、いてもたってもいられない甘美な快感が魔理沙の脳を覆った。頭部の感じるツボを全部押さえられて、断続的な快感を無理やり絞り出されるような、強制的で魅惑的な愛撫だった。
「どうしたんですか? 血行がよくなるマッサージですよ? すぐ終わりますから動かないでくださいね」
さとりはそう言ったが魔理沙は耐えられなかった。
「だっ、だめだったらっ!」
年相応の少女の嬌声を出して身悶えた。さとりの愛撫は的確で、魔理沙の身体と心を決して逃がさなかった。
(何だこれ……。このままじゃ私おかしくなってしまうぜ。早く逃げなきゃ……。でも一体どこへ?)
「くすっ、ふふっ、ほらほら」
さとりの弄ぶような声が脳内を支配する。魔理沙の思考は定まらず、さとりを押し返すことなどは出来なかった。十本の指から波打つ大渦に巻き込まれて、溺れそうになりながらも何とか岸に手を伸ばそうとする。必死に泳いでも絶対に届かずに遠のいていく。口に何杯も水が入り、意識が途切れる寸前で、ぱあっと目の前の視界が開けた。
「うふふ、ちょっと遊び過ぎました。これでマッサージは終わりです」
「あん、はぁ、はぁ……」
やっとのことで魔理沙は解放された。そして落ち着く暇もなくさとりに質問される。
「化粧もしたんですね?」
「う、うん……」
「どうしてですか?」
「え……?」
さとりがまた首に手をかけてくる。甘く冷たい感触に再び包まれる。何故かと聞かれても魔理沙は答えられなかった。まさか本人の目の前で髪型も同じにして、白くなりたかったとも言えない。
「口のきけない子にはおしおきが必要ですね……」
喉元に白いが手がきつく食い込むと同時に、ふんわりと優しく抱擁される。苦しいのか気持ちいいのかわからない不思議な感情に魔理沙は支配された。
「あむ、あふっ」
「魔理沙さんって、コロコロしてて可愛いです。子猫みたいです」
抱きしめられて顎をくすぐられる。
「可愛過ぎてペットにしてあげたいなぁ……。どうですか? 楽しくなってきません? うふふ……」
「や、やめ……」
魔理沙は何とか抵抗しようとするものの、体に力が入らなかった。あんなに細いさとりの腕に押さえられているだけなのに、ピクリとも動かないのだ。
「ペットですよ。首輪をつけて放し飼いです。私の可愛い可愛いぺ、ッ、トにしてあげます」
ペットと言われて魔理沙の思考はぐらりと歪んだ。破廉恥な格好で首輪をつけられて、さとりの愛撫を受ける姿を想像してしまった。一度受け入れてしまえばその思想は止まることなく広がる。
「ああ私の言葉で惑わされているんですね? 本当に可愛いです。……チュッ♪」
頬に熱い接吻が押付けられる。魔理沙は完全に骨抜きになっていた。何故こうなったのかはわからない。でもさとりがそうするならそれは真実だ。
「そういえばまだ質問の答え聞いてませんでしたね? どうして急に髪を短く切ったり、顔に白粉を塗ったりしたんですか?」
「う……」
頭の中がドロドロして魔理沙は答えられなかった。
「んー? 何故ですか? 友人に教えてくださいな? 出ないとまたおしおきしちゃいますよぉ?」
天使のような笑顔だった。何か言わなければと思った。もうこのまま抱きしめられていると、体全体が溶けそうになっていまう。
「さとりと……」
「私と……何ですか? 早くその先を言ってください」
細身の白い手が首に爪をたててぎゅっと食い込む。
「さ、さとりと……」
(一つになりた……)
目を覚ますともう夜であった。魔理沙はほとんどさとりに抱擁された後の記憶は残っていなかった。さとりの姿はもう消えて、何があったのか聞く手段はなかった。魔理沙は悪い夢を見たと思って了解した。そう、髪を梳かしてもらっている内に眠ってしまって、呆れてさとりが帰ってしまっただけだ。そうに違いない。
魔理沙の髪は短くなっている。この断髪の現実だけは真実だった。一時の激情に任せて事を起こしてしまったことに、深いため息をついて悔いるのだった。
「んー今日はさとりが来るような気がする」
魔理沙は両手をぐんと伸ばしてそう言った。以前会ってからまた数日経っていた。遅い朝食を終えた正午前、魔理沙は久々にさとりと会えると思って無駄にうきうきしていた。根拠のない自信だったが、魔理沙は本心でそう思っていたのだ。
物臭にテーブルに突っ伏していると、ドンドンと扉を叩く音が聞こえる。喜び勇んで開けると、案の定さとりがいつもと変わりない姿で魔理沙を出迎えた。
「お変わりなく、魔理沙さん」
普段通りの優しい声が心地よい。やっぱりあの出来事は夢だったんだなと思った。さとりが首を絞めてくるわけがない。さとりは優しいからそんな真似をするはずがない。
「おっ、さ、さとり。ほら入ってよ」
魔理沙はどぎまぎしながら部屋に招きいれ、お決まりの紅茶を注いだ。さとりが澄まし顔でカップを手に取り紅茶を飲み干す。魔理沙はこの仕草が好きだった。何度見ても飽きない美しい所作が魔理沙の脳を喜ばせた。が、今日は何か違和感を感じた。どこがおかしいかなと思っても、それは中々見つからない。首を捻って考えてみると、その原因は視覚範囲の中にあった。
さとりの左手の薬指にピンク色の絆創膏が巻きついていたのだった。魔理沙はそれをじっと見ていると、むずむずして聞かずにはいられなくなった。
「さとり? その……左手の……」
「ああこれですか? ちょっとお料理をしていて、うっかり切ってしまいました」
「ああ、そっか。料理してたらしょうがないよな……」
魔理沙はそれだけ聞いて満足したように紅茶を啜った。それからも色々と会話をしたが、上の空で魔理沙は右から左へ流した。赤子のような指に巻きついた絆創膏が気になって仕方がなかった。あの絆創膏の下はどうなっているのだろうかと、淫らな妄想に魔理沙はずぶずぶと耽ってしまった。
そんな調子だから会話も続かない。部屋の中は静寂に包まれる。魔理沙は手持ち無沙汰になり、ほんの一滴しか残っていない紅茶を、意味のない時間つぶしでもなればと思い、手をかけようとした。
「あっ!」
魔理沙の手は何の拍子もなくすべり、ティーカップを押し出してテーブルから転がしてしまった。陶器が壊れる音が響き、床には破片が広がっていた。もちろんアリス専用のティーカップである。
「あらあら……、もったいないですね」
さとりが眉をひそめる。
「ごっごめん……」
魔理沙は破片を拾い集めようと、床に這いつくばった。大きな破片から集めて新聞紙に放り込む。細かい破片でも残っていて怪我をしたら大変だ。魔理沙は目を皿のようにして床を凝視した。ふと視線を逸らすと、素足でスリッパを履いたさとりの足首が目に入った。ぎゅっと引き締まっていてとても魅力的だった。突如頭に霞がかかり、適当に手を動かしてしまう。
「痛っ!」
左手に痛みを感じてすぐさまその場所を確認する。床に残った鋭い破片で、薬指に裂傷が出来ていた。深く切ってしまったのかあっという間に血がどくどくと湧き出してきた。
「どうしましたか? あら切ってしまいましたのね? かわいそうに……」
さとりは薬指をさっと手に取り、何の躊躇もなく口に含んだ。
「ああ……」
思わずため息が漏れた。舌の先が傷口の粘膜を押し広げるように差し込まれる。
「んっ、んーっ」
目をつぶって奉仕をするようなさとりの顔がいとおしかった。口腔内はぬるりとして温かい。痛みと快感が入り混じった不思議な恍惚状態のままさとりの愛撫に酔いしれていく。
「んっ……。はぁ……、ほらこれで綺麗になりましたね」
傷口には淫靡なぬめっとした唾液が塗りつけられ、血は既に止まっていた。本来ならば嫌悪感を催すはずの他人の唾液も、料理に必須な調味料の一つのように錯覚した。
「念のため絆創膏をしておきましょう。ばい菌が入ったら大変ですからね」
「うん、ありがとうさとり……」
服の裏ポケットから、さとりの指に巻かれたものと同じ絆創膏が取り出される。魔理沙は薬指に絆創膏が巻かれるのをじっと見つめていた。さとりと同じ場所の絆創膏、魔理沙は嬉しくてたまらなかった。緩めにくるまれて生暖かい。さとりに舐められてさとりに包まれる。薬指がまるで別人の指に感じた。
「ちゃんと治るまで――剥がさないでくださいね」
耳元で甘い誘惑の吐息を吹き込まれながらそう囁かれる。魔理沙はこの言葉をしっかと心に刻み込んだ。
「ねぇ魔理沙さん? 人里まで買い物に行きません? あのカップも割れてしまったし、色々と必要なものもあるでしょう?」
日はまだ明るかった。さとりとは何回も会っているものの、外へ出て遊ぶということは不思議となかった。気分変えも兼ねて、魔理沙は外へ出かけようと思った。
適当に準備をして人里を目指す。魔理沙は箒の後ろにさとりを乗せて飛び立った。わき腹にぎゅっと手を差し込まれてくすぐったかった。
喧騒にまみれた商店街へと降り立つ。さとりはぴょんと箒から下りて、魔理沙の腕をとってもたれかかってきた。
「ふふっ、まーりささん。さぁ行きましょう!」
「お、おいおい……」
さとりは腕をぐいぐいと子供のように引っ張って先導するので、無理やり引きずられる形となった。商店街の人はいつもよりも多目だった。純粋な人間だけではなく、亜人とも言える人間に害を為さない人妖の姿もちらほら見える。
「ほら魔理沙さん遅いですよ?」
この小さな体のどこにそんな元気があるのか、さとりは急にはしゃぎ出した。
「ま、待って腕が千切れる……」
魔理沙はふと妙な視線を感じた。行き交う人のほとんどが、こちらにじっと奇異の視線を投げかけてくるのだ。人と妖怪が連れ立って歩くのはそんなに珍しくもない。大体、妖怪と人間をはっきり区別できるような明確な定義はない。現にアリスと人里を歩いた時にはこんな目で見られたことはなかった。
「ふふっ、みんなジロジロ見てますね。きっと、魔理沙さんがあんまりにも可愛いからですよ。何だか妬けちゃいますね」
「そっ、そんなことないぜ……」
魔理沙は絶対に違うと思った。そうか、さとりの美しさにみんな見惚れているのだなと。それならば劣等感を感じるのは自分の方だった。さとりの前では、顔と体形の作りも肌も醜くかすんでしまう。魔理沙は少し惨めな気持ちになってしまった。
「そんな顔しないでください魔理沙さん。楽しくお買い物しましょう」
さとりが心の内を見透かしたように言う。さっきから腕をとられて熱が出そうだった。そういえばアリスとこうして腕を組んだこともなかったと思いだした。アリス……? アリスの顔が思い出せなかった。いや、気にしないようにしよう。今はさとりと二人の時を楽しめばいい。
「ここ入りましょう、ここ」
買い物の主導権はさとりにあった。まず化粧品売り場を回って、一通りの化粧品を購入した。さとりは詳しいらしく、もの凄い勢いで目当ての物を買い集め、魔理沙はただ傍観しているだけだった。
次に入ったのは茶碗類の店だった。漆塗りの古風な茶碗が所狭しと並び、二人の目を楽しませた。
「これ買いませんか? 魔理沙さん? ティーカップ割れちゃったでしょう?」
適当に物色していると、さとりが薔薇の模様が入ったティーカップを二つ手に取ってきた。赤く燃えるような情熱的な色の薔薇の絵だった。魔理沙はさとりに従うだけだったので、適当に返事をして承諾した。
「うふっ、これでお揃いですわねっ。ふふーん」
さとりはよっぽど嬉しいのかスキップをして飛び回った。スカートの裾が揺れて、眩しいほどの白い剥きだしの太腿が目に入った。その後ニ、三件回り、足が棒のようになってきたので、二人は茶屋で一休みにすることにした。
「えーとオレンジジュースお願いしまーす」
さとりが店員に元気よく声をかける。数十秒ほどしたところで、人間の店員が店の奥からオレンジジュースを一つだけお盆に乗せて持ってきた。
「私達二人なんだけど……」
魔理沙が声をあげる。
「あれ? すいません、ぼんやりしていました……」
「いえいいのです。魔理沙さん。店員さんも面倒でしょうし、これでいいですよ。ちょうどストローは二つありますから問題ないでしょう」
焦って奥に消えようとする店員を呼び止めてさとりが言った。人数は二人、なのにジュースは一つ。これでいいとはどういう意味なのだろうか。魔理沙は首を捻ったが、さとりはにこやかな笑顔のまま、ストローをジュースに刺して飲み始めた。細い喉がびくびく蠢動する。魔理沙はこの光景だけでも満足した気分になり、数秒魅入ってしまった。
「何をぼけっとしているんですか? 早く一緒に飲みましょうよ」
ようやくさとりの意図することが理解出来た。恋人同士ように一つのジュースを二人で飲む。しかしさとりとは恋人同士というか、女同士だった。人目が多いのも気になり、そのような行為をするのははばかられた。
「は、恥ずかしいぜ……」
さとりは既にストローに口をつけて、美味しそうにジュースを飲んでいた。ぷくっと頬を膨らませて、意地悪そうな上目遣いで見つめる仕草が悩ましい。長い睫毛が瞬きをする度にぱちぱちと点滅し、愛くるしい瞳の輝きを強調する。
「んふふ……」
微笑の誘導に流されるようにして、魔理沙は何時の間にかストローを手に取り、橙色の液体を共有していた。誰にも邪魔されない二人だけの静謐で神秘的な空間。魔理沙は緩みきった口元で、中々減らないジュースの嵩と悪戦苦闘していた。
「冷たくて美味しいですね」
「うん……」
「ふふっ。ん……」
笑いかけるとさとりが笑い返してくれる。
この時間が永遠に続けばいいと思った。
――カシャッ。
その甘い空気を打ち破るように、カメラのシャッター音が聞こえた。
「にひひ、昼間っから不純同性交遊ですかい。いやいや、いいご身分ですね!」
にやけた顔の射命丸文がカメラを片手にそう言った。文々。新聞とかいうゴシップ満載の新聞に記事を書いている。幻想郷のどんな些細な出来事にも目がない、天狗の新聞記者だった。
「なっ、文、お前――」
「いえいいのです。どうぞ続けてくださいな、おお熱い熱い。思わずシャッターを切りましたが、初めは誰だかわかりませんでしたよ? 髪切ったんですね。そっちの方がお似合いですよ? ひひっ」
魔理沙は文を睨んだ。そしてさとりの体を隠すように正面に立つ。
「へっ、へっ、へ。おやお邪魔でしたかね? しかし魔理沙さんはアリスさんと親密な関係とばかり……。それにしてもそちらの白い方美人ですねぇ? どれもう一枚……」
素早く二人の真横をとらえた文が、音速のスピードでシャッターを切る。
「やめろよ文。さとりは何も関係ないんだ。私達は単なる……友達だから……」
魔理沙は軽く口ごもる。その若干逡巡した表情を、百戦錬磨の射命丸文が見逃すはずもない。
「あはは、ただの友達がジュース一つを分け合っていちゃいちゃするんですか! いやぁいい時代になったもんですね! お友達のアリスさんも黙ってませんよ? ふむ、まぁそれは置いといて、その白い方はさとりさんと言うんですか。覚えました、私覚えました。その雰囲気からすると人間じゃありませんね、妖怪です。それもとびっきり麗しい美麗の妖怪ですね。いひひ、美人は得です、いつの時代も。私もお相手願いたいくらいです……」
文は独り言のように、べらべらと饒舌にしゃべった。魔理沙は気が気でなかった。今背中に服をぎゅっとつかんで隠れているさとりを汚された感じがした。
「さとり、こいつと関わると碌なことがないんだ。無視してさっさと行こうぜ」
「おやもう行くんですか? そちらのお嬢さんもっと取材したいんですがねぇ。いっひひひ」
性懲りもなく下卑た笑いを浮かべる文を無視して、魔理沙はさとりを連れてその場から立ち去った。さとりが嫌な気分にならないかと心配だった。ちらりとさとりの表情を窺う。大丈夫だ、いつもの優しく落ち着いた表情だった。
「ふふふ、何だかせかせかした方ですね」
さとりはコロコロと笑う。魔理沙はほっと一安堵した。
「本の知識は人を助けますが、人は本を助けません。知識は利用されるべきもの! にひひ、ここは本がいっぱいです。ねぇパチュリーさん?」
ここは紅魔館内の大図書館――各所からありとあらゆる本を集めた知識の宝庫である。文は人里で魔理沙と連れ歩くさとりを見た後、真っ直ぐここへ向かった。さとりのような妖怪はついぞ見たことがなかった。幻想郷を日夜飛び回る文にかかれば、ほんのわずかな特徴でも嗅ぎ分けて、その妖怪がどの種に属するのか大体は見当がつくのだが、今回ばかりは全くわからなかった。一度も日の光を浴びたことのないような白い肌、それに憂いを帯びた妖艶な瞳。小柄で脆く切ないしおらしさも合わせて、文の好奇心は存分に刺激されたのである。
「いえ私は本の方を助けるわね。本と私は一心同体。息をするように本を読む。それが私の生きがいであり私自身であり……って何であなたがここに来ているのかしら?」
そうぼそぼそ声で言ったのは、この紅魔館大図書館内に居候として住んでいる魔女のパチュリー・ノーレッジである。七曜の魔法を自在に扱い、膨大な知識の山と生涯を共にする――言わば幻想郷の生き字引。
「調べ物するならここ以外にあり得ませんよ。私はただの暇つぶしにやってきたわけじゃありません。きちんと正当な理由あってやって来たのです」
「……そう。じゃ私はここで本を読んでいるから、あなたは勝手にしてちょうだいな。何かあればそこの小悪魔を呼べばいいから」
パチュリーは読みかけの本から視線を逸らさず言った。パチュリーの使い魔である小悪魔は、司書のような役柄でせっせと図書館内を走り回っている。
「いえいえ、何をおっしゃいますか? 本を探すより聞いた方が早い場合があります。えー幻想郷の妖怪に造詣深いパチュリーさんなら、知っていると思ったのです。姿形は人間の少女にそっくりなのですが、肌が凍てついた氷のように白いのです。だからといって雪女ってわけでもないんですよ。私には妖怪鑑定センサーがあるから何となくわかるのです。ぞっとするような白い肌に……ああ! あの妖艶な目つき! 私たまりませんでしたね。あんな目で何度も見つめられたら男でも女でも直ぐにおかしくなっちゃうでしょうね!」
「ふーん……。その妖怪どこで見たの?」
まくし立てる文に対してパチュリーが聞く。
「ええと、人里で魔理沙さんと一緒にいたのですよ。仲良く乳繰り合いながらジュースを飲んで、そりゃもう見てられない有様でしたよ」
「へぇ、魔理沙とねぇ……」
「あやや? パチュリーさんも気になりますか? うひひ、それなら一緒に妖怪の正体を暴きませんか?」
文は少年のような目で覗き込んだ。
「いえ、私は別に興味ないから……」
ぼそっとした声で煮え切らないパチュリーに文はいらいらした。この鬱屈したカビ臭い空間のせいもあり、何だか閉塞的な圧迫感を受けてしまうのだ。文はよくこんな薄暗い部屋にこもりきりでおかしくならないのかと思う。いや、この率先して人と目を合わさない態度は、十分おかしくなっているとも言えるのだが。
「はぁ、まぁいいでしょう。それでは勝手に調べさせてもらいます。妖怪大図鑑でもいいから、適当な本の在処を教えてくださいな」
「うーん。妖怪の名前はさとり、さとりって言ったののよねぇ?」
「ええそうです! 何か心当たりがあるんですか?」
パチュリーが若干興味を示したので、文は小躍りした。
「あれは確か……。小悪魔ー。ちょっと二階東の十二番棚からあの本持ってきてー」
「はい承知致しました。今直ぐに」
どこからともなく小悪魔が現れて、二階へと消えて行った。あの適当な指定で場所がわかるとは、さすがに使い魔だけあってよく調教されているものだと、文はいたく感心した。テーブルに座りうきうきしながら待つ。パチュリーは青白い顔でマイペースで読書を続けている。顔立ちはそれほど悪くないのに、生気のない目がそれを全て台無しにしているように見えた。もっと外に出て運動すればいいのにと思ったが、彼女は持病の喘息が足枷になっていると聞く。喘息がどれだけつらいか想像もつかない文にとっては、その負の感情を理解する手段は存在しない。
「ところでお茶は出ないんですか? 客人にはお茶を出すのが定例だと思うんですが……?」
十秒ほど無言の時間が続いた後、パチュリーはとても面倒そうに口を開いた。
「あなたは客なのかしら? 正式に紅魔館の門を通ったのならそう言えるのだけれど」
文は名ばかりだけの門番の目を盗んでまんまと潜入している。普通に考えれば客ではないのは明確だ。
「あはは、何ですか。私とパチュリーさんの仲じゃないですか? お友達ですよお友達。一度会えば知り合い、次に会ったら素敵なお友達です。あははは……」
「別に……。私はあなたのことを友人だと思ったことは一度もないから……」
早口でぼそっとパチュリーがつぶやいた。文の空笑いだけがしんとした空間にむなしく響きわたる。どうしようもなく気まずい雰囲気に文はたじろいだ。いやあこれはどうも対応を間違ったぞと。やっぱりこの手の人種は扱いが難しいなと、文は心の中で愚痴を言った。
