
なだらかな高地に位置する博麗神社から、大蛇のようにうねる石段が無限のごとく湧き出ている。誰が何のために、この無用の長物とも言える石段を、誰が作ったのであろうか。そんな事実は露知らず、博麗霊夢は自らに課せられた使命のために、石段を踏みしめることなく空を突っ切っていた。
人間の仇となる妖怪を退治するのが巫女としての役柄である。妖怪は人を襲う、だから妖怪を退治する。
人里では幼い子供の失踪事件が相次いでいた。相成れない二つの存在による諍いから生じる悲劇は、過去にも幾度となく繰り返されていたが、近頃の妖怪の隆盛具合は異常とも思えるほどだった。何か先導者が存在するような、そんな統率された意思さえ感じられる。
被害は徐にその範囲を、虫が葉を食い荒らすにように広め、人間と人間に組する妖怪達は、その対策に常時頭を悩ませているのだった。
「全く毎日毎日見も知らぬ妖怪の探索ばかり……」
霊夢は思わず愚痴を言っていた。探せど探せど親玉となる妖怪の足取りはつかめない。かえて発見されるのは、無残に蹂躙された人間の亡骸だけ。どうにもやり切れない気持ちのまま、今日も幻想郷中を捜査するしだいであった。
「邪魔よっ!」
イライラしていた霊夢は声をあげた。
石段を下りきった場所にチルノと――名を何とと言っただろうか、緑髪の地味な妖精が、通せんぼするように行く手を塞いでいたのだ。
幸いチルノの数センチ脇を危うく掠めただけで、大事には至らなかった。こんな所で遊んでいる方が霊夢は悪いと思った。最も、妖精にぶち当たったところで、彼女らは消滅し再生を繰り返すだけの空気のような存在。霊夢が気兼ねする理由は何もなかった。
チルノが後ろから大声をあげて文句を言っていた。もちろん聞く耳なんかもたない。今はそれどころではなかった。
「うわっ! 何だあれ?」
「チルノちゃん大丈夫?」
一瞬だった。
チルノはカマイタチにも似た風を切る物体にぶつかりそうになり、避けようとして、冷たく固い石段にばったりと尻餅をついた。
大妖精が心配そうに声をかける。何て危ない飛行をするのだろう。あんなに慌てなくてもいいのにと思った。その物体の後ろ姿を見やると、紅白の見覚えのある巫女装束が確認できる。それが知る人ぞ知る博麗の巫女の博麗霊夢だとは、幻想郷を自由に生きる妖精であるチルノと大妖精にとっても周知の事実だった。
「何だぁ? 霊夢のやろー! おいあやまれ! おーい、あたいを転ばせたこと! おい、おおーい!」
チルノが石段に腰をついたまま叫んでいた。だが霊夢の姿は一瞬で点になり広い空へと消えていった。
「チルノちゃん、もう諦めなって。きっと霊夢さんにも事情があったんだよ」
大妖精はまだ言い足りない表情のチルノの腕を取って、よいしょと声を出して立ち上がらせた。
「おお大ちゃん! ありがとう。やっぱり大ちゃんは優しいな!」
チルノの無邪気な笑顔が見えた。いつも元気で純真で――氷の妖精にありがちな心の冷たさなどは少しも感じさせない。大妖精はそんなチルノの茫洋とした人柄に惹かれていた。少し引っ込み思案な自分をぐいぐいと引っ張ってくれる、暖かくて不思議な存在。
妖精の生来の本質とはどこから形作られるものであろうか。それは、大気中の元素の成り立ちから形式的に組成されるものではなく、極めて個性豊かに内包される。妖精と言えども、結局は消滅再生の違いだけで、人間や妖怪となんら変わらないと大妖精は考えるのだった。
「別に……そんなことないよ」
少し謙遜して答える。優しくはない。本当に優しい人ってのは、もっと積極的に立ち振る舞いできる人だから。
「あはは、大ちゃん。邪魔が入ったけど遊びの続きしようよ……ん? 何か落ちてるぞ?」
見ると石段の縁に一枚の新聞がのっかかっていた。チルノはそれをひょいとつまみ上げ、偉そうな態度で広げて、紙面に透き通る空色の瞳を泳がせた。
「新聞だねチルノちゃん。霊夢さんが落としたのかな?」
「む……」
チルノはその問いには答えずに、しかめっ面で眉を捻じ曲げた。その神妙な表情から、大妖精は一体何が書かれているんだろうかと、どんな突飛な異変でも起こったのだろうかと、著しく興味をそそられた。
二十秒ほど沈黙が続いた。耐え切れなくなりたまらず声をかける。
「何が書いてあるの?」
「ふーん、ふん……、ふん……」
「何々?」
「あ……、い……、た……、さい……」
チルノが意味不明な言葉を喋っていた。これでは更に気になる。
「も、もうチルノちゃんたら! もったいぶってないで教えてよ?」
それに反応してチルノがにやりと笑った。
「ふふふー、知りたいか? 大ちゃん?」
「うん……」
「あたいは漢字が多すぎて読めない」
「えっ……」
大妖精はため息をついた。チルノのことだ。この展開も軽く予想できたはずなのに甘かった。
チルノの側に回り後ろから覗き込む。当たり前なのだが新聞は漢字が多い。大妖精自身も普段から読書する習慣はないが、何故か常用的な漢字は知っていた。いや、知っているというのが適当だろうか。
「うーん……」
「どうだ大ちゃん? 何が書いてあるかわかるか?」
目をキラキラさせてチルノが聞いてくる。簡単な漢字を何とか拾って意味を綴っていく。見出しに一番大きく目立つ文字で書かれた記事。その内容は今幻想郷では、人間の子供がさらわれる事件が頻発しているとのこと。そして――対策は未だ見えず。
「人間の子供がね、いなくなってるのよチルノちゃん」
「へぇー、そっか」
チルノはさして興味がないのか、つまらなそうにぼんやりと目を細めた。
「それより遊びの続きしようよ大ちゃん?」
「ええそうね」
新聞はぽいと投げ捨てられた。乾燥した風が突然ごうと吹き、紙片は空に舞い上がって何処ともなく消えた。
「じゃーんけんぽんっ! あーいこでしょっ! あーいこでしょっ! またまたあーいこでしょっ! またまたまた…………」
チルノと大妖精が興じていた遊びは、じゃんけんに少し手心を加えた遊戯である。
階段など段差ある場所が必要で、普通にじゃんけんをする、グーで勝ったなら三段登り、チョキは六段パーは七段登るというごく単純なゲームである。
「あっ、あたいの勝ちだぁ! チョキで勝ったから六歩進むね! いくよ大ちゃん。チ・ヨ・コ・レ・イ・ト。これで六歩。ささっ、大ちゃん次いくよ!」
「ううっ、負けた……」
大妖精は五回ほど連続でチョキのあいこが続いたので、試しにパーを出してみたところでチルノは六回目のチョキを出してきた。
このゲームはグーチョキパーのどれで勝つか負けるかで非常に差がある。効率だけで言うならチョキで勝つのが理想だ。何せ勝てば六段進めるし負けてもグーは三段だから一番被害が少ない。グーやパーを出して負けた時はもう目も当てられない。七段六段と悠々に歩かれ、特にグーを出して負けると七段も先に行かれてしまう。
故にグーは非常に出しにくく、次にパーも出しにくい。よって必然的チョキが主流となるが、チルノは最初からチョキしか出さないつもりなのか、延々チョキであいこが連続する始末だった。それに大妖精が折れてグーやパーを出したりすると、チルノは妙な嗅覚で対応してくるので、二人の距離は遠くなるばかりだった。
「やったー! また勝った。パ・イ・ン・ア・ツ・プ・ル! ほらほら大ちゃんも頑張らなくちゃ! 続き続き!」
今チルノが言ったように段差を登る時には、通例のかけ声を言うことになっている。グーはグリコ、チョキはチョコレート、パーはパインアップル。何故そう言うのかはよくわからない。チルノもよく覚えてないらしい。
「ま、待ってチルノちゃん。もう距離が遠すぎてチルノちゃんの手が見えない。これじゃじゃんけんができないから……。もう私の負けでいいから……」
大妖精は早々に音をあげた。ただのじゃんけんに少し差をつけただけなのに、チルノに一生勝てない気がしたからだ。
「えー、あたい石段全部登りきるまでやろうと思ってたのに……」
「それは無理……」
博麗神社への石段がどれだけあると思っての発言だろうか。飛んでも時間がかかるのに、こんなちまちまじゃんけんをしていたらいつになるかわからない。
「何だーつまんないなー。つまんないなー」
チルノが両手を首の後ろに回してむっとしていた。
「チルノちゃん別の遊びしない? 湖畔の近くで綺麗なお花畑を見つけたんだけど……」
気分を変えるように口を開いた。が、それは場違いな闖入者によって妨げられた。
「何しているのかー?」
聞き覚えのある声。ルーミアだった。
「おっルーミアじゃん! 今大ちゃんと二人で面白い遊びしていたんだ。ルーミアも一緒にやろうよ?」
「へぇーそーなのかー」
空中からふらふらと滑空し、両手を広げて嬉しそうに笑うルーミア。大妖精はせっかくのこの無謀なじゃんけんゲームが終わると思っていたのに、ルーミアのせいでまだ続きそうだ。何でこんな時に限って。
大妖精はルーミアを嫌っていた。肉食のいつも血の臭いを漂わせている妖怪。その臭いがどうしても大妖精には我慢ならなかった。チルノはどうしてルーミアと仲良く付き合えるのかと思う。チルノとルーミアが仲良くするから、必然的に自分もルーミアと付き合わなくてはならない。ああなんて窮屈なのだろう。
目が怖いのだ。少女のようないでだちだが、目だけは笑っていない。必死に愛嬌を振りまいてはいるが、絶えず獲物を狙うような鋭く冷たい視線は、ぞっとすると通り越して至極気持ち悪い。笑顔も嫌いだった。歯を剥き出しにして笑うと肉食特有の尖った牙が見える。あの牙は人間を殺す穢れた牙なのだ。
今もチルノの隣で、体が触れあいそうになるほど馴れ馴れしくしている。やめて、チルノちゃんに近づかないで。純真なチルノちゃんに薄汚い血で汚れた手で触らないで。
「ふーん。なるほどー」
「な? 簡単だろ?」
チルノがルーミアにゲームの内容を説明している。ルーミアは笑顔でうんうんと頷いていた。
ああ断ってくれないかなぁ。どっか行ってくれないかなぁ。せっかくチルノちゃんと二人っきりなのに。
「あの、チルノちゃん……。ルーミアちゃんも忙しいなら無理に誘わなくても……」
一応そう言ってみた。これで排除できるならば万々歳だ。
「いや別に私は暇なのかー。それに今日は二人とどうしても遊びたいと思ってきたの」
「そうか! よし決まりだな。三人で遊ぶとするか!」
チルノが意気込んでいる。ここまで来たら仕方がない。
「あ、私に一つ提案があるんだけど。ちょっと思いついたルールがあるんだ。名づけて十三段! こっちの方が絶対楽しいのかー」
