
頭が痛い。
八雲紫は目を覚ました。
ここはどこだろう?
空間――。
何もない? いや。
「ようやくお目覚めね紫。待ちくたびれたわよ」
耳慣れた声。
それは博麗霊夢だった。
自分が選んだ博麗の巫女。
「おはよう霊夢。ここは?」
「いつもあんたは暢気なのね紫。人が困ってても、いつもぐうぐう寝てばかりいる。でもそれがあんただからね。仕方ないわよね」
紫は真っ直ぐ霊夢を見据えた。霊夢は中空にふわりと浮んでいた。
目が慣れてくる。
白い白いただっぴろい空間だった。
おおよそ、ここは幻想郷ではない。
何かどこか別の――。
「あら霊夢。あなたも空間制御の法まで習得したのかしら? さすがに霊夢は勤勉ね。でもまだ不完全。もっと気を練らないと駄目よ。こんなんじゃ簡単に打ち破られてしまうわ……」
「今は説教を受ける場面じゃないのよ紫」
「なんなの霊夢? 何か今のあなた変よ?」
そう、声の調子がいつも違っているような、ごく些細な違和感であったかもしれない。
「時間がないのよ紫――」
霊夢はぽつりと言った。
それが何を意味をするのかわからない。
時間がない。
人間としての時間?
はて? それなら霊夢はまだ若い。しっかり早寝早起きをして、質素な食事と適度な運動を心がければ、後五十年は余裕で生きながらえるはず。
「まぁいいわ。あなたの遊びに付き合ってあげましょう。いい? こんなほころびだらけの空間いつでも抜け出せるのよ? それをよく覚えておいてね?」
「少し黙りなさいよ紫」
「っ――」
何だろうこの圧迫感は。
霊夢が怖い。
「いい紫? ここの支配者は私。あんたは私の遊びに付き合ってもらうわ」
「ふふん。どんな遊びよ。時間がないっていったのに随分と陽気ね」
紫は少し強がって言った。
「そう、じゃあ説明するわね。紫は密室ってわかるかしら?」
「んーああ。推理小説かなんかによく出てくるわね。まさか密室の謎を推理しろって? あいにく幻想郷には密室は存在しないのよ。何せこの私がいるから――」
そこで霊夢が遮った。
「無理よ」
「え? 何で?」
「今にわかるわ」
「むぅ。霊夢ったらいやに不親切ね」
「あんたの教育のおかげでね」
「まぁ」
一体この巫女は何を考えているのだろう。自分の空間制御の能力のことぐらい百も承知のはずなのに。
もしやと紫は思った。
今目の前にいる霊夢は霊夢ではない。どこかの誰かさんが霊夢の姿を借りているのだとしたら――。
ふん、そのつもりならそれでもいい。
この無邪気な遊びに付き合って、後でこっぴどくお灸をすえてやればいいのだ。
「これから始めるのは五つの密室ゲーム。閉じられた空間の中から紫が脱出すればOK。それを五回繰り返す。あんたなら簡単でしょ?」
「なるほど。でも五つもいらないわよ。密室なんてまとめてスキマに放り込んでやるわ」
「たいそうな自信ね」
「そりゃもう」
紫を胸を張って言った。
密室などは恐るるに足らない存在。
「そうやる気なのね。よかったわ。ちょっと受けるかどうか心配だったから――準備したけど無駄だったかしら」
「何よその思わせぶりな態度は。はっきり言いなさいよ」
数秒の間、沈黙が走った。
本当に何もない虚無の真空空間。
「人質」
「は?」
「人質よ紫。あんたの可愛い式の藍と橙は、こちらの手にある。無理にでもこの勝負は受けてもらうつもりだった」
「な、な、なんですって? 藍と橙を? あなたがどうして? 何故?」
紫の頭の中を混沌が駆け巡った。
自分の霊夢がそんなことをするとは、絶対にありえないことだった。
いや待てよ――。
今のではっきりした。これは霊夢の偽物に違いない。こんな簡単に馬脚を現すとは。愚かだ、愚か過ぎる。
もう面倒だから一瞬で終わらせようと思った。
こんな茶番に付き合う必要はない。
「理由なんてないわよ。あんたが密室から出られればそれでいいの。もっと怒っていいわよ。モチベーションが上がった方がいいものね。ほら、人質ってのは普通、拷問されるもんよね? 見てみる?」
霊夢が手を振りかざそうとした。
「その必要はないわよ。消えなさい偽者!」
一瞬で五体をバラバラにする、スキマの力を発動したはずだった。
しかし――。
「あ、あれ……?」
「まだ気づいてなかったの? 哀れね。この空間は私の支配化にある。あんたの能力は最初に封じさせてもらった。あんたは今はただの妖怪よ。いや妖怪以下の存在でもおかしくないわ」
霊夢は事も無げに言い放った。