「はー、そーですか。わかりました。わかりましたよ。毎日たくさんのお友達に囲まれてさぞや幸せでしょうね?」
文はつい口がすべって皮肉言ってしまい、はっとして直ぐに口を閉じた。パチュリーの方を見る。聞こえたのか聞こえたのかもうどっちでもいいような表情だった。ただもう文とは決して心を通わせないという頑強な意思、無意識のバリヤーに近い障壁が構築されていた。
「あはっ、あややっ。こ、小悪魔さん遅いですねー。まっ、まだかなー」
無言を決め込むパチュリーの前で、文は無駄に鼻歌を歌ったり口笛を吹いたりしながら、小悪魔が戻るのを今か今かと待った。
数分後、小悪魔は空気を読まない明るい調子で、テーブルに重そうな本をどさりと置いた。
「すいません遅くなって。この本でいいんですよねパチュリー様?」
「ありがとう小悪魔もう下がっていいわよ」
「小悪魔さんありがとうございます! あーどうせなら一緒にお茶でも飲みませんか? 二人より三人の方が楽しいですよ!」
小悪魔は苦笑いをして、ぺこりと一回おじぎをしただけで去っていった。文の目論見ははずれ、再び重苦しい空気が二人の間に広がる。
「この本にさとりが載っているわよ。と言っても幻想郷のそれとは限らないけどね。これ見たらさっさと帰ってね」
突き放したようなパチュリーの声。文はやりきれない気持ちのまま、分厚い本のページを開いた。どうやら絵入りの妖怪事典のような代物らしい。目次の欄から『さ』の項目を探すと覚(さとり)という表記が目に入った。
「あっありました。さとりって妖怪は本当にいたんですね。何々……」
屍のように無言のパチュリーを前にして、文は孤独に目的のページを開いた。
「ふむふむ、覚妖怪とは人の心を読み悪戯をして愉悦に浸る也と……。心を読むなんて物騒ですね。一体どんな現象なんでしょうかね? 他人の心が文字になって頭の上にでも浮ぶんですかね? ああ想像しただけで気持ち悪いです……」
適当にかいつまんで文章を読む。他人の心を弄ぶのを生業とし、隙あらば食べてしまう。予測がつかない偶然による事象が苦手等。中々いい性格の妖怪などと思いながら、文はページに書かれた覚の挿絵に目を留めた。二足歩行で毛むぐじゃらの、何の動物とも似つかないような姿が描かれていた。
「わかった? それが覚よ」
パチュリーがつぶやく。
「これが……ですか。ふぅむ、あの白い妖怪とは全然違いますね。ま、当たり前なんですけどね、名前がさとりって言っただけで、種族の名前とは別ですからね。でも心を読むってのは興味深いですねぇ」
文はしきりにうんうんと頷く。あの妖怪の正体はわからなくても、予期せぬ収穫にここに来た成果はあったと思った。
「この本は遠い隔絶された世界の書物だから、なんの参考にもならないでしょうね。大体心を読むなんて非現実的過ぎるわね。おそらくは――空想の産物。妄想癖が高じた先人達の愚かな偶像でしかない」
暗く沈んだ声だった。
「ははぁ、読心が非現実とは! ある意味禁術とも言える魔法を使うあなたの発言とは思えませんね! それにここには時を止める瀟洒なメイドさんがいたり、運命を操る悪魔まで実在しているんじゃないんですか? ここは何が起きても不思議ではない、幻想郷、そう幻想郷です。結論を出すには少しばかり早くないですか?」
文は大げさに身振り手振りを織り交ぜた。さっきから本ばかり見ているパチュリーに反論してみたくなった。読心能力というのも、この幻想郷というカテゴリーに当てはめれば、大して実現に難くないと思ったからである。
「悪いけど、紅魔館の奇術師さん達は現実に存在して、私もその性質を深く理解している。現実に存在しないものはやはり非現実なのよ。可能性とかの問題じゃないの。今、そこに――いない、つまりあり得ないってわけ」
パチュリーは五秒ほど正面を向いた。文との会話の中で一番はっきりとした声だった。
「むむむ……。わはは、ここで私がはいそーですかと言うと思いましたか? 残念ですが私は捻くれものなんですよ。んー、あっほらパチュリーさんってあれでしょ? ちょっと格好よさげなこと言って、自分だけわかった気になる。そうやっていつも自己保身してるんですね? いやいや、知識人様に頭が上がりませんね! にひひ……」
文が茶化したのでまたパチュリーは無言になった。どうも歯車が噛み合わない。押して押して、押したらそのまま倒れたままになっている出来損ないの起き上がりこぼしのようだ。
「ふぅ……。もう私何だか疲れちゃいました。そろそろ帰りますね。ご丁寧な説法ありがとうございました」
そう言って、踵を返して図書館の出口へ向かおうとすると、パチュリーが非常に聞き取りにくい声で何かを言った。
「えっ、何ですか?」
反射的に文が聞き返す。
「心が読めるなら――心の発信源はどこにあるのかしらね? 脳? 心臓? それとも?」
「何なんですか。そんなこと、覚にでもならなきゃわからないですよ。あれ? パチュリーさんやっぱり興味あるんじゃないんですか? もっと自分に素直になりましょうよ? にひひ……。それではいざさらばです!」
文は空気のこもった図書館から抜け出し、大きく息を吸って深呼吸した。
「いやーこれだから陰気な人は困りますね。さてこれから忙しくなりますよ!」
カメラとペンを手に取り、天空へと舞い上がる。文の尊大とも言える探究心は衰える影もない。
「ペンの力は偉大です。それが非現実であるなら、私の力で現実に仕立て上げればいいのです。私にはそれが許されている、いや、私には尊い使命が生まれながらに課せられている。そういう運命にあります! わはははは……」
あどけなさが残る白い少女は、光輝く部屋の中へスキップをしながら入った。誰にも決して悟られることなく。
「お姉ちゃん? 来たよー? あれぇ? いないのー? もーっ、お姉ちゃんたら人を呼んどいて自分はいないいないなんて、そんなのやーよっ。私気が短いの知ってるのにね。お姉ちゃんのお馬鹿さん。……もう後五秒しか待たないよ。いくよ? いーち、にーい、さーん、しーい、…………ごぉ。ぶぶー! 時間切れだねお姉ちゃん。じゃあ帰るねお姉ちゃん、また明日ね! ……ねぇ帰っちゃうよ? 止めなくていいの? ……ふふっ、ふふふっ、やっぱりお姉ちゃんは恥ずかしがりやさんだね。可愛い妹にいて欲しいならそう言えばいいのに。んーっ、お姉ちゃんのいつも寝てるベッド……。ふわふわふわふわあったかーい。お姉ちゃんのぬくもり、お姉ちゃんのいい匂い。私もお姉ちゃんと一緒に息してるの、るんるん。ねむーい。ふあぁ……すーっ、すーっ…………。んはっ! 私寝ちゃったぁ! あれあれ? どうしてここに? そうだお姉ちゃんに呼ばれて! でもお姉ちゃんはいない。意地悪お姉ちゃんとかわいそうな私。うーんどうしよー? どうしよー? よーしお姉ちゃんのお部屋探検しちゃうぞー! おーっ! まずはどこから? タンス、タンスからね。お姉ちゃんのお洋服、私一度着てみたかったの! 脱ぎ脱ぎ……スカートと上着と靴下と……。うんこれでよし! サイズもぴったりでさすが私のお姉ちゃんだわ。えへへ、鏡に映してみよっと。くるくるりん、くるくる……。どっから見てもお姉ちゃんそっくりね。髪の色も帽子でごまかせばおっけー。うふふ、鏡の中に私、そして私はお姉ちゃん。お姉ちゃんは私、大好きなのは私? あれれ? おかしいな? ……うわっ! 鏡の中に私が二人いるっ! 怖い怖いー! ……って肩を叩くのは誰? う、うわー本物のお姉ちゃん! いつの間に帰って来たの? お帰りなさい! 最近ここにいなくて私みたいだね。 ……あっこれ? …………これはねぇ、お姉ちゃんごめんなさいっ! 私お姉ちゃんが大好きだからお姉ちゃんのお洋服着てみたかったの! きょ、今日が初めてだよ? ほ、本当だよ? 絶対嘘じゃないよ? ……ひっ! お姉ちゃんそんな怖い顔しないで。お、お姉ちゃん謝るから、もう二度としないから許して。んっ、うわぁー! 来ないでっ! んぶっ! いたーい! お鼻ぶつけたぁー! お姉ちゃんのせいだー! あれれ? 何でお姉ちゃんそんな大きなおはさみ持っているの? え?悪い子にはおしおきするって? い、い、い、いやー!! 私これからいい子になるから! だから許して、人参も玉ねぎもピーマンも残さず全部食べるから! いやっ、やーん! やんっ! 痛い痛い! 引っ張らないでお願い! 誰か助けてっ! お願い切らないで――――」
紅魔館の警戒体制は万全の仕組みである。少なくとも優秀な門番である紅美鈴はそう考えている。彼女の役目は主人であるレミリアの居城を守ること。それは命をかけてでも遵守しなければいけない大事であった。
そんな美鈴はある日のシエスタの後、霧雨魔理沙に出会った。美鈴にとっては魔理沙は天敵の人物で会った。たやすく門の外壁を箒で飛んで館に侵入してしまう。いくら強靭な足腰の持ち主である美鈴であっても、館の周囲360度をカバーするのは無理に等しい。いや、そう納得しなければ門番等はやっていけない。雨の日も風の日も雪の日も――どんな悪天候であっても美鈴は紅い門の前に立つ。門の存在があるからこそ美鈴は美鈴であり、門と美鈴は切っても切れない唯一無二の恋人のような仲と言っても過言ではない。
「あれ魔理沙さん? 珍しいですね。今日は正面から道場破りですか?」
美鈴は気を使う程度の能力を持つ。彼女は中国拳法を体得し体内の気を練ることが出来る。と同時に他人の気の流れ、言わば血液とか呼吸とかその他もろもろ、体の循環組織に関わる部分を詳細に感じ取ることが出来るのだ。気を使うには他人の気の流れも知らなければならない。気とは個人だけでは成り立たない、他者との微妙な空気さえも読まなければならない。それが真に気を使うことだと美鈴は考える。
「おう美鈴。お前はいつも元気そうだな」
門破りの常習犯である魔理沙が、正面から堂々と入ってきたのをを見て、美鈴は少々警戒した。何度も煮え湯を飲まされていていつかは一矢報いたいと思っていたのだ。しかし、何かがおかしかった。魔理沙の外見――いやそれだけではない、彼女から滲み出る気が濁っていた。彼女はもっと快活で活動的な気流の持ち主であったからだ。
「ええおかげさまで。魔理沙さんばっさり髪切っちゃたんですね。あんなに伸ばしていたのに。私も長すぎてうざったいんですけど、ここまで伸ばしてしまうと中々踏ん切りがつかないものです」
美鈴はまず一番に目に留まる外見の違いに注目してみた。だが髪ぐらい誰でも切る。それが直接気の良し悪しに関係することはない。むしろ頭が軽くなって血流がよくなる可能性もある。
「まー私ももったいないと思ったけどな。案外いけるもんだぜ。そうそう、今日はちゃんと用があってきたんだ。この本をパチュリーに返しておいてくれないか? だいぶ借りたままだったからな」
そう言って魔理沙は箒の後ろにくくり付けた、大きな風呂敷包みをどっかりと目の前に置いた。
「ええかしこまりました。責任を持ってパチュリー様にお届けしておきます。えと、会っていかないんですか? パチュリー様に?」
いきなり飛び立とうとする魔理沙を呼び止めて言った。
「ああ、もういいんだ。もう……」
美鈴は不思議に思った。もういいとはどういう意味なのだろうか。酷く歪んだ気の流れといい、美鈴は言いようのない不安に包まれた。
「そうですか。それではご達者で……あれ? 魔理沙さん左手の薬指……」
魔理沙の指に巻きついた、薄汚れたピンクの絆創膏が目に入った。どう見ても貼ってから三日以上は経過していると思われた。これが気の乱れの大本かなと予想したが、こんな一部分だけであそこまで歪むわけはない。やはり霧雨魔理沙はどこかがおかしい。
「ああこれか? ちょっと切っちゃってな。大丈夫すぐ治るぜ」
「いえ、絆創膏は血を止めるためのもので。魔理沙さん、それは直ぐに剥がした方がいいですよ。皮膚も大事な体の一部分ですからね」
「んーそうだな。でももう少し、もう少しで一つになれる気がするんだ。じゃあな、ありがとう美鈴!」
見かけの動作だけは元気な魔理沙を美鈴は見送った。一体一つとは? 空に消え行く魔理沙の後ろ姿を見つめながら、何故彼女があそこまで乱れているか考えてみた。目が違うと思った。見えてはいるがそれは真実は見ていないような目。行動と思考が一致していなくて、どこかちぐはぐな雰囲気。まるでたちの悪い妖怪に体の大部分をのっとられているようだった。
美鈴は色々と考えを巡らせたが、決定的な結論は出るわけもない。たまたまの体調不良と偶然が合わさってああ見えたと了解した。門番の仕事は門を守ること。部外者の魔理沙まで気にかける余裕はなかった。
止めようのない横隔膜の収縮を享受して、パチュリーは酷く咳き込んだ。彼女の持病である喘息は一生付き合っていかなければいけない病気。それから逃れる術はない。
パチュリーの睡眠時間以外はほぼ読書と魔術研究に費やされる。人付き合いなどは二の次である。人と話すのに使うエネルギーでさえ厭うのだ。彼女の行動理念は全て消極的に済ますこと。元来からの病気で、幻想郷の妖怪全般よりは短い命を約束されている彼女にとっては、無駄なことには一切力を注ぎたくないのが本音だった。
極端な面倒くさがり屋とも言えるが、彼女の心は冷え切っていた。誰にも心を許さずに常に壁を作る。そんな彼女が紅魔館の主人のレミリアの一友人として、このような大図書館をあてがわれているのは、一体どんな経緯があったのか、今ここでそれを知る由はない。
「パチュリー様ー。美鈴でございます。魔理沙さんから本をお預かりしたのですが……」
集中した読書は無粋な門番の声で中断された。霧雨魔理沙は慣れなれしい人物だった。勝手に人の心に土足で入ってこようとする。どうせこの図書館の本が目当てだと分かりきっていたから、適当にあしらって過ごしていた。大事な蔵書の一部を勝手に持っていくのはやめて欲しかった。注意するのさえ面倒なのに、にやけた友人面ですり寄って来る。ああ嫌だ。これだから節操のない生き物は――。
魔理沙の友人らしきアリス・マーガトロイドはそれなりに話せる人物だった。魔術関連に詳しく、独自の研究も行っているらしく、魔法に対する情熱がよくわかった。微妙な距離感の独特な空気を彼女は持っているように見えた。それが魔理沙相手だと崩壊してしまうのは何故だろう。アリスと魔理沙は常にセットでやって来る。アリスともっとゆっくり話を出来ればなと、パチュリーは何度も思っていた。
「……ありがとう美鈴。そこに置いといていいわよ」
「了解しましたー。それでは即急に持ち場に戻ります。ではではっ!」
美鈴の元気な声が響いた。自分もあれぐらい健康な体だったらなと。
数分ぼうっとして、重い体をきしませて立ち上がる。数十冊もの強奪された本が今帰ってきた。半ば諦めていたが、魔理沙が本を返す気になるのが不思議だった。魔理沙はここに会いにも来なかった。考えられるのは縁の切れ目だろうか? あれだけ気のない振りをすれば無理もないだろう。いや今この時点まで関係を保ったのも奇跡に近い。そしてその関係も今ここに終わりを告げることになるのだ。人間の寿命はえてして短い、そう考えれば何も悲しいとも思わなかった。
「やれやれ、こんなにいっぱい盗まれていたのね」
跪いて風呂敷の結び目に手を伸ばす。固く結んであって一筋縄で解けそうにない。パチュリーは息絶え絶えになりながらも、やっと風呂敷の包みを解放した。
「さてとようやく私の大切な本達とのご対面ね。魔理沙のことだから染みを作ったり、痛ませてないか心配だわ」
風呂敷の中には更に紙袋で包装されていた。がさつな性格の魔理沙にしては、変に丁寧過ぎると感じた。がさごそと音をたて、パチュリーは本の状態を確認しようと、一冊の本を取り出した。
「……え? なっ、何これ?」
パチュリーは口の中で声にならない悲鳴をあげた。
「この本だけじゃない……。これも……、これもこれも全部……」
狂ったように紙袋を破る。ほぼ全ての本の背表紙が十字に鋭利な刃物で切り裂かれていた。そして中のページの状態は更に酷く、びりびり破られていくつか落丁し、中には何かコーヒーでもぶちまけたような染みが、べったりとついている物もあった。
「どうして……? もしかして魔理沙は私のことそんなに嫌いだったの? あんなに人に笑顔を振りまいて、影では私のことそんなに……」
本はパチュリーの心の拠り所である。それを悪意のある形で送り返されたのだ。パチュリーの受けた精神的打撃は計りしれなかった。
「ひっ、ひーーっ! くっ……ひっく、っひ! ゴホッゴホッゴホッ! く、苦しい……ゴホッ!」
パチュリーは引きつけを起こしたように打ち震えた。世界が揺れ呼吸が苦しくなる。魔理沙が嫌っている、もしかしてアリスも……? ああなんて自分はかわいそうなのだろう。どうしてこんな仕打ちを、苦しい苦しい。息が出来ない、息が、息が――――
「どうしたんですかパチュリー様? い今すぐベッドに連れて行きますからね。ど、どうか落ち着いてくださいませ」
主人の苦しげな声を聞いた小悪魔が飛んできた。
「ひっ……、誰がこんなことを。パチュリー様、もう大丈夫ですよ? 大丈夫ですからね?」
切り裂かれた無残な同胞を見て小悪魔が驚く。パチュリーの脳は酸素不足により朦朧としていた。小悪魔に抱えられると幾分ほっとしてがっくりと頭を垂れた。
鏡台の正面で二人の少女のひそひそ声が囁かれる。霧雨邸では、ちょうど紅魔館で用足しを終えて帰ってきた霧雨魔理沙が、冷酷な妖怪の古明地さとりと共に体を寄せ合っていた。
「お疲れ様でした魔理沙さん。借り物を返すとすっきりしますでしょう? 物の貸し借りにルーズでは、他人の信頼は得られませんからね、うふふ……」
「う、うん。さとりの言うとおりにしてよかったぜ……」
さとりは後ろから鏡に映った愚かな人間の虚像を見た。こんなに震えて切ない目をしながら自分に甘えてくる。これだから弱いものをいじめるのはやめられない。わずかな心の隙間から入り込み、暗の部分を無理やり増大させてあげる。このままじわじわ追い詰めながら適当に救いを与えて、型に嵌めこみ従順なペットに仕立てあげるのだ。
一つ一つ人間関係を破綻させていけば、自分への依存は更に強まる。逃げ道を塞げば最後には自分がいなければ生きられない体になる。そしてその後は……。
さとりの愉悦の対象は著しく歪んでいた。心を読むことが覚の宿命であり、その突飛な能力が故に普通の快楽では満足出来ない、異常な性癖が形作られていた。
「それでは以前から話していた、お化粧の練習でもしましょうか。何事にも下準備があります。ちゃんとお肌の調子を整えてゆっくりじっくり進めていくのが大事です。決して焦ってはいけません。そうじっくりとね……」
さとりにとっては、人間を支配することは息をすることに等しい。類稀なる端正な容姿と、妖しく淫らな視線は性別も関係なく他人の心を弄んで止まない。加えて覚妖怪特有の読心能力がそれに拍車をかける。さとりに一度喉に喰らいつかれれば、並大抵のことではその甘い牙ははずせない。倒錯的な快感に悶え苦しみながら、周囲を巻き込みつつただひたすらに堕ちていくしかないのである。
「ほら出来ました。どうですか?」
魔理沙はの肌は白く塗装されていたが、人工的な仮の白さだった。目元も大げさに強調されて、自然な美しさは微塵も感じられない。唇にはその白い肌に対極を為すように紅が引かれているが、どこか不釣合いな虚構の模造品であった。
「うん、すごい……。綺麗、私綺麗……! 嬉しい、嬉しい。ありがとうさとり……」
そっと心の状態を盗み見る。言霊として入ってくる思念の他に、心理状態は色でも判別出来る。嬉しければ明るい色、悲しければ黒めの濁った色になる。今魔理沙はピンク色に染まっていた。何の疑いもなく快感に包まれている、非常に良好な状態。自分への心酔度が高い証拠だ。
「もっと綺麗になりたいですか?」
「なりたいなりたい! そ、その……さとりみたいに……」
あらあら可愛いですね、そんなに頼られたらとさとりは思った。魔理沙は完全に傀儡だった。子犬のように従順で、思い通りに動かせる盤上の駒。
「うふふ、もっと依存させてあげますね。私の庇護の元で……。そうすればもっと私に近づけますよ……」
優しく頭を撫でると魔理沙の心が破裂しそうになる。これほど脆い風船は他にはない。
「うん、うん……」
「うんじゃありません。わかった時ははいでしょう? 私に近づくには言葉遣いもしっかりしませんとね」
「うん……じゃなくて。は、はい……。何か恥ずかしい……ぜ、いえ……恥ずかしいですわ」
「その調子ですわ。さて、魔理沙さんには私のために少し動いてもらいますわね……」
「う……はい。さとりのためなら何でもする……わ」