「おーそりゃいいな。賛成賛成! さっきは大ちゃんが果てちゃったからな!」
そうさせたのは誰のせいなのと、大妖精は言おうと思ってやめた。ルーミアは両手をいつもよりぴんと伸ばして、新ルールの説明を始めた。
十三段ルール
・グー 三段 チョキ 六段 パー 四段
・通常のじゃんけんを繰り返し、段数差が十三段以上になった時に決着。
・あいこ一回するごとに次回の勝ち段数へ一段追加される。
例 あいこ二回後、次にグーで勝った場合五段進めることになる。
「パーが七段進むのって、ちょっと多すぎる気がする。これぐらいがちょうどいいのか」
ルーミアの考えたゲームは中々面白そうだ。何より十三段差がつけば終了というのは、大妖精にとってはありがたかった。チルノとした時のように大幅に差がついては興ざめである。
「ううん、あたい大体わかった! ……あ! パーが四文字なんだから、新しい掛け声決めなくちゃ! パ、パ、パで四文字……。パンツ!パンダ! パンチ! パ……」
「チルノちゃんそれ全部三文字だよ」
大妖精はそう突っ込んだ。自分も考えてみる。パで四文字とは何があるだろうか? パ……、パントマイム、これは六文字だ。パ……、いきなり言われても中々単語が出ない。
「パラソル、がちょうど四文字ね。チルノも大ちゃんもこれでいい?」
ルーミアがにっこりと笑顔で問いかけてくる。大妖精もそれでいいと思った。
「あたいもそれでいいよ。パ・ラ・ソ・ルだね。あたい覚えた!」
「私もそれでいいわ」
二人の同意を確認すると、ルーミアは大きく息を吸い込んで、はぁーっと全て吐き出してから仰々しく口を開いた。
「それじゃ楽しい十三段の始まりなのかー」
改めて考えてみるとこのゲームは二人用だった。三人ですればどこで段差の区切りをつければいいかわからない。
「先に大ちゃんとルーミアがしてみてよ。あたいはわかったけどよくわからなかったからさ!」
チルノが言った。いつものことだと思い、大妖精はルーミアと並んで同じ段に立った。
「チルノはよく見ているといいのか。抜け番は審判役もかねる。二人で決着がつくまでじゃんけんして、負けた方が一回休みにするのかー」
「わかったわかった。頑張れ大ちゃん! フレーフレー」
大げさに応援されたので、大妖精は小恥ずかしくなった。お遊びとは言えど、チルノの手前あまり恥ずかしい負け方はしたくはないと思った。
このゲームの内容を今一度思い返してみる。パーが四段になったのだから、一番効率のいいのはチョキで……次はグーだろうか。パーは勝っても四段で負ければ六段相手に進められてしまう。見返りが微妙な割りにはリスクだけが高い。
チョキが効率がいいのだから多く出す。そうするとグーで勝ちやすくなる。グーが多くなるとパーで勝ちやすくなる。パーが多くなると……。ここまで来て堂々巡りの輪廻になると大妖精は気づいた。となると一体何を多目に出せばいいのだろうか。普通に考えればグーとチョキを半々で、パーはここぞという時に……。
「ほら大ちゃん、ぼーっとしてる暇はないのかー」
「あっごめん……」
ルーミアが促していた。
「いくのかー。じゃーんけーん……」
「じゃーーん! けーん!」
チルノも続いて掛け声をあげる。ゆっくり考えている時間はないらしい。一番初めなのだから、何を出してもいいだろう。
大妖精はルーミアがおそらくチョキを出してくると予想して、グーを出そうと思い一度拳をぎゅっと握り締めた。
「ぽんっ!」
三人の声が一度に重なる。
結果はルーミアがパー。大妖精がグーだった。
「四段もーらいっ。大ちゃんありがとなのかー。パ・ラ・ソ・ルっと」
「ああ大ちゃん……。せっかく応援したのに……」
ぴょんぴょんと兎のように飛び跳ねて石段を登っている。
ルーミアはいきなりパーを通してきた。もし自分がチョキを出していたら六段のマイナスだったはずなのに。でもまだまだこれからのはず。次は何を出そうか。
「じゃーんけーん!」
間髪入れず掛け声があがる。迷っている暇はない。次はチョキを出そうか? でもグーで負けるかもしれない。どうしようどうしよう。
「ぽんっと!」
またも同じ光景が展開された。
ルーミアがパーで、もちろん大妖精はグーで負けである。
「ああー、大ちゃん何やってんだよー」
「ふふー、大ちゃんは怖がりなのかー」
「あれれ? またパーで……」
二回連続でパーを通されてしまった。確かに自分は怖がって腰がひけているようだった。しかもチョキとグーでは負けた時のリスクがグーの方が大きいのに。同じ負けるにしてもダメージがでかい。しかしルーミアの視点から見るとどうなのだろうか? わざわざ六段マイナスのリスクを背負って二回連続パーだ。普通なら怖くてできない。
ううん怖いと思う考えがもう駄目なのだ。何も酷い罰ゲームがあるわけでもない。気楽にいけばいい。結局は堂々巡りなのだから、あれこれ考えすぎてもドツボに嵌るだけだ。もっとポンポン何も考えず出した方がいいのかもしれない。
「大ちゃん頑張れー次こそは必勝だ!」
ルーミアの手が動いた。次は何を出したらいいのだろう。ルーミアは今八段だから……。あれ? 十三段以上が決着なのだから、次にルーミアにチョキで勝たれたら、合計十四段になり終わってしまう。つまり自分はルーミアのチョキだけは絶対に潰さなくてはならない。グーで勝つか――チョキであいこにするか二つに一つ。
「ぽーん!」
考えがまとまらないまま手を出してしまった。
妙な手の形でチョキを出す。……ルーミアもチョキだった。あいこだ。
「あいこだね、大ちゃん。これで私は九段と同じ状態なのか」
そういうことになると大妖精は頭の中で思った。あいこは次回にプラス一段になるから、ルーミアはチョキかパーで勝てば勝ち抜けになってしまう。これを同時に潰す手段はチョキを出すしかない。ああでもそれを狙ってグーを出されるかもしれない。それならばグーを狙ってパーを出そうかいやいやいや……。
またも堂々巡りの思考に陥った大妖精は混乱の極みにあった。何を信じればいいかわからない。ただ場の状況は窮地に追い詰められていることだけは確かだった。
二人の小さな手が攻撃手段を提示する。
ルーミアチョキ、大妖精パー。
上乗せの十五段目を踏み、明らかなルーミアの勝利である。
「ふふっ、大ちゃんは弱いのかー」
「ああ……」
やっぱり裏をかいたつもりが一回りしてしまった。これで三回連続で負けたことになる。じゃんけんをしていればこれぐらい日常茶飯事であるが、無駄に頭を使った分、大妖精は不穏な徒労感に包まれてしまった。
「ようし、次はあたいの番ね! 大ちゃんのかたきはあたいがとる!」
「受けてたつのかー、望むところなのかー」
ルーミアはケラケラと陽気に笑い転げていた。心なしかいつもよりも活発に思えた。
チルノとルーミアの勝負は見ごたえがあった。
まずグーで両者三回あいこを繰り返し、三段上乗せされる。
四回目で変化したのはルーミアで、チョキを出したが、チルノは四連続初志貫徹の力のこもったグー。
これによりあいこ分と合わせて六段昇進となった。
「ちぇっ、チルノの考えることはわからないのかー」
「あたい、さいきょうだからね!」
二人のじゃんけんは気合が入っていた。
次はチョキでこれまた三連続のあいこ。
そして運命の四戦目、……もまたあいこだった。
迎えた五戦目は四段のあいこ上乗せが加わる。
二人は大きく振りかぶるようにして手を繰り出した。
変化したのはチルノ。
グーでルーミアのチョキを打ち破り、見事十三段で勝ちとなった。
「やったねチルノちゃん。やっぱり強いなぁ……」
「あたいにはさいきょうのやり方があるからね。えっへん!」
「チルノに付き合った私が馬鹿なのか。もう次は負けない。ふふふっ」
ルーミアは負けても嬉しそうだった。それが妙に不気味だった。
「さぁ次は大ちゃんとあたいね。負けないよっ」
「うんチルノちゃん。私もよ」
大妖精は無駄に入れ込んでいた。
次はもっとうまくやらなくちゃ。負けてばかりじゃつまらないものね。
霊夢は上白沢慧音と数名の屈強な男達と共に、人里に近い場所の山狩りをしていた。
「どうだ霊夢殿? この妖気はやはり……」
「ええ慧音、目当ての妖怪の住処は近いわ」
霊夢は慧音にそう答えた。人里を守る半獣の横顔は悲しみに打ち震えていた。人間の子供達を守れなかった感情を、霊夢が推し量るのは難しい。しかし悲しんでばかりはいられない。諸悪の根源を根元から断たなければ被害は広がるばかりだった。
行方不明になった子供達は、数日後各所で無残な姿となって発見された。体のあちこちを食い破られ、全身に拷問の痕が見られ、顔は凄まじいほどの恐怖の表情で固まっていた。これは絶対に人間の所業ではない。人間を殺すのに、何の迷いが見られない、無慈悲で残忍な妖怪の仕業。
「くそっ、何故子供達ばかり狙われなければならないのだ。どうせなら私を……」
慧音が毒づいた。
「駄目よ慧音、そんなこと言っちゃ、あんたの教え子が悲しむわ」
「おおすまんな霊夢殿……。どうも近頃涙もろくて困る」
――やり切れないわね。と霊夢は思った。
それにしても妖怪は何故子供ばかりを狙うのだろう。しかもじわじわいたぶってから殺している。まるで人間の肉そのものではなく、子供を恐怖に陥れるのが本分のようだ。
「いたぞー! 子供だ! ちくしょうまただ!」
霊夢が妖怪の正体に思いを巡らしていると、遠くて男の声があがった。
「……どうだ?」
二人は声がした方へすぐさま向かった。慧音はわかっているのだろうが、聞かずにはいられない様子だった。
まだ年端もいかない少女が、全身を損壊させて静かに横たわっていた。特に――顔面は念入りに叩き潰されたのか、目を逸らさずにはいられなかった。
「酷いわね……」
「ええもう! 奴らときたら血も涙もありゃしませんぜ!」
男がうな垂れていた。
慧音の方を見る。肩が震えていた。
「あははー、また私の勝ちなのか大ちゃん」
三人は何かに引き込まれるようにして十三段に熱中していた。
数十回ほど回数をこなしたのだろうか、何時の間にか夕暮れ時が近づいていた。どこからか烏の切ない鳴き声が聞こえてくる、
大妖精はルーミアに連敗していた。どうもこちらの心の内を読まれているように、的確にこちらの手に勝つ手段を投じてくる。それでも時には勝つ時もあったが、その流れは直ぐに止まり、遠い十三段の差がつけることはできなかった。
「ああ、また負けちゃった……」
