
博麗霊夢は地霊殿でおでんの鍋を囲んでいた。
しかし不思議なのは、同じく鍋の周りにいるのが、あまり素性をよく知らぬ地底の住人であることだ。
古明地さとり、古明地こいしを両手に花のごとく従え、地獄烏の霊烏路空、妖怪猫のお燐が真正面に鎮座している。
何という四面楚歌、孤立無援の紅白巫女。
この状況になるのに大した説明はいらない。
それは八雲の大妖の一言で始まった。
「霊夢。おでんよ。地底でおでん。地霊殿でおでん!」
後はなすがままだった。気がつくと、こうしてぐつぐつ煮えたぎる鍋の前に、行儀よく正座していた。
実は八雲紫と霊夢以外にも、メンバーは四人ほどいたがここでは割愛する。
地霊殿の主人がおでんを振舞うと言ったのだ。何を躊躇う理由があろうか。鍋は二つあった。一つの鍋に十人も座って箸を突きあうのは、明らかに無粋である。
さとりはこう提案した。くじ引きで二組に分かれましょう、と。
厳正なる抽選の結果、現在の状況に至るわけである。
決して第三者やどこぞの神の意思があったわけではない。
博麗霊夢は普通にくじ引きをして、この席に座ったのである。
年季の入った土鍋から、湯気がもうもうと湧き上がる。
というかこれは湯気が出すぎだ。狭い部屋なのに換気もせずに息ぐるしい。
「どういう風の吹き回しからね。いきなりおでんなんて。それにこのメンバー、私だけ仲間はずれなんだけど……」
霊夢は口を曲げて不平を漏らした。六人で来たのに、一人だけこっちの鍋に入れられた。部屋は襖できっちりと仕切られていて、隣の部屋の様子はわからない。
「まぁまぁ霊夢さん。クジ引きの結果ですからね。大丈夫ですよ。私の妹もペットもとても気さくで打ち解けやすいんですよ。安心しておでんを楽しんでください」
さとりは数十年来の親友のような、限りなく優しい声で言った。湯気のせいか、心なしか目が潤んでいるように見える。
「いやいやいや。私はそんな人間関係に関して寛容じゃないから。そんな親しげに話しかけられても困るわ。人間と妖怪、これだけでも大きな隔たりがある。それに一回や二回弾幕ごっこしただけで、はい仲良くおでんでも食べましょうと言っても無理だわ」
「いえ、私は覚ですから霊夢さんのことをよくわかっています。それだけでもう友人ですわ。そして友人の妹とペットが鍋を囲む。これでみんな仲良しこよし、世界は平和になるのですわ」
「でも……」
さらに反論しようと思った時、さとりに指を触られた。冷たい指から体温を奪われる。体から精気を奪われるような、不思議な感覚が駆け巡る。
「ほらもう煮えていますよ。みんな、さっそく食べましょう」
さとりの鶴の一声だった。
「はーい、お姉ちゃん!」
「うにゅ。いただきまーす」
「頂きますさとり様」
霊夢の気も知らずに、こいしとペット達は鍋からおでんの具をよそい始めた。カチャカチャとうるさい食器の音が響く。
「霊夢さん。頂きますですよ。食事をする時は、これを作ってくれた人に感謝の気持ちをこめて、心から頂きますと言うのです。地底の皆さんが丹精こめて作った食材、それにこれを調理してくれたみんな、水橋さんやヤマメさんが奮闘してくれました。みんなの思いがたくさん詰まっているのです。このおでんは地底のみんなの総意、おもてなしの心なのですよ」
「ん……。頂きます。ありがたく頂戴するわ」
そこまで言われたら、食べないわけにはいかない。
地底のおでんとは不安に思っていたが、何のことはない、地上のそれと寸分違わない容姿である。大根こんにゃく卵厚揚げちくわを筆頭に、人参里芋はんぺんしらたきその他もろもろ。皿に並々と浸っただし汁が、透き通るほど、格調高い香りが鼻腔をくすぐり、その染み込んだ具を食べれば、じゅわっと熱い複雑妙味な味のオーケストラが、口内で奏でられそうである。
ごくりと霊夢はつばを飲み込んだ。見るからにこれは美味しいものだと、脳が即座に理解した。
誘われるように箸に手を伸ばす。
「あら」
霊夢は気づいた。自身は左ききだったので、箸を取る手も左手が当然だ。箸はあらかじめ、霊夢が取りやすいように置かれていた。
「ふふっ。ねっ、私にはわかるんですよ」
にんまりとさとりは笑った。
「ありがとうさとり。本当に美味しそうね、おでん」
少し嬉しかった。
「ええ。たんとおあがりになってください」
「それでねーあのねー」
「私卵大好きなんですよ。あー、私全部卵でも」
鍋はぐつぐつ音をたてている。隣のこいしは誰に話を聞かせているわけでもなく、一人で取り留めのないことを喋っている。お空は卵に夢中だ。一人お燐だけは、こちらの様子をじっと鋭い目で見てくる。今にも喰われてしまいそうな化け猫の目だった。
「ふぅ。とりあえずこんにゃくだけは確保したわ」
霊夢はこんにゃくが大好きだったので、一目散にそれを手に入れた。
おたまで苦労しながら三つほどすくった。湯気がいっぱいで目の前が白い。涙が出てけほけほと咳き込んだ。
「あら霊夢さん。こんにゃく三つだけですか? いけませんわそれでは。栄養が偏ってしまいますもの。どれ私がよそってあげましょう。霊夢さんのために選りすぐってあげますわ」
「ああいいのよ。こんにゃく食べたら適当にすくうから。それに私おかずはあんまりいらないし」
「そう言わずに。巫女の力を最大限に発揮するには栄養が必要です。好き嫌い言っては駄目ですよ。ささっ、遠慮なさらずに」
「いや、本当にいいから」
これでは子供みたいだと思った。霊夢は抵抗してみた。言いながら、こんにゃくを口に放り込もうとしたが、箸の先からつるんと滑って畳に落ちた。
「あらあら……。うふふ。霊夢さんは箸の使い方が下手ですわね。初めにきちんと教えられないから、間違ったままで通してしまいます。中指と薬指、いけませんわね」
「くっ……」
霊夢は顔が真っ赤になった。何だか馬鹿にされているような気分。ああもうこんな場所に来るんじゃなかった――。全く、いつもいつもあの紫のせいよ。