「うふっ、魔理沙さん大好きです。ぎゅーっ」
「ふぁ、ふぁあ……」
服従をより強固にするための抱擁。少女のように顔を赤くする魔理沙を見て、さとりはにやにやと笑った。使えるものは擦り切れるまで使う。最後の一滴まで飲まなければもったいないからだ。
博麗神社の縁側には日が差し込んでいた。博麗霊夢はでがしらのお茶をぐびりと飲む。その隣には友人である霧雨魔理沙の姿。久しぶりの友人の来訪に、霊夢はお茶菓子を出して持て成していた。友がいて遠くからやってくる、何と素晴らしいことではないか。しかしその友人が驚異的な変貌を遂げていた場合はどうなのか。今まで通り友人として接することが出来るのか。
「それでな霊夢。私が大きなキノコをつかみましてね……」
結論を言うと霊夢は今横でしきりに喋っている魔理沙を、本当の魔理沙とは思えなかった。一番の外見の変化は髪を切ったことだったが、まぁそれは気持ちの変化でいいとしても。体の動きの所作が、万事において何かなよっとしているのだ。座ったり立ったりお茶を飲んだり、そんなほんの些細な行動に、わざとらしくしなを作る。平たく言うと女っぽく――乙女のようなませた少女に近かった。
顔も白粉で綺麗に化粧をしているのも驚きだった。しかも中々さまになっているではないか。瞬きする度くりくりと目が大きく見えて、唇も赤く妖しい色気さえ感じる。その魔理沙が隣で若干濡れた瞳で流し目を送ってくるのだ。霊夢は一体全体訳がわからなかった。
「魔理沙? ちょっといい? 一つ聞くけど何か悪いものでも食べたの? ちょっと見ない間に随分変わったわよ。まるでどこかのお嬢様みたいよ」
「ええ、霊夢。私は何も変わってないぜ……わ」
「しっかり変わっているわよ。格好も態度も、それに言葉遣いも何か変よ。色々混じってて気持ち悪いわ」
霊夢はお茶を一気飲みしてほっと嘆息した。何の心境の変化なのか知らないが、悩ましげな態度と言葉遣いはやめて欲しかった。そばにいるこっちの方が恥ずかしくなってくる。
「ああそうかそうか。ごめんな霊夢。言葉使いだけは中々難しくて……。今からは普通にするぜ。ふふふっ」
「まだ笑い方が変よ。まぁあまり私は干渉しないけど……。そういえば近頃アリスとあんま歩かないわねぇ? あんなに仲良しだったのにどうしたのよ?」
それとなく霊夢は聞いてみた。アリスと魔理沙は親しい間柄だ。もしくはこの魔理沙の風采もアリスの趣味ではないかと思った。
「アリス? アリスって誰だ?」
魔理沙は真顔で言った。
「あはは、魔理沙、冗談は顔だけでいいから……」
「いや、本当に知らないんだ。アリスってのは私と何か関係あるのか?」
この応対に霊夢は得体の知れない恐怖を感じた。魔理沙のこの態度、嘘を言っている様子ではない。つまり、魔理沙は本気でアリスのことを知らない――それか記憶を失っているか、はたまた魔理沙ではない別の存在――。容姿は奇妙だったが内面は魔理沙に違いなかった。長い付き合いからそれだけはしっかとわかる。何かがおかしかった。
「誰って……? ちょっと魔理沙正気なの? あんたの友人のアリス・マーガトロイドよ! 忘れたの? 金髪でカチューシャつけて、いつもクールで偉そうな態度で人形遊びが大好きなあんたの友人でしょ?」
霊夢は魔理沙の胸倉をがっとつかんでぐらぐらと揺すった。目を逸らして泣きそうな表情だった。
「やっ、やめてくれ霊夢……。アリスが何だって言うんだ……。苦しい、苦しいぜ……うぐっ、ぐすっ。ううっ……」
「魔理沙……、あんた……」
泣き出す魔理沙を見て、霊夢は呆然とした。魔理沙はこんなことで泣く人物ではなかった。絶対におかしい。魔理沙であって魔理沙ではない存在がここにいるのだ。霊夢はこの現実をにわかには受け入れられなかった。
「ちょっと魔理沙! 私の目を見なさいよ。あんた本当に変よ?」
「うあぁ、やめてくれ、怖い、怖いんだぜ……」
魔理沙は正面から霊夢を見据えようとしなかった。見ると言っても、顔を背けてからチラチラと顔色を窺うようにしてくるだけ。
「魔理沙……一体何で……ん?」
泣きじゃぐる魔理沙の左手にふと目を留めた。薬指にピンク色の絆創膏であるらしき物が、異臭がここまで漂ってそうな勢いで、指にぴったりと巻きついていた。
「何それ?」
「え……?」
魔理沙はきょとんとしている。
「何でそんな汚れた絆創膏を貼っているのかって聞いているの!」
霊夢は怒気のこもった声で言う。
「ああこれか。傷が治るまでこうしているんだ。さとりが言ったんだ。さとりが治るまでこうしていろって――。傷が治ったらさとりになれるんだ。さとりのような白い肌に――。さとりは――」
「さとりさとりってうるさいわよ! とにかく早くそれを剥がしなさい。何日も貼っていたら肌が死んじゃうかもしれないじゃない。ほら早く!」
嫌がる魔理沙を押さえて、霊夢は薬指にべったりと貼り付いている絆創膏を剥がそうと試みた。しかし日が経ちすぎているのがとっかかりがない。仕方なく近くの戸棚から適当な針と糸切りばさみを取り出して、無理やりこじ開けてから絆創膏を切り取った。
「やっ、やめろ霊夢。まだ早いって! さとりに怒られちゃうから……」
食い下がる魔理沙を無視して全て引き剥がした。内側の皮膚は予想通り白く変色していた。長い間呼吸をしていない皮膚は、死にかかたようにふやけて真っ白だった。とりあえず霊夢はお湯を持ってきて指を温めることにした。
「魔理沙……どうして……」
「ああっ、ひひっ、さとりだ。さとりと同じように白くなってる。うふっ、嬉しいぜ……。うふっ、うふふふふ……」
お湯の中で何度もマッサージしていると、わずかに赤みが差してきたように見えた。よかった――でも念のために永遠亭に行って診せなければ。
「あっ、あーっ。さとりじゃなくなる。私がさとりじゃ……。駄目だ霊夢。私が私で……」
狂ったように喚く魔理沙の声がことさらに悲しかった。
魔理沙の薬指は結果的には無事だった。あの後永遠亭にも行って診療してもらったが、壊死の心配はないとのこと。しかし後数時間遅ければ危険な状態だったかもしれないと。念のため消毒をして塗り薬をもらい、霊夢は魔理沙を連れて夕暮れの幻想郷をとぼとぼと歩いた。
「何でもなくてよかったわね魔理沙……」
「うっ、ううっ、ひくっ。これが何でもないだと? ずっと友達だと思っていたのに酷いぜ霊夢……」
診療中も今もずっと魔理沙はぐずっていた。しかもさとりさとりと見も知らぬ妖怪の名をつぶやきながら。
「血迷うのはいい加減にしなさい。どこに自分から指を駄目にする馬鹿がいるのよ。教えてあげるわ魔理沙。あんたは妖怪に騙されている。そのさとりとか言う胸糞悪い妖怪に、完全にこけにされているのよ? それでもいいの?」
魔理沙の動きがぴたりと止まった。肩が小刻みに震えている。
「お、お前なぁ……。いくら霊夢でも酷いぜ! さとりは……さとりはそんな奴じゃないんだ! 霊夢に私の一体何がわかるって言うんだ! さとりは私をわかってくれる……。だから、だから……。ううう……」
胸倉をつかまれて鬼気迫る表情で恫喝される。白く化粧した顔も泣きすぎて無残な惨状だった。こんな顔の魔理沙は今まで見たことがなかった。まるで魔性に魅入られたかのように、口の端から涎を垂らし目は明後日の方向で、ひっきりなしに呻き声をあげている。
――妖怪に取り付かれている。
霊夢ははっきりとそう思った。それも心を完全に掌握されて、意のままに操られている虜の状態だ。このままでは心だけでなく身も全てさとりにとり殺されてしまうだろう。もはや一刻の猶予もならない。
「あんっ!」
魔理沙の頬に平手打ちをくらわせる。手加減なしで振り切り、風船のような体は地面にぺしゃりと転がった。
「あ……、あ……霊夢。私を引っぱたいてくれたのか……?」
若干目に光が宿り、魔理沙は少し正気に戻ったように見えた。
「悪い夢からは覚めたかしら?」
「うう、ううっ。駄目なんだぜ霊夢。もう駄目なんだ。さとりは私の中に深く入り込んで私を狂わせるんだ。あの目を見てると私が私でなくなって……。助けてくれ霊夢! このままじゃ……」
ポンと肩に手を置き、上から真剣な目で見据える。
「大丈夫よ魔理沙。私が絶対に助けてあげるから。さっそくだけど、そのさとりって言う妖怪の特徴を教えなさい」
「ありがとう霊夢。あのな……」
「知りませんねこんな妖怪は。私はここに移住してから日が浅いのですから。申し訳ありませんがお力になれそうもありません。せっかくおいで頂いたのに、射命丸さん。ささ、中でお茶でもどうですか?」
守矢神社の巫女、東風谷早苗はそう言った。
文は人里でさとりを見てから、地道に聞き込みを開始していた。撮った写真を見せ、知っている者がいないか、一人一人尋ねていく。それは果てしなく気の遠くなるような作業であった。こんなことをするのなら、直接魔理沙にでも頼めばいいのだが、それは諸々の事情により躊躇われた。何よりあの白い妖怪の目つきが恐ろしく、側に近づいてあれこれすれば、何か恐ろしいことが起きる予感がしたからだ。それでも調査を止めないのは、文の新聞記者魂と言ったところだろうか。
「はぁそうですか。いえいえ、私は原稿の締め切りが迫っておりますので、せっかくですが……。それじゃ何かさとりに関する情報がわかったら、真っ先に私に教えてくださいね。情報提供者には、特製の粗品が届くことになってますので」
「はいわかりました。文さん、お仕事頑張ってくださいね」
早苗は邪気のない笑顔で言った。外来から突如現れ、幻想郷にたいそうな神社を構えた守矢の一族郎党。八坂神奈子と洩矢諏訪子の二柱を神と仰ぎ、信仰を獲得せしめんとする。何やら胡散臭い連中ではあるが、文にとっては記事の種にさえすれば何でもよかった。
「さて、これからどうしたもんでしょ?」
守矢神社を後にし、夕暮れに赤く染まる空へと飛び立つ。調査を開始してから数日。白い妖怪の正体は今だつかめなかった。当初の予定ではもう記事にしているはずであり、文は無駄に地団駄を踏んでいた。そろそろ新聞の原稿も力を入れて書かなければならない。しかし妖怪の正体も知りたい。文は両立し得ないジレンマに悩まされた。
「猫の手はいくつあっても足りません。私が分裂して作業分担でも出来ればよいのですが……おや?」
文ははるか下方を歩く、妖怪の小集団に目を止めた。妖怪の山では種族同士の階級が決められている。天狗はその中でも上位に位置する種族。文は頭に電球がぱっと点灯した。そうだ、この手があったかと。
「おっと妖怪さん達。少しお止まりなさい。私は射名丸文と申す、しがない天狗の放浪者。それで突然なのですが、あなた達に一つ頼まれごとをしてもらいたいのですが……。何ただでとは言いません。必ずお礼はします。どうぞこの写真を見てください。こっち白くて背が低い方の妖怪です。この方を素性を探って欲しいのです……」
地上に降り立ちそのように説明した。見も知らぬ妖怪を使い調べさせればいい。文は前金と称し、いくらかの金を妖怪達に渡した。ほんの小額ではあったが、あの身分の者達には十分な額だと思った。薄汚れた身なりの、平たく言えば隷属階級に属する妖怪。成果をあげれば更に報酬金を追加すると約束した。
「相手も妖怪ですからね、抵抗するかもしれませんが。……まぁ多少手荒になっても構いません。とにかく私は情報が欲しいのですよ。それではよろしくお願いしますね」
文は悪徳商人のような顔で一人一人握手をして回った。どいつもこいつも薄汚れた垢を爪の間に溜めている。自分が手を汚す必要はない。安全な場所から手を下すのもまた一興かなと、文は一人心の内で微笑んだ。
明くるの日の幻想郷。霊夢は霧雨邸でどんと腰を据えて、腕組みをして構えていた。さとりは最近は二日おきに訪れていると言う。今日この日、霊夢は大事な友人の魔理沙をかどわかそうとする妖怪を、手酷く懲らしめようと心に決めていた。場合によっては強行手段も厭わない心構えだった。
「れっ、霊夢……。大丈夫かなぁ。私怖いぜ……。さとりがもし怒ったら霊夢まで……」
「何言ってるのよ魔理沙? 私を誰だと思っているの? 博麗の力を持つ博麗神社の巫女、博麗霊夢よ。いいからあんたはそこで黙って見ていればいいわ。絶対に魔理沙には指一本触れさせないから」
子羊のように隅っこで震えている魔理沙に、霊夢は勇気づけるように答えた。時刻は既に正午を過ぎようとしていた。霊夢は少し退屈して大きなあくびをしようとした。その瞬間、トントンと玄関の扉が何者かの到来を告げた。
「あ、ああ……。霊夢……」
「私が出るわ。あんたはそこにいて」
霊夢は扉を直ぐに開ける。
「――っ?」
魔理沙から教えられた通りの容姿の妖怪が立っていた。一般的な少女よりも更に小柄な体躯で、折れそうなほどか細い手足。肌の色は死人のように悲しく白い。霊夢は一目見て、この妖怪を気持ち悪いと思った。
「ああ友達の巫女の霊夢さんですね。魔理沙さんからよくお話は聞いておりますよ? 前々から会ってお話したいと思ってましたの……」
さとりは突発的な霊夢の出現にも対応し、目を細めて笑いかけてきた。なるほど、ぞっとするような妖しい視線だ。だが妖怪の薄汚い本性が見え隠れする、邪悪な意思に染まった目。霊夢はそんなものには惑わされはしなかった。
「悪いけど魔理沙はもうあんたとは会いたくないらしいの。 このまま帰ってくれるかしらさとりさん?」
「ええっ? そんなぁ……何でですか? 私と魔理沙さんは仲の良いお友達ですのに……」
さとりはしおしおとして、悲しげに眉をひそめた。霊夢にはそれが全て、わざとらしい演技にしか見えなかった。
「いいから出て行きなさい。ほらほらっ!」
軽く――ほんの軽くさとりの体を押したはずだった。霊夢の予想よりさとりは圧倒的に軽かった。ほんの一押ししただけで、さとりの華奢な体は空気のようにふわりと舞い上がり、後ろの地面にぺたんと尻餅をついた。
「あん酷いですぅ……」
何か媚びるような鼻にかかった声だった。さとりは涙目になって上目遣いで霊夢を見つめてくる。その瞬間霊夢は奇妙な感情に捉われてしまった。早く手を取って助け起こしてやらなければと。霊夢は頭を振ってそれを打ち消した。霊夢の予想では、催眠術の類、瞳術か奇術かで惑わしてさとりは支配してくると思った。そうでなければこんな何の力もない貧弱が妖怪に、魔理沙が弄ばれる訳がないのだ。
「起きなさい」
霊夢は集中して意思を強固にしてから、つかつかと歩み寄り、胸倉をつかんでぐいと持ち上げた。霊夢の体格でも悠々と片手で持ち上がるくらい軽かった。これほど軽い生き物はいるのかと言うほど、内臓の重みを感じさせない存在感だった。
「……ぁ、苦しいです……やめてください……」
こんな時でもさとりは誘うような視線をやめなかった。ご苦労なことだと思った。
「ちっ、その妙な目つきやめないさいよっ! 見てるだけで吐き気がしそうだわ。いい? もう金輪際魔理沙に近づかないと約束しなさい。私は気が短いのよ。早く決めた方が身のためよ? 私は妖怪を退治する巫女だからね。そのことをちゃんと考えて頂戴ね」
霊夢はいらいらが頂点に達していた。魔理沙をあそこまで蹂躙された思いが霊夢の気持ちを駆り立てていた。この底意地の悪い妖怪は手足の一本や二本へし折ってでも構わないと思った。
「やっ、やめてください……」
恐怖に怯えたさとりの顔。後一押しすればもうさとりは陥落するであろう。霊夢は胸倉をもっと締め付けようと力を込めようとした。
「やめろやめろ! 霊夢、お前がそんな奴だったとわ思わなかったぜ! さ、さとりが泣いているじゃないか!」
「魔理沙……。出てくるなって言ってたのに……」
家から魔理沙が猪のように飛び出して、無鉄砲に体当たりしてきた。霊夢はバランスを崩して倒れこみ、さとりは遠くへ投げ出されてしまった。
「さとりっ、さとりっ! 大丈夫か? 痛くなかったか? 畜生霊夢は鬼だ悪魔だ! 私のさとりにひでぇことしやがって! ごめんな、ごめんな……」
「ああ魔理沙さぁん……痛いです苦しいですぅ……。私が何もしていないのにあの方私を辱めてきたのです。私怖くて怖くて……。ああ、ああ!」
何だろうこの茶番は。魔理沙のためを思ってしたことが何故。霊夢は腸が煮えくり返る思いがした。体を寄せ合って抱き合う二人めがけて近づき、無理にぐいと引き離す。
「きゃっ!」
「痛てて……。酷いぜ霊夢」
距離を置かれてもなおも二人は手を取り合おうとしていた。さとりの目と魔理沙の視線がちょうどかち合っていた。魔理沙は今操られている。それなのにむかむかした気持ちが治まらなかった。魔理沙が裏切ったという事実に打ちのめされていた。
「魔理沙は黙っていなさい……」
「ひっ! ひいっ!」
凄みを利かせて睨むと魔理沙は黙った。後はさとりをどうにかするだけだ。出来ることならこのまま頭を叩き潰してやりたかった。
「ああごめんなさい。私が悪いのです。私が知らずの内にお二人の仲を……。私が悪いのです。私が全て……」
今更被害者面して何をほざいているのか。最初からお前が全て悪いのだ。もう単に追い払うだけでは収まりがつかない。
「さっ、さとりは悪くないぜ。私のせいだ、私が――」
まだ世迷言を喚いている魔理沙を無視して、霊夢はさとりの側に立った。再びさとりの胸倉をつかみ高く持ち上げる。
「人間を弄んだ罪、思い知らせてあげるわ」
鳩尾に拳を二度ほど打ち込む。手加減はしたつもりだったが出来ているかどうかはわからない。
「おぼっ……!」
さとりがぬらっとした泡を吐いた。この程度で許すつもりはなかった。妖怪ならば人間よりもずっと耐久力がある。少しやり過ぎなぐらいがちょうどいい。
「あ……あ……。助け……て」
「まだよ」
さとりの顔面をつかんで片手で持ち上げた。何と小さな頭部の骨格なのか。妖怪でもやはり骨はあった。巫女棒で鍛えた握力で、こめかみに指を食い込ませて、容赦なく握り締める。
「んー、んんーー!」
両手を振り回して霊夢の手を必死で引き離そうとするが、硬くロックされた掌は、さとりの細腕でどうにかなるものではなかった。十秒、そして二十秒と宙に浮いたまま、さとりの体はぶらりと揺れ続けていた。
「やめろやめろぉ! もういいだろ霊夢? もういいんだ……。もう、もう……さとりは……」
魔理沙が土下座をするように頭をつけて泣いている。霊夢はボロ雑巾のようなさとりの体を無慈悲に投げ捨てた。
「うっ、ぐすんっ。酷いですわ……。この私に……。誰も助けてくれませんのね……。ああん痛い……」
腰をくねくねさせて涙を流して、なおも周囲の同情をひくような仕草と視線。どこまでも悲劇のヒロイン気取りがお好きらしい。まだ口が利ける様子を見ると、案外脆く見えても体は丈夫なのだろう。
「誓いなさい、この先魔理沙には絶対近づかないと約束しなさい」
霊夢は見下ろして言った。
「はぅん、わ、わかりましたわ……。魔理沙さんには二度と近づきませんわ……」
「その言葉よく覚えておくわよ。巫女の前で二度目はないわ。もし破ったら、その愉快な脳みそが詰まった頭を捻りつぶしてあげる」
「はい、はい……。本当に申し訳ありませんでしたわ……」
そう言うとさとりは弱った体を引きずりながら、ゆっくりと森の奥へと消えていった。
「ふぅ……」
重いため息をついて、後に残った魔理沙を見やる。相変わらずさとりさとりとつぶやいている。
「魔理沙、さとりは追い返したからもう安心よ。あの様子ならもうここには来ないはず。だからもう――」
「うるさいっ!」
手を差し伸べようとした霊夢の手を、魔理沙が払いのけていた。
「霊夢、お前のせいだ。お前のせいでさとりがいなくなってしまう。お前のせいだ霊夢。お前がさとりを殺したんだ。さとりは私だから、お前は私を殺したんだ。お前のせいだ、お前が悪いんだ……。さとりは私の…………」
「魔理沙……」
壊れた人形のように繰り返す魔理沙を見て、霊夢はもの悲しい気持ちになった。自分は正しいことをしたはずなのに。とりあえず魔理沙を家の中に入れて、ベッドに寝かしつけた。魔理沙は悪い夢を見ていただけと考える他ない。このわだかまりも時間が解決してくれるだろうと何となく思っていた。
「はぁーあ……」
縁側で濃い目のお茶を飲んで、今日何度目かの深い息を吐いた。さとりに制裁を加えてから二回目の朝が来ても、霊夢の気持ちは晴れなかった。魔理沙の狂気に染まり、侮蔑的な視線で自分を見た顔が忘れられなかった。さとりはああ言ったが、あれくらいで引き下がるだろうか。そんな諸々の事情により、霊夢の心配の種は尽きなかった。
「深く考えてもしょうがないし、洗濯でもしてから境内の掃除でもするとしますか」
うじうじ悩んでいても始まらない。霊夢はよしと気合を入れて立ち上がった。
「そうですわね。悩んでいても前に進めませんわね」