グーやチョキを適当に散らした後、頃合を見計らってパーを刺し込みにいくのだが、決まってルーミアは見透かしたようにチョキを合わせてくるのだ。これには大妖精はまいってしまった。もう既に20回程度はパーを出しているのだが、成功した記憶が一回ぐらいしかない。この的中率は異常だった。何かがおかしいと思ったが、そのおかしさの根源すら見当たらなかった。
「何だ大ちゃん、全然ルーミアに勝ってないじゃん。あたいはもういいから、大ちゃんがルーミアとやっていいよ。そろそろ暗くなってきたし、大ちゃんが勝ったら終わりにしよう」
チルノが少しくたびれた声を出した。さすがに一日中声を張り上げて疲れたのだろう。
自分も疲れていたが、ルーミアに勝つまではやめられないと思った。何か――とりつかれていた。チルノは勝ったら終わりと言った。勝てば終わる。では勝てなかったとしたら? 何だろう、暗いのだ。心がとても暗く感じる。夕闇が迫っているだけじゃない。本質的な、足元から染み出てくる気持ちの悪い闇。
「大ちゃんが勝ったら終わりにするのかー」
ルーミアが笑っていた。歯が剥き出しで怖い。え? 何? ルーミアの口が血で真っ赤に染まっている。馬鹿な馬鹿な。
「どうした大ちゃん?」
また顔をあげて見た。今度は真っ白な歯が並んでいた。
おかしい。でも勝てば終わるわ。うん全てが終わるはずよ。
そう大妖精は自分に言い聞かせて、ルーミアとの勝負に臨んだ。
「また私の勝ちだな大ちゃん」
健闘したものの、要所をルーミアは的確に抑えてくる。もう二度と勝てないような絶望感が大妖精を包んだ。
「チルノちゃん……。もう私疲れたわ。もう終わりにしましょ。こんなに暗いし……夜みたい……」
そう言って大妖精ははっと我に返った。いくら何でも暗すぎる。これは絶対におかしい。
「チルノちゃんどこっ? 暗くて……、暗くて怖いわ……」
誰の返事もない。無言の黒塗りの空間だけが広がっていた。
「どうした大ちゃん? 誰も助けになんか来てくれないのかー。さぁ勝負勝負!」
「え……、えっ……」
心から嬉しそうなルーミアの声。大妖精は混乱していた。
ルーミアは闇を操る能力を持つが、大妖精がその全容を知る機会は皆無であった。せいぜいかくれんぼの時に、わざわざご丁寧に黒いオーラを纏っているくらいだった。闇の能力、闇、闇は暗い、これはもしかして――。
「ル、ルーミアちゃん私とチルノちゃんをどうするつもり? こ、こんな闇の空間なんて怖くないんだからねっ!」
「急に怒っても困るのかー」
「とぼけないでよ、チルノちゃんはどこへやったのよ?」
ぎりっとルーミアを睨みつける。こんなことをしでかして飄々とした態度が許せなかった。
「チルノ? チルノはもう私に勝ったから勝ち抜けだ。大ちゃんはまだ勝ってないからお留守番なのか。くくくっ」
「な……、な……」
大妖精は何も言葉が出なかった。悪魔のように不気味に笑うルーミアに気圧されていた。
「妖精は再生するけど闇に溶けちゃったらどうなるのか? 闇の妖精になっちゃう? あはは、面白そうなのかー」
「たっ助けて……」
思わず羽をはばたかせて飛ぼうとした。逃げなければこんな暗い空間はもういやだ。
「ああっ!」
ベタッと地に臥していた。足首に黒い粘液のようなものが絡みついて、石段と同化していた。
「ふふふ、大ちゃんはもう逃げられないのか。言ったよね、ここから出るには私に勝つしかないと」
「はーっ、はぁはぁ、何でこんなこと……。私が何をしたって……」
「うーん、遊びたいのか大ちゃんと。闇の中に溶け合って……。そうすればいつでも一緒にいられるから……」
遠い目をしてルーミアが言った。今まで見せたことのない切ない表情だった。
「さぁ大ちゃん、私と勝負するのか。夜がくれば結局闇と同化してしまう。大ちゃんがここを抜けるには私に勝つしか方法はない。わかったら私と……」
「触らないでよっ!」
ルーミアの手を打ち払った。顔が、悲しく沈んで静かに笑っていた。
それに――ああ何で? 血が、赤い血がべったりと手のひらについている。ルーミアの口元も血だらけで……ペロッと舌なめずりまで。黒い服も血でべったり染め上げられている。怖い怖い。殺されてしまう。容赦なく蹂躙された後、闇の虜にされてしまう。逃げなきゃ? でもどこへ? 助けてチルノちゃん、ああ! チルノちゃんどこ?
「まだ決心がつかないのか? 私はこのままでもいい。時が満ちれば闇に満たされるのか……」
ルーミアは何かに浸っているようだった。どこか超然として達観した表情――。
大妖精はゾクっとしてしまった。闇の中で映える少女の妖しい色香。物憂げな表情で血に染まった指を舐めしゃぶる。
「あぁ……」
か細い声で伝わらない嗚咽を漏らす。あれほどルーミアを毛嫌いしていたはずなのに、何故か親しみを感じてしまう。
しばらくぼんやりと黒い海の中で漂っていた。底無し沼に腰までつかり、更に生温い泥濘へと落ちていく感覚。
落ちる、落ちてしまう。
一切の音が届かない深い海の底へと。
「もう諦めたのか? 大ちゃん?」
その沈黙を打ち砕いたのは他でもない、この闇の空間を構築したルーミア自身だった。さっきまでとはうってかわって、無邪気な愛くるしい少女の笑顔である。
「そんなことないわ。ルーミアちゃん、勝負よ」
何故かルーミアに勇気づけられた。理由はわからない。
「ふふっ、そうこなくっちゃ。日が沈むにはまだ早いからね」
ルーミアが笑いかけた。大妖精はそれに答えるようにすっくと立ち上がった。
黒い空間の中に石段と二人の少女だけが存在する。足は黒い手に絡め取られているが、歩くことだけはできるらしい。
「真剣勝負がしたいから言っておくけど――」
ルーミアが厳かに口を開いた。
「大ちゃんの致命的な癖は三つ。グーを出すときは前もって拳を握り締める。チョキを出すときは直前に手の形がチョキみたいになってしまう。パーを出すときは両手を胸の前に合わせる、もしくはそんなそぶり。これで七割ぐらいは当てはまるよ大ちゃん」
「うぅ……。そんなことまで見てたの?」
「うん見てたよ。でも今は暗闇だから見えないかもね」
「またまたルーミアちゃん。そうやって私を騙そうとするんだから」
「んー? どうなのかー?」
真面目な顔つきからおどけて見せるルーミア。
もうここまで来たら小細工はいらないと思った。無心でじゃんけんを遂行する。そうだ、目先の損得に惑わされなければ、一切の感情を排することができる。癖なんかはは適当に手をぶらぶらさせてから出せばいい。
闇の中は静かだった。落ち着いて深呼吸ができる。脳天に空気を溜め込むように大きく吸って、ゆっくりと吐く。よし、これで覚悟は決まった。もう自分は誰にも止められないはず。
「覚悟が決まったのようだね、大ちゃん?」
「うん……、結構だわ」
「……それじゃいくよ」
「いつでもいいわ」
二人はいつしか仲の良い幼馴染ような気持ちになっていた。黒い足枷さえなければ、睦まじい人間の子供が遊んでいるとしか思えない。
「じゃーん……、けーん……」
泉にポタリと水滴を落としたように、声の波紋が漆黒の無音空間へと響きわたる。
大妖精の頭の中には、もはやじゃんけんの概念すら抜け落ちていた。唯一考えることは、定型的に決められた手の形を順次義務的に出していくだけ。透き通った暗闇が脳髄を適度に麻痺させていた。
「ぽん――」
何を出したかさえ理解できない。手の形は作った。勝ったのか負けたのかさえわからない。
「三段登って大ちゃん」
ルーミアがぽつんと言った。登り下りの概念も意味不明だ。上も下も――四次元に近い黒の空間では無意味に等しい。進めば戻る。押しては返す。後ろは前。
無意識的に手を動かす。
数秒の沈黙。
「残念だな大ちゃん。私が三段上になった」
上と言われてもどうなのか。勝ちも負けもあまり興味がない。ただこの空間をルーミアと共有していることに、ひたすら幸せを感じていた。
「今度は大ちゃんが一段上だ。中々面白いのか」
勝ち負けはわからなくとも、拮抗しているのはわかる。上か下かが目まぐるしく入れ替わる闇夜のシーソーゲーム。
勝負の行方は混沌としていた。中々二人共後一歩という所まで到達できない。
時間だけは静かに無明の時を刻む。それだけは一律の共通概念だった。
時は刻々と満ちていた。
何度試行を繰り返したのか、数多の紆余曲折を経て、大妖精は若干の有利状況を作り出した。
「現在は大ちゃんが七段上だ。次はチョキを出せば勝ち抜けできる」
「チョキで勝ち抜け……? うううっ!」
このルーミアの一言が、突如大妖精を現実世界へと引き戻した。脳に刻み込まれていた既成概念が蘇り、即座に理論的な思考回路と理性という分厚い障壁を構築する。
「ごめんね大ちゃん。私やっぱり大ちゃんと一緒にいたいから……」
「うーっ、ううううーっ!」
急に目の前が広がって頭が割れるように痛かった。今は勝負の最中だ。何か出さなければならない。チョキで勝ち抜けでも簡単にチョキは出せない。他の何かを出して取り繕おう。何が……。
「じゃーんけーん……」
ルーミアの抑揚のない声。大妖精は爪が食い込むほど右手拳を握り締めていた。
一時止まった空間。
行動の答えを待つ。
「残念だ。大ちゃんのリードは三段になった」
ルーミアは何故か泣きそうな声だった。
続けて二人の細腕が振りあがる。
「これで私が三段上だ」
ゲームの進行は止まらない。大妖精は着実に滅びの一途を辿っていた。
止まらない、止まらない。
考えれば負けるのに考えてしまう。
負ける負ける。
「……今ので九段上だ大ちゃん。私がチョキかパーで勝ちぬけだ」
どうしようどうしよう。考えてもよくわからない。思考が定まらないのに不安だけが募って仕方がない。
もう闇が迫ってきて泣き出しそうだ。
早く終わって欲しい。
「あいこだ大ちゃん。さぁもう一回」
はぁはぁ。さっき九段だったから何を出しても同じ。それは自分から見た形。ルーミアから見ればリスクは存在する。でもそれが何かわからない。
駄目だ。闇に包まれる。
「私の勝ちだな。大ちゃん」
「うわっ! うわぁーーっ!」
ルーミアが段差を登った瞬間、辺りを覆う闇がいっそう色濃くなった。
目や口や鼻、そして体全体の皮膚から、猛烈な勢いで闇の気質が入り込んでいく。
まともに呼吸できない。
でもまだ生きている。
これが――闇の本質なのだろうか。
「ううっ、ううぅ……」
「苦しいのか大ちゃん? 大丈夫……、直ぐによくなるから……」
ルーミアの優しい声だけが共鳴して脳に響く。
このまま受け入れてしまいたかった。
そうすれば楽になれる。
ああ闇が、闇が!