そんな霊夢の気も、本当は知っているのだが、そ知らぬ振りをして、さとりは霊夢の皿を具沢山に山盛りに飾り付けた。
「こんなに私食べられないわよ。小食だもの」
「まぁまぁそう言わずに」
柔和な笑み。優しい優しい包み込むような抱擁感。
「ありがとう、快く頂くわよ」
そう言わされた気がした。
大き目の半月型の大根に箸を伸ばす。さくっと切ると、だし汁がとめどなく溢れ出す。大根の切り口も煮崩れていなく、きりっと美しい形を保っていて、見るからに食欲をそそられる。素人目にも、この大根に施された仕事はたいそうなものであるとわかる。
「紅白さん! その大根私が種をまいたの。あ、畑を耕したのはお空よ」
こいしが快活そうに声をあげた。空がそれに呼応する。
「うん。私畑に卵植えましたから。きっと卵の木が生えてきますよ」
「ふふ。お空は今は卵のことしかないわね。霊夢さん。大根一つにもこれだけの手がかかっているのです。どうですか? 食べたらきっとほっぺが落ちますよ」
もういてもたってもいられなかった。
食べやすいように砕いて、熱々のまま口に放りこむ。
「ほふっ、ほふっ」
熱い。口から湯気が吹き出る。
これは何とも形容し難い味だった。
言うならば――地底の鼓動。核熱の力を一点にねじ込めたような、凄まじい爆発力を兼ね備えた固形物。
「ふぅ……」
「美味しかったですか?」
間髪いれずさとりが聞いてくる。
「すごかったわ。こんな美味しい大根は私食べたことないし」
「裕福ですのに、それはご謙遜ですわね」
「いやいや、本当に。私は料理に無頓着だからいつも適当で」
「そうですか。ふふっ」
心を読まれていることも、いつしか忘れていたように思う。
この一部屋の空間に、妙な一体感を感じていた。
「霊夢さん。里芋美味しいですよ? 食べませんか?」
「えっ、ああ、うん……」
誘導されるようにして、里芋に箸を伸ばす。
うむ。これは中々どうして。ほっこりとして丸々とよく実っている。
「私里芋だーい好き。おでんの中で一番好きなの」
こいしが箸を持ったまま手をあげた。
「こらこら。お行儀が悪いですよ。こいし」
とさとりが優しくたしなめた。
「じゃあ次は里芋にしようかしら」
箸でつまもうとしたが、うまくいかない。霊夢は迷わず刺した。その様子をさとりが横目で笑っていた。人間うまくできないものは別の手段で対処するしかない。
「あむっ」
もっちりとした食感が口内に広がる。芋全体に均一に熱が通っていて温かい。それでいて味もたっぷりと染み込んでいる。しかし特筆すべき点は、やはりこの食感だろうか。噛めば噛むほど、心地よい舌ざわりと歯ざわりが脳を楽しませる。
「あっ、これ美味しい……」
少々陶然して霊夢は言った。
頬が紅潮しているのがわかった。先の大根と里芋しか食べていないのに、腹の底から全身に熱が伝わっていく。それは血となり骨となり肉となり、隅々まで良質な栄養素として体を巡ると思われた。
「お喜び頂いて、とても嬉しゅう存じますわ。おほほ」
さとりは急に畏まって言った。口元に手を当てて笑う仕草が妙に可愛らしい。
「さてもう一つどうですか?」
箸の先には里芋があった。それは霊夢の口元まで一瞬で接近する。
これは、まさか。
「ちょ、ちょっとやめてよ」
「霊夢さん、ああーんしてください。ほらあーん」
いくら何でもこれはない。まるで幼児のような扱いである。
霊夢はいやよいやよと首を必死に振って、抵抗の意を示した。
「あーーん」
必死で退けようとした。
頬に唇に熱い物が押付けられる。
「やめ、あち、熱いったらもう!」
「恥ずかしがらなくていいのですよ? 私と霊夢さんの仲ですから」
「どんな仲よ!」
霊夢は立ち上がり逃亡を試みた。
そんな様子を、ずっと無言で、細目で凝視していたお燐が、突然生真面目な顔で口を開いた。
「お二人ともまるで恋人みたいですね!」
時が止まった。
石のように空間が固まるのがわかった。
続いてお燐は、隣の空をひじでこづいた。
「うにゅ? 何お燐? え?」
空は大きく息を吸う。
「おお、お、お、お? コイビト……コイビトですね!」
二人のペットの言葉を聞いたさとりは、悩ましげに腰をくねらせた。そして両手を頬に当て目をつぶる。
「あらっ、嫌ですわあなた達。そんなの霊夢さんに失礼でしょう? 私と霊夢さんが……だなんてそんな」
霊夢はしばし呆けた。絶対に言わせた癖に何が恋人か。第一女同士で恋人も何もない。巫女にそんな趣味はない。断じてない。
「お姉ちゃんと紅白さんはお似合い。とっても素敵なお似合いのカップル!」
ついにこいしも加勢した。誠に多数決というのは末恐ろしい。
「まぁこいしまで。ふふふ。駄目ですよ。大人をからかうもんじゃありません」
「うぇーっ。お姉ちゃんおとな?」
大げさに目を丸くするこいし。
「もういいから。恋人ごっこはこれくらいにしてよね」
霊夢はやっと割って入った。
「……霊夢さん? ごっこじゃありませんよこれは? ふふっ。ほら……んーっ。新郎新婦入場……誓いの口付けを……ん――」
「うわ……」
同性に口付けを迫られるなどとは、至極おこがましい。
後ずさりして距離を取る。どうしてこんな目にあうのだろうか。確かおでんを食べに来たはずなのに。それだけなのにどうして。
「そうだ! もうお二人とも結婚したらいいじゃないですか? 式場はどうしましょうか? 披露宴は? さぁ忙しくなりますよ?」
お燐がにやりと笑って手を叩いた。この化け猫妖怪は油断がならない。後で相応の制裁を。しかし今はさとりに迫られている現状を、どうにかしなければならない。
「こっ、来ないで。私にはもう心に決めた人がいるのよ!」
慌てて出任せで言ってみた。だがこの発言は、全くの無意味だと霊夢は知ることになる。相手は他人の心に鋭敏に反応する覚妖怪。