「そう、そうでしょ? 悩むのはいいけど、立ち止まっていても……ね……?」
霊夢のすぐ横から突然聞き覚えのある声がして、思わず同調してしまった。誰だと思い恐る恐る横を確認すると、何たることであろうか、二日前こっぴどく痛めつけたはずの妖怪、さとり本人が縁側で気持ち良さそうに腰掛けていたのだ。
「あ、ああ、あんた……。何でここに……」
気配は感じなかった。幾分だらけていたせいもあったが、ここまで妖怪の接近を簡単に許したことに、霊夢は驚きを隠せなかった。
「私が神社に来て何か不都合がありますか? ちゃんとお賽銭も入れました。それでご挨拶でもと思い、こうしてここに……、うふふ……」
さとりは屈託のない笑顔で優しく笑った。妖怪の醜さを感じさせない少女の笑みだった。その表情に霊夢は一瞬気が緩んだが、はっと直ぐに取り直した。こいつは人の心を操る妖怪。どんな手練手管を使ってくるかわからない。何をされても心をほだされないようにと、霊夢は警戒を強めた。
「そんな目で睨まなくてもいいですのよ? 今日は本当にご挨拶に来ましたの……」
「問答無用!」
妖怪と暢気に話すつもりはなかった。そばに置いてあった巫女棒を手に取り、さとりの肩めがけて一直線に打ち下ろした。軽く霊力を込めた打撃、当たればそれなりのダメージを与えるはずだった。が、霊夢の予想は大幅にはずれてしまった。
「人が話している時に攻撃とは、随分好戦的なのですね。年頃の女の子がそんなに乱暴ではいけませんよ」
さとりの体が俊敏な動作であっと言う間に移動していた。まるで巫女棒の攻撃を予め察知していたかのような、驚異的な反応速度だった。
「なっ、あんたそんなに早く動けるんじゃない? それなのにこの前は何でわざわざ……」
そう、この妖怪は自分の攻撃を避けようと思えば避けられた。あまりの小柄体格で細い足腰に、先入観で動きの鈍い妖怪だと勘違いしていた。
「ふふっ、油断は禁物ですよ霊夢さん。私があえて霊夢さんに殴られた訳を教えてあげましょうか? 痛くて苦しくて涙が出てしまいますのに……。でもですね、私が我慢すれば、お二人の心がおかしくなってしまいますもの……。霊夢さんが私を痛めつける度に、魔理沙さんの心が揺れて……、霊夢さんの心もせつなくなって……。私、そんな他人の心の惑いようを見ると、きゅんとしてしまいますの。覚妖怪の元来の性質で、ずっと不変の理なんですの。もっと惑わせたい……狂わせてあげたい……、私にもっと注目させて可愛がって、ペロペロ舐めてあげて、頭からパクっと食べてあげたい……。うふふっ、霊夢さんのお心、とっても素敵でしたわ……」
さとりは不気味な笑いを浮かべながら話した。
「……意味がわからないわ。御託はいいからあんたは結局何がしたいのよ? また魔理沙に近づいたら承知しないわよ?」
「あはぁ、霊夢さんは結構鈍い方なんですね。何故今日ここに私がわざわざ来たか……。わかりませんか?」
「あいにく妖怪の思考回路は持ち合わせていないのよ。いちいちいらいらするわね、あんた。態度といい言葉遣いといい目つきといい、無性に殴りたくなってくるからさっさと用件を言いなさいよ」
巫女棒をぐっと握り締め、いつでも攻撃出切る体勢にする。さとりの余裕ぶった雰囲気が妙に恐ろしかった。
「それでは用件を言いましょうか。簡潔に言うと――霊夢さん、私はあなたが欲しいのですわ」
「はあぁ?」
霊夢は目を白黒させる。
「そのままの意味ですわ。好きです……、私霊夢さんが大好きなのです。一目見て惚れ惚れしてしまいましたわ……。とっても美人なのに強くて頼もしくて……」
さとりが情のこもった瞳でにじり寄って来た。甘くて脳が蕩けるような囁きだった。そのまま聞き入れてしまえば、たちまち堕ちてしまいそうになる。霊夢は唇を噛み締め、巫女棒を地面と平行に持ち上げ、すっとさとりの動きを制した。
「その手には乗らないわよ。第一女同士で気持ち悪いわよ! 私を馬鹿にしているの?」
「ふふっ、性別なんか関係ありませんわ。現に魔理沙さんは私のペットになったのですから。そうペットですわ……。言っておきますが、覚妖怪が愛するってことは、心そのものを愛するという意味ですわ。私の魅力で迷わせて、狂おしいほどに悶えさせてから、段々と心の扉の鍵を開けていくのです。私へ感化され、依存して、私だけを見つめて、私に全て委ねさせるのです。うふふ、魔理沙さんのあの姿を見たでしょう? あれが未来の霊夢さんですわ。私から与えられる快楽が全てのペットと言う名の生き人形――。うふっ、うふふふ……」
霊夢はぼんやりとさとりの話に耳を傾けていた。どうも理解が進まなかった。
「何でそんな……」
「理解出来ませんか? それも私の愛に包まれれてみればわかりますわ。ああ霊夢さん……ほら、私の目を見てください……。霊夢さんのこと、全部愛してあげたいです……。喜びも悲しみも悩みも全部共有したいのです。さぁこっちへいらしてください……」
さとりが両手を広げて天使のような微笑で誘ってくる。聖母のような深い慈愛に満ちた表情。霊夢は心を半ば心を奪われそうになりながらも、すんでのところで耐え切った。
「は、はぁはぁ……。ち、近づかないでよっ!」
巫女棒を出鱈目に振りまわしたが、力のこもっていない打撃はぶんとむなしく空を切った。
「そんなんじゃ私に当てることは出来ませんよ。腰が据わっていなくて動揺しているのが丸分かりです。ほらほら、こっちですよ。うふふ」
さとりは霊夢を弄ぶかのようにひらひらと蝶のように舞った。
「うわぁ! 来ないで、来ないでよぉ!」
言葉とは裏腹に、追いかけて棒を振り回しているのは霊夢だった。さとりはにやにや笑いながら身を翻しているだけ。霊夢はそれほど混乱していた。さとりに翻弄され、弄ばれるだけの人形になりかけていた。
「あんっ!」
数分鬼ごっこを続けた後、霊夢は足がもつれて境内の石床に鼻を擦りつけた。
「あら大丈夫ですか? 起きなさいな私の可愛いお人形さん」
さとりが母親のような顔で手を差し伸べる。霊夢はその手を憎しみの目で跳ね除けた。
「何よ! どうせするなら、さっさと煮るなり焼くなりはっきりしなさいよ!」
「うふふ、わかってませんね。霊夢さん。私は他人の葛藤が大好きなのですよ。心が右に左に激しく揺れて――、そして最後には必ず私の方に戻ってくる。結果ではなく過程を楽しむというのでしょうか。その道筋が複雑多岐であるほど、純粋な結果もより高みへと到達するのですわ。霊夢さん、今日は楽しかったですわ。また来ますね。たっぷり時間をかけて、焦らして、私色に染め上げてみせますわね……」
さとりは堂々として雄弁であった。霊夢は鼻血を拭きながら立ち上がる。その瞬間さとりにパチッとウインクをされたので、膝から崩れ落ちて顔面を強打した。
「さようなら霊夢さん」
その声は優しかった。霊夢は寒気を感じてうつ伏せのままびくっと震えた。
射命丸文は、勤める新聞社で半ば缶詰状態になりながら、原稿の執筆をしていた。
「追い込みー、追い込みー、追い込みです」
限界まで追い詰められないとやる気が出ない体質。文もその典型的な例に漏れなかった。濃い目のコーヒーをがぶ飲みし、目を血走らせながらも、華麗にペンを走らせていた。
「文さーん。ちょっとー」
後輩の同僚が声をかけてきた。
「何ですか? 野暮用なら後にしてください。私は今のりにのっているんですよ! この流れを断ち切ることは断じて許されません」
「ええ、すいません。ですが……面会希望の方がいらっしゃったので。とても小さくて、ぞっとするような白い肌の方です。どうしますか? 追い返しますか?」
小さくて白いという言葉に文はぴくりと反応した。まさかとは思うが、さとりのあのぬめっとした粘着質の顔を思い出した。
「待たせておいてください。直ぐにいきます」
文はどうも気になった。さとりがここに来る理由などないはずなのに。たった一回顔を付き合わせただけである。このまま帰してしまってもよかったが、それではこれからの原稿に支障が出そうだった。心配事が残っていては何もかも手につかない。
「今日の私は冴えています。こんなに筆が進みますから!」
一気に区切りの良い所まで筆を滑らせた。適当に身だしなみを整えて、一呼吸してから、さとりであろう人物の待つ応接室へと足早に向かった。
「いやいや、遅くなりましたね。私、射命丸文と申します。こんな所までわざわざご足労ありがとうございます」
柔らかいソファーに座っていた人物はやはりさとりだった。物憂げな表情と淫靡な視線は健在で、すらっとした手足と合わせて劣情を催すには十分であった。
「初めまして、古明地さとりと申します。魔理沙さんにここを聞きましたわ。いつもお世話になっているからと――。このクッキーをお持ちいたしましたの。どうぞお食べになってください」
さとりはにこやかに言った。名字は古明地というのか、覚えたぞと文は思った。
「ははぁ、いやーこちらこそお世話になっております。そのご好意、ありがたく頂戴いたします」
愛想よく文は対応した。テーブルには丁寧に包装され、赤いリボンが結わえてある箱が置かれている。魔理沙は文の新聞を購読してはいない。お世話になっているというよりは、煙たがられている仲である。それ故にこの菓子の贈り物を、さとりを通して持ってくるのは、どうしても奇異に思われた。
「それでさとりさん? 今日は何の御用で?」
「いえこれだけですわ。クッキーを渡しに――来ただけですの」
「えっ? そ、そうですか……」
「ふふふ、それでは私これで帰りますわね……」
さとりはぽつんとそれだけ言って、後ろのドアを開けた。
「何なんでしょうか? クッキーを渡しに来ただけ? 変ですおかしいです異変です」
文は何か因縁でもつけられるのではないかとびくびくしていた。人里で写真を撮った時は、本当に嫌そうな感じがあった。素性の知らない白い美麗の妖怪。文は何やら異次元からの恐怖に包まれ、肩を二、三度揺らして身震いをした。
「んー、まぁいいでしょう。私には原稿執筆という使命がありますから。あの妖怪のことは気にせず頑張りましょう! ……と、クッキーとか言ってましたね。まさか毒入りとかいうオチじゃないでしょうね?」
包装された箱を手に取り上下に振ってみる。数十個の固形物が中に散らばっていると予想出来る。
「考えすぎですね私。人を見た目だけで判断してはいけません。あんな冷たい目でも案外お優しい方なのかもしれません」
突如ぐぅとお腹が鳴る。そういえば原稿に夢中でコーヒー以外何も口に入れていない。糖分もある程度は必要だ。妖怪といえど空腹には勝てない。文は今しがたもらった包みを、誘われるようにびりびりと破いた。
「クッキーと言いましたね。私甘い物には目がないんですよ。にひひ」
文は目を輝かせて下品な舌舐めずりをして、白い簡素な箱の蓋をぱかっと開けた。
「これは……」
それは――指だった。第二間接や根元から適当に千切られた指が何本も入っていた。偽者ではない。傷口は赤々とぬめっていて、ついさっき切り落としたように見える。箱の壁面には気持ちの悪い赤黒い染みがいくつもいくつも。何だこれは何なのだ。白妖怪のクッキーとは指なのか。文は数秒混乱した。しかしこの荒々しく節くれだって、毛むぐじゃらの指はどこかで見覚えがあった。爪には汚い垢がびっしりとこびりついている。
どこだどこだ? 文は記憶の中でこの指の人物を探った。
「あっ……!」
あまりに忙しすぎて、金を渡して雇った下賎な妖怪達。その存在をすっかり忘れていた。どうせ金だけもらって雲隠れしたのだろうと思っていた。とすると、この状況は一体何を意味しているのか。さとりは調査しにきた妖怪を八つ裂きにし、更にそれだけでは飽き足らず、文の元までご丁寧送り返してきたのだ。何故? 自分とあの妖怪達との接点はない。例え拷問されたとしてもこちらの素性がわかる訳はないはずなのに。
「っひいぃぃっ――」
文は錯乱して椅子から転げ落ちた。吐きそうになりながらガタガタと震えた頭を頭を抱えた。
――ドアが開いていた。応接室から廊下へと繋がるドア。そのわずかに開いた隙間から、白い顔が半分覗いていた。さっきまでここにいたさとりの不気味な顔だった。赤い目をじとりと細めて、口の端を耳まで裂けそうなぐらい吊り上げている。見ていたのだ。自分が菓子箱を開ける瞬間を――指詰めの箱を見て驚く瞬間を。
目が合った。クスクスと笑い声がはっきりと聞こえた。文は突然自分の指が全て切断されるイメージを想像してしまった。指が、指が――、節々が痛い――。
「お、おおお助けぇー! おおもうしません許してください。神様仏様さとり様ぁーーっ!」
部屋の隅っこに一目散に駆け込み、狂ったようにガンガンと壁に頭をぶつける。怖くて怖くて震えが止まらなかった。
「あっれー? 白い方もう帰ったんですか? 文さん? せっかくお茶淹れて来たんですけど」
その同僚の声で文ははっと意識を取り戻した。額がずきずきと痛んでいた。
「あひっ、あああぁぁっぁ……」
素っ頓狂な声をあげて、同僚にすがりつく。
「何なんですか。気持ち悪いですよ。やめてください。あ、このクッキー美味しそうですね。これ食べていいですか? もぐもぐ……。口の中でとろけますねぇ。どんな作り方してるんでしょうかね。文さんも食べたらどうですか?」
クッキー? クッキーでは無かった。箱には指が入っていたはずなのに。がばっと飛び起きて箱の中身を確認する。そこには茶色の甘い匂いがするクッキーだけが入っていた。
「そ、そんな……」
「どうしましたか?」
きょとんとした表情の同僚の顔が見えた。夢でも見ていたのだろうか? あの指のリアルな形状は現実のものとしか思えなかった。さとりが出て行ったドアはしっかり閉じられている。あのお化けのような半分にゅっとした白い顔、その能面のような顔が脳にべったりと張り付いて離れなかった。
「いえ、いえ、いいえ……」
文は憔悴した。原稿の残りはまだまだ多い。
内側から頑強に鍵を掛けられた扉をどんどんと叩く。魔法の森はしんと静まり返り、生き物の気配を感じさせない。近頃は不穏な空気が森の中へと蔓延していた。
「魔理沙ー、魔理沙! いるんでしょ? 霊夢よ。ちょっと話がしたいの。お願い、ここ開けてよ」
さとりの復活に霊夢は焦っていた。もしやまた魔理沙にも手をかけたのではと思い、翌朝こうして霧雨邸を訪ねたのである。それだけでは無く、霊夢は誰かと話したかった。さとりに翻弄され弄ばれ、自分が誰だかわからなくなるような不思議な感覚。少しづつ妖怪に感化され始めていることに、霊夢は苛立っていた。
「魔理沙! まり……あっ!」
ほんの数センチほど扉開いて、魔理沙の落ち窪んだ目が見えた。ぱっと一度瞬きして霊夢を確認したかと思うと、有無を言わせずガチャリと扉を閉めた。
「大変なのよ! さとりが、さとりが……」
扉の内側はもう気配がなかった。何ということだろう。魔理沙はむくれて自分と話す気はないらしい。このままでは二人共あのさとりにとり殺されてしまうかもしれないのに。
霊夢は窓を割ってでも中へ入ろうと少し思ったが、直ぐに取りやめた。そんなことをしても魔理沙は説得には応じないであろう。さとりの束縛は真に根深い所まで侵入している。霊夢は何も出来ない自分の愚かさを呪った。妖怪を退治するはずの博麗の巫女――友人一人助けだせない名ばかりだけの存在。
気が滅入ったまま霊夢は博麗神社へと帰って来た。さとりはまたここに来ると言った。あの時自分を支配しようとすれば出来たはずなのに、何と底意地が悪い妖怪なのであろうか。反吐が出るほど憎たらしい。そう憎い、白い肌であんなに華奢で細くてつぶらな瞳で可愛く……。ああ駄目だ。何を考えているのだ。さとりの姿を思い出すだけで頭がおかしくなる。
「やーーっ! やっやっ! やぁっ!」
霊夢は何かを打ち払うように、巫女棒を何もない空間に振り下ろした。
「はぁっ、はぁっ」
汗をかいて体を動かすと、頭の中がすっきりとする。袖で額の汗を拭って一息つく。落ち着け、落ち着くのよ。まださとりに負けた訳じゃない。あの体では外傷を負わせるような攻撃は出来ない。蠱惑的な魅力を使って精神が陥落するのを、じっと待っているだけ。真の敵は自分自身にある。一度あの胸糞悪い顔面を叩き潰してしまえば全てが終わる。霊夢はそう信じるしか希望はなかった。
「ふー、ちょっと気が入りすぎたわね。汗で気持ち悪いし、少し水風呂でも浴びようかしら?」
霊夢は境内から神社内へと戻ろうとした――と、その時感じる背後に鋭い視線。並々ならぬ殺意が背中に突き刺さっていた。これは尋常ではない妖怪だと直ぐに後ろを振り向く。
「誰? 出てきなさい! いつでも相手になるわよ?」
殺気だけは感じるものの、肝心の妖怪の姿は見えなかった。だが確実に霊夢をとらえる凍りつくような視線は感じていた。
「ちっ! 姿を見せないつもりなの? 隠れているならこっちから――」
そう思い足を踏み出そうとして、ふと境内の石灯篭の影に隠れている人物に目を留めた。辺りは何時の間にか薄暗い。ぬるりと溶け込むようにしてその人物は闇と同化していた。
「そこにいたのね。待ってなさい今すぐ退治してあげるわ」
その妖怪の殺意は圧倒的だった。石灯篭までゆっくりと警戒を強めながら近づく。しだいに妖怪の全貌が明らかになる。
「――え?」
霊夢の網膜に映った像は理解を超えていた。肩まで軽くかかる頭髪とひらひらした服装。それに忘れもしない白い肌。強大な威圧感を放っていたのは紛れもないさとりだった。ただ目がぎらつき、歯を剥き出しにしていて、今にも噛み付いてきそうだった。あの澄ました顔で、どこか飄々とした態度のさとりとは同一とは思えなかった。
「あ、あんた……」
頭の切り替えが出来なくてしばし呆然と立ちすくむ。顔の表情は似ても似つかないが、背格好はさとりそのものだ。そうか、さとりのあの余裕の態度、まだ秘めた力を隠しているのだろう。その結果がこの鬼気迫るほどの殺気である。妖怪のことだ、急に気が変わって人間を殺したくなっても別に変ではない。だが、そっちがそうくるならこっちにもやり様がある。
「そうやって欲望剥きだしの方が、まどろっこしくなくていいわよ! いらっしゃい! 泣き言言う前に叩き潰してあげる――」
猿のように空中に舞い上がり、軽やかに一回転。さとりの脳天めがけて巫女棒を叩き下ろす。
「もらったわ!」
さとりは真上を取られて反応出来ないのか棒立ちのまま。霊夢はすたりとポーズをとって鮮やかに着地する。空虚な手ごたえ。何か奇妙な感覚が霊夢を襲った。さとりはその場にいたはずなのに、いなかった。攻撃する直前まで見えていたはずなのに。
「ちっ、どうなってるのよ? あの距離で逃がすはずなんかないのに」
妖怪の気配が感じられなかった。煙のように忽然と消え失せ、その存在を抹消したかのようだった。
「どこ? どこにいるのよ? は、早く私を襲いなさいよ!」
霊夢はこの事態に焦ってしまった。これではまたこの前と同じだ。蝶のように逃げられてふらふらと後を追わせられる。正体を現しても、根本的な戦闘方法は変わっていないのだなと思った。
「そんな手には二度と乗るもんですか……」
さとりはこうやって獲物がのたうち回るのが好きなのだ。自分から焦って飛び出したりしたら負けた。落ち着け――。さとりは絶対まだ近くにいて見張っているはずだ。
霊夢の予想はおおよそ当たっていた。境内の薄暗い石灯篭の影、その一つの背後にさとりはまた出現した。気配がついたり消えたり、点等するランプのように移り変わる。なんとまあ器用なことだと霊夢は感心した。さとりは先ほどと同じように、顔半分だけ出して、こちらを憎しみのこもった目で見つめてくる。獰猛で肉食の妖怪の本性。それが存分に感じられる表情。やはり今ここで成敗しておかなくてはならない。
「はっ!」
一気に間合いを詰めて横なぎに一閃。今度は確実に逃げ場はない。巫女棒が当たる瞬間まできっちりと見ていた。そして霊夢の打撃はさとりの腹部を抉った――はずだった。
「……まただわ。捕まえたはずなのにいない。いたのにいないのよ! どうして? ううっ! 頭がおかしくなりそ……だめっ! これがあいつのやり口なのに……」
自分の目が信じられなかった。幻術なんかじゃない。気配はしっかりそこから発している確信があるのに。霊夢の焦りは募るばかりだった。精神は着実に侵されかけているのに、敵の実態は未だつかめていないのだ。
「はぁ、はぁっ、うっ……」
今度は霊夢の真後ろ。丁度石段を登った神社の入り口付近に立っている。もう日は沈む直前で、後数分で漆黒の闇が訪れてしまう。
「何で……、何でよ……」
霊夢は攻撃を躊躇った。また無闇に突撃しても、空を切るのは明白だった。そうだとしても――このままさとりを野放しにしておくわけにはいかない。どうする?