(……ちゃん…………ちゃん! ……お願い返事してよ!)
闇に完全に同化しかける刹那、懐かしい誰かの声が聞こえた。
途端に目の前の暗がりが除かれ、さっと明るみを増す。
誰だろう?
「ふふふ、大ちゃんはいい友達を持ったな。羨ましいのか」
「……っと」
闇が入り込んだ頭を持ち上げてなんとか立つ。
体も既に真っ黒だが歩くことぐらいはできるらしい。
「これが最後の勝負だね。やるかい? 大ちゃん?」
「もちろんよルーミアちゃん」
大妖精はかろうじて思考を保って言った。
遠い石段の向こうにかすかな光が見えていた。
それが大妖精のわずかな希望だった。
あの光向かって歩けば自分は勝てる。
この闇から解放されて、そして――
「ようしその意気なのかー」
ルーミアの顔は暗くて見えなかったが、きっと笑っていると思った。
「じゃーん……けーん……ぽん……。……あーいこ……で…………しょ」
勝負は一進一退の様相を呈していた。
半ば闇に染まった思考は特に必然性を持たない。
登り登られつつ、必死で十三の距離の作り出そうと苦悶する。
はるか遠方に見える光はしだいに近づいていた。
重い足を持ち上げながら一歩一歩それに向かって踏み出す。
それは黒い海の道標となる高い湖畔の寂しい灯台。
その一筋の光でさえ今の大妖精には大きな希望であった。
「また私のリーチだ。このまま終わるのかな? 大ちゃん?」
「まだまだ、絶対勝って見せるわ」
「そうなのか、頑張るのか」
大妖精の意思はまだ終わってはいない。
決死の覚悟で投げた投網は意固地な岩石を捕らえた。
「大ちゃんは策士だな。もっと楽しもう」
「ええルーミアちゃん。私負けないわ」
両手に武器を構えた少女達の合戦は長引いた。
遠いと思われた灯台の光もその現実味を増していく。
剛直な鉄の拳は狡猾な断頭台を穿ち砕く。
形勢は混沌として、運命の針はどちらに傾くか未だ決めかねず、フラフラと揺れていた。
「……じゃ…………ぽーん……」
闇はもうすぐそこまで来ていた。
二人の声も黒に染み込んで消えていく。
「はぁ、はぁ……」
「残念だ大ちゃん」
気まぐれな鉄砲水で二人の勝負は急転直下で決していた。
激しいつばぜり合いで蓄積した水源は、ほんの微小の隙間から決壊して、堅牢な堤を突き崩す。
ついに大妖精は、わずかな足場から漆黒の海へと投げ出された。
水から口から浸入し喉と肺を侵していく。
もがけばもがくほどその暴虐は深まる。
ああなんてことだろう。
光はもう手の届く先にあるのに。
ごめんね、ごめんね――。
無言のルーミアの後ろ姿。
一歩一歩石段を駆け上がっていく。
既に十段を登っている。
十一段、十二段――。
二人の距離は永遠に縮まらない差であった。
「どうしたの……?」
ふいにルーミアが立ち止まっていた。
後一段足を踏み出せば全てが終わるのに。
「残念だけど、よかったよ大ちゃん」
「え……?」
ルーミアがくるりと振り返る。
その顔は天使のようだった。
「終点なんだ。勝負は引き分け――いや、私の負けかな」
「えっ、でも……私は負けたのに……」
大妖精は何のことか理解ができなかった。
光が徐々に満ち始めていた。
鬱積した闇の力が浄化され、妖精としての力を取り戻す。
「さよなら大ちゃん。遊んでくれて楽しかったのかー」
「待って、待ってルーミアちゃん……。私……」
手を伸ばそうとしても、光が邪魔をした。
重い緞帳が持ち上がるように、闇の力が薄れてゆく。
そして暗転。
目を見開くとチルノが真正面で喚いていた。
「おーいおーい! 大ちゃん! だーいちゃん! あっやっと気づいた!」
「チルノちゃん……?」
呆然として友人の顔を見つめた。泣き腫らしたチルノの顔。
大妖精はくるりと首を回転させる。西日は欠けて山陰に溶け込もうとしていた。ああ帰って来たんだな。自分が元いた世界――妖精が自由に謳歌するこの幻想郷に。
「もうっ、ちょっと目を離してたらルーミアがいなくなったんだ! そしたら大ちゃんが一人で口をパクパクさせて……。石段を登って……。何回も声をかけても無視してばっかり! あたい、大ちゃんがおかしくなったと思って……、ぐすっ……、ぐす……」
泣きじゃくるチルノ。
そうか――。
大妖精はそれなりに了解した。ルーミアとはもう二度と会うことはないのだろう。闇の世界はなくなってしまった。
それにしても――、後一歩、後一歩で自分はルーミアの闇を受け入れていたはずだった。
ルーミアの言った終点とは何を意味していたのだろう。
「大ちゃんもう帰ろうか? もう夜になっちゃうし……。大ちゃん? あー、またぼっとして……」
大妖精はチルノの背後を覗き込んだ。石段の終わり、終着点の博麗神社が悠然と居座っていた。
「そっか……。でも……? あっ……」
無意識に一歩踏み出していた。石段の感触を足にしっかと感じながら、ゆっくりと歩きだす。
「神社に何か用なのか?」
その問いには答えなかった。
「三、四……、五……、六…………」
一段一段数えながら終点へと近づく。
「九……、十……、十一……、十二……じゅ……」
段差があるものと錯覚して、振りあがった足はむなしく空を切った。着地点を取り違えてバランスを崩しながらも、博麗神社の石床をしっかりと確認した。
「十三段目は踏めなかったのねルーミアちゃん……。いえ、違うわ。一人だけ別の石段を……」
もの悲しい感慨に耽っていると、湿った風が頬を撫でた。
「もう帰ろうよ大ちゃん」
チルノがつまらなそうに言った。
「ええ帰りましょう、私達の世界へ」
忘れよう。考えなくていい。
結局は相成れない存在であったのだ。
後ろを振り返ると下りの石段は、深い地獄の入り口のように見えた。
この道は通らざるべき裏街道――。
二人の妖精はふわりと空気にまみれ、そして同化した。
闇が支配する世界はもう直ぐそこまで迫っていた。夜は妖怪の力が強まる。わざわざ相手有利の戦場で決闘する理由もない。
「はぁ……。今日も手がかりなしね」
「うむ……」
霊夢のため息に慧音が答える。確かな妖気だけは存在するものの、依然として妖怪の正体のわずかな手がかりさえつかめない。
「見つかるのは死体の山だけ。何のために調査しているかわからないわね」
そう、死体。今日見つけた少女の死体。あの損壊した体に霊夢はどこか見覚えがあった。昼間の内は特に気も留めなかったが、黒い服に金髪で、可愛げな赤いリボンを結わえた少女。
「ん……、んー?」
「どうかしたか?」
首を大げさに傾げて考え込むが、やはりわからない。リボンをつけた少女ぐらいいくらでもいる。それにあそこまで顔を潰されていては判別のしようがない。
「ううん、ただの気のせいよ。さっ今日はもう帰りましょ。いくら妖怪退治が専門といっても二十四時間労働はできないわ」
「そうだな……」
そう言った慧音の横顔は、どこか不気味で目にわずかな狂気が宿っているように見えた。
黒に染まりかけた木々がざわと音たてて、夜の到来を静かに告げた。
古ぼけた傘を差した少女が一人――傍目には幼い容姿で、妖怪である片鱗は微塵も感じさせない。
下駄を鳴らしてひた歩く。彼女は新たな快感に目覚めていた。
足取りは軽やかで、あどけない口から紡ぎ出される遠い昔の童歌――。
「通りゃんせー、通りゃんせー。子供はどこじゃ? 通りゃんせー。ここはどこの細通じゃ? 天神さまの細道じゃ? 否否、わちきのための細道じゃー。子供はみんな喰らいしゃんせー。ちっと通して下しゃんせー。邪魔する輩は頭からつま先まで齧りしゃんせー。……御用のないもの通しゃせぬ。お通りしゃんせは驚きしゃんせ。この子の七つのお祝いにー、お札を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい。それはわちきがいらしゃんせー。こわいながらも通りゃんせー、通りゃんせー。童の心は美味ししゃんせー。未だ知らざるはもったいないしゃんせー。よしよし、もっと美味しい顔を見せておくれ? 通りゃんせー。わちきに会ったが百年目ー。目に入った獲物は全て喰らいしゃんせー。皮膚を裂き指を折り、たいそう怖がらせてからいただきしゃんせー。通りゃんせ。通りゃんせー。ほほういと可愛い童がいらしゃんせー。これは襲わずにはいらしゃんせー。なんとめんこい! 黄金色の毛並みに紅色の結わえ、かわゆうてわちきの好みじゃ通りゃんせー。……面妖な、人の子にはありゃしゃんせ? さすれども驚き恐怖すれば五十歩百歩。切りしゃんせー、刺ししゃんせー。どうして驚かぬ? 泣き叫んで助けを求めしゃんせ? ああ不味い不味い。えい! えい! わちきの顔見て泣きしゃんせ。ほうまだ泣かぬ、泣かず喰わずはひとり者――。泣かぬなら、泣くまで潰せホトトギス? 潰しゃんせ、潰しゃんせ。生意気な童にはおしおきじゃ。潰しゃんせ、潰しゃんせ。何じゃ一度も甘い汁が吸えぬではないか。いらしゃんせ、いらしゃんせー。わちきさまのお通りしゃんせー。童はどこじゃ? 細道には鬼がいらしゃんせー。通りゃんせー、通りゃんせ…………」
人間の仇となる妖怪を退治するのが巫女としての役柄である。妖怪は人を襲う、だから妖怪を退治する。
人里では幼い子供の失踪事件が相次いでいた。相成れない二つの存在による諍いから生じる悲劇は、過去にも幾度となく繰り返されていたが、近頃の妖怪の隆盛具合は異常とも思えるほどだった。何か先導者が存在するような、そんな統率された意思さえ感じられる。
被害は徐にその範囲を、虫が葉を食い荒らすにように広め、人間と人間に組する妖怪達は、その対策に常時頭を悩ませているのだった。
「全く毎日毎日見も知らぬ妖怪の探索ばかり……」
霊夢は思わず愚痴を言っていた。探せど探せど親玉となる妖怪の足取りはつかめない。かえて発見されるのは、無残に蹂躙された人間の亡骸だけ。どうにもやり切れない気持ちのまま、今日も幻想郷中を捜査するしだいであった。
「邪魔よっ!」
イライラしていた霊夢は声をあげた。
石段を下りきった場所にチルノと――名を何とと言っただろうか、緑髪の地味な妖精が、通せんぼするように行く手を塞いでいたのだ。