さとりは卑屈な笑みを漏らした。
「あら嘘はいけませんわね。おしおきですわ霊夢さん。嘘つきは地獄で閻魔様に舌を抜かれるのです。でもその前に、私が味見してあげますわね……」
「ど、どうしてそうなるのよ!」
「あーんっ。ほらほら」
色っぽい顔でにじり寄られた。
駄目だ、いけない。ここで負けたら一生をふいにすることになるのだ。
ここは何としてでも踏みとどまるべきだ。
「ねぇもしお姉ちゃんと紅白さんが結婚したらさぁ。紅白さんは私の義姉ちゃんになるの?」
突然こいしがあっけらかんと言った。
「ええそうよこいし。霊夢義姉ちゃん」
「わーい、お姉ちゃんが二人になったぁ! 嬉しいなったら嬉しいなっと。らん、らんらん♪」
「うふふ。これから楽しくなるわねこいし」
「ちょっとちょっとぉー!」
覚姉妹が手を合わせてダンスを踊っている。霊夢は口を挟まずにはいられなかった。
「いい? 私は博麗の巫女だから。ずっと孤独に生きる運命なのよ。はたから見ればつながったように見えても心は孤独なのよ。わかる? 博麗ってのは絶対的なのよ……それを……」
「ふふっ誰が言ったんですのそれ? 小難しいことはいいから、今はこの場を楽しみましょう。ねぇこいし? お燐お空?」
地霊殿主人が周りに呼びかける。
「はーいお姉ちゃん」
「はいなさとり様!」
「うー、うにゅにゅ」
卵を頬張ったままだったので、空は言葉にならなかった。
「いやいや、女同士で結婚もないでしょう。常識はずれもいいとこよ」
「んもう霊夢さんたら……この期に及んでそんなことで悩んでらしたの? 私は覚ですからその点は問題ないですわ」
「い意味がわからないから! 私はにに人間だから……」
「ふふ……」
さとりはにやけたまま、ナメクジのようににじり寄ってくる。おのれ妖怪、このまま捕まって溶かされてなるものか。
「よ、寄らないでよ。た、叩き潰すわよ!」
霊夢は戦闘態勢を整えた。敵は抹殺するべきのみだ。
「ふふっ。霊夢さん、自分に正直になってください……。本当は……ねっ?」
意味ありげにさとりが囁く。
「お義姉ちゃん」
そう言われてぐらりと意思が揺らいだ。
「こいし。霊夢さんにきいていますわよ。もっと言ってあげるのです」
「ああ……。やめてやめて」
「はーいお姉ちゃん。霊夢義姉ちゃん好き好きぃ……」
後ろからこいしがぎゅっと抱きついてくる。前からはさとりにふぁさと覆われる。
華奢な姉妹の体は、押し返すにはもったいなかった。否が応にもその軽い体重を受け止めてしまう。
「あらあら……やっと大人しくなりましたね。……ん……ちゅっ」
「だ……め……」
頬にキスをされると、意識が途切れそうになる。
なんとか、なんとかしなければ。
「さぁ結婚しましょう霊夢さん」
「わーい義姉ちゃん」
「末永くお幸せに」
「うにゅー。うにゅうにゅ!」
もう駄目だと思った。手足の力も抜けて自由がきかない。誘惑の言葉をレジストできずに直に受け入れてしまう。
「む……ああ……」
「霊夢さん……私の目を見てください」
さとりの目が妖しく光った。吸い込まれるようにぼんやりと遠い、眼球の奥のそのまた深淵、その滲み具合は泥濘のように温い。
「ふふっ」
口の端が釣りあがる。ふっくらとした柔らかそうな桜色の唇。
その時だった。
「おーすさとり! 飲もう飲もう!」
はっと意識が舞い戻った。この声の主は、確か鬼の星熊勇儀だ。
「あら……勇儀さん。あなたって本当に空気読まないんですわね」
「いいから飲もうよ。私を差し置いて宴会なんてさせないよ。さぁさぁ今日は無礼講。上の奴らと飲み交わしたい気分だからさ。さぁ博麗の巫女よ。景気づけに一杯いっときな!」
霊夢は畳にぐったり倒れこんでいた。そして即座に首ねっこをつかまれて、上体を起こされる。さとりの攻めからは逃れたが、今度は鬼に絡まれた。
「いけるんだろ? ほらぐーっと一つ」
大きな盃を手渡される。鬼は正直者。決して嘘はつかない。しかしそれを唱えたのは鬼だろうか嘘をつく人間だろうか。
いやそれも今やどうでもいい。踏んだり蹴ったりの大被害。この気持ちをどこにぶつければいいのか。
「博麗霊夢、ご一献承ります」
もうやけだった。
「おう、若いものはいいねぇ。そうでなくちゃ! ははは!」
並々と注がれた液体を、一気に飲み干した。
世界が揺れる、ぐらぐらと。
宴もたけなわ。
霊夢は酒をたらふく飲み干し、おでんを腹いっぱい詰め込んだ。満腹感というのは至高の充足感が得られる。人間は食べられなくなったら終わり。食べることは良いこと。腹八分目というが、今は腹十二分目まで入れなければ気が済まなかった。
「あふーん。霊夢さん……」
誰かが肩に頭を乗せてきたと思ったらさとりだった。満腹すぎて気持ち悪いのに、今は誰もそばにこないで欲しかった。
「私酔っちゃったぁ……」
無言でいるとそう声をかけてきた。
「酔うも何も、あんたは一滴もお酒飲んでないじゃない。下戸なんでしょ?」
「ふふ。確かに私飲んでませんが……。ねっ、私……雰囲気に酔っちゃった……はぁーん……」
「全く……」
お腹いっぱいなので動けない。それを見越してかわき腹をつんつんされる。それがたまらなくくすぐったい。
「何よ、さとり。私あんたなんかの家族にならないから」
「霊夢さんは往生際が悪いんですね。私がよくわかるように説明してあげます。見て下さいこのおでん……」
酔ったというのはやはり振りだけだったらしい。さとりは急に饒舌になり始めた。
「おでんは古今東西、多種多様の具を一緒の鍋で煮込みますわね。姿形も全然違うものもあります。でも同じ汁で一緒に長時間煮込めばあら不思議、一つの料理として非常に調和のとれたものとなるのです」
「それは……まぁ……」
「おでんに入れば丸くなる。おでんは家族、ここは地霊殿。おでんは地霊殿。おでん地霊殿。朱に交われば赤くなる。付和雷同、郷に入っては郷に従え。霊夢さんと私は家族。全てを分かりえる、大切な絆で結ばれた家族――」