さとりの目が爛々と赤く暗闇の中に光っていた。つやつやの白い歯が剥きだしで、涎を垂らしてニィと笑われる。
――怖い、このまま殺されてしまう。
徹底して精神支配を狙ってくるさとりとは別人のようだった。あの細腕には信じられないほどの神通力が備わっていて、か弱い人間など瞬時に八つ裂きにしてしまうような、そんな明確な殺意が見て取れた。
「こ、殺すならさっさと殺しなさいよ……」
霊夢は半ば負けを認めていた。見える実像が虚像であるならば、どうやって戦えというのか。さとりが傍観を決め込むと知っていても、一応は聞いて見たかった。こうやってじわじわいたぶられるのは耐えられなかった。
さとりは何も言わなかった。ハイエナのようにただ笑っているだけ。まるで食べごろの状態を待っているかのように。
「はぁーっ、はぁーっ」
後ずさりしてそのまま神社の中へと駆け込んだ。何をされたわけでもないのに恐ろしいと思った。直接的に攻撃されていないのだから、実害はあの殺意の目で見られただけである。何もされずに目だけで舐めまわすように侵される、その一点の事実だけが、霊夢を深い恐怖の底へと誘っていた。
「ど、どうせあっちからは何もしてこないのよ。ね寝ましょう。布団被ってもう寝るわ。おやおやすみなさい。寝るのよ。寝る、寝る!」
神社の中まで入ってくる可能性など少しも考慮せず、頭から布団を被って寝転がる。目を閉じると疲労が蓄積いていたのか直ぐにまどろんだ。ああよかった、これでさとりから解放される。
猛烈な尿意を感じ、霊夢は布団から飛び起きる。生理的な欲求とは如何ともし難いものである。
「う、ううー。お茶の飲みすぎかしら? 最近近くてたまらないわ」
外はもう夜中であった。霊夢はいそいそと厠へと出かけ、ほっと一息の休息を得る。恐ろしい顔のさとりのことはコロッと忘れていた。
「はぁーっ。すっとしたわ。さてと、また寝よ……」
帰りの縁側をひたひたと歩く。外には無明の闇が果てしなく広がっている。
闇というものは人間の恐怖を増大させる。見えないわからないと言った、未知の領域を想像させる予知があるからなのか。霊夢も人間の例に漏れず、この暗闇の中に底知れない恐怖を感じた。早く戻ろうと焦りながらも、無意識に闇の奥――更にその深淵まで覗き込んでしまった。巫女の視力は思いのほか高い。霊夢は闇に潜む悪魔の存在を不幸にも感じ取ってしまった。
「な、何よあれ……」
黒塗りの世界に浮かび上がる血走った赤い双眸。その恨みのこもった眼球はどこか既視感を感じる。
「まさか……」
目だけではなく象牙のように白く滑らかな歯も確認する。闇にぼうっと揺らめくのはさとりに相違ない。目が合った。にやりと笑いかけられた。しだいに白い肌も黒い空間から滲み出るようにして、じわりじわりと近づいてくる。霊夢が恐怖感じれば感じるほどその実像は現実味を増していく。
さとりが右手をあげた。ついついと小さなが手がおいでおいでをしていた。何だろう。こっちへ来て闇と溶けこもうというのか。違う違うお前はさとりじゃない。さとりはもっと優しい。お前なんかに騙されしない。いやいや、さとりは妖怪だ人間の敵だ。心を許してどうするのだ。ああ怖い怖い。何故自分はさとりを望んでいるのだ。さとりと瓜二つの偽物を見せられて――。これがさとりの狙いなのか。ああそうか、それもいいのかもしれない。
「ああ……」
思わず声が漏れる。さとりであってさとりでないものは段々と近づいてくる。おいでおいで、おいでおいで。あの細い白い手首、やはりあれはさとりだ。唯一無二の漂白された白さ。あれが自分の求めた――。
夢遊病のように霊夢はだらりとして、白い妖怪に近づこうとした。
「痛いっ!」
縁側から足を踏みはずし、どたりと地面にしたたか体を打ち付ける。土ぼこりを払いながら立ち上がり、未だ光の届かない前方を見やる。
「あれ?」
さとりは忽然と消え失せていた。爛々と光る赤い目もたおやかな白い手もない。霊夢は背筋にぞっと寒気を感じた。まただ、また自分はさとりの術中に嵌ろうとしていたのだ。何という愚か者なのだ。しかし今のは本当にさとりだったのだろうか? 幻覚か夢か幻かはたまた。霊夢は深く思考する気力もなく、腰をさすりながら布団へと舞い戻った。
「もう目が覚めないで、お願いよ」
霊夢はそう念じてまたずぶずぶと眠りに落ちた。
生ぬるい空気の翌朝、霊夢は神社敷地の外周に沿って、結界を張り巡らすべくお札を貼り付けていた。
「何でこんな簡単なことに今まで気づかなかったのかしら? 私って馬鹿ね。お馬鹿さんね」
そう自虐しながら黙々と結界用のお札を配置していく。さとりの正体が不明でも入れなければ視界に入ることはない。結果として、気持ち悪い視線を浴びることなく平和な日常を送れるはず。
あんな妖怪の相手はもう面倒だ。こっちが手を出すのを待ってにやにやとほくそえんでいるだけ。完全に無視を決め込むに限る。そうしなければこちらの精神が先に潰れてしまう。
「さてと、こんなもんでいいかしらね」
結界の準備は整った。これで並の妖怪の侵入なら確実に抑えることが出来る。もしさとりがこの結界を破るぐらい力の持ち主であったとしたら、その時はその時で諦めるしかないと思った。
日差しは有頂天に達していた。晴れ晴れとして気持ちがいい。こんな日はいつぶりだろうか。魔理沙が来て魔理沙の家でさとりを追っ払ってから慌しすぎる。そうか、魔理沙が厄介事を運んできたのか。全ては魔理沙のせい。ああ魔理沙は友人だっけ。それも既にどうでもいい気がする。溜まった洗濯と掃除をして寝よう、そうしよう。
霊夢は心地よく働いた後、早めの夕餉をとり床についた。
「おやすみなさい……」
誰に話しかけるわけでもなくそう言った。
夢を見た。虹色に輝く数多の風船が空を埋め尽くす夢だった。
その一つを手に取る瞬間さっと夢が終わった。
朝の幻想郷。結界を張っておいたおかげで嘘のように熟睡出来た。ううんと背伸びをして霊夢は境内の掃き掃除を始める。神社の裏手から表へと、順繰りに丁寧に落ち葉を寄り集めていく。掃除というのは誠に気持ちがいいものだ。心に溜まった汚れも洗われるように吐き出されていく。
「ふーんふふんふん……」
適当に鼻歌を歌いながら表の石段へと向かう。霊夢の心は朝の心地よい日光で浄化傾向にあった。ただし、石段に放置された、無残な物体を見るまでの話であったが。
「――え?」
結界から二メートルほど外れた場所にそれは鎮座していた。
「い、一体誰がこんな……」
石段には犬の死体がおびただしい血糊を撒き散らして据え置かれていた。身体には幾重にもわたる深い傷があり、犬の顔は絶望的なまでの恐怖の表情で固まっていた。一撃で殺したのではなく、真綿で首を絞めるように、じわじわといたぶるように時間をかけて。まるでさとりに弄ばれる霊夢の様子を表現しているかのように。
「うっ、ううっ……」
霊夢は気分が悪くなり、口に手を当てて青ざめた。頭がぐらぐらしておぼつかない。何で? 結界を張ったから? こんな嫌がらせで負けるわけが――。
死体をさっさと片付けようとして石段を下りる。どうせ肉食の妖怪が食べてしまうだろうから、木陰の中にでも放り投げておけばいい。
霊夢は手に持っていた箒で掃こうとした。
「ん? 何これ? 何か血で文字が書いてあるわ」
ツ ギ ハ ニ ン ゲ ン ダ
「はっ、はーーっ、はっはっ。は…………」
霊夢は息を吸いすぎて過呼吸になりかけた。甘かった。あのさとりが容易く逃すはずはないのだ。
「助けて……、助けて……」
人間の味方である巫女の神社に、人間の死体が投げ込まれては元も子もない。しかもその原因は自分にあるのだから。これでは結界を解かざるを得ない。さとりはやはり用意周到だった。こちらの考えることなど当の昔の看破しているのだ。
「え、えへっ、えへへっ! 来るなら早く来なさいよ。また遊んでくれるんでしょさとり? えへへへっ」
霊夢の頭は再びおかしくなった。半狂乱になりながら結界を構成しているお札を剥がしていく。その姿は一般人から見れば妖怪と思われても仕方がなかった。目を血走らせて、舌を化け猫のように垂らして、狂ったように側転と宙返りをしながら飛び回る。
「あはは! これで私を守るものはないわね! どっからでもかかって来なさいよ!」
霊夢は無人の神社で高らかに吼えた。霊夢はもう感づいていた。死体を石段に投げ込まれて嬉しかったのだ。これでさとりに会える。やはり自分はさとりに惹かれてしまっている。ああさとり、さとり、もう待てない。その細腕で胴締めして欲しい。お返しに壊れるほど抱きしめてあげたい。ああ好きだ好きだ。
激しい運動した後霊夢はぐったりとして、居間に突っ伏して夕方まで寝た。寝て起きるとすっきりしている。寝れば魔に憑かれても戻っている。何だか記憶が最近はっきりしない。石段で犬の死体を見た後何をしたのだろうか。ツギハニンゲンダ、次は人間だ――。ああさとりから脅されて結界を自ら解除してしまったのだな。
今日はさとりの来訪を妨げることは出来ない。しっかり、しっかりしなくては。自分は博麗の巫女。妖怪の魔の手から人間を守る役目を背負った、不思議な空を飛ぶ力を持つ幻想郷の巫女。そうだ守らなくては人間を。そのためにはさとりを退治しなければ――。
「でも……。何故? 何故私は巫女なの? 何のために人間を?」
そう自問自答してみると頭が混乱した。何のために? 考えても答えは出ない。ああさとりに会いたい。さとりならきっと答えを出してくれる気がする。
ああ早く会いたい。
夕闇が神社を侵食すると、さとりは待っていたかのように現れた。怖い顔のさとりだった。ああまだ怒っているのね。自分がこの前あんなにはね除けたから。ごめんなさいお願いだからそんな怖い顔しないで。以前のように優しく笑いかけて包んで欲しい。ああ駄目よ忘れたの巫女の宿命を。巫女は妖怪を倒す運命なのよ。それは未来永劫変わらないの。頭が痛くてたまらない。うん? あなたはさとりじゃないのね。微妙にオーラが違う。でも容姿はそっくりさん。ああ早く私のさとりを返して頂戴。ちゃんと謝るからお願い。土下座して血が噴き出るまで額打ち付けて謝るから。……まだその目してるのね。どうあっても許す気はないようね。そんなに殺したいのなら早く殺してよ。そんな殺気だった目で四六時中監視されたらたまらないわ。ああ、ああ。
霊夢の精神は日に日に衰弱していった。睨むだけで何もしてこないさとりの偽物に飽き飽きしていた。このままでは何もされずに狂ってしまう。
「霊夢さーん。いますかー?」
明るい誰かの声が聞こえた。あれは確か――守矢神社の東風谷早苗のはずだった。そういえば最近まともに人と会話をしていない気がする。
「は、はーいいるわよ」
重い体を引きずりながら、玄関口までやっとのことで這い出す。
「あっ霊夢さん。お久しぶりでもないですね。……と何かげっそりしてますね。ちゃんと食べないと駄目ですよ」
「うん、うん……」
適当に相槌を打ちながら頷く。早苗のキンキン響く声が至極耳障りだった。こんなにも他人の声というものは異分子だったのか。
「神奈子様から御神酒を届けるようにと言われました。後こちらのお茶菓子もどうぞ」
大き目の酒瓶と四角い箱。笑顔の早苗からそれを手渡される。酒瓶が重くて危うく転がしそうになってしまった。
「確かにお渡ししましたね。それでは霊夢さん、さようなら……」
「あっ、あの早苗……」
霊夢は声をかけていた。誰でもいいからさとり以外と話をしたかった。
「何ですか霊夢さん?」
早苗は振り返った。その刹那、霊夢は早苗の背後に恐ろしいものを見た。
血走った目のさとりが、歯を剥き出しして仁王立ちしていたのだ。今にも早苗の首筋に噛み付かんとしているように見えた。
「さっ、早苗危ない!」
「えっ何ですか?」
早苗は不思議な表情で首を傾げた。
「後ろ、後ろよっ!」
「はぁ、後ろですか……」
ゆっくりとした動作で緑の髪が揺れる。
「ほ、ほらっ、ほらっ! そこっ!」
霊夢は指をさしてそれを訴える。早苗は微動だにしていない。何か様子がおかしかった。
「あはは、私、霊夢さんに騙されちゃいました。あれですよね? UFOですか? でもなぁーんにもいませんよ。本日は晴天なり――、真っ青です。雲一つない青空――」
「なっ何を言っているの? あんたの後ろで涎垂らしている妖怪が見えないの?」
この発言で早苗の表情がさっと曇ったのがわかった。
「霊夢さんいい加減にしてくださいよ? 私を馬鹿にしているんですか? 新参者の巫女だから、博麗神社の邪魔になるから、霊夢さんが私をあまり快く思っていないのは知っています。だからといって、この仕打ちはあんまりじゃないですか? 誰もいませんよ。私だって妖怪の気配を知ることぐらい出来ます。絶対断言出来ます、今、私の周りには何の存在もありません。ええ、神奈子様と諏訪子様の二柱の名に誓って」
「でっ、でもねでもね早苗……」
「でももヘチマもありません。いないものはいないのです。霊夢さん、そんな状態では意地の悪い妖怪に寝首をかかれてしまいますよ。巫女が易々と妖怪の手にかかっては、博麗の巫女の名が泣きます。いえ、巫女全体の威信にも関わります。霊夢さん、くれぐれも私を失望させないでくださいね。それでは失礼します」
「ま待ってよ、待って……」
早苗は聞く耳を持たずにスタスタと立ち去った。さとりの贋物はまだこちらを見ていた。嘘ではない、妖怪は確かにここに存在する。ただ積極的には干渉出来ないだけ。どうして早苗には見えないのだろう。何故自分にだけ、ああわからない頭がおかしくなる。
「ちょ……、ちょっと何とか言いなさいよぉ! うんとかすんとか、何でもいいから……。ぐすっ、お願いお願いよ……。何でもいいから……私に話かけて……うっううっ……」
霊夢はぴくりとも表情を変えないさとりに涙を流して懇願していた。大声をあげて幼い子供のようにむせび泣く。霊夢の中で何かとてつもなく巨大な、かろうじて均衡を保っていた、瓦礫の山がガタガタと崩れ始めていた。
雨がしとしと降っていた。久方ぶりの雨に、蛙も草木も生気を取り戻して喜びを露わにする。
「雨……か」
霊夢はいつもの定位置の縁側に、やはり濃い目のお茶を湯呑みに注いで呆けていた。降り止まない雨、その雨足は止まることを知らない。
今日はまださとりは来ていなかった。いつも人知れず霊夢の視界にちゃっかりと入ってくる。不気味に微笑むだけで何もしない、ただいるだけの存在。霊夢は空の湯飲みにお茶をつごうと急須を手に取った。が、湯は一滴も残っていなかった。むなしくなって急須ごと濡れた地面に放り投げた。
「なんか私馬鹿みたいね。何にも喋らない人形の帰りを待ってどうするのかしら?」
風にぶわりと煽られて、大粒の雨が霊夢の身体を濡らした。遠くて雷がごろごろと鳴っている。このままでは夕方からは荒れ狂う風雨になる予感がした。
「あーあ……」
頭をかいて立ち上がる。来て欲しい来て欲しいと念じた。もう人形でもいいから来て欲しい。捕まえられなくてもいい、永遠に追いかけるだけで満足だ。あの優しいさとりの面影、それを少しでも感じさせてくれるのならば。
「あっ……」
無意識に入り口の石段の方を見た。霊夢の視力は視界の悪い雨の中でも、はっきりとその姿を視認していた。ふらふらとしてバランスの悪い貧弱な身体。雨でたっぷりと濡れた桃色の髪はさとりに間違いない。
もはや物言わぬ人形でもいい。逃げないで欲しい。そばにいてくれるだけでいい。
さとりは一歩一歩近づいて来ていた。じとっ、じとっと地面を踏みしめる音が聞こえてくる。うるさい雨音の中でもしっかり判別出来る。何故なら歩いているのがさとりだからだ。
もう少し、もう少しでさとりの表情が確認で出来る。偽者の人形かそれとも――。
「はっ、はっ、はっ」
霊夢は思わず息を吐いていた。悲しく沈んでいたが、偽物ではない、霊夢を積極的に誘惑しようとしてきた方のさとりだった。
ああどうしてこんな雨の中で傘を差していないの。風邪をひいてしまうじゃない。風邪は万病の元よ。早く早く助けてあげなくちゃ。
髪もべったりと白い頬に張り付いて、水も滴る美人といった風情だ。薄い服もたっぷりと雨を吸って重そうだ。下着もつけていないのか、元からその習慣がないのか、地肌まで全て透けていて、身体の緩やかなラインがはっきりとわかる――それは身の毛がよだつほど扇情的であり、この世に降り立った美神と言っても過言ではなかった。
「さと……」
霊夢は思い人の名を呼びかけて躊躇した。博麗の巫女としての最後の意地が残っていた。それは尊大でもあり愚かでもある意思だった。これがあのさとりの仕掛けた罠なのだ。あのもぬけの殻の人形を使って気をもたせて、このどしゃぶりの雨に便乗して自分の心を篭絡してしまおう――。そんな一方的な罠でも今の霊夢には効果的だった。罠とわかっていても行くしかない。ああ博麗の巫女は今妖怪の手に堕ちるの。ごめんなさいごめんなさい。
誰に謝っているのかわからなかったが、今一歩踏みとどまっていた。さんざ煮え湯を飲まされた結果、偽さとりを追うのはもう懲り懲りだった。表情は違えど実は偽者なのかもしれない。あと一つ、何か一押しが欲しかった。
「ああ……」
霊夢の口から声が漏れていた。さとりが笑っていたのだ。あの脳に刻み込まれている優しい優しい笑顔だった。さとりが帰ってきたお帰りなさい。今助けるわ待っててね。はぁはぁ、酷くぬかるんでいるわね。でも大丈夫よ、もう少しもう少し。あっほら捕まえた。逃げないのね、どうして? そうか、自分がさとりを信じたから、さとりと心の底から一つになろうと思ったから。そうなのね。ほら暖かい部屋の中はもうすぐよ。身体も拭いてあげる。熱いお風呂にも入れてあげる。夕食も一緒に仲良く食べてから、それからそれから――――。
「よいしょっと」
水を吸った服は重く、苦労しながらも縁側にべちゃりとさとりの身体を横たえた。さとりは目が空ろで死んだように動かなかった。細い手首を触ってみると氷のように冷たい。
「大変。冷たいわ。さとりが、さとりが」
霊夢は錯乱した。自分のせいでさとりがこうなったと思った。このままでは風邪をひいて体が弱って肺炎になって死んでしまう。
大慌てで大き目のバスタオルを持ってきて、優しく包み込んでさとりの身体を拭く。
「ああさとりさとり、かわいそうに」
泣きながら両手で抱きしめていた。上半身を起こして後ろから抱え込むようにする。
か細い白いうなじに誘い込まれるようにして頬擦りをした。雨でじっとりと湿っていても、鮮烈な心を躍らせるような豊潤な匂いが、霊夢の鼻腔をくすぐった。濡れそぼった髪も首も薄い胸も腹も腿も脹脛も全て拭いてあげた。布の上からでもさとりの身体の細さを感じ取ることが出来る。霊夢はへらへらと笑いながら甘美な感触を楽しんだ。
「……? どうしたのさとり?」
首が九十度ほどくるりと回り、何かを訴えるような横目で見つめられる。ああ狂ってしまう、駄目よそんな目で見たら。ああ。
さとりはそのまま無言でにやりと笑い、霊夢の両手を払いのけた。しまったと思った。さとりの機嫌をそこねてしまったと。霊夢は青ざめてさとりの様子を見守った。
ほんの二メートルばかり離れて、さとりは小さな身体をバスタオルで全部隠して、何やらもぞもぞと手足を動かし始めた。当然霊夢からはバスタオルで覆われた内側の様子は見えない。さとりがにんまりと上から見下すような表情をしていた。何しているか想像してごらんなさいふふふとでも言いたげだった。
数十秒ほどこの情景を阿呆のような顔で見続けて、ようやく霊夢はさとりが何をしているか理解した。濡れた服を狭い場所で苦労しながら脱いでいるのだ。何故そんな簡単なことに気づかなかったのか悔やまれる。手伝おうと少し思ったが、手足が金縛りのようになって動かなかった。
「わっ!」
さとりが急にバスタオルの中から何かを投げつけてきた。それは上着だった。さとりが今さっきまでつけていた上着。投げた拍子にバスタオルの覆いがめくれて、一部役目を果たせていない。細い肩から流れる美麗な曲線が指の先まで――爪も指の腹も手のひらも存分に潤っていた。思わずその肢体に見蕩れてしまう。さとりは霊夢の粘つくような視線を感じたのか、若干頬を染めて恥ずかしげな表情をして、また白い防護壁へとその身を隠した。
数分の間にスカートと靴下も容赦なくぶつけられた。顔に勢いよくべたっと布が張り付く。怒りや屈辱は微塵も感じない。さとりの投げた物体が自分に効果をもたらした。それだけで霊夢は満足した。密かな被虐体質の目覚めが霊夢の脳に発現していたのである。
衣服はそれだけのようで、さとりは身体が軽くなって嬉しいのか、満足げに笑った。霊夢は服を濡れたまま律儀にたたんだ。後で綺麗に洗濯しなければならない。そして霊夢は口を開いた。
「お、お風呂を沸かすから、居間でお茶でも飲んでゆっくりしていってよ」
大急ぎで何かに操られるようにして、数日に一度しか入らない風呂の湯を沸かす。さとりのためにと思うと霊夢の心は浮きだった。あの赤子のように可愛らしい笑顔、ついに本物のさとりがやって来たのだ。あの笑顔のためなら何でも出来る。最大限の努力をしてもてなしをしなければならない。未だに無言なのは不安だったが、誠意を持って接すればきっと口を開いてくれると思った。