幸いチルノの数センチ脇を危うく掠めただけで、大事には至らなかった。こんな所で遊んでいる方が霊夢は悪いと思った。最も、妖精にぶち当たったところで、彼女らは消滅し再生を繰り返すだけの空気のような存在。霊夢が気兼ねする理由は何もなかった。
チルノが後ろから大声をあげて文句を言っていた。もちろん聞く耳なんかもたない。今はそれどころではなかった。
「うわっ! 何だあれ?」
「チルノちゃん大丈夫?」
一瞬だった。
チルノはカマイタチにも似た風を切る物体にぶつかりそうになり、避けようとして、冷たく固い石段にばったりと尻餅をついた。
大妖精が心配そうに声をかける。何て危ない飛行をするのだろう。あんなに慌てなくてもいいのにと思った。その物体の後ろ姿を見やると、紅白の見覚えのある巫女装束が確認できる。それが知る人ぞ知る博麗の巫女の博麗霊夢だとは、幻想郷を自由に生きる妖精であるチルノと大妖精にとっても周知の事実だった。
「何だぁ? 霊夢のやろー! おいあやまれ! おーい、あたいを転ばせたこと! おい、おおーい!」
チルノが石段に腰をついたまま叫んでいた。だが霊夢の姿は一瞬で点になり広い空へと消えていった。
「チルノちゃん、もう諦めなって。きっと霊夢さんにも事情があったんだよ」
大妖精はまだ言い足りない表情のチルノの腕を取って、よいしょと声を出して立ち上がらせた。
「おお大ちゃん! ありがとう。やっぱり大ちゃんは優しいな!」
チルノの無邪気な笑顔が見えた。いつも元気で純真で――氷の妖精にありがちな心の冷たさなどは少しも感じさせない。大妖精はそんなチルノの茫洋とした人柄に惹かれていた。少し引っ込み思案な自分をぐいぐいと引っ張ってくれる、暖かくて不思議な存在。
妖精の生来の本質とはどこから形作られるものであろうか。それは、大気中の元素の成り立ちから形式的に組成されるものではなく、極めて個性豊かに内包される。妖精と言えども、結局は消滅再生の違いだけで、人間や妖怪となんら変わらないと大妖精は考えるのだった。
「別に……そんなことないよ」
少し謙遜して答える。優しくはない。本当に優しい人ってのは、もっと積極的に立ち振る舞いできる人だから。
「あはは、大ちゃん。邪魔が入ったけど遊びの続きしようよ……ん? 何か落ちてるぞ?」
見ると石段の縁に一枚の新聞がのっかかっていた。チルノはそれをひょいとつまみ上げ、偉そうな態度で広げて、紙面に透き通る空色の瞳を泳がせた。
「新聞だねチルノちゃん。霊夢さんが落としたのかな?」
「む……」
チルノはその問いには答えずに、しかめっ面で眉を捻じ曲げた。その神妙な表情から、大妖精は一体何が書かれているんだろうかと、どんな突飛な異変でも起こったのだろうかと、著しく興味をそそられた。
二十秒ほど沈黙が続いた。耐え切れなくなりたまらず声をかける。
「何が書いてあるの?」
「ふーん、ふん……、ふん……」
「何々?」
「あ……、い……、た……、さい……」
チルノが意味不明な言葉を喋っていた。これでは更に気になる。
「も、もうチルノちゃんたら! もったいぶってないで教えてよ?」
それに反応してチルノがにやりと笑った。
「ふふふー、知りたいか? 大ちゃん?」
「うん……」
「あたいは漢字が多すぎて読めない」
「えっ……」
大妖精はため息をついた。チルノのことだ。この展開も軽く予想できたはずなのに甘かった。
チルノの側に回り後ろから覗き込む。当たり前なのだが新聞は漢字が多い。大妖精自身も普段から読書する習慣はないが、何故か常用的な漢字は知っていた。いや、知っているというのが適当だろうか。
「うーん……」
「どうだ大ちゃん? 何が書いてあるかわかるか?」
目をキラキラさせてチルノが聞いてくる。簡単な漢字を何とか拾って意味を綴っていく。見出しに一番大きく目立つ文字で書かれた記事。その内容は今幻想郷では、人間の子供がさらわれる事件が頻発しているとのこと。そして――対策は未だ見えず。
「人間の子供がね、いなくなってるのよチルノちゃん」
「へぇー、そっか」
チルノはさして興味がないのか、つまらなそうにぼんやりと目を細めた。
「それより遊びの続きしようよ大ちゃん?」
「ええそうね」
新聞はぽいと投げ捨てられた。乾燥した風が突然ごうと吹き、紙片は空に舞い上がって何処ともなく消えた。
「じゃーんけんぽんっ! あーいこでしょっ! あーいこでしょっ! またまたあーいこでしょっ! またまたまた…………」
チルノと大妖精が興じていた遊びは、じゃんけんに少し手心を加えた遊戯である。
階段など段差ある場所が必要で、普通にじゃんけんをする、グーで勝ったなら三段登り、チョキは六段パーは七段登るというごく単純なゲームである。
「あっ、あたいの勝ちだぁ! チョキで勝ったから六歩進むね! いくよ大ちゃん。チ・ヨ・コ・レ・イ・ト。これで六歩。ささっ、大ちゃん次いくよ!」
「ううっ、負けた……」
大妖精は五回ほど連続でチョキのあいこが続いたので、試しにパーを出してみたところでチルノは六回目のチョキを出してきた。
このゲームはグーチョキパーのどれで勝つか負けるかで非常に差がある。効率だけで言うならチョキで勝つのが理想だ。何せ勝てば六段進めるし負けてもグーは三段だから一番被害が少ない。グーやパーを出して負けた時はもう目も当てられない。七段六段と悠々に歩かれ、特にグーを出して負けると七段も先に行かれてしまう。
故にグーは非常に出しにくく、次にパーも出しにくい。よって必然的チョキが主流となるが、チルノは最初からチョキしか出さないつもりなのか、延々チョキであいこが連続する始末だった。それに大妖精が折れてグーやパーを出したりすると、チルノは妙な嗅覚で対応してくるので、二人の距離は遠くなるばかりだった。
「やったー! また勝った。パ・イ・ン・ア・ツ・プ・ル! ほらほら大ちゃんも頑張らなくちゃ! 続き続き!」
今チルノが言ったように段差を登る時には、通例のかけ声を言うことになっている。グーはグリコ、チョキはチョコレート、パーはパインアップル。何故そう言うのかはよくわからない。チルノもよく覚えてないらしい。
「ま、待ってチルノちゃん。もう距離が遠すぎてチルノちゃんの手が見えない。これじゃじゃんけんができないから……。もう私の負けでいいから……」
大妖精は早々に音をあげた。ただのじゃんけんに少し差をつけただけなのに、チルノに一生勝てない気がしたからだ。
「えー、あたい石段全部登りきるまでやろうと思ってたのに……」
「それは無理……」
博麗神社への石段がどれだけあると思っての発言だろうか。飛んでも時間がかかるのに、こんなちまちまじゃんけんをしていたらいつになるかわからない。
「何だーつまんないなー。つまんないなー」
チルノが両手を首の後ろに回してむっとしていた。
「チルノちゃん別の遊びしない? 湖畔の近くで綺麗なお花畑を見つけたんだけど……」
気分を変えるように口を開いた。が、それは場違いな闖入者によって妨げられた。
「何しているのかー?」
聞き覚えのある声。ルーミアだった。
「おっルーミアじゃん! 今大ちゃんと二人で面白い遊びしていたんだ。ルーミアも一緒にやろうよ?」
「へぇーそーなのかー」
空中からふらふらと滑空し、両手を広げて嬉しそうに笑うルーミア。大妖精はせっかくのこの無謀なじゃんけんゲームが終わると思っていたのに、ルーミアのせいでまだ続きそうだ。何でこんな時に限って。
大妖精はルーミアを嫌っていた。肉食のいつも血の臭いを漂わせている妖怪。その臭いがどうしても大妖精には我慢ならなかった。チルノはどうしてルーミアと仲良く付き合えるのかと思う。チルノとルーミアが仲良くするから、必然的に自分もルーミアと付き合わなくてはならない。ああなんて窮屈なのだろう。
目が怖いのだ。少女のようないでだちだが、目だけは笑っていない。必死に愛嬌を振りまいてはいるが、絶えず獲物を狙うような鋭く冷たい視線は、ぞっとすると通り越して至極気持ち悪い。笑顔も嫌いだった。歯を剥き出しにして笑うと肉食特有の尖った牙が見える。あの牙は人間を殺す穢れた牙なのだ。
今もチルノの隣で、体が触れあいそうになるほど馴れ馴れしくしている。やめて、チルノちゃんに近づかないで。純真なチルノちゃんに薄汚い血で汚れた手で触らないで。
「ふーん。なるほどー」
「な? 簡単だろ?」
チルノがルーミアにゲームの内容を説明している。ルーミアは笑顔でうんうんと頷いていた。
ああ断ってくれないかなぁ。どっか行ってくれないかなぁ。せっかくチルノちゃんと二人っきりなのに。
「あの、チルノちゃん……。ルーミアちゃんも忙しいなら無理に誘わなくても……」
一応そう言ってみた。これで排除できるならば万々歳だ。
「いや別に私は暇なのかー。それに今日は二人とどうしても遊びたいと思ってきたの」
「そうか! よし決まりだな。三人で遊ぶとするか!」
チルノが意気込んでいる。ここまで来たら仕方がない。
「あ、私に一つ提案があるんだけど。ちょっと思いついたルールがあるんだ。名づけて十三段! こっちの方が絶対楽しいのかー」
「おーそりゃいいな。賛成賛成! さっきは大ちゃんが果てちゃったからな!」
そうさせたのは誰のせいなのと、大妖精は言おうと思ってやめた。ルーミアは両手をいつもよりぴんと伸ばして、新ルールの説明を始めた。
十三段ルール
・グー 三段 チョキ 六段 パー 四段
・通常のじゃんけんを繰り返し、段数差が十三段以上になった時に決着。
・あいこ一回するごとに次回の勝ち段数へ一段追加される。
例 あいこ二回後、次にグーで勝った場合五段進めることになる。
「パーが七段進むのって、ちょっと多すぎる気がする。これぐらいがちょうどいいのか」
ルーミアの考えたゲームは中々面白そうだ。何より十三段差がつけば終了というのは、大妖精にとってはありがたかった。チルノとした時のように大幅に差がついては興ざめである。