まただ。まだ洗脳を諦めていないらしい。しかし動けないのでどうしようもない。
「人間と――」
「妖怪が――」
こいしとお燐が前に立つ。まるで学芸会のような演技だ。
「手を取り合い」
「一つになる」
「それは素敵」
「それは素晴らしい」
「私達は――」
「分かり合える」
パチパチとさとりが拍手した。
「まぁあなた達。私は可愛い妹と従者を持って幸せですよ」
「はぁ」
霊夢は酒臭い息を吐いた。もう何が何やら混乱して訳がわからない。
「さぁ」
さとりが白く細い手を差し伸べてきた。まるでバレリーナの手を取るように。さとりは男役でも鮮烈で穢れのない超存在であった。
半ば強制的に恍惚状態にされ、思わず手を伸ばしてしまう。
後少し――。
しかし、無骨な闖入者は再び現る。
「さぁー私を捕まえてごらんなさい! おほほほほほ!」
「ゆ、幽々子様、どうかお止めください! 恥ずかしくないんですかそんな格好で。ご乱心ご乱心! 幽々子様のご乱心。誰か、誰かぁ――」
固い襖が突き破られていた。興奮して叫び声をあげているのは西行寺幽々子。酒が入りすぎているのか、頬は紅潮している。幽霊でも紅潮している。着物は盛大に乱れ半裸の状態だ。それを魂魄妖夢が必死の形相で追いかけている。
「地上の方は楽しそうで何よりですわね。ふふふ」
さとりが何故か寂しそうに言った。周りの景色がすうっと変わる心地がする。
もやもやとした白い霧が晴れた。と同時に、脳の思考回路も正常に運行される。
「はぁ……助かった」
遠くでは空と勇儀がプロレスをしていた。実に楽しそうである。
「れっ、霊夢――」
後ろから声をかけられる。
誰かと思ったら、このおでん鍋に誘った張本人、八雲紫だ。今まで一体何をしていたのだろう。どうせ紫のことだからぐだぐだと管を巻いていたに違いない。
「ごめんなさいね霊夢。もうゆかりんあなたのことを絶対に離さないわ。ほらーむにむにー」
いきなり頬擦りをされた。非常に酒臭い。これは並大抵の量ではない。
「ゆ、紫……ちょ、離れて、苦しい」
「駄目よ霊夢。ずっとこのままで……」
「む……」
もう臭いにも慣れて頭がぼんやりする。どうせ酒の勢いに任せてこんなことをするのだろう。それでもぬくもりが暖かかった。
「霊夢、チュウ♪ ほら、お返しに、ここ」
化粧の崩れた顔でキスをされる。ぬめっとした舌を刺しこむように押付けられる。
そして何を要求しているのだろう。いい加減、その場の勢いというのも限度がある。
「もう……やめてよ」
何とか紫のキス範囲から逃れおおせた。
ふと顔を上げると、さとりが優しい目で見下ろしていた。側近の二人の恨めしそうな顔、それとは対照的にとても光輝いて見えた。
紆余曲折の末、地霊殿おでん会は何事もなく終了した。宴の後というものは物寂しい。
古明地さとりの計画した、博麗霊夢をおでんを食べながら家族にしてしまおう作戦は、結果的には失敗してしまった。それでもさとりは気分がよかった。愛する霊夢とひと時の間でも肌を付き合わせたからだ。
「みんな帰ってしまいましたね。寂しいですけど……さっ後かたづけですね」
ぽつりと言った。畳の上にごろりと横になって、寝息を立てている鬼とお空。本当に子供ように幸せな笑顔だ。
「あーあ、もうちょっとでしたのに。もぉーさとり様ったら優しいんですよ」
「そうそう、お姉ちゃんったら優しい」
食器をかたしながらお燐とこいしが言った。
「ふふふ。だって彼女は人間だもの。段階を踏まなければいけないわ。初めからがつがついっては拒否されてしまいますもの」
「いえいえ、人間なんて押し倒して噛み付いてやればいいんですよ! ひひひっ、そうすれば大人しくなりますって! ……こらお空! あんたも片付け手伝うんだよ!」
お燐が寝ている空のわき腹を蹴った。しかし微動だにしない。
「そう……首筋にちょっと爪をたてて……、血をぴゅーって出してあげるだけで、あはは! あのねお姉ちゃん、私、いつでもお姉ちゃんのために紅白さんを連れてきてあげるよ? 今でもいいよ? だって私のお姉ちゃんなんだもの」
「あらありがとうこいし。でもいいのよ。お姉ちゃんはその気持ちだけで十分」
「ふーん。へーぇ、そーぉ?」
こいしはまだ無鉄砲すぎていけないと思った。無意識は時には仇となる。
「ふーぅ」
さとりは洗い物の手を止めて、分かりやすくため息をついた。
「どうしたんですかさとり様? 悩みなら私が何でも聞きますよ」
「そうよお姉ちゃん」
なんて扱いやすい子達だと思う。押しなべて従順で、自分の意思で行動しているように見えても、その実は絶対的な支配下にある。
「私、今回で霊夢さんに嫌われちゃったかしら? あんなにぶしつけに迫ったものね。ええ、私はきっと嫌われてしまったわね。もう一生口を聞いてくれないかも……しくしく……」
「そんなことないですよさとり様」
「そうよお姉ちゃん」
反射するように声がかかる。
「で、でも……私こんなんだし……」
「元気出して下さいよさとり様。私達がいるじゃないですか! さとり様は世界で一番素敵ですよ」
「そうよお姉ちゃん。私がいるもの」
「……さとり様はぁ、卵ですよー」
何かに反応したのか、空も寝言で返した。
「うふふ。そう言ってくれて嬉しいわね。やっぱりあなた達は最高の家族よ」
「さとり様」
「お姉ちゃん」
「しょうがないわね。それなら私、もう少し頑張ってみようかしら」
「きっと今度は成功しますよ」
「お姉ちゃんならきっと」
さとりは笑った。こんなにも暖かく声をかけてくれる、そんな存在がいて自分はとても幸せだと思う。熱ぼったい目で見つめてくる二人に、敬意を払って微笑み返す。
「家族っていいわね」
「ええそうですとも!」
「うん!」
地霊殿は一つである。