「さとりーお風呂沸いたわよー」
霊夢はまるで長年連れ添った夫婦のような気持ちで言った。さとりは小さな口にお饅頭を頬張っていていた。口の端についた餡子、それを舌でぺろりと舐めとる。続けて繰り出される妖しい笑み。霊夢は頭が真っ白になり、数秒棒立ちした。
「き、着替えは脱衣所に置いておくから……」
何とか取り成して口を開く。さとりはまだバスタオルのままだった。白い布より更に白い首と足首が覗く。霊夢に促されると、すっと立ち上がり風呂の場所を聞くまでもなく移動した。
「ゆ、湯加減が熱かったり温かったりしたら言ってね」
風呂場の外からそう言う。もう霊夢は何も考えられなかった。
さとりが風呂に入っている間に霊夢は夕食の準備をした。食材庫を漁ってみる。肉もない魚もない。近頃買出しに全く行ってないのだから同然ではある。ある大根とか茄子とか人参とか野菜だけ。霊夢はそれでもさとりにどうにかして美味しく食べてもらおうと、苦心して素材の味を最大限に生かすを料理法で調理した。
「はっ、ははっ。何だか夢みたい。……夢?」
そう夢のような展開だ。さとりが転がりこんで来て何の支障もなくこうして――。敵対していた妖怪と人間がこうして一つ屋根の下にいる。ううん自分はさとりを好きだからいいけど、さとりはどうだろうか。一言もしゃべっていない。ああそうか、偽物、虚構の作り物。これは夢なのか。わからないわからない。
どんなに考えても始まらない。霊夢は白米をお味噌汁と漬物と、質素な料理を真心を込めてこしらえた。
居間の卓袱台に既に風呂からあがり、用意した白襦袢を着たさとりが待ち構えていた。それは霊夢のお下がりだったが、さとりの身体には合わずぶかぶかだった。白い首筋から鎖骨が見えて、前かがみになれば簡単に薄い胸板と浮いたあばらが見えてしまう。ああこれほど可愛い妖精がどこにいるのか。
この危険な容貌は霊夢を邪な気持ちに誘った。そんな目で見ようとしまいと思っても、どうしても淫らな妄想に走らずにはいられなかった。淫らといっても軽く抱き合いながら接吻するぐらいである。うら若き少女が妄想するのはそういうものだ。
「ほ、ほら食べてよさとり。こんな粗末なものしかないけど……」
霊夢も卓袱台に座りさとりと向かい合う。さとりは無表情になっていた。そのまま右手で箸をとり、一欠片づつ食物を口放り込んでいく。その光景に霊夢はまた夢の中に包まれた。さとりの顔をずっと見ていても飽きなかった。眉の微細な動きや頬の筋肉が収縮する様子。そのほんの少しの揺れに霊夢の心は支配される。口の端がちょっとでも釣りあがって笑顔になれば最高の気分だった。
無言の食事は延々と続く。霊夢は食べ物の味が全くわからなかった。カチャカチャと食器の音と咀嚼音だけが場を満たす。何か話さなければと思ったが何も思いつかない。陳腐な言葉でさとりの機嫌を損ねては大変だ。
寂しい食事が終わるとさとりは霊夢をじっと見つめてきた。深い深い湖に沈むような眼差し。ああこのままでは負けてしまうと思った。負けたいと思っていたのに負けたくない。妖艶な上目遣いで誘われる。さとりの常套手段だ。今は二人きり、正面には頬杖をついて薄い襦袢を身に着けた白い少女。夢が、夢が。やっぱり夢が。
「ふふ布団敷くわね」
霊夢はそれだけ言った。
普段使用している床の間にさとりを寝かせ、自らは狭苦しい居間に適当に布団を敷いて横になった。
今隣の部屋で、さとりが眠りを享受しようとしていると思うと不思議な気分になった。どんな姿勢で寝るのか、どんな安らかな表情で眠るのかとか。霊夢は色々と妄想しながらまどろんだ。眠ってしまえば何かが解決するはず。明日のことは明日考えればいい。さとりはきっと口を開いてくれるはず。そう信じたかった。
数時間記憶が飛んだようだ。横目でさとりが眠っている部屋の襖を確認する。隙間が――ほんの少しだけ隙間が開いていた。まるで生まれたばかりの赤ん坊の指だけが通過出来るような、極々微小の風穴が。
霊夢は気が気でなかった。その穴から何かが飛び出してくる予感がしたからだ。幽霊の存在が公に認められている幻想郷であっても、怖いものは怖い。正体不明の未知の概念というのは、それだけ人間を恐怖に陥れやすいのである。
「ひっ」
口の中で声を噛み殺していた。白い指が狭い襖の間から一本にゅっと――続いて二本、三本――。細長く艶かしい指だった。そのままご本全部の指が襖をすーっと押して、白蛇のような細腕で這いずって出てきた。
襖の奥は確認できなかった。薄暗い闇が広がっている、そこは別世界へ通じる異次元なのかもしれない。白い手はずずっと蛇が鎌首をもたげるように持ち上がった。ああ何ということだ。白い手首からその先は見えなかった。手だけの存在が今霊夢の目の前で踊っているのだ。不思議と恐怖は感じなかった。何か懐かしい感じ――いつかの夜、厠に起きた時だったろうか、これに良く似た手を見た気がする。
さとりはどこへ行ったのだろう? あの部屋に寝ていたはずだ。もしや魑魅魍魎の類に喰らわれてしまったのか。さとり、さとり。隣の部屋から手は出てきた。さとりの手も白かった。手首、手首から先は何処へ? さとりは何処へ? 現実ではあらざる出来事が起っている。そうだ夢だ、夢に違いない。妄想の中で何でも可能な素敵な夢の世界。
「夢……、夢……」
霊夢は布団から体を起こして幽霊のように立ち上がった。すると白い手が嬉しそうにくるっと一回転して、ゆらりゆらりと飛行し霊夢の頬をさっと撫でた。それは一瞬だったが手のひらがびたっと張り付き、体温を存分に奪われた。
「うふふ、あはは」
夜の博麗神社で奇妙な鬼ごっこが始まった。人間の巫女が追いかけているのは、不気味なオーラに包まれた白い手の部分だけ。巫女は狂っていた。現実では存在しえない手だけの生き物に魅了され、子供のようにはしゃいで追いかけ回していた。
「待ってよ。それじゃ捕まえられないわ。いつまでたっても……」
霊夢はちょっと拗ねてみた。白い手の動きがぴたりと止まる。
――おいでおいで。こっちへおいで。
白い指が鞭のようにしなり霊夢を招いた。手の機能を全て使い、その動きで言葉を表現しているように思えた。手招きするポーズに合わせて白い手は後ろに段々下がっている。霊夢は抗う理由も見出せずにその招きに応じた。
「あはぁ……、そっちなのね……。そっちへ行けばいいのね?」
さとりが寝ている部屋の内側に白い手は浮んでいた。
そう言うと、答えを返すように手は二度ほど嬉しそうにおじぎをした。
「わかったわ……。今行くわね……」
霊夢は恍惚状態で白い手が待つ襖へと近づいた。奥の暗がりは何も見えない暗黒の空間。おいでおいで、おいでおいで、オイデオイデオイデ――――。
「きゃっ!」
限界まで近づくと霊夢は髪をむんずとつかまれて、釣り上げられた魚のようにぽーんと打ち上げられて闇の籠の中へと落ちた。
そこは常闇の楽園。誰もいない。
いない、いないいない怖い。
「ぁ……」
闇に押しつぶされそうになる刹那の手前、霊夢の後ろから二本の手が、白い手がねっとりと絡み付いてきた。
「あん、あん……」
霊夢は嬌声を漏らした。すべすべの手のひらで顔全体を撫で回される。
もう何も怖くはなかった。
気持ちいい、キモチイイ――。
白い手が、真っ白に。
闇が消えうせ真っ白に。
視界を全て。
真っ白で気持ちいい。
アアキモチイイ。
寝ぼけ眼で掃き掃除をして、さとりの服を洗濯して物干し竿にかけた。熟睡出来なかったのか酷く体がだるい。白っぽいイメージの夢を見たが、具体的な事柄は何一つ思い出せなかった。
さて、もう起きたかなと床の間に向かうと、さとりは縁側で白襦袢を着て足をぶらぶらさせてぼんやりしていた。
「もう起きたのね。お早うさとり。直ぐにご飯を作るから」
さとりは顎をこくんと下げて頷いた。まだ喋る気はないらしい。食事の準備をしようと立ち去ろうとすると、甘い流し目で射抜かれた。ふらふらと誘われてさとりの隣にそのまま腰をかける。
気まずい沈黙が流れた。指一本動かせずに硬直してしまう。
「――優しいんですね。霊夢さん」
「えっ」
さとりが初めて口を利いた。霊夢の頭は渦をまいて混乱した。本物のさとりがここにいる。優しく包んでくれるさとりがここにいるのだ。さとりはもたれかかるようにして、霊夢の肩にその軽過ぎる頭部をあずけてきた。さらさらの髪の毛が腕になびき至極くすぐったい。
「妖怪の私なのに、こんなにしてくれて。霊夢さん本当にお優しいです。うふふ」
「そっ、そんなこと……」
霊夢は口ごもった。さとりの笑い声で脳の奥がじんと痺れてしまう。さとりの声がとても心地よい。ずっとこのまま溺れてしまいたい。
「霊夢さんは私が好きですか?」
「ええっ?」
「私は……霊夢さんが好きです。ふふっ」
突然の告白だった。好きと言われても実感がわかない。それにさとりの好きとは確か――何だろう思い出せない。
「ええ私の好きというのは、全てを私に染め上げるという意味です。だから、しっかり厳選するんですの。そうでなければ失敗……、いえ何でもありませんわ」
さとりはうすら笑いをして続ける。
「霊夢さん、私を愛してくれますか? 受け入れてくれますか? よく考えてくださいね。私は人間の仇となる妖怪ですよ。人間のことなんかこれっぽちも考えていない悪魔のような存在です。魔理沙さんの姿を見たでしょう? 身も心もずたずたに引き裂くのに私は迷いがないのです。私を受け入れるというのは、人間を――やめると同じことです。それでもいいのなら……ふふっ、霊夢さんのご意思を尊重しますので安心してください。さぁどうしますか? 私の目を見て答えてください、そう私の目を見て……」
「う……、そんな……」
何時の間にかさとりの頭は霊夢の胸元にあった。その状態から扇情的な目つきで見上げられたからたまらない。目を見ると正常な思考出来ないのをわかっているくせに、さとりは意地悪でこんな質問をしてくるのだ。もう駄目だった。数秒目を合わせていると、さとりの思念が直接介入してきて操られてしまう。言いなさい言いなさい。さとりを受け入れると言いなさい。
「ほ、欲しいわ……。私さとりが欲しい。愛しているわ……」
霊夢は完全に堕ちた。巫女としても人間としても。さとりの卑劣で甘い罠に嵌り、底無し沼の泥濘へと引きずり込まれた。自分から堕ちれば二度と浮び上がる手段はない。
「嬉しいですわ霊夢さん。ふふふっ」
「ふふふ、私もよさとり」
「もっとぎゅっとしてください……」
「うん、もう逃がさないわ……」
「あん痛いです……。もっと優しくしてくださいな」
「ごめんなさいさとり……」
二人は姉妹のように抱き合っていた。
ひとしきり愛を分かち合った後、さとりはある遊びをしようと言い出した。
「ねぇ風船ごっこしません? とっても楽しいんですのよ?」
「風船ごっこ? 何それ?」
霊夢は子供のように聞いた。
「私達の頭の中に風船を作るんですの。やってみますか?」
さとりにそう聞かれれば、はいと答える他ない。霊夢はこくりと頷き了解した。
「わぁ嬉しいです! さっそく私が手本を見せますね」
パンと手を叩きさとりは無邪気に笑い転げた。両手を首に回されがっしりと固定される。首に腕が食い込んでかなり苦しい。
「さ、さとり……。ちょっと息が……」
「あらごめんなさい。でも風船が口を利くのはご法度ですよ。遊びをするのもリアリティが大事です」
さとりはリアリティの部分を強調して言った。確かに風船は喋らないが、喉を圧迫されていては息が詰まる。
「はむっ」
(ひゃっ)
何を思ったのかさとりは霊夢の耳に齧り付いてきた。甘噛みしながらしゃぶられて天にも昇る心地にさせられてしまう。風船ごっことは一体……。これでは食べ合いっこになってしまうだろう。
「はむはむ……。霊夢さんの頭は今風船になります。耳の穴が空気の入り口ですよ。ここからふーっと息を入れますと、頭の中の風船が膨らみます。いいですか? いきますよぉ……」
いきなりそう言われても心の準備が出来ていなかった。第一風船と言われても頭の中にそんなものはない。
「ふーーっ」
(ひえぇ)
甘ったるい湿った吐息が耳の中に吹き込まれると、霊夢は体を捩って悶えた。
「ふふっ駄目ですよ。霊夢さんがガチガチになっているから、うまく膨らみませんでした。もっとイメージをしてください。ピンク色の風船が一つあります。それがぷくーって膨れるように……もっとふわふわしてください。ふわふわ、ふわふわ……そう私の声にもっと耳を傾けてください。霊夢さんは風船です。脆くてか弱いかわいそうな風船です。だから私が膨らませてあげます……。ほら気持ちいいでしょう? 肩も首も顔の筋肉もだらーん……。ふふっいい顔ですね……、その調子ですよ。ふわふわ、ふわふわふわふわ…………」
耳元でさとりに小鳥のように囁かれるとおかしくなった。イメージの飛躍は霊夢を羽ばたかせる。
(風船、風船……。私はピンクの風船……)
「そうですよ。よく出来ましたね。今膨らませてあげます」
唇がちゅっと耳たぶに吸い付く。細い舌が弄ぶように耳穴に入り込む。
(ふぁ……)
「霊夢さんの耳美味しいです。それではいきますね……。ふぅーーっ」
(あ……、入ってくる。さとりの息が入ってくる。ふぁ、膨らむ膨らむ。すごい……)
頭部の脳の所有面積を無視して、霊夢は頭の中の風船を膨らませた。ピンク色の刺激がしだいに膨張する。甘くて蕩けるような恋に似たイメージだった。
「ふーーっ。ふーーっ」
さとりは息継ぎをしながら何度も吐息を送り込む。霊夢の風船はしだいに大きくなっていった。
(さとり、やばいこのままじゃ。破裂しちゃうわ。苦しい。頭の中風船でいっぱいに……)
「ふーっ。ふぅ……」
さとりは霊夢の心の声など気にせずに、着実に息を吹き込んでいた。霊夢はもう苦しくてしょうがなかった。声も出せないから助けも求められない。霊夢は口を金魚のようにパクパクさせて、必死の形相で窮地を訴えた。
(さとりさとり、死ぬっ、破裂しちゃう。弾けちゃう。もっもう限界よ。げんか)
「すーーっ」
意識が飛びそうになる瞬間すっと吸われた。破裂は免れたが頭の中を圧迫されて気持ちが悪い。さとりはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。そして両手が広がった。一体何をするつもりなのか? 邪悪で淫蕩な笑み。まさか、まさか――。
「ぱんっ!」
「ひわっ!」
さとりが勢いよく両手を叩いておどけた声を出したので、霊夢は素っ頓狂な声で後ろ向きにつんのめった。
「あははは! くくっ! 本当に頭が破裂すると思いましたね? お笑いです! あははは……」
容姿からは信じられないような大きな声で、涙を流してさとりが笑っていた。さとりもこういう風に笑うんだなと思うと妙に嬉しくなった。ともあれ馬鹿にされた霊夢の頭はかっかしていた。風船ごっこでいきなり両手を叩くとは何事だろうか。
「さ、さとり……。ひ、酷いわね……」
「あー涙目ですよ霊夢さん。そんな顔をしても全然怖くありませんよ。うふふ」
霊夢は怒ろうとしたが、腰が抜けていて気が抜けていた。くやしいやら恥ずかしいやらで、霊夢は顔を涙でぐしゃぐしゃにして耐えた。
「ぐすっ、ぐすんっ。いいもん、さとりなんかもう嫌いだもん!」
子供っぽい口調で拗ねてみた。
「あらあら、子供のようにいじけて気をひくつもりですね。私には丸わかりですよ霊夢さん」
やっぱりさとりは何でもわかっていた。心の内側を全て見透かされている。だがそれが心地よかった。自分はさとりでさとりは自分。そんな奇妙な感覚に浸れてしまうからだ。
「ふふっ。霊夢さん機嫌を直してくださいな。今度は交代しましょ。今度は私が風船になります。ほらこっち見てくださいな……」
霊夢はつんとして目をつぶっていた。少しさとりを困らせてやろうと思った。今度はさとりが風船と言ったから、自分が空気を入れる番である。とするとさとりの耳に口をつけて――。霊夢は急に鼻血が出そうになった。さとりの耳に口をつけるなどと恥ずかし過ぎて出来るはずもない。
「ほらほら、霊夢さん」
その声で霊夢はちらと片目を開けて様子を見た。さとりが艶やかな髪をかきあげて白い耳が露わになっている。大福餅のような耳たぶがぷるぷると揺れて、ぱっくりと食べてしまいたい衝動にかられてしまう。
「しょ、しょうがないわねぇ……。さとりがそこまで言うのなら……」
「うふふ……」
仕方ないという素振りを見せたが、霊夢の目は白い耳たぶに釘付けになっていた。ああどんなに柔らかいのだろう、どんな味がするのだろう。霊夢は顔が緩みきって一筋涎を垂らしてしまった。
「あら霊夢さん、はしたないですわね」
「ごっ、ごめんなさいさとり……」
「ほら一気にいっていいですよ? ほらほらほら?」
「う、うん……」
そう言われても中々踏ん切りがつかない。この神聖な領域とも思える耳たぶに食いついていいものかと戸惑った。しかも耳に齧り付いた後空気まで吹き込まなければならない。これは思ったよりも難儀だ。用意周到に心構えをしなければ手痛い反撃を受けかねない。
「ほ……らっ」
さとりが甘えるような艶っぽい声を出して誘惑してきたので、霊夢は意思を固める暇もなくしゃぶりついていた。
「はむ……はむ……」
意識が飛びそうになるのをぐっと堪えた。甘酸っぱいような素敵な味がした。耳たぶは弾力があり、歯をたてないように唇で優しく挟むとぷるんと弾ける。思い切って口の中に一気に入れてみる。舌で存分にその滑らかさを味わって……。
「……さん、霊夢さん!」
「んん?」
さとりが怒ったように声をあげた。
「私の耳の虜になるのはいいのですが、それでは風船ごっこが出来ませんよ? 早く空気を入れてくださいな。でないと風船の機嫌を損ねちゃいますよ?」
そうだった。今は風船ごっこなる遊戯の最中だった。あまりにの柔らかさに本来の目的を忘れては本末転倒。さとりの機嫌は一番大事な事象である。
「ふ、ふうぅぅ……」
気を取り直して、さとりの耳に口をつけてゆっくり息を吹き込む。だが耳たぶの魔力に惑わされたため、喉や肺がうまく連動せず、霊夢は少量の呼気を吹き付けただけに終わった。
「下手ですね、霊夢さん」
「そ、そんにゃこといっても……」
「もう一回頑張ってください」
霊夢は今度は気合入れて、大きく息を吸い込んでふーっと吹き込んだ。とは言っても数秒で腰砕けになり、持続的に風船に空気を送るのはかなわなかった。
「はぁ、はぁ……」
「全然膨らみませんわね霊夢さん。もっとイメージを増大させるのです。深く相手のことを考えて、慈しみ……、全てを許してあげるくらいの気持ち。呼吸の大きさだけではありません。その方面が風船ごっこでは重要なのです」
さとりは絶えず上から目線だった。
「でも私一生懸命やっているわよ。無理よこんなの」
「そうですか? でも私は霊夢さんの風船を簡単に膨らませましたよ? 要は何事も慣れです」
そうなのだ。さとりの風船ごっこは的確に霊夢の心を膨張させた。溢れんばかりの洪水のようなイメージの爆発。さとりが慣れているといっても、この歴然とした技術の差は埋められないと思った。
「そんなに悩まなくてもいいですよ。さぁもっと楽しいことしましょうか」
「楽しいこと? んんっ!」
霊夢が聞き返すと、さとりがふっくらとした唇を急に口に押付けてきた。
「んんっ、ふうぅ、ふーっ……」
「んっ、んっ……んんっ!」
蕩けて堕ちそうになる誘惑に抗って何とかさとりの唇を引き剥がす。
「ぷはぁっ、いいきなり何をするのよ?」
「何って……、風船ごっこの続きですよ。膨らませ合いっこです。霊夢さんの唇と、私のこの――唇で」
さとりが桜色の唇を指差した。ああなんていとおしいのだろう。二人で同時に膨らませれば確かに手っ取り早いし、理にかなっている。
「ほら……、霊夢さんきてください……」
「うん……さとり……」
二人は甘い口付けで風船を膨らませた。ピンク色の大きな風船。
霊夢の風船はたちどころに膨らんでパンパンになり、そして割れた。
さとりは半乾きの服を着て、博麗神社を後にした。
この幸せがいつまでも続けばいいなと霊夢は一人思った。
さとりはほぼ一日おきに霊夢に会いに来た。霊夢はさとりには絶対逆らえないペットに成り下がった。それは霊夢自身が望んだことであり、その現状に満足しきってしまっていた。坂道を一度転がってしまえば、そのままスピードがついて猛進し続けるだけ。もし止めるとするならば――更に強力な力で捻じ曲げるしかない。もしくは異次元の中空に投げ出されて、細かい微小の分子になって消え去ってしまうか。どちらにしろ、人間としての霊夢の存在は日増しに薄れていった。
霊夢の頭の中には、いくつものしなびた風船が入っていた。さとりの催眠誘導によって構築された架空の風船。その色はピンクであったり、青であったり、赤、黄、緑、黒。様々な色の風船の種を吹き込まれた。さとりの機嫌に合わせて、そのつど適当な色の風船を膨らませられる。
霊夢はピンクの風船が一番好きだった。頭がじんじんとして何も考えられなくなる。甘い蜜が脳から染み出して気持ちよくなる。さとりは破裂するぎりぎりの頃合を見切って霊夢を弄ぶのだ。それでもピンク風船は必ず破裂させてくれた。これは良心的なのだとさとりは言ったが、意味がわからなかった。