「ううん、あたい大体わかった! ……あ! パーが四文字なんだから、新しい掛け声決めなくちゃ! パ、パ、パで四文字……。パンツ!パンダ! パンチ! パ……」
「チルノちゃんそれ全部三文字だよ」
大妖精はそう突っ込んだ。自分も考えてみる。パで四文字とは何があるだろうか? パ……、パントマイム、これは六文字だ。パ……、いきなり言われても中々単語が出ない。
「パラソル、がちょうど四文字ね。チルノも大ちゃんもこれでいい?」
ルーミアがにっこりと笑顔で問いかけてくる。大妖精もそれでいいと思った。
「あたいもそれでいいよ。パ・ラ・ソ・ルだね。あたい覚えた!」
「私もそれでいいわ」
二人の同意を確認すると、ルーミアは大きく息を吸い込んで、はぁーっと全て吐き出してから仰々しく口を開いた。
「それじゃ楽しい十三段の始まりなのかー」
改めて考えてみるとこのゲームは二人用だった。三人ですればどこで段差の区切りをつければいいかわからない。
「先に大ちゃんとルーミアがしてみてよ。あたいはわかったけどよくわからなかったからさ!」
チルノが言った。いつものことだと思い、大妖精はルーミアと並んで同じ段に立った。
「チルノはよく見ているといいのか。抜け番は審判役もかねる。二人で決着がつくまでじゃんけんして、負けた方が一回休みにするのかー」
「わかったわかった。頑張れ大ちゃん! フレーフレー」
大げさに応援されたので、大妖精は小恥ずかしくなった。お遊びとは言えど、チルノの手前あまり恥ずかしい負け方はしたくはないと思った。
このゲームの内容を今一度思い返してみる。パーが四段になったのだから、一番効率のいいのはチョキで……次はグーだろうか。パーは勝っても四段で負ければ六段相手に進められてしまう。見返りが微妙な割りにはリスクだけが高い。
チョキが効率がいいのだから多く出す。そうするとグーで勝ちやすくなる。グーが多くなるとパーで勝ちやすくなる。パーが多くなると……。ここまで来て堂々巡りの輪廻になると大妖精は気づいた。となると一体何を多目に出せばいいのだろうか。普通に考えればグーとチョキを半々で、パーはここぞという時に……。
「ほら大ちゃん、ぼーっとしてる暇はないのかー」
「あっごめん……」
ルーミアが促していた。
「いくのかー。じゃーんけーん……」
「じゃーーん! けーん!」
チルノも続いて掛け声をあげる。ゆっくり考えている時間はないらしい。一番初めなのだから、何を出してもいいだろう。
大妖精はルーミアがおそらくチョキを出してくると予想して、グーを出そうと思い一度拳をぎゅっと握り締めた。
「ぽんっ!」
三人の声が一度に重なる。
結果はルーミアがパー。大妖精がグーだった。
「四段もーらいっ。大ちゃんありがとなのかー。パ・ラ・ソ・ルっと」
「ああ大ちゃん……。せっかく応援したのに……」
ぴょんぴょんと兎のように飛び跳ねて石段を登っている。
ルーミアはいきなりパーを通してきた。もし自分がチョキを出していたら六段のマイナスだったはずなのに。でもまだまだこれからのはず。次は何を出そうか。
「じゃーんけーん!」
間髪入れず掛け声があがる。迷っている暇はない。次はチョキを出そうか? でもグーで負けるかもしれない。どうしようどうしよう。
「ぽんっと!」
またも同じ光景が展開された。
ルーミアがパーで、もちろん大妖精はグーで負けである。
「ああー、大ちゃん何やってんだよー」
「ふふー、大ちゃんは怖がりなのかー」
「あれれ? またパーで……」
二回連続でパーを通されてしまった。確かに自分は怖がって腰がひけているようだった。しかもチョキとグーでは負けた時のリスクがグーの方が大きいのに。同じ負けるにしてもダメージがでかい。しかしルーミアの視点から見るとどうなのだろうか? わざわざ六段マイナスのリスクを背負って二回連続パーだ。普通なら怖くてできない。
ううん怖いと思う考えがもう駄目なのだ。何も酷い罰ゲームがあるわけでもない。気楽にいけばいい。結局は堂々巡りなのだから、あれこれ考えすぎてもドツボに嵌るだけだ。もっとポンポン何も考えず出した方がいいのかもしれない。
「大ちゃん頑張れー次こそは必勝だ!」
ルーミアの手が動いた。次は何を出したらいいのだろう。ルーミアは今八段だから……。あれ? 十三段以上が決着なのだから、次にルーミアにチョキで勝たれたら、合計十四段になり終わってしまう。つまり自分はルーミアのチョキだけは絶対に潰さなくてはならない。グーで勝つか――チョキであいこにするか二つに一つ。
「ぽーん!」
考えがまとまらないまま手を出してしまった。
妙な手の形でチョキを出す。……ルーミアもチョキだった。あいこだ。
「あいこだね、大ちゃん。これで私は九段と同じ状態なのか」
そういうことになると大妖精は頭の中で思った。あいこは次回にプラス一段になるから、ルーミアはチョキかパーで勝てば勝ち抜けになってしまう。これを同時に潰す手段はチョキを出すしかない。ああでもそれを狙ってグーを出されるかもしれない。それならばグーを狙ってパーを出そうかいやいやいや……。
またも堂々巡りの思考に陥った大妖精は混乱の極みにあった。何を信じればいいかわからない。ただ場の状況は窮地に追い詰められていることだけは確かだった。
二人の小さな手が攻撃手段を提示する。
ルーミアチョキ、大妖精パー。
上乗せの十五段目を踏み、明らかなルーミアの勝利である。
「ふふっ、大ちゃんは弱いのかー」
「ああ……」
やっぱり裏をかいたつもりが一回りしてしまった。これで三回連続で負けたことになる。じゃんけんをしていればこれぐらい日常茶飯事であるが、無駄に頭を使った分、大妖精は不穏な徒労感に包まれてしまった。
「ようし、次はあたいの番ね! 大ちゃんのかたきはあたいがとる!」
「受けてたつのかー、望むところなのかー」
ルーミアはケラケラと陽気に笑い転げていた。心なしかいつもよりも活発に思えた。
チルノとルーミアの勝負は見ごたえがあった。
まずグーで両者三回あいこを繰り返し、三段上乗せされる。
四回目で変化したのはルーミアで、チョキを出したが、チルノは四連続初志貫徹の力のこもったグー。
これによりあいこ分と合わせて六段昇進となった。
「ちぇっ、チルノの考えることはわからないのかー」
「あたい、さいきょうだからね!」
二人のじゃんけんは気合が入っていた。
次はチョキでこれまた三連続のあいこ。
そして運命の四戦目、……もまたあいこだった。
迎えた五戦目は四段のあいこ上乗せが加わる。
二人は大きく振りかぶるようにして手を繰り出した。
変化したのはチルノ。
グーでルーミアのチョキを打ち破り、見事十三段で勝ちとなった。
「やったねチルノちゃん。やっぱり強いなぁ……」
「あたいにはさいきょうのやり方があるからね。えっへん!」
「チルノに付き合った私が馬鹿なのか。もう次は負けない。ふふふっ」
ルーミアは負けても嬉しそうだった。それが妙に不気味だった。
「さぁ次は大ちゃんとあたいね。負けないよっ」
「うんチルノちゃん。私もよ」
大妖精は無駄に入れ込んでいた。
次はもっとうまくやらなくちゃ。負けてばかりじゃつまらないものね。
霊夢は上白沢慧音と数名の屈強な男達と共に、人里に近い場所の山狩りをしていた。
「どうだ霊夢殿? この妖気はやはり……」
「ええ慧音、目当ての妖怪の住処は近いわ」
霊夢は慧音にそう答えた。人里を守る半獣の横顔は悲しみに打ち震えていた。人間の子供達を守れなかった感情を、霊夢が推し量るのは難しい。しかし悲しんでばかりはいられない。諸悪の根源を根元から断たなければ被害は広がるばかりだった。
行方不明になった子供達は、数日後各所で無残な姿となって発見された。体のあちこちを食い破られ、全身に拷問の痕が見られ、顔は凄まじいほどの恐怖の表情で固まっていた。これは絶対に人間の所業ではない。人間を殺すのに、何の迷いが見られない、無慈悲で残忍な妖怪の仕業。
「くそっ、何故子供達ばかり狙われなければならないのだ。どうせなら私を……」
慧音が毒づいた。
「駄目よ慧音、そんなこと言っちゃ、あんたの教え子が悲しむわ」
「おおすまんな霊夢殿……。どうも近頃涙もろくて困る」
――やり切れないわね。と霊夢は思った。
それにしても妖怪は何故子供ばかりを狙うのだろう。しかもじわじわいたぶってから殺している。まるで人間の肉そのものではなく、子供を恐怖に陥れるのが本分のようだ。
「いたぞー! 子供だ! ちくしょうまただ!」
霊夢が妖怪の正体に思いを巡らしていると、遠くて男の声があがった。
「……どうだ?」
二人は声がした方へすぐさま向かった。慧音はわかっているのだろうが、聞かずにはいられない様子だった。
まだ年端もいかない少女が、全身を損壊させて静かに横たわっていた。特に――顔面は念入りに叩き潰されたのか、目を逸らさずにはいられなかった。
「酷いわね……」
「ええもう! 奴らときたら血も涙もありゃしませんぜ!」
男がうな垂れていた。
慧音の方を見る。肩が震えていた。
「あははー、また私の勝ちなのか大ちゃん」
三人は何かに引き込まれるようにして十三段に熱中していた。
数十回ほど回数をこなしたのだろうか、何時の間にか夕暮れ時が近づいていた。どこからか烏の切ない鳴き声が聞こえてくる、
大妖精はルーミアに連敗していた。どうもこちらの心の内を読まれているように、的確にこちらの手に勝つ手段を投じてくる。それでも時には勝つ時もあったが、その流れは直ぐに止まり、遠い十三段の差がつけることはできなかった。
「ああ、また負けちゃった……」
グーやチョキを適当に散らした後、頃合を見計らってパーを刺し込みにいくのだが、決まってルーミアは見透かしたようにチョキを合わせてくるのだ。これには大妖精はまいってしまった。もう既に20回程度はパーを出しているのだが、成功した記憶が一回ぐらいしかない。この的中率は異常だった。何かがおかしいと思ったが、そのおかしさの根源すら見当たらなかった。
「何だ大ちゃん、全然ルーミアに勝ってないじゃん。あたいはもういいから、大ちゃんがルーミアとやっていいよ。そろそろ暗くなってきたし、大ちゃんが勝ったら終わりにしよう」