しかし不思議なのは、同じく鍋の周りにいるのが、あまり素性をよく知らぬ地底の住人であることだ。
古明地さとり、古明地こいしを両手に花のごとく従え、地獄烏の霊烏路空、妖怪猫のお燐が真正面に鎮座している。
何という四面楚歌、孤立無援の紅白巫女。
この状況になるのに大した説明はいらない。
それは八雲の大妖の一言で始まった。
「霊夢。おでんよ。地底でおでん。地霊殿でおでん!」
後はなすがままだった。気がつくと、こうしてぐつぐつ煮えたぎる鍋の前に、行儀よく正座していた。
実は八雲紫と霊夢以外にも、メンバーは四人ほどいたがここでは割愛する。
地霊殿の主人がおでんを振舞うと言ったのだ。何を躊躇う理由があろうか。鍋は二つあった。一つの鍋に十人も座って箸を突きあうのは、明らかに無粋である。
さとりはこう提案した。くじ引きで二組に分かれましょう、と。
厳正なる抽選の結果、現在の状況に至るわけである。
決して第三者やどこぞの神の意思があったわけではない。
博麗霊夢は普通にくじ引きをして、この席に座ったのである。
年季の入った土鍋から、湯気がもうもうと湧き上がる。
というかこれは湯気が出すぎだ。狭い部屋なのに換気もせずに息ぐるしい。
「どういう風の吹き回しからね。いきなりおでんなんて。それにこのメンバー、私だけ仲間はずれなんだけど……」
霊夢は口を曲げて不平を漏らした。六人で来たのに、一人だけこっちの鍋に入れられた。部屋は襖できっちりと仕切られていて、隣の部屋の様子はわからない。
「まぁまぁ霊夢さん。クジ引きの結果ですからね。大丈夫ですよ。私の妹もペットもとても気さくで打ち解けやすいんですよ。安心しておでんを楽しんでください」
さとりは数十年来の親友のような、限りなく優しい声で言った。湯気のせいか、心なしか目が潤んでいるように見える。
「いやいやいや。私はそんな人間関係に関して寛容じゃないから。そんな親しげに話しかけられても困るわ。人間と妖怪、これだけでも大きな隔たりがある。それに一回や二回弾幕ごっこしただけで、はい仲良くおでんでも食べましょうと言っても無理だわ」
「いえ、私は覚ですから霊夢さんのことをよくわかっています。それだけでもう友人ですわ。そして友人の妹とペットが鍋を囲む。これでみんな仲良しこよし、世界は平和になるのですわ」
「でも……」
さらに反論しようと思った時、さとりに指を触られた。冷たい指から体温を奪われる。体から精気を奪われるような、不思議な感覚が駆け巡る。
「ほらもう煮えていますよ。みんな、さっそく食べましょう」
さとりの鶴の一声だった。
「はーい、お姉ちゃん!」
「うにゅ。いただきまーす」
「頂きますさとり様」
霊夢の気も知らずに、こいしとペット達は鍋からおでんの具をよそい始めた。カチャカチャとうるさい食器の音が響く。
「霊夢さん。頂きますですよ。食事をする時は、これを作ってくれた人に感謝の気持ちをこめて、心から頂きますと言うのです。地底の皆さんが丹精こめて作った食材、それにこれを調理してくれたみんな、水橋さんやヤマメさんが奮闘してくれました。みんなの思いがたくさん詰まっているのです。このおでんは地底のみんなの総意、おもてなしの心なのですよ」
「ん……。頂きます。ありがたく頂戴するわ」
そこまで言われたら、食べないわけにはいかない。
地底のおでんとは不安に思っていたが、何のことはない、地上のそれと寸分違わない容姿である。大根こんにゃく卵厚揚げちくわを筆頭に、人参里芋はんぺんしらたきその他もろもろ。皿に並々と浸っただし汁が、透き通るほど、格調高い香りが鼻腔をくすぐり、その染み込んだ具を食べれば、じゅわっと熱い複雑妙味な味のオーケストラが、口内で奏でられそうである。
ごくりと霊夢はつばを飲み込んだ。見るからにこれは美味しいものだと、脳が即座に理解した。
誘われるように箸に手を伸ばす。
「あら」
霊夢は気づいた。自身は左ききだったので、箸を取る手も左手が当然だ。箸はあらかじめ、霊夢が取りやすいように置かれていた。
「ふふっ。ねっ、私にはわかるんですよ」
にんまりとさとりは笑った。
「ありがとうさとり。本当に美味しそうね、おでん」
少し嬉しかった。
「ええ。たんとおあがりになってください」
「それでねーあのねー」
「私卵大好きなんですよ。あー、私全部卵でも」
鍋はぐつぐつ音をたてている。隣のこいしは誰に話を聞かせているわけでもなく、一人で取り留めのないことを喋っている。お空は卵に夢中だ。一人お燐だけは、こちらの様子をじっと鋭い目で見てくる。今にも喰われてしまいそうな化け猫の目だった。
「ふぅ。とりあえずこんにゃくだけは確保したわ」
霊夢はこんにゃくが大好きだったので、一目散にそれを手に入れた。
おたまで苦労しながら三つほどすくった。湯気がいっぱいで目の前が白い。涙が出てけほけほと咳き込んだ。
「あら霊夢さん。こんにゃく三つだけですか? いけませんわそれでは。栄養が偏ってしまいますもの。どれ私がよそってあげましょう。霊夢さんのために選りすぐってあげますわ」
「ああいいのよ。こんにゃく食べたら適当にすくうから。それに私おかずはあんまりいらないし」
「そう言わずに。巫女の力を最大限に発揮するには栄養が必要です。好き嫌い言っては駄目ですよ。ささっ、遠慮なさらずに」
「いや、本当にいいから」
これでは子供みたいだと思った。霊夢は抵抗してみた。言いながら、こんにゃくを口に放り込もうとしたが、箸の先からつるんと滑って畳に落ちた。
「あらあら……。うふふ。霊夢さんは箸の使い方が下手ですわね。初めにきちんと教えられないから、間違ったままで通してしまいます。中指と薬指、いけませんわね」
「くっ……」
霊夢は顔が真っ赤になった。何だか馬鹿にされているような気分。ああもうこんな場所に来るんじゃなかった――。全く、いつもいつもあの紫のせいよ。