青い風船は悲しい色だった。悲劇的であり物悲しい感情がわいて、涙を流さずにはいられなかった。何が悲しいのかわからないがとにかく涙が出た。霊夢がこの色は嫌いだと言ったので、さとりはほとんど使わなかった。
黒の風船は危険な臭いがした。霊夢はこの風船は一番嫌いだった。無性に破壊的な衝動に捉われてしまう。手がぷるぷると震えて歯をガチガチと鳴らし膝ががくがくと震える。半分ほど膨らんだところでさとりの首を絞めたくなってしまった。さとりはいけませんねと言って直ぐに息を止めた。その後は二度と黒は使わなくなった。
霊夢はこの風船の色について、かねてから疑問に思うことがあった。完全に白い純白の風船が存在しないのだ。そのことについて霊夢はそれとなくさとりに聞いてみた。
「何で白を入れてくれないの? 白って楽しそうなのに」
「白はとっておきなんですよ。最後の最後のとっておき……」
霊夢には意味がよくわからなかった。
「さて霊夢さん今日はどうしましょうか? ピンクと緑が今日のラッキーカラーです」
「う、ううん。じゃ……それで」
緑はリラックスの色。それにピンクが加わればなおのことふんわりふわふわだ。さとりは二つ同時にも風船を膨らませることが出来た。こんな器用な真似が出来る妖怪は他ではいない。風船の空気はほとんど優しく抱擁されながら耳に吹き込まれる。その方が集中し易いんだそうな。時には口付けもして愛を確かめ合った。霊夢もさとりの風船を膨らまそうと努力をしてみたが、飲み込みが悪いのかいつまで経って無理だった。
「霊夢! 出て来い! いるんだろ? 出て来いったら! おい!」
ある日のことだった。今日はさとりが来る日ではない。誰かが神社の境内で喚いていた。
「何なのよ昼間っぱらからうるさいわねぇ」
霊夢は嫌々ながらも表に出た。
「やっと出てきたな霊夢。お前さとりをいじめたんだろう? さとりに聞いたんだからな。ぬけぬけ独り占めしようとしやがって……」
それは記憶の中では魔理沙という人物だった。どんな仲だったのかよくわからないが、この剣幕を見ると良好な関係とは言い難かった。それよりも今の発言で、さとりに聞いたという言葉が気にかかった。何でこんなガリガリで枯れ木のように痩せた餓鬼のような女が、さとりと付き合うなど意味不明だ。
「ん……。ええと魔理沙さん? 何を言われているかよくわからないのだけど……」
霊夢は他人行儀に答えたが、それが魔理沙の癇に障ったようだ。霊夢はいきなり胸を手のひらで突かれて張り倒されてしまった。
「あんっ! いきなり何をするのよ……」
「私の顔を忘れたとは言わせないぜ! 私の大事なさとりを私から引き離そうとして……、邪魔ばっかりして……、そして今も……。うううっくそっ! お前はそうやっていつもいつも私から奪っていくんだな。そうだ……いつもお前は……」
魔理沙は醜い顔で涙を流していた。あまりに醜悪過ぎて見るに耐えない。
「魔理沙? 魔理沙……。ああそっか」
記憶の中からようやく霊夢は魔理沙の人物像が浮かび上がってきた。確かに友人ではあった。だがさとりを自分から奪おうとして仲がこじれてしまった。自分とさとりは相思相愛なのに、魔理沙が無理やり突っかかってきたのだ。そうだそうに違いない。
わざとらしく髪を切ったり化粧をしたりしたのがその証拠だ。そんなことをしてもさとりの気がひけるはずもないのに本当に愚かだ。魔理沙の極限までやせ細った醜い体を見やる。今度はさとりの美しい肢体に憧れたらしい。しかしさとりの健康的で調和のとれた痩身とは決定的に違う。無理やり食事を切り詰めた結果の骨と皮ばかりの亡者――。神経が常に逆立っていて、さとりの落ち着いた雰囲気とはまるで比べ物にならない。
いいから諦めるのよ魔理沙。あなたは絶対にさとりになれない。根本的に違うのよ、あなたが努力すればするほどその力は明後日の方向へ向かう。いい加減に気づいたらどうなの? 滑稽すぎて笑えるわ。大笑い、大爆笑よ。さとりの美しさはそんなまがい物じゃない。一分の穢れのない崇高な身体。それがあれば何もいらない。魔理沙は永遠にさとりにはなれない……。では自分はどうなのだろうか? さとりは風船をたくさんくれた。愛しているとも言ってくれた。でもまだ足りない。白い風船が欲しい。真っ白の風船があれば空に飛び立てる気がした。ああさとりの白い風船が――。
「霊夢っ! この野郎! 何とか言えよ!」
物思いに耽っていると魔理沙が馬乗りになっていた。腕を必死で振り上げて殴ってくるが、体力の落ちた魔理沙の力では何の痛痒にもならない。
「まだこんなものじゃ許さないぞ。お前は私の目の前でさとりを傷つけたんだからな! それもう一発だ……うわぁっ!」
空気のような魔理沙の体を軽く押し返した。魔理沙は敵だ。自分とさとりの仲を邪魔するにっくき敵だ。頭の中の黒い風船にぷくっと空気が入ったような感じがする。即刻排除しなければならない。敵だ敵だ。
「痛てて……、ちくしょう、霊夢のくせに……。ん? 何だその顔は? や、やめろ。やめてくれ霊夢。今回は私が悪かったぜ……、へっ、へへへっ、へっ。じゃ、じゃあな……」
魔理沙は急に心変わりしたように小さくなり、脱兎のように一目散に逃げ出していった。あの威勢のよさは虚勢を張っていただけのようだ。小心者の魔理沙らしいみっともない行いだと思った。
黒い風船は魔理沙が消えるとしおしおと萎んだ。風船が勝手に膨らむのはどうにも困る。
柔らかい感触が何とも悩ましく、ついうとうとしてしまう。さとりの膝枕は最高の寝心地だった。優しく頬や顎をさっと撫でられ、上から慈愛に満ちた目でくるまれる。それだけで霊夢はナメクジのようにどろりと蕩けた。
「はぁ、魔理沙さんがそう言ったんですの?」
「ええそうよ。それで私頭にきて魔理沙を追い返してしまったの」
霊夢は昨日の出来事をさとりに話した。魔理沙はさとりと会ったようなことも言っていた。それについても聞いてみたかったのである。
「あらあら、困った方ですね魔理沙さんも。きっと私と霊夢さんが付き合うのを羨んで、そんな出まかせを言ったのですわ。第一私、魔理沙さんとはずっと会っておりませんもの」
「そう、それならいいんだけど……」
般若のような表情の魔理沙の顔を思い出してみた。鬼気迫る表情で――何と言ったのだろう、さとりに聞いたとかなんとか。しかしさとりは会っていないと言っていた。どっちが嘘をついているのか、これまでの行いを考えればどちらが正しいかは一目瞭然だ。さとりが嘘をつくわけがない。
「あの方少し気が触れているんですの。私も無理に言い寄られて困りましたわ……」
さとりが消沈して言った。霊夢の中で赤い炎が揺らめく。そうだったのか、無理やりさとりを手篭めにしようとするとは、何と魔理沙は酷い奴なのだろう。もう以前友人だったとは思わない、今度あったら腕の一本や二本もらって、わからせてやらなくてはならない。
「大丈夫よさとり。あんなひ弱で頭空っぽの奴なんて、この私がぎたぎたにしてあげるわ」
「あら霊夢さん頼もしいですわね……。でも私はあまり執念深いのも嫌なのですよ。過去のことは水に流したいのです。それに、霊夢さんに余計な手間をかけさせたくありませんから……」
さとりはそう言って霊夢の手を優しく握った。
「この手は愚かな者を殴る手ではありませんわ。私を優しく抱きしめるための手。些細な不祥事で血に濡れては私泣いてしまいますわ」
「ありがとうさとり。私もあんな奴無視するから大丈夫よ」
やっぱりさとりは聖人のように心が清らかだと思った。あんな狼藉を働く魔理沙を許そうというのだ。並大抵の心構えでは出来ない。
「……さ、霊夢さん。今日も風船を膨らませてあげますね」
「うん……うん……」
その声で霊夢は赤ん坊のようになって丸まった。耳たぶを甘噛みされて桃源郷へと誘われる。今日の風船は何色だろうと、わくわくしながらその時を待った。
魔理沙は一日おきに霊夢に喧嘩を吹っかけにやってきた。決まって一日おきである。霊夢はさとりと一緒にいる時にはちあわせしたら嫌だなあと思っていたが、決まって魔理沙はそれを避けるようにやってくるので丁度よかった。というわけで今日はさとりの日、今日は魔理沙の日と、交互に受け持つ毎日が十日ほど続いた。
しかしある日を境に突然さとりが来なくなったのだ。それと入れ替わるようにして、魔理沙が毎日神社に文句を言いにやってくるようになった。小言をぐちぐち言うだけでなく、妙な魔法で作った煙が出る瓶を神社に投げ入れてくるのだ。霊夢はこれにはたいそう辟易してしまった。速攻で処理しなくては煙いやら涙が出るやらでたまらないから、霊夢は常に外の様子に目を光らせていなくてはならなかった。
魔理沙は容姿はもう見ていられないほど衰えていた。もうどこに動く力があるのかというほど、やせ細って、手足も首も顔もげそっとして老婆のようだった。そのくせ顔の化粧だけは、どぎつく白粉を塗ったくっているので、霊夢は吐き気を催さずにはいられなかった。
「くそっ、霊夢。お前がさとりを隠したんだろう? おい本当のことを言えよ!」
今日も霊夢と魔理沙は不毛な諍いを展開していた。霊夢も霊夢でさとりが最近来ないのが不安で、辛抱が出来なくなっていた。
「何度言ったらわかるのよ魔理沙? ああ? いい加減にしないとその口二度と利けないようにしてやるわよ?」
凄みをきかせて魔理沙を睨みつける。いつもならこの辺で魔理沙がしっぽを巻いて逃げ出すはずだった。が、今日の魔理沙は少し変だった。いや、いつもおかしかったのだが、この時ばかりはある一線を越えているように思えた。
「ひっ、ひひっ。そんな顔しても怖くないぜ霊夢。私はさとりと愛し合っているんだ……。だからいけるんだ。こ、殺してやるぜ霊夢! そして私はさとりと一つになるんだ。お、お、お前私は本気なんだからな? あ、後で後悔しても遅いぞ?」
魔理沙は完全に異次元に旅立っているようだ。既に心はこの世界にないのだろう。しかしさとりと愛し合っているというのが気になった。愛し合っている? 馬鹿な、さとりは自分と愛を誓い合ったはずなのだ。魔理沙のような捻くれた性悪魔女なんかとどうにかなるもんか。魔理沙は嘘をついている。何度も何度も性懲りもなく嘘ばかり――。本当に救え無すぎて反吐が出る。
「もう嘘は聞き飽きたわ魔理沙。そこまで言うのなら私が引導を渡してあげる――」
仁王立ちの構えで巫女棒を振り上げる。
「はいはい! そこまでそこまで!」
何者かの声が割って入った。その声の主を確認しようと顔を向ける。
「おっと決して私は怪しい者ではない。さとり様の使いで黒谷ヤマメと申す者だ。今日は博麗霊夢殿をお連れするようにとのこと。さて時間がよろしければついて来てもらいたい」
金髪にポニーテールで、顔立ちは掘りが深い。奇妙な構造の服で胴から太腿部分にかけて大きく膨らんでいる。愛想のよさそうな笑顔を振りまいているが心の内はどうだろうか。霊夢はヤマメと名乗った女の妖怪の放った言葉に注目していた。ヤマメは確かにさとりと言った。そして自分を呼んでいるのだ。さとりは頑なに住処を明かそうとしなかった。それ故にさとりの方から招いてくれるというのは僥倖であった。
「さっさとりが呼んでいるのね? さとりが私を? そうなのねヤマメさん」
「ああそうだ」
ヤマメはこくりと頷く。
「わかったわ今すぐ行くわ。さとりが……さとりが……。うふふ……」
霊夢は喜びを抑えきれずに笑った。
「おいおい、さとりが呼んでいるのか? じゃあ私も連れていってくれよ? 私だってさとりの大事な……」
「ちっ、魔理沙なんて邪魔なだけよ! ねぇねぇヤマメさん早く行きましょうよ」
魔理沙は大慌ての様子で焦っていた。せっかくさとりの所にいけるのに、魔理沙が一緒では気分が悪すぎる。
「まぁまぁ、喧嘩はよくないぞご両人。一人より二人ならさとり様も喜ぶことだろう。ここはお二人を招待するとしようか!」
「それなら別に……」
「おうよかったぜ。よろしくなヤマメ」
ヤマメがそう言ったので霊夢はそれ以上反論しなかった。それよりもさとりの顔が早く見たかった。たった数日会わないだけで、こんなにもの悲しい気持ちになるとは。ああさとりに会いたい。あの白い肌と優しい笑顔に早く包まれたい。
二人はヤマメの後について飛んだ。周りの風景はしだいに寂れた感じに移り変わっていく。幻想郷でも普段ならば人も妖怪も寄り付かないような、寂寞としたただの殺風景な砂地が広がっている地域だった。
「ヤマメさん? こんな僻地にさとりが住んでいるのかしら?」
霊夢は不安になって聞いてみた。この妖怪がさとりの名を騙って騙しているかもしれないからだ。
「ああもちろん。この先はまだまだ長いよ」
ヤマメの態度は誠実そうで、信用出来る人物に思えた。屈託がなく裏表のない調子が、どこか人なつっこいような気がした。
砂地をひたすら飛び続ける。もう辺りには目印となる目標物が何もなかった。このまま置いてけぼりにされたら、無事に帰る自信がない。
「おーいヤマメ。もう疲れたぜ。私もうへとへとで……」
魔理沙は痩せすぎで体力がないのだろう。必死の形相で箒にしがみつきながら蛇行している。いい気味だと思った。
「うむ、この辺でいいだろう。さてご両人。ここから先は目隠しをしてもらう。これはさとり様のお言いつけでね。部外者は必ずこうすると義務つけられているのさ。まぁ何も怖いことはないから、自然に了解して欲しいのだが……」
そう言ってヤマメは手ぬぐいのような白い布きれを取り出した。
「私はいいわよ。さとりに会えるんだもの」
「わ、私だっていいぜ。霊夢にだけさとりに会わせるもんか! ゲホッ、ゲホゲホッ!」
魔理沙は砂を吸い込んだのか咳き込んでいた。ヤマメに従って目隠しをされる。そして視界が閉じた瞬間、突然体中を粘着質のような糸束で絡め取られた。
「ええっ? 何これ?」
「う、動けないぜ……」
手足ががっちり拘束されて身動きが出来ない。糸にぶら下がるようにだらりと吊るし上げられてしまった。
「悪く思わないでくれたまえ。私は少しばかり用心深くてね。何、この糸はとても丈夫で、こう見えても私は力持ちなのさ。さとり様の所へは責任を持って送り届けるから、遊覧船にでも乗った気分でいてくれ」
ヤマメはにべもなく言った。霊夢を拘束している糸は、生半可な霊力では切れそうになかった。ヤマメはこちらを騙しているようには見えない。ここは従うしかなかった。
「さとり様は遠い場所で待っておられる。人間達よ、君らは幸福なのだよ。地上は幻想郷のほんの一部分でしかない。君らは今から偉大なるさとり様のお膝元に近づけるのさ。何たる光栄なことだろうね。さて大いなる楽園への扉を開こうか!」
天狗の射命丸文は、低空飛行で半ば滑空するように飛んでいた。
「やれやれ、大幅にスケジュールが狂ってしまいました。ネタはありませんか? ネタはありませんかー?」
文はさとりの来訪以来すっかり調子がおかしくなってしまった。奇妙の指詰めのお菓子箱の幻覚を見た後、文は悪戦苦闘をしながらも原稿執筆を終えた。その反動かは知らないが、一週間ほど何も出来ないほど精神がまいってしまった。
切断された指のイメージが苛んだ。ドアの奥でさとりの不気味な目を見た時の、自分の指がずたずたにされるイメージ。それが頭の中に焼きついて離れないのだ。ペンを持とうとすれば握力がなく、ポロリと落としてしまう。指がそこにあるはずなのに、まるで存在しないかのような希薄な感覚。
文はうんうんベッドで毎日唸りながら、負のイメージが消えるのを待った。幸い手のひらの感覚はあったので、口とか足も適当に使って役割分担しながら日常を過ごした。そうしてようやく、最近になって外に出歩けるくらい回復してきたのである。
「忘れましょうあんなことは。幻ですよ、全て幻です」
――現実に存在しなければ非現実である。と言ったパチュリーの言葉を思いだしていた。そう、存在しない。都合の悪いことは全て非現実であると無理にでも納得すればいい。あの菓子箱の中身は同僚が見た通りクッキーが入っていた。少し疲れが溜まっていて、悪い夢をみてしまっただけ。そうとでも思わなければ文はペンを握れなかった。
情景は集落から人気の少ない森へと変容していった。どうやら魔法の森へと差し掛かっていたらしい。そういえばここに来るのも久方ぶりだなと文は思った。魔法の森には霧雨魔理沙の住む家と、アリス・マーガトロイドの住む家が存在する。
「あやや、確か魔理沙さんはさとりさんと密会していましたよね。もうあの方のことは思い出したくのに。いやいや、偶然出会ったら大変です。さっさとこんな薄気味悪い森は抜けちゃいましょうか」
右に旋回して上空へ羽ばたこうとする。と、洋風の建物が目に入った。何度か取材を仕掛けたことがあるアリス邸であった。
「人形使いのアリスさんの家ですね。私は彼女に煙たがられているはずなんですが……。この際誰でもいいからネタを提供してもらいましょう」
文はつい数秒前さとりに遭遇したくないと思ったことも忘れて、アリス邸の白い壁にじっと張り付いた。ネタのためなら何でもするという記者根性が染み付いた、本能的行動の結果であった。
「昼間なのにカーテンが閉じてますね。長期旅行でも行っているでしょうかねぇ?」
息を潜めて周囲を確認する。文は妙な感覚に捉われていた。どうも人が住んでいる予感がこの家にはしない。だがしかし――アリス・マーガトロイドは確かに今ここに存在するのだ。そういった異次元からの不思議な妄想が文に舞い降りた。何故かはわからない。とりあえず文にとってはネタにありつければ何でもいいのである。
「あっ、あそこの窓はカーテンが少し開いていますね。少し覗いてみましょうか。報道の自由が私には許されていますし」
文はさも当然のように、十センチほど開いたカーテンの窓を覗き込んだ。
「こんなに閉め切って、怪しい人形研究でもしているじゃないでしょうか? にひひ、新型の人形をいち早くスクープです!」
部屋の中は雑然としていた。おかしい――。何故こんなに散らかしたままにしておくのか。几帳面そうなアリスの性格からは想像しにくかった。
「あれ? この窓鍵がかかってませんね? ちょっとお邪魔しますねアリスさん。これは事件の臭いがしますので正当な捜査でありますので」
文はずかずかと部屋に上がりこんだ。台所は食器が散乱していた。そのまま右側のドアへと手をかけようとして、文はむせかえるような臭気を感じた。生あるものではない、酷く陰惨でむごたらしい予感。
「ううっぷ。ちょっとこれは耐えられませんね。何か妙な実験の失敗でもしたのでしょうか? アリスさん? アリスさんいないんですか? 危険物取り扱いはご法度ですよ? 入りますよ私? 後から怒らないでくださいね?」
妙な正義感に文はかられていた。その結果これから合間見る現実に対して、十分な心構えが欠落していた。
ガチャリと取っ手を回し部屋の中へと転がり込む。寝室のようだった。
「あ! なーんだ。アリスさんいるじゃないですか…………」
白いベッドの上でアリスは朽ち果てていた。おおよそ、文の理解の範疇をはるかに超えた残酷極まりない死に様が、物言わぬ亡骸として、ぽっかり空虚に広がった眼窩と同居していた。周囲には何枚もの割れた食器が散乱していて、腐った有機物の残滓がアリス本体と融合して、鼻が溶け落ちそうな悪臭を撒き散らしていた。
「うわぁぁっ――――、ひぃぃ! お助けぇ!」
文はほうほうの体で逃げ出した。
紅魔館の渡り廊下に敷き詰めてある赤い絨毯は非常に長い。とパチュリーは思いながら、これまた広い館を散策していた。
魔理沙に本を返してもらった後、パチュリーは重い心神喪失の状態に陥った。二週間ほどは身動きも出来ず、大好きな読書もせずに、魔理沙とこの世に恨み言を吐きながら、冷たいベッドに静かに横たわっていた。
「はぁ……。たまには運動もしないとね……」
生温いため息をつきながらひた歩く。近頃はやっと読書も出来るようになり、精神状態も安定してきた。紅魔館の中を歩くだけでも十分な運動になるはずと、パチュリーはなまりきった体に鞭打って自分と格闘しているのであった。
魔理沙のことを思い出すと本当に嫌になる。必死にのたうち回りながらベッドに釘付けになっている間、当たり前だが魔理沙はお見舞いにこなかった。そしてアリスも来なかった。ほとんど親しく話したわけではないから当然だ。魔理沙とアリスはセットで来ているだけ。時分のためにアリスが来るわけがないのだ。それでもパチュリーは一抹の淡い希望を持ちながら、アリスが白馬の王子様のように颯爽と駆けつけてくれることを望んでいた。
「忘れましょう。終わったのよ私はもう。これからもずっと本だけが一番の友達だわ……」
気持ちを切り替えて絨毯を踏みしめる。東館が向かおうという時分、いつもは物静かな紅魔館が喧騒に包まれていた。妖精メイド達が一箇所に集まってあれやこれや騒いでいた。その人だかりの中には、紅魔館の瀟洒なメイド長である十六夜咲夜の姿も見える。
「どうしたの? 咲夜」
「賊です。パチュリー様」
「賊?」