チルノが少しくたびれた声を出した。さすがに一日中声を張り上げて疲れたのだろう。
自分も疲れていたが、ルーミアに勝つまではやめられないと思った。何か――とりつかれていた。チルノは勝ったら終わりと言った。勝てば終わる。では勝てなかったとしたら? 何だろう、暗いのだ。心がとても暗く感じる。夕闇が迫っているだけじゃない。本質的な、足元から染み出てくる気持ちの悪い闇。
「大ちゃんが勝ったら終わりにするのかー」
ルーミアが笑っていた。歯が剥き出しで怖い。え? 何? ルーミアの口が血で真っ赤に染まっている。馬鹿な馬鹿な。
「どうした大ちゃん?」
また顔をあげて見た。今度は真っ白な歯が並んでいた。
おかしい。でも勝てば終わるわ。うん全てが終わるはずよ。
そう大妖精は自分に言い聞かせて、ルーミアとの勝負に臨んだ。
「また私の勝ちだな大ちゃん」
健闘したものの、要所をルーミアは的確に抑えてくる。もう二度と勝てないような絶望感が大妖精を包んだ。
「チルノちゃん……。もう私疲れたわ。もう終わりにしましょ。こんなに暗いし……夜みたい……」
そう言って大妖精ははっと我に返った。いくら何でも暗すぎる。これは絶対におかしい。
「チルノちゃんどこっ? 暗くて……、暗くて怖いわ……」
誰の返事もない。無言の黒塗りの空間だけが広がっていた。
「どうした大ちゃん? 誰も助けになんか来てくれないのかー。さぁ勝負勝負!」
「え……、えっ……」
心から嬉しそうなルーミアの声。大妖精は混乱していた。
ルーミアは闇を操る能力を持つが、大妖精がその全容を知る機会は皆無であった。せいぜいかくれんぼの時に、わざわざご丁寧に黒いオーラを纏っているくらいだった。闇の能力、闇、闇は暗い、これはもしかして――。
「ル、ルーミアちゃん私とチルノちゃんをどうするつもり? こ、こんな闇の空間なんて怖くないんだからねっ!」
「急に怒っても困るのかー」
「とぼけないでよ、チルノちゃんはどこへやったのよ?」
ぎりっとルーミアを睨みつける。こんなことをしでかして飄々とした態度が許せなかった。
「チルノ? チルノはもう私に勝ったから勝ち抜けだ。大ちゃんはまだ勝ってないからお留守番なのか。くくくっ」
「な……、な……」
大妖精は何も言葉が出なかった。悪魔のように不気味に笑うルーミアに気圧されていた。
「妖精は再生するけど闇に溶けちゃったらどうなるのか? 闇の妖精になっちゃう? あはは、面白そうなのかー」
「たっ助けて……」
思わず羽をはばたかせて飛ぼうとした。逃げなければこんな暗い空間はもういやだ。
「ああっ!」
ベタッと地に臥していた。足首に黒い粘液のようなものが絡みついて、石段と同化していた。
「ふふふ、大ちゃんはもう逃げられないのか。言ったよね、ここから出るには私に勝つしかないと」
「はーっ、はぁはぁ、何でこんなこと……。私が何をしたって……」
「うーん、遊びたいのか大ちゃんと。闇の中に溶け合って……。そうすればいつでも一緒にいられるから……」
遠い目をしてルーミアが言った。今まで見せたことのない切ない表情だった。
「さぁ大ちゃん、私と勝負するのか。夜がくれば結局闇と同化してしまう。大ちゃんがここを抜けるには私に勝つしか方法はない。わかったら私と……」
「触らないでよっ!」
ルーミアの手を打ち払った。顔が、悲しく沈んで静かに笑っていた。
それに――ああ何で? 血が、赤い血がべったりと手のひらについている。ルーミアの口元も血だらけで……ペロッと舌なめずりまで。黒い服も血でべったり染め上げられている。怖い怖い。殺されてしまう。容赦なく蹂躙された後、闇の虜にされてしまう。逃げなきゃ? でもどこへ? 助けてチルノちゃん、ああ! チルノちゃんどこ?
「まだ決心がつかないのか? 私はこのままでもいい。時が満ちれば闇に満たされるのか……」
ルーミアは何かに浸っているようだった。どこか超然として達観した表情――。
大妖精はゾクっとしてしまった。闇の中で映える少女の妖しい色香。物憂げな表情で血に染まった指を舐めしゃぶる。
「あぁ……」
か細い声で伝わらない嗚咽を漏らす。あれほどルーミアを毛嫌いしていたはずなのに、何故か親しみを感じてしまう。
しばらくぼんやりと黒い海の中で漂っていた。底無し沼に腰までつかり、更に生温い泥濘へと落ちていく感覚。
落ちる、落ちてしまう。
一切の音が届かない深い海の底へと。
「もう諦めたのか? 大ちゃん?」
その沈黙を打ち砕いたのは他でもない、この闇の空間を構築したルーミア自身だった。さっきまでとはうってかわって、無邪気な愛くるしい少女の笑顔である。
「そんなことないわ。ルーミアちゃん、勝負よ」
何故かルーミアに勇気づけられた。理由はわからない。
「ふふっ、そうこなくっちゃ。日が沈むにはまだ早いからね」
ルーミアが笑いかけた。大妖精はそれに答えるようにすっくと立ち上がった。
黒い空間の中に石段と二人の少女だけが存在する。足は黒い手に絡め取られているが、歩くことだけはできるらしい。
「真剣勝負がしたいから言っておくけど――」
ルーミアが厳かに口を開いた。
「大ちゃんの致命的な癖は三つ。グーを出すときは前もって拳を握り締める。チョキを出すときは直前に手の形がチョキみたいになってしまう。パーを出すときは両手を胸の前に合わせる、もしくはそんなそぶり。これで七割ぐらいは当てはまるよ大ちゃん」
「うぅ……。そんなことまで見てたの?」
「うん見てたよ。でも今は暗闇だから見えないかもね」
「またまたルーミアちゃん。そうやって私を騙そうとするんだから」
「んー? どうなのかー?」
真面目な顔つきからおどけて見せるルーミア。
もうここまで来たら小細工はいらないと思った。無心でじゃんけんを遂行する。そうだ、目先の損得に惑わされなければ、一切の感情を排することができる。癖なんかはは適当に手をぶらぶらさせてから出せばいい。
闇の中は静かだった。落ち着いて深呼吸ができる。脳天に空気を溜め込むように大きく吸って、ゆっくりと吐く。よし、これで覚悟は決まった。もう自分は誰にも止められないはず。
「覚悟が決まったのようだね、大ちゃん?」
「うん……、結構だわ」
「……それじゃいくよ」
「いつでもいいわ」
二人はいつしか仲の良い幼馴染ような気持ちになっていた。黒い足枷さえなければ、睦まじい人間の子供が遊んでいるとしか思えない。
「じゃーん……、けーん……」
泉にポタリと水滴を落としたように、声の波紋が漆黒の無音空間へと響きわたる。
大妖精の頭の中には、もはやじゃんけんの概念すら抜け落ちていた。唯一考えることは、定型的に決められた手の形を順次義務的に出していくだけ。透き通った暗闇が脳髄を適度に麻痺させていた。
「ぽん――」
何を出したかさえ理解できない。手の形は作った。勝ったのか負けたのかさえわからない。
「三段登って大ちゃん」
ルーミアがぽつんと言った。登り下りの概念も意味不明だ。上も下も――四次元に近い黒の空間では無意味に等しい。進めば戻る。押しては返す。後ろは前。
無意識的に手を動かす。
数秒の沈黙。
「残念だな大ちゃん。私が三段上になった」
上と言われてもどうなのか。勝ちも負けもあまり興味がない。ただこの空間をルーミアと共有していることに、ひたすら幸せを感じていた。
「今度は大ちゃんが一段上だ。中々面白いのか」
勝ち負けはわからなくとも、拮抗しているのはわかる。上か下かが目まぐるしく入れ替わる闇夜のシーソーゲーム。
勝負の行方は混沌としていた。中々二人共後一歩という所まで到達できない。
時間だけは静かに無明の時を刻む。それだけは一律の共通概念だった。
時は刻々と満ちていた。
何度試行を繰り返したのか、数多の紆余曲折を経て、大妖精は若干の有利状況を作り出した。
「現在は大ちゃんが七段上だ。次はチョキを出せば勝ち抜けできる」
「チョキで勝ち抜け……? うううっ!」
このルーミアの一言が、突如大妖精を現実世界へと引き戻した。脳に刻み込まれていた既成概念が蘇り、即座に理論的な思考回路と理性という分厚い障壁を構築する。
「ごめんね大ちゃん。私やっぱり大ちゃんと一緒にいたいから……」
「うーっ、ううううーっ!」
急に目の前が広がって頭が割れるように痛かった。今は勝負の最中だ。何か出さなければならない。チョキで勝ち抜けでも簡単にチョキは出せない。他の何かを出して取り繕おう。何が……。
「じゃーんけーん……」
ルーミアの抑揚のない声。大妖精は爪が食い込むほど右手拳を握り締めていた。
一時止まった空間。
行動の答えを待つ。
「残念だ。大ちゃんのリードは三段になった」
ルーミアは何故か泣きそうな声だった。
続けて二人の細腕が振りあがる。
「これで私が三段上だ」
ゲームの進行は止まらない。大妖精は着実に滅びの一途を辿っていた。
止まらない、止まらない。
考えれば負けるのに考えてしまう。
負ける負ける。
「……今ので九段上だ大ちゃん。私がチョキかパーで勝ちぬけだ」
どうしようどうしよう。考えてもよくわからない。思考が定まらないのに不安だけが募って仕方がない。
もう闇が迫ってきて泣き出しそうだ。
早く終わって欲しい。
「あいこだ大ちゃん。さぁもう一回」
はぁはぁ。さっき九段だったから何を出しても同じ。それは自分から見た形。ルーミアから見ればリスクは存在する。でもそれが何かわからない。
駄目だ。闇に包まれる。
「私の勝ちだな。大ちゃん」
「うわっ! うわぁーーっ!」
ルーミアが段差を登った瞬間、辺りを覆う闇がいっそう色濃くなった。
目や口や鼻、そして体全体の皮膚から、猛烈な勢いで闇の気質が入り込んでいく。
まともに呼吸できない。
でもまだ生きている。
これが――闇の本質なのだろうか。
「ううっ、ううぅ……」
「苦しいのか大ちゃん? 大丈夫……、直ぐによくなるから……」
ルーミアの優しい声だけが共鳴して脳に響く。
このまま受け入れてしまいたかった。
そうすれば楽になれる。
ああ闇が、闇が!