何たる不覚。まさか今の今まで能力封じに気づかなかったとは。
これでは、これでは――。
「今更焦っても遅いわよ紫。さぁ時間がないわ。あんたの式の命も色々とね」
紫は覚悟を決めた。
突然何が何やら意味不明だが、とにかく心に一途に何かを決めた。
「受けましょう霊夢。ふん、どこの誰かさんか知らないけれど――私を弄んだ罪は重いわよ。相応の罰は覚悟しているでしょうね?」
「罰? ふふ、そっか罰ね。確かに罰かもしれないわね……」
その声は、若干上ずっているように聞こえた。
「霊夢?」
「……いえ。さっ始めましょうか。本当に時間がないわ。まず第一の密室――来たれ!」
博麗の巫女の細い腕が、垂直に打ち下ろされた。
ごごごと地鳴りのような音が響いた。
次の瞬間、紫の周りを煉瓦の壁が、縦横無尽に構築されていた。
緑色の苔が生々しく、ぬるりとした質感が吐き気をもよおしそうなほど気持ち悪い。
「まずは小手調べよ。幻想郷の賢者とも言える、大妖怪様ならこんな壁なんてものともしないでしょうね」
壁の厚さはそれほどでもない。
これは自分を馬鹿にしている。
いくら霊夢の偽物と言えども奢りすぎだ。
「指先一つよ霊夢」
「そう、じゃあここで見物しているわ」
姿の見えない霊夢の声だけが響く。
「ふぅ――」
精神を集中して意識を高める。
こうしてまともに妖術を使うのはいつ以来だろう?
藍――。
そうか藍に妖術を一から教えたっけ。
あの子は真面目すぎて、要領が悪いから苦労したっけ。
でも一人前になれて右腕として。
最近は雑事は藍にまかせっきりだったかしら?
「はぁっ!」
体内に溜めた妖気を一気に解き放った。
膠着、振動。
鈍重な壁が勢いよく吹き飛んだ。
「はぁ……はぁ……」
息が上がっていた。
久しぶりだから無理もないが。
上を見上げると、霊夢がパチパチと拍手をしていた。
「んー、上出来よ。でもそんなんじゃ心配ね。先が思いやられるわよ紫」
「何なのよその上から目線は。霊夢のくせに腹立つわねー。それにこんなのお茶の子さいさいだったわよ」
「指一本どころか両手使ったわね。私の前で虚勢は張らなくていいのよ。無論――そんな余裕もなくなるんでしょうけどね」
確かに。
久しぶりすぎて、全盛期とは比べ物にならないくらい力を使いこなせていない。
息が上がって仕方がない。
体内にエネルギーを循環する機能が、急に冷水を浴びてびっくり仰天しているようだ。
「休んでいる暇はないわよ。さぁ次の密室――来なさいチルノ!」
霊夢が合図をする。
バチバチと静電気がはじけるような音。
空間の裂け目。
氷の妖精チルノが、細かな分子状態から妖精の体を形成する。
「じゃじゃーん! あたい最強!」
紫は少々ぽかんと口を開けた。
その後にやりと笑った。
「へぇ面白い趣向ね。霊夢もついに人を使うことを覚えたのかしら? 私嬉しいわ。これで霊夢も管理職のつらさが少しはわかるでしょう」
「へらず口が多いわよ紫」
すげなく霊夢は言う。
「もう勝負は始まっているのよ。せいぜい足元をすくわれないように注意しなさい」
空気が凍りつく。
極寒とも思える凍てつく冷気。
紫はぶるっと身震いした。
チルノは上空へと飛び上がった。
そして両手を前方に突き出す。
「パーフェクトフリーズ結界――絶対零度空間! 見開け! そして凍れ!」
何と語呂の悪い。
と思いながら紫は辺りを見回した。
四方八方を分厚い氷の壁が覆っている。
「なるほど氷の密室ってわけね。でも――」
そんなのは密室ではない。氷は熱に弱い。いわば仮の密室。
「そんなの私の力にかかれば……」
スキマから何か出そうとして思いとどまった。
忘れていた。スキマは使えない。
だとすると相当不利だ。
これはまずい。
「あはは! あたいの空間は最強さ! 数分もしない内に氷の彫刻ができるよ」
氷の中の気温は既に零下を下回っている。
吐息が白く濁る。
動けば動くほど体温を奪われる。
――短期決戦しかない。
狙うは本体の一点のみ。
「チルノ。気をつけなさい。紫はあんたを狙ってくるわよ」
「ははー。ダイジョブダイジョブ。最強のあたいがあんな妖怪に負けるはずがない」
霊夢が耳打ちしている。
こちらの狙いはご承知のようだ。
いやでもやるしかない。
「その前に、この氷の中からでも妖気は通るのかしら……」
考える。
だがその間もない。
「それっ貫け!」
つららが上から降ってきた。
寸前でかわす。
危うく串刺しだ。
「くっ……」
「まだまだ