妖精メイドの中心には、手足に何箇所もすり傷やきり傷を作った射命丸文が寝転がっていた。
「あひっ、あひひひ、助けてください。私は決して怪しい者ではないのですよ、大変なのですよ、大異変でありますのですよ……」
文は少し錯乱してぐったりしているようだった。
「この者は館に度々侵入している不埒な輩でございます。一度は厳しく制裁しなければなりませんわ。捕縛してお嬢様に処遇をお聞きしなければなりません」
咲夜は冷徹に言った。
「……あっ! パチュリーさん。いい所に来ました。この人達私がせっかく重大な事実を持ってきたというのに……。無慈悲な蹴る殴る切るの暴力行為であります。うっうっ……」
「パチュリー様、この者の言葉に耳を貸す必要はありません。この者は最初から体に傷を作っていました。館に侵入してからもあちこち器物損壊しながら負傷したのでございます。もちろん、館の安全を確保するため少々切らせてもらいましたが……」
咲夜のナイフがキラリと光った。この従者は嘘をつくような人物ではない。文が勝手に体に傷を作ってしまったのも本当なのだろう。とりあえずパチュリーは文の言い分を聞いてみようと思った。
「何があったのか教えてくれない?」
「あ、あのですね……。アリスさんが自室で死んでいたのですよ! 何と言ったらいいと言うか……。とにかく酷いんです! どこもかしかもぐちゃぐちゃであわわ……」
「何ですって……。アリスが……」
パチュリーは目の前が真っ暗になった。血の気が引き視界がぐらりと傾きそうになるのを必死で堪える。
「まだそんな妄言を言うつもり? 第一どこぞの人形使いが死のうがここに来ること自体お門違い。本当だとしても然るべき機関に任せればいいわ。さっあなた達この者をふん縛ってお仕舞いなさい」
咲夜が妖精メイド達に促した。
「待って咲夜。この天狗を解放してちょうだい」
「は? しかし……」
「私の言うことが聞けないの?」
「……了解いたしました。それでは」
騒ぎは収まり館の住民は各々散った。後に残され、た泣きべそをかいている文を見下ろす。アリスが死んだとは――。パチュリーは一体何が起きたか整理がつかずにいた。
適当に文に応急処置をした後、パチュリーは小悪魔を連れて魔法の森へと向かっていた。あまり気分は優れなかったがアリスの容態の真偽を確かめずにいはいられなかった。
「それで、アリスは確かに死んでいたの? 人形じゃなくて?」
「あ……、いえ部屋に入ってアリスさんの死体を見て動転して……直ぐに紅魔館に来たのですよ。でもあれが人形だとは思えないんですが……」
文はしょんぼりとして言った。
「ふーん。じゃまだ死んだと決まったわけじゃないのね……」
パチュリーの精神は未だ揺れていた。長い間日陰で暮らしていた少女がそんなに簡単に立ち直れるはずがない。
パチュリーは思った。アリスが死ぬはずがない。だってアリスはきっと手をつないでくれるんだもの。もっと笑いかけてくれるんだもの。もっと見つめあいながらお喋りしてくれるんだもの。もっと愛してくれるんだもの。死ぬはずがない死ぬはずない。
「パチュリー様、お体の方大丈夫ですか?」
そんな暗い顔で沈んでいるパチュリーを心配して小悪魔が声をかけた。彼女は使い魔であり主人の命令には絶対服従である。
「ええ小悪魔ありがとう。私は大丈夫よ……」
高空から地上へと降り立つ。アリス邸は直ぐ目の前だった。
「うっ!」
突然パチュリーが奇妙な声をあげた。
「どうしましたかパチュリーさん?」
「ん……、ええ、ちょっと」
死の臭いを感じた。それも地上のものではない、恐ろしいほどの悪意に満ちた黒い空気。この魔法の森には降り積もった瘴気が蓄積されている。そしてその瘴気はアリス邸を中心にして広がっていると、パチュリーは悟ったのだった。
この事実にパチュリーは、アリスがもうこの世にはもう存在しないと理解してしまった。パチュリーの精神は盛大に壊れた。
「う、うふっ、うふふふ……。そっか、もう……」
「パチュリー様? パチュリー様どうしたんですか?」
小悪魔が声をかけるが耳に届かなかった。
ああ死んだのねアリス。かわいそうに。何で何でどうしてこんなはっきりわかる瘴気を誰も気づかないのかしら? 誰一人この事実に気づかないなんてお笑いだわ。この森はもう終わりよ。黒い空気が草木の根元までびっしりと染み込んで腐らせてしまう。もう手の施しようがないのよ。燃やすか隔離するかどっかの空間に放り込むしかないわ。ああ自分も終わりだわ、そしてこの森に入った全員――隣の奴隷もドブネズミも終わりだわ。燃やさなくちゃ燃やさなくちゃ! そうだわ、この森ごとアリスを火葬してあげればいい。それがアリスへの愛の証となるのね。そうだ、これが自分の求めた運命なのね……。
「ゴホッ! ゴホォッ!」
突然咳き込んでしまった。パチュリーは口を押さえた手のひらを見る。真っ黒いヘドロのような液体で汚れていた。
「パチュリーさん大丈夫ですか? 随分苦しそうですが……」
「お、終わりよ……。ほら、私こんなに黒い血を吐いちゃった……」
黒い血に染まった両手を見せつけた。二人はきょとんして顔を見合わせている。何だ? こんな汚い血を吐いて苦しそうにしているのにこいつらときたら――。
パチュリーの精神は混迷の度合いを深めていく。もう誰にも止められる者はいなかった。
「パ、パチュリー様お気を確かにしてください。血なんか吐いてませんよ。どうか落ち着いて――」
「何かおかしいですねぇ? 急にどうしたんでしょうか? ねぇ小悪魔さん?」
奴隷のくせに主人の言うことに異を唱えるのね。小悪魔お前はもう用済みだわ。この森でアリスのために灰になるといいわ。
「あっ」
一瞬の出来事であった。小悪魔がパチュリーの放った燃え盛る火球に全身を包まれ、悲鳴をあげることもなく絶命していた。
「え――?」
文はぽかんとして崩れ落ちる小悪魔を傍観した。
ドブネズミは逃げ足が速い。きっちり仕留めなくちゃ。パチュリーは炎を鞭のように伸ばして文の足を狙った。
「ひっ、ひええっ!」
本能的に文は逃げようとしたが、一瞬の思考の空白が命とりになった。怪しくうねる火炎の渦は文の足を雁字搦めにして、固い地面に叩き落してしまった。
「ああああ、熱い熱い! あつ…………」
足を狙われたため、即死にはほど遠い状態。炎の蹂躙は足から腎部、そして胴体から頭部へと猛威を振るった。文は無用な苦しみを享受しながら、皮膚と内臓を焼かれて死んだ。
「ひ、ひひいいい。やったわ! これでアリスに捧げる生贄の準備は万端ね。後はぁ、この森を焼き尽くして……、そう、私も……」
パチュリーは細い体に残っている魔力を、全て炎属性の魔法へと変換させる。口の中で呪文をぶつぶつと唱えると、瞬く間に魔法の森はパチュリーを中心として燃え盛った。瘴気で腐った草木も魔女達の住む家も、全てが地獄の輪禍のような炎に飲み込まれていく。
「あはは! 燃える燃えるわ! ああ親愛なるアリス・マーガトロイド様? これが私のせいいっぱいの火葬の儀式でございます。ラン、ラン、ラン。愚かな女悪魔が私めを囲ったのが不幸の始まり、私を膨大な知識の海で束縛しようと……、でもそれもどうでもいいの。ゴホゴホッ! 熱い煙いわ。小悪魔? 小悪魔どこにいるのねぇ? 主人が酷い目にあっているのにあなたはどこにいるの? 全く大事な時に限っていつもいつも――。ああ苦しい喉が焼ける。ひーひー、ゴボォッ! 黒い血が! やっぱり私侵されていたのね……。ランランンラン……。妖精さんはどこにいるの? 早く私の王子様を連れてきてくれない? あっそこにいたのね。会えて嬉しいわ。王子様のキスで私は本当の自分に目覚めるのよ……。ランラン、ラランラン。あ、体がふわふわ軽いわ。こんなに熱いのに苦しいのに馬鹿みたいに軽いわ。……そうだこの軽さなら王子様に会いにいけるわ。お姫様が王子様にキスをしてもいいものねぇ……。ラ、ラ、ラ。ここが王子様の住むお城、燃えているけどそんなの私は気にしないの。どこ? どこにいるのアリス? ……ああそこにいたのね。綺麗だわ、やっぱり私を待っていてくれたのね、そんなにおめかしして。 今すぐそっちへいくわ――――」
パチュリーの足取りは生涯の内で最も軽やかだった。
下る下る。例え目隠しされていても、体が降下する感覚は失われないものである。
霊夢は魔理沙と一緒になって白い糸に包まれて、見知らぬ土地を遊覧していた。聴覚からはひたひたと滴り落ちる水滴の音が、延々とたゆまなく――しだいにどこからともなく懐かしい祭囃子の音が聞こえてくる。それは数時間にも数秒にも思えた。実際には数十分だったのだろうが、霊夢達はようやく目隠し旅行の終点を迎えた。
「ついたぞここがさとり様のおわす地霊殿だ。まだ目隠しは取れない。中に入ってからだ」
どさりと地面に落とされるとヤマメがそう言った。
「痛てて、やっとついたぜ。これでやっとさとりに会えるんだな……」
魔理沙の声が聞こえた。手足を拘束していた糸は手だけを残して全て取り外された。どきどきしながら地面を踏みしめる。地上とは一風変わった感触の不思議な質感だった。
「そのまま真っ直ぐ歩いてもらおうか。くれぐれも変な気は起こさないようにな」
ヤマメはまだ用心深いようである。言われた通りに歩くと空気が一変した。どうやら屋外から室内へと入ったようだ。しんみりとして静謐で、凍るような静けさを司るような鮮烈な空間。これがさとりがいつも吸っている空気なのだと思うとうれしくてたまらなかった。
「この部屋だ。入れ」
後ろから背中を押される。目隠しはずされ手の拘束も解かれる。
「うわっ! 眩しい」
魔理沙が声をあげる。室内は上下左右から反射する光で満たされていた。しだいに目が慣れてくる。部屋の中は煌びやかなステンドグラスが壁面に、色々とりどりの装飾が散りばめられ、豪華絢爛というにふさわしい雰囲気だった。
「うーん……。目がちかちかするわ」
霊夢は下を向いて目が慣れるのを待った。
「あら……。霊夢さん、それに魔理沙さんまで」
懐かしい声が聞こえた。霊夢が待ち望んだこの幻想郷で唯一の声。
「さとり様、博麗霊夢殿とそのご友人、魔理沙殿をお連れいたしました」
「あらありがとうございますヤマメさん。いつも仕事が早くて本当に頼りになりますわ。これからもよろしくお願いしますね。うふふ……」
「ははーっ。この黒谷ヤマメ、さとり様のためなら地の果て野の果て世界の果て――何処へも参上してお仕えするしだいであります。それでは失礼いたします」
ヤマメが満足気に後手の扉を閉めて出て行った。さとりは白く清潔そうなベッドに、ほとんど生まれたままの姿で、上半身だけを起こして座っていた。目が慣れてくるにつれてその艶やかな肢体が露わになる。痩せ細った身体でありながら、湾曲的なラインを形づくるぎりぎりのしなやかな肉を残している。この絶妙な調和なとれた白い身体からは、後光が差すように光輝くオーラを発していた。
「どうしたんですの? そんなにぼんやりとして? さ、こちらへ来てくださいな……」
妖しい手つきで手招きされた。霊夢はこの手の動きをどこかで見ていた。そして脳裏に深く刻まれた白い記憶が蘇ってくる。
「うわっ、綺麗だなぁ! さとりは、うんうん! 綺麗だ……。なぁ霊夢?」
「そうね……、本当に……」
魔理沙が感嘆して声をあげる。この時ばかりは犬猿の仲のはずの二人の意見が皮肉にも同調した。二人にとってはさとりの美しさは共通で不変の事実だったからだ。
さとりの周囲には赤い髪の召使のような妖怪がちょこまかと動いて、さとりの世話をしているようだった。そういえば何故さとりはベッドに横になっているのかなと不思議に思ったが、そのわけは白いベッドに近づくにしたがって全容が明らかになった。
白い身体が傷ついていた。爪で引っかかれたような跡がいくつも見てとれる。生傷に近いそれは白い身体との対比もあって妙に色っぽく扇情的に見えてしまった。
「嫌ですわ……。そんなに見つめられたら私……」
霊夢は見蕩れていた。横の魔理沙も同様で涎を垂らして魅入っていた。
さとりは悩ましげに目を細めると、恥ずかしそうにして、わずかに腰元にかかっていたシーツを胸元に引き寄せた。
「ふふふ……」
淫靡な笑みでさとりは二人を白い妄想でくるみこむ。さとりの仕草に翻弄され弄ばれる。絶対に脱出不可能の鳥籠の中。
「どっ、どうしたんださとり? そんな大怪我して……。でっでも綺麗だぜ……。あはは……」
魔理沙が一瞬我に返って声をあげた。霊夢はさとりの身体に刻まれている傷をまじまじと見つめた。裂傷や擦過傷は至る所に存在する。白い身体に赤い傷がつくのがこれほど美しいとは。さとりの左手首を見る。傷が深いのか丁寧に縫合されていた。それも細い手首をぐるりと囲むように――これはもしかして――いやそうか。
右足首付近も同じように縫合されていた。目立った大きな傷はこの二つ。
「妹が癇癪起こしてしまって……。普段は虫一匹殺せないような優しい子なんですのよ? 止めようとしてこのざまですわ。ふふふ……。でも安心してくださいな。私は妖怪ですから……、もう痛みの峠は過ぎて……、これぐらいなら一週間もすれば綺麗に元通りになりますわ……」
「そうかそうか。よかったなぁ! ああそれにしても綺麗だなぁ、綺麗だなぁ……」
魔理沙はオウムのように綺麗だなと連呼していた。霊夢も同じ気持ちだった。
この世の美を全て集約した白い身体は霊夢のあこがれだった。ああ何なのだろうこの高ぶる気持ちは。止まらない止まりようがないのだ。
「ふふっ。あらあら、お客様を粗末にしてはいけませんわね。お空ー、お客様にあれを持ってきてあげなさいー」
さとりがそう言うと、大柄な体格の烏らしい妖怪が、切れ味鋭そうな刃物が何本も乗った台を運んで来た。これがおそらくお空なのだろう。
「何が始まるんだぜ? さとり? 楽しみだなぁ」
魔理沙は少女の目で喜んでいる。
「直ぐにわかりますよ。お空、お客様に説明してあげて?」
「はーいさとり様。えっと、こっちののこぎりは切れるけどとっても痛いと思います。こっちのナイフは切れないけどやっぱり痛いと思います。こっちの刀は切れると思えば切れると思います。でもやっぱり切ったら痛いと思います。こっちのはさみは……」
この説明を聞いている間に、さとりはパチンとウインクをしてきた。ああ試されているのだ。さとりの心に全身で報いなければならない。
「そうか……。そういうことか……! へへへっ、霊夢、私は負けないぜ。これなら恨みっこなしの真剣勝負だ。そうだなー私はこっちのナイフを使おうかな。小さくて扱いやすそうだしな」
魔理沙も暗黙の了解をしたようだ。霊夢は台の上の刃物の中から一番切れ味がよさような刀を選んだ。心得はなくとも一番スパッと切れそうに思えた。こういうのはひと思いにやらなければ躊躇いかねない。
「よーし霊夢も決まったか。早くやろうぜ。さとりは私だからな。しっかり見ててくれよなさとり?」
「ええ魔理沙さんしっかり見ててあげますよ」
「あはっ、あははっ。嬉しいなぁ嬉しいなぁ……」
魔理沙はさとりに目をかけられて、へらへらと笑った。霊夢は負けるものかと思った。さとりを愛しているのは自分だ。魔理沙なんかに絶対に渡さない。いけるったらいけるはず。なんせ博麗の巫女なんだからそれにさとりにも愛されている風船もたくさん入れてくれた。負ける理由なんてないんだ――。
「霊夢さんも頑張ってくださいね。ここから……見つめてあげますからね」
「あ……、うん……」
見られていると思うと下手な真似は出来なかった。緊張が否が応にも高まっていく。右手に刀を握り左手首を見下ろし、さとりの方をチラリと見た。
澄んだ視線は少女のように無邪気だった。
空白――前後不覚。
直後、白に満たされた。
八雲紫は永い数ヶ月の冬眠から起きて、博麗神社へと向かっていた。久しぶりに霊夢の顔を見れると思うと、心がときめいた。
「はーい霊夢。いるからしらー?」
日当たりの良い縁側に向かって声をかける。ここが二人の喋り場の定位置だった。しばらくすると、紫がよく見知った服装の少女が現れた。ただし服装だけは紅白の巫女装束であるが、中身に決定的な違和感があった。
「ああ紫。随分ご無沙汰だったわね。ささ、お茶出すから入って入って」
「あ……。ええあがらせてもらうわね」
紫は思わずどちらさん? と声をかけそうになった。声も霊夢に他ならなかったが、容姿が別人のようだった。粉雪をまぶしたような白い肌は後ろが透けそうなほど眩しい。手足も長くほっそりとして艶かしい女性の色香さえ感じる。顔も丸顔ではなく顎がきゅっと引き締まり若干面長になったようだ。それに背も伸びて、身体つきもふっくらと柔らかくなって脂肪がついている。
「はて……? 私の頭がボケたのかしら? それとも……」
つぶさに記憶を掘り起こそうとするが、やはり霊夢はもっと褐色の肌で、どこか田舎臭い風情のある地味な顔立ちの少女だったはずだ。こんな垢抜けた様子では決してなかったのである。
「お待たせ紫。お茶が入ったわよ。後あなたの大好きな羊羹も用意してあるわ」
「あっありがとうね。霊夢」
霊夢はそのまま隣にちょんと腰掛けて、お茶を一杯飲んだ。しなやかな細い身体、そして抜けるような白い肌。しかし――。
「んん? 霊夢? どうしたのその左手の傷跡?」
縫合されて糸を抜いたような跡が、霊夢の左手首にぐるりと一周していた。足元を見ると、右足首にも同じように縫った跡があって痛々しい。
「ああこれ? ちょっと転んで……。でも心配ないわ。一週間もすればすっきり白く綺麗になるから……」
「へぇそう……」
紫は霊夢がそう言って、妖しい流し目をくれてきたのでドキッとしてしまった。なんということだろう。こんな年端もいかない少女なんかに。それは置いといて、人間とはこれほど再生能力が高かっただろうかと疑問に思った。霊夢が奇妙だった。白すぎて怖い。しかしその疑念も霊夢のそばにいて、時々横目で見つめられるとどうでもよくなってしまう。
「ちょっと聞いていい?」
「どうしたの紫? 私とあなたの仲じゃない。何でもどうぞ」
余裕があって大人びた態度。やはり霊夢はおかしい。おかしすぎるのだ。
「急にすらっとして大人っぽくなったような……。それに肌が白すぎるわ」
紫は恐る恐る聞いてみた。もしかしたら霊夢は赤ずきんちゃんのように狼に食べられてしまったのかもしれない。今ここにいるのは化け物だと考えれば説明がつく。だが紫が感じる博麗の巫女としてオーラはしっかりとこの霊夢から出ていた。自分が確実に選んだはずの博麗の巫女。この霊夢は霊夢に間違いないのだ。だとしたら何故――。
「ふふっ、紫ったら寝すぎてボケちゃったのね。成長期よ、人間は成長期になると一気に成長するのよ。数ヶ月なんて経ったらそれはもう見違えるようよ」
「な、なーんだそっか。私ったらてっきり……、ごめんなさいね霊夢」
肌の色が変わるなんて成長期でも絶対にありえない。紫は心の中ではそう思っていたが、白い霊夢の妖しげな媚態に惑わされて、頭の隅に追いやっていた。まぁそんな細かいことは後で考えればいい。どれここは一つつまみ食いでもしようかなしまいかなと、低俗な煩悩に捉われていた。
「いいのよ紫。ふふっ……」
軽く笑って髪をかきあげると白いうなじが見え隠れする。紫はどうも霊夢が自分を誘っている気がしてならなかった。まさか十代のうら若き少女がそんな。ああいけないわ。紫は悶々として上の空で天を仰いだ。
「ああん紫お姉さまぁ……」
「ななな何よ霊夢!」
霊夢が突然しなだれかかって来た。しかも目を潤ませて、可愛らしい唇がぷるぷると震えている。
「紫お姉さまぁ。私欲しいものがあるのぉ……」
何て心に直に訴えかけてくる瞳なのだろう。これは頼みをきかずにはいられない。しかもお姉さまだなんて。お姉さま……。ああなんていい響きなの。いや何を考えているの、駄目よこのままじゃ。落ち着いて落ち着いて。
「な、何が欲しいの?」
やっとのことでそう言った。霊夢はにやにや笑っているだけ。突如わき腹をつんつんと突かれる。あっ駄目よそこは弱いの弱いんだったらあっあっああっ。
「うふふふっ」
悪魔の笑みで弄ばれていた。なんて生意気な悪戯子猫ちゃん。こんなことされたら我慢できないじゃない。ここまでされたらスキマ妖怪の力を見せてあげないとね。いざ――。
「紫お姉さまぁ。耳貸してくださいな。私の欲しいもの紫お姉さまだけに知って欲しいんです」
「あ……、そう、こんな耳でよかったらいつでも貸すわよ」
何を言っているのだ。あれ? あれあれ? 体がぴくりとも動かない。何でどうして? はぁはぁ。そうだ霊夢の目をじっと見ていたらおかしくなった。霊夢の目が優しくて取り込まれて――好きになってしまった。あり得ないあり得ない。
紫はじたばたしたがもうどうにもならなかった。
「はむっ」
「ひぃっ」
耳たぶを食べられた。舌のぬめっとした感触が至極いやらしい。
「あ……、ああ。駄目よ霊夢……」
「ふふふ、よく聞いてくださいね紫お姉さま」
「わかったわ、何でもいいわよ……」
紫は既に白い霊夢の僕だった。紫は考える。何故霊夢が白かったのか――? その謎を知る機会は永遠にない。
「私の欲しいものは――――」
スポンサーサイト

| ホーム |