そんな霊夢の気も、本当は知っているのだが、そ知らぬ振りをして、さとりは霊夢の皿を具沢山に山盛りに飾り付けた。
「こんなに私食べられないわよ。小食だもの」
「まぁまぁそう言わずに」
柔和な笑み。優しい優しい包み込むような抱擁感。
「ありがとう、快く頂くわよ」
そう言わされた気がした。
大き目の半月型の大根に箸を伸ばす。さくっと切ると、だし汁がとめどなく溢れ出す。大根の切り口も煮崩れていなく、きりっと美しい形を保っていて、見るからに食欲をそそられる。素人目にも、この大根に施された仕事はたいそうなものであるとわかる。
「紅白さん! その大根私が種をまいたの。あ、畑を耕したのはお空よ」
こいしが快活そうに声をあげた。空がそれに呼応する。
「うん。私畑に卵植えましたから。きっと卵の木が生えてきますよ」
「ふふ。お空は今は卵のことしかないわね。霊夢さん。大根一つにもこれだけの手がかかっているのです。どうですか? 食べたらきっとほっぺが落ちますよ」
もういてもたってもいられなかった。
食べやすいように砕いて、熱々のまま口に放りこむ。
「ほふっ、ほふっ」
熱い。口から湯気が吹き出る。
これは何とも形容し難い味だった。
言うならば――地底の鼓動。核熱の力を一点にねじ込めたような、凄まじい爆発力を兼ね備えた固形物。
「ふぅ……」
「美味しかったですか?」
間髪いれずさとりが聞いてくる。
「すごかったわ。こんな美味しい大根は私食べたことないし」
「裕福ですのに、それはご謙遜ですわね」
「いやいや、本当に。私は料理に無頓着だからいつも適当で」
「そうですか。ふふっ」
心を読まれていることも、いつしか忘れていたように思う。
この一部屋の空間に、妙な一体感を感じていた。
「霊夢さん。里芋美味しいですよ? 食べませんか?」
「えっ、ああ、うん……」
誘導されるようにして、里芋に箸を伸ばす。
うむ。これは中々どうして。ほっこりとして丸々とよく実っている。
「私里芋だーい好き。おでんの中で一番好きなの」
こいしが箸を持ったまま手をあげた。
「こらこら。お行儀が悪いですよ。こいし」
とさとりが優しくたしなめた。
「じゃあ次は里芋にしようかしら」
箸でつまもうとしたが、うまくいかない。霊夢は迷わず刺した。その様子をさとりが横目で笑っていた。人間うまくできないものは別の手段で対処するしかない。
「あむっ」
もっちりとした食感が口内に広がる。芋全体に均一に熱が通っていて温かい。それでいて味もたっぷりと染み込んでいる。しかし特筆すべき点は、やはりこの食感だろうか。噛めば噛むほど、心地よい舌ざわりと歯ざわりが脳を楽しませる。
「あっ、これ美味しい……」
少々陶然して霊夢は言った。
頬が紅潮しているのがわかった。先の大根と里芋しか食べていないのに、腹の底から全身に熱が伝わっていく。それは血となり骨となり肉となり、隅々まで良質な栄養素として体を巡ると思われた。
「お喜び頂いて、とても嬉しゅう存じますわ。おほほ」
さとりは急に畏まって言った。口元に手を当てて笑う仕草が妙に可愛らしい。
「さてもう一つどうですか?」
箸の先には里芋があった。それは霊夢の口元まで一瞬で接近する。
これは、まさか。
「ちょ、ちょっとやめてよ」
「霊夢さん、ああーんしてください。ほらあーん」
いくら何でもこれはない。まるで幼児のような扱いである。
霊夢はいやよいやよと首を必死に振って、抵抗の意を示した。
「あーーん」
必死で退けようとした。
頬に唇に熱い物が押付けられる。
「やめ、あち、熱いったらもう!」
「恥ずかしがらなくていいのですよ? 私と霊夢さんの仲ですから」
「どんな仲よ!」
霊夢は立ち上がり逃亡を試みた。
そんな様子を、ずっと無言で、細目で凝視していたお燐が、突然生真面目な顔で口を開いた。
「お二人ともまるで恋人みたいですね!」
時が止まった。
石のように空間が固まるのがわかった。
続いてお燐は、隣の空をひじでこづいた。
「うにゅ? 何お燐? え?」
空は大きく息を吸う。
「おお、お、お、お? コイビト……コイビトですね!」
二人のペットの言葉を聞いたさとりは、悩ましげに腰をくねらせた。そして両手を頬に当て目をつぶる。
「あらっ、嫌ですわあなた達。そんなの霊夢さんに失礼でしょう? 私と霊夢さんが……だなんてそんな」
霊夢はしばし呆けた。絶対に言わせた癖に何が恋人か。第一女同士で恋人も何もない。巫女にそんな趣味はない。断じてない。
「お姉ちゃんと紅白さんはお似合い。とっても素敵なお似合いのカップル!」
ついにこいしも加勢した。誠に多数決というのは末恐ろしい。
「まぁこいしまで。ふふふ。駄目ですよ。大人をからかうもんじゃありません」
「うぇーっ。お姉ちゃんおとな?」
大げさに目を丸くするこいし。
「もういいから。恋人ごっこはこれくらいにしてよね」
霊夢はやっと割って入った。
「……霊夢さん? ごっこじゃありませんよこれは? ふふっ。ほら……んーっ。新郎新婦入場……誓いの口付けを……ん――」
「うわ……」
同性に口付けを迫られるなどとは、至極おこがましい。
後ずさりして距離を取る。どうしてこんな目にあうのだろうか。確かおでんを食べに来たはずなのに。それだけなのにどうして。
「そうだ! もうお二人とも結婚したらいいじゃないですか? 式場はどうしましょうか? 披露宴は? さぁ忙しくなりますよ?」
お燐がにやりと笑って手を叩いた。この化け猫妖怪は油断がならない。後で相応の制裁を。しかし今はさとりに迫られている現状を、どうにかしなければならない。
「こっ、来ないで。私にはもう心に決めた人がいるのよ!」
慌てて出任せで言ってみた。だがこの発言は、全くの無意味だと霊夢は知ることになる。相手は他人の心に鋭敏に反応する覚妖怪。
さとりは卑屈な笑みを漏らした。