(……ちゃん…………ちゃん! ……お願い返事してよ!)
闇に完全に同化しかける刹那、懐かしい誰かの声が聞こえた。
途端に目の前の暗がりが除かれ、さっと明るみを増す。
誰だろう?
「ふふふ、大ちゃんはいい友達を持ったな。羨ましいのか」
「……っと」
闇が入り込んだ頭を持ち上げてなんとか立つ。
体も既に真っ黒だが歩くことぐらいはできるらしい。
「これが最後の勝負だね。やるかい? 大ちゃん?」
「もちろんよルーミアちゃん」
大妖精はかろうじて思考を保って言った。
遠い石段の向こうにかすかな光が見えていた。
それが大妖精のわずかな希望だった。
あの光向かって歩けば自分は勝てる。
この闇から解放されて、そして――
「ようしその意気なのかー」
ルーミアの顔は暗くて見えなかったが、きっと笑っていると思った。
「じゃーん……けーん……ぽん……。……あーいこ……で…………しょ」
勝負は一進一退の様相を呈していた。
半ば闇に染まった思考は特に必然性を持たない。
登り登られつつ、必死で十三の距離の作り出そうと苦悶する。
はるか遠方に見える光はしだいに近づいていた。
重い足を持ち上げながら一歩一歩それに向かって踏み出す。
それは黒い海の道標となる高い湖畔の寂しい灯台。
その一筋の光でさえ今の大妖精には大きな希望であった。
「また私のリーチだ。このまま終わるのかな? 大ちゃん?」
「まだまだ、絶対勝って見せるわ」
「そうなのか、頑張るのか」
大妖精の意思はまだ終わってはいない。
決死の覚悟で投げた投網は意固地な岩石を捕らえた。
「大ちゃんは策士だな。もっと楽しもう」
「ええルーミアちゃん。私負けないわ」
両手に武器を構えた少女達の合戦は長引いた。
遠いと思われた灯台の光もその現実味を増していく。
剛直な鉄の拳は狡猾な断頭台を穿ち砕く。
形勢は混沌として、運命の針はどちらに傾くか未だ決めかねず、フラフラと揺れていた。
「……じゃ…………ぽーん……」
闇はもうすぐそこまで来ていた。
二人の声も黒に染み込んで消えていく。
「はぁ、はぁ……」
「残念だ大ちゃん」
気まぐれな鉄砲水で二人の勝負は急転直下で決していた。
激しいつばぜり合いで蓄積した水源は、ほんの微小の隙間から決壊して、堅牢な堤を突き崩す。
ついに大妖精は、わずかな足場から漆黒の海へと投げ出された。
水から口から浸入し喉と肺を侵していく。
もがけばもがくほどその暴虐は深まる。
ああなんてことだろう。
光はもう手の届く先にあるのに。
ごめんね、ごめんね――。
無言のルーミアの後ろ姿。
一歩一歩石段を駆け上がっていく。
既に十段を登っている。
十一段、十二段――。
二人の距離は永遠に縮まらない差であった。
「どうしたの……?」
ふいにルーミアが立ち止まっていた。
後一段足を踏み出せば全てが終わるのに。
「残念だけど、よかったよ大ちゃん」
「え……?」
ルーミアがくるりと振り返る。
その顔は天使のようだった。
「終点なんだ。勝負は引き分け――いや、私の負けかな」
「えっ、でも……私は負けたのに……」
大妖精は何のことか理解ができなかった。
光が徐々に満ち始めていた。
鬱積した闇の力が浄化され、妖精としての力を取り戻す。
「さよなら大ちゃん。遊んでくれて楽しかったのかー」
「待って、待ってルーミアちゃん……。私……」
手を伸ばそうとしても、光が邪魔をした。
重い緞帳が持ち上がるように、闇の力が薄れてゆく。
そして暗転。
目を見開くとチルノが真正面で喚いていた。
「おーいおーい! 大ちゃん! だーいちゃん! あっやっと気づいた!」
「チルノちゃん……?」
呆然として友人の顔を見つめた。泣き腫らしたチルノの顔。
大妖精はくるりと首を回転させる。西日は欠けて山陰に溶け込もうとしていた。ああ帰って来たんだな。自分が元いた世界――妖精が自由に謳歌するこの幻想郷に。
「もうっ、ちょっと目を離してたらルーミアがいなくなったんだ! そしたら大ちゃんが一人で口をパクパクさせて……。石段を登って……。何回も声をかけても無視してばっかり! あたい、大ちゃんがおかしくなったと思って……、ぐすっ……、ぐす……」
泣きじゃくるチルノ。
そうか――。
大妖精はそれなりに了解した。ルーミアとはもう二度と会うことはないのだろう。闇の世界はなくなってしまった。
それにしても――、後一歩、後一歩で自分はルーミアの闇を受け入れていたはずだった。
ルーミアの言った終点とは何を意味していたのだろう。
「大ちゃんもう帰ろうか? もう夜になっちゃうし……。大ちゃん? あー、またぼっとして……」
大妖精はチルノの背後を覗き込んだ。石段の終わり、終着点の博麗神社が悠然と居座っていた。
「そっか……。でも……? あっ……」
無意識に一歩踏み出していた。石段の感触を足にしっかと感じながら、ゆっくりと歩きだす。
「神社に何か用なのか?」
その問いには答えなかった。
「三、四……、五……、六…………」
一段一段数えながら終点へと近づく。
「九……、十……、十一……、十二……じゅ……」
段差があるものと錯覚して、振りあがった足はむなしく空を切った。着地点を取り違えてバランスを崩しながらも、博麗神社の石床をしっかりと確認した。
「十三段目は踏めなかったのねルーミアちゃん……。いえ、違うわ。一人だけ別の石段を……」
もの悲しい感慨に耽っていると、湿った風が頬を撫でた。
「もう帰ろうよ大ちゃん」
チルノがつまらなそうに言った。
「ええ帰りましょう、私達の世界へ」
忘れよう。考えなくていい。
結局は相成れない存在であったのだ。
後ろを振り返ると下りの石段は、深い地獄の入り口のように見えた。
この道は通らざるべき裏街道――。
二人の妖精はふわりと空気にまみれ、そして同化した。
闇が支配する世界はもう直ぐそこまで迫っていた。夜は妖怪の力が強まる。わざわざ相手有利の戦場で決闘する理由もない。
「はぁ……。今日も手がかりなしね」
「うむ……」
霊夢のため息に慧音が答える。確かな妖気だけは存在するものの、依然として妖怪の正体のわずかな手がかりさえつかめない。
「見つかるのは死体の山だけ。何のために調査しているかわからないわね」
そう、死体。今日見つけた少女の死体。あの損壊した体に霊夢はどこか見覚えがあった。昼間の内は特に気も留めなかったが、黒い服に金髪で、可愛げな赤いリボンを結わえた少女。
「ん……、んー?」
「どうかしたか?」
首を大げさに傾げて考え込むが、やはりわからない。リボンをつけた少女ぐらいいくらでもいる。それにあそこまで顔を潰されていては判別のしようがない。
「ううん、ただの気のせいよ。さっ今日はもう帰りましょ。いくら妖怪退治が専門といっても二十四時間労働はできないわ」
「そうだな……」
そう言った慧音の横顔は、どこか不気味で目にわずかな狂気が宿っているように見えた。
黒に染まりかけた木々がざわと音たてて、夜の到来を静かに告げた。
古ぼけた傘を差した少女が一人――傍目には幼い容姿で、妖怪である片鱗は微塵も感じさせない。
下駄を鳴らしてひた歩く。彼女は新たな快感に目覚めていた。
足取りは軽やかで、あどけない口から紡ぎ出される遠い昔の童歌――。
「通りゃんせー、通りゃんせー。子供はどこじゃ? 通りゃんせー。ここはどこの細通じゃ? 天神さまの細道じゃ? 否否、わちきのための細道じゃー。子供はみんな喰らいしゃんせー。ちっと通して下しゃんせー。邪魔する輩は頭からつま先まで齧りしゃんせー。……御用のないもの通しゃせぬ。お通りしゃんせは驚きしゃんせ。この子の七つのお祝いにー、お札を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい。それはわちきがいらしゃんせー。こわいながらも通りゃんせー、通りゃんせー。童の心は美味ししゃんせー。未だ知らざるはもったいないしゃんせー。よしよし、もっと美味しい顔を見せておくれ? 通りゃんせー。わちきに会ったが百年目ー。目に入った獲物は全て喰らいしゃんせー。皮膚を裂き指を折り、たいそう怖がらせてからいただきしゃんせー。通りゃんせ。通りゃんせー。ほほういと可愛い童がいらしゃんせー。これは襲わずにはいらしゃんせー。なんとめんこい! 黄金色の毛並みに紅色の結わえ、かわゆうてわちきの好みじゃ通りゃんせー。……面妖な、人の子にはありゃしゃんせ? さすれども驚き恐怖すれば五十歩百歩。切りしゃんせー、刺ししゃんせー。どうして驚かぬ? 泣き叫んで助けを求めしゃんせ? ああ不味い不味い。えい! えい! わちきの顔見て泣きしゃんせ。ほうまだ泣かぬ、泣かず喰わずはひとり者――。泣かぬなら、泣くまで潰せホトトギス? 潰しゃんせ、潰しゃんせ。生意気な童にはおしおきじゃ。潰しゃんせ、潰しゃんせ。何じゃ一度も甘い汁が吸えぬではないか。いらしゃんせ、いらしゃんせー。わちきさまのお通りしゃんせー。童はどこじゃ? 細道には鬼がいらしゃんせー。通りゃんせー、通りゃんせ…………」
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