「あら嘘はいけませんわね。おしおきですわ霊夢さん。嘘つきは地獄で閻魔様に舌を抜かれるのです。でもその前に、私が味見してあげますわね……」
「ど、どうしてそうなるのよ!」
「あーんっ。ほらほら」
色っぽい顔でにじり寄られた。
駄目だ、いけない。ここで負けたら一生をふいにすることになるのだ。
ここは何としてでも踏みとどまるべきだ。
「ねぇもしお姉ちゃんと紅白さんが結婚したらさぁ。紅白さんは私の義姉ちゃんになるの?」
突然こいしがあっけらかんと言った。
「ええそうよこいし。霊夢義姉ちゃん」
「わーい、お姉ちゃんが二人になったぁ! 嬉しいなったら嬉しいなっと。らん、らんらん♪」
「うふふ。これから楽しくなるわねこいし」
「ちょっとちょっとぉー!」
覚姉妹が手を合わせてダンスを踊っている。霊夢は口を挟まずにはいられなかった。
「いい? 私は博麗の巫女だから。ずっと孤独に生きる運命なのよ。はたから見ればつながったように見えても心は孤独なのよ。わかる? 博麗ってのは絶対的なのよ……それを……」
「ふふっ誰が言ったんですのそれ? 小難しいことはいいから、今はこの場を楽しみましょう。ねぇこいし? お燐お空?」
地霊殿主人が周りに呼びかける。
「はーいお姉ちゃん」
「はいなさとり様!」
「うー、うにゅにゅ」
卵を頬張ったままだったので、空は言葉にならなかった。
「いやいや、女同士で結婚もないでしょう。常識はずれもいいとこよ」
「んもう霊夢さんたら……この期に及んでそんなことで悩んでらしたの? 私は覚ですからその点は問題ないですわ」
「い意味がわからないから! 私はにに人間だから……」
「ふふ……」
さとりはにやけたまま、ナメクジのようににじり寄ってくる。おのれ妖怪、このまま捕まって溶かされてなるものか。
「よ、寄らないでよ。た、叩き潰すわよ!」
霊夢は戦闘態勢を整えた。敵は抹殺するべきのみだ。
「ふふっ。霊夢さん、自分に正直になってください……。本当は……ねっ?」
意味ありげにさとりが囁く。
「お義姉ちゃん」
そう言われてぐらりと意思が揺らいだ。
「こいし。霊夢さんにきいていますわよ。もっと言ってあげるのです」
「ああ……。やめてやめて」
「はーいお姉ちゃん。霊夢義姉ちゃん好き好きぃ……」
後ろからこいしがぎゅっと抱きついてくる。前からはさとりにふぁさと覆われる。
華奢な姉妹の体は、押し返すにはもったいなかった。否が応にもその軽い体重を受け止めてしまう。
「あらあら……やっと大人しくなりましたね。……ん……ちゅっ」
「だ……め……」
頬にキスをされると、意識が途切れそうになる。
なんとか、なんとかしなければ。
「さぁ結婚しましょう霊夢さん」
「わーい義姉ちゃん」
「末永くお幸せに」
「うにゅー。うにゅうにゅ!」
もう駄目だと思った。手足の力も抜けて自由がきかない。誘惑の言葉をレジストできずに直に受け入れてしまう。
「む……ああ……」
「霊夢さん……私の目を見てください」
さとりの目が妖しく光った。吸い込まれるようにぼんやりと遠い、眼球の奥のそのまた深淵、その滲み具合は泥濘のように温い。
「ふふっ」
口の端が釣りあがる。ふっくらとした柔らかそうな桜色の唇。
その時だった。
「おーすさとり! 飲もう飲もう!」
はっと意識が舞い戻った。この声の主は、確か鬼の星熊勇儀だ。
「あら……勇儀さん。あなたって本当に空気読まないんですわね」
「いいから飲もうよ。私を差し置いて宴会なんてさせないよ。さぁさぁ今日は無礼講。上の奴らと飲み交わしたい気分だからさ。さぁ博麗の巫女よ。景気づけに一杯いっときな!」
霊夢は畳にぐったり倒れこんでいた。そして即座に首ねっこをつかまれて、上体を起こされる。さとりの攻めからは逃れたが、今度は鬼に絡まれた。
「いけるんだろ? ほらぐーっと一つ」
大きな盃を手渡される。鬼は正直者。決して嘘はつかない。しかしそれを唱えたのは鬼だろうか嘘をつく人間だろうか。
いやそれも今やどうでもいい。踏んだり蹴ったりの大被害。この気持ちをどこにぶつければいいのか。
「博麗霊夢、ご一献承ります」
もうやけだった。
「おう、若いものはいいねぇ。そうでなくちゃ! ははは!」
並々と注がれた液体を、一気に飲み干した。
世界が揺れる、ぐらぐらと。
宴もたけなわ。
霊夢は酒をたらふく飲み干し、おでんを腹いっぱい詰め込んだ。満腹感というのは至高の充足感が得られる。人間は食べられなくなったら終わり。食べることは良いこと。腹八分目というが、今は腹十二分目まで入れなければ気が済まなかった。
「あふーん。霊夢さん……」
誰かが肩に頭を乗せてきたと思ったらさとりだった。満腹すぎて気持ち悪いのに、今は誰もそばにこないで欲しかった。
「私酔っちゃったぁ……」
無言でいるとそう声をかけてきた。
「酔うも何も、あんたは一滴もお酒飲んでないじゃない。下戸なんでしょ?」
「ふふ。確かに私飲んでませんが……。ねっ、私……雰囲気に酔っちゃった……はぁーん……」
「全く……」
お腹いっぱいなので動けない。それを見越してかわき腹をつんつんされる。それがたまらなくくすぐったい。
「何よ、さとり。私あんたなんかの家族にならないから」
「霊夢さんは往生際が悪いんですね。私がよくわかるように説明してあげます。見て下さいこのおでん……」
酔ったというのはやはり振りだけだったらしい。さとりは急に饒舌になり始めた。
「おでんは古今東西、多種多様の具を一緒の鍋で煮込みますわね。姿形も全然違うものもあります。でも同じ汁で一緒に長時間煮込めばあら不思議、一つの料理として非常に調和のとれたものとなるのです」
「それは……まぁ……」
「おでんに入れば丸くなる。おでんは家族、ここは地霊殿。おでんは地霊殿。おでん地霊殿。朱に交われば赤くなる。付和雷同、郷に入っては郷に従え。霊夢さんと私は家族。全てを分かりえる、大切な絆で結ばれた家族――」
まただ。まだ洗脳を諦めていないらしい。しかし動けないのでどうしようもない。
「人間と――」
「妖怪が――」
こいしとお燐が前に立つ。まるで学芸会のような演技だ。
「手を取り合い」
「一つになる」
「それは素敵」
「それは素晴らしい」
「私達は――」
「分かり合える」
パチパチとさとりが拍手した。
「まぁあなた達。私は可愛い妹と従者を持って幸せですよ」
「はぁ」
霊夢は酒臭い息を吐いた。もう何が何やら混乱して訳がわからない。
「さぁ」
さとりが白く細い手を差し伸べてきた。まるでバレリーナの手を取るように。さとりは男役でも鮮烈で穢れのない超存在であった。
半ば強制的に恍惚状態にされ、思わず手を伸ばしてしまう。
後少し――。
しかし、無骨な闖入者は再び現る。
「さぁー私を捕まえてごらんなさい! おほほほほほ!」
「ゆ、幽々子様、どうかお止めください! 恥ずかしくないんですかそんな格好で。ご乱心ご乱心! 幽々子様のご乱心。誰か、誰かぁ――」
固い襖が突き破られていた。興奮して叫び声をあげているのは西行寺幽々子。酒が入りすぎているのか、頬は紅潮している。幽霊でも紅潮している。着物は盛大に乱れ半裸の状態だ。それを魂魄妖夢が必死の形相で追いかけている。
「地上の方は楽しそうで何よりですわね。ふふふ」
さとりが何故か寂しそうに言った。周りの景色がすうっと変わる心地がする。
もやもやとした白い霧が晴れた。と同時に、脳の思考回路も正常に運行される。
「はぁ……助かった」
遠くでは空と勇儀がプロレスをしていた。実に楽しそうである。
「れっ、霊夢――」
後ろから声をかけられる。
誰かと思ったら、このおでん鍋に誘った張本人、八雲紫だ。今まで一体何をしていたのだろう。どうせ紫のことだからぐだぐだと管を巻いていたに違いない。
「ごめんなさいね霊夢。もうゆかりんあなたのことを絶対に離さないわ。ほらーむにむにー」
いきなり頬擦りをされた。非常に酒臭い。これは並大抵の量ではない。
「ゆ、紫……ちょ、離れて、苦しい」
「駄目よ霊夢。ずっとこのままで……」
「む……」
もう臭いにも慣れて頭がぼんやりする。どうせ酒の勢いに任せてこんなことをするのだろう。それでもぬくもりが暖かかった。
「霊夢、チュウ♪ ほら、お返しに、ここ」
化粧の崩れた顔でキスをされる。ぬめっとした舌を刺しこむように押付けられる。
そして何を要求しているのだろう。いい加減、その場の勢いというのも限度がある。
「もう……やめてよ」
何とか紫のキス範囲から逃れおおせた。
ふと顔を上げると、さとりが優しい目で見下ろしていた。側近の二人の恨めしそうな顔、それとは対照的にとても光輝いて見えた。
紆余曲折の末、地霊殿おでん会は何事もなく終了した。宴の後というものは物寂しい。
古明地さとりの計画した、博麗霊夢をおでんを食べながら家族にしてしまおう作戦は、結果的には失敗してしまった。それでもさとりは気分がよかった。愛する霊夢とひと時の間でも肌を付き合わせたからだ。
「みんな帰ってしまいましたね。寂しいですけど……さっ後かたづけですね」
ぽつりと言った。畳の上にごろりと横になって、寝息を立てている鬼とお空。本当に子供ように幸せな笑顔だ。
「あーあ、もうちょっとでしたのに。もぉーさとり様ったら優しいんですよ」
「そうそう、お姉ちゃんったら優しい」
食器をかたしながらお燐とこいしが言った。
「ふふふ。だって彼女は人間だもの。段階を踏まなければいけないわ。初めからがつがついっては拒否されてしまいますもの」
「いえいえ、人間なんて押し倒して噛み付いてやればいいんですよ! ひひひっ、そうすれば大人しくなりますって! ……こらお空! あんたも片付け手伝うんだよ!」
お燐が寝ている空のわき腹を蹴った。しかし微動だにしない。
「そう……首筋にちょっと爪をたてて……、血をぴゅーって出してあげるだけで、あはは! あのねお姉ちゃん、私、いつでもお姉ちゃんのために紅白さんを連れてきてあげるよ? 今でもいいよ? だって私のお姉ちゃんなんだもの」
「あらありがとうこいし。でもいいのよ。お姉ちゃんはその気持ちだけで十分」
「ふーん。へーぇ、そーぉ?」
こいしはまだ無鉄砲すぎていけないと思った。無意識は時には仇となる。
「ふーぅ」
さとりは洗い物の手を止めて、分かりやすくため息をついた。
「どうしたんですかさとり様? 悩みなら私が何でも聞きますよ」
「そうよお姉ちゃん」
なんて扱いやすい子達だと思う。押しなべて従順で、自分の意思で行動しているように見えても、その実は絶対的な支配下にある。
「私、今回で霊夢さんに嫌われちゃったかしら? あんなにぶしつけに迫ったものね。ええ、私はきっと嫌われてしまったわね。もう一生口を聞いてくれないかも……しくしく……」
「そんなことないですよさとり様」
「そうよお姉ちゃん」
反射するように声がかかる。
「で、でも……私こんなんだし……」
「元気出して下さいよさとり様。私達がいるじゃないですか! さとり様は世界で一番素敵ですよ」
「そうよお姉ちゃん。私がいるもの」
「……さとり様はぁ、卵ですよー」
何かに反応したのか、空も寝言で返した。
「うふふ。そう言ってくれて嬉しいわね。やっぱりあなた達は最高の家族よ」
「さとり様」
「お姉ちゃん」
「しょうがないわね。それなら私、もう少し頑張ってみようかしら」
「きっと今度は成功しますよ」
「お姉ちゃんならきっと」
さとりは笑った。こんなにも暖かく声をかけてくれる、そんな存在がいて自分はとても幸せだと思う。熱ぼったい目で見つめてくる二人に、敬意を払って微笑み返す。
「家族っていいわね」
「ええそうですとも!」
「うん!」
地霊殿は一つである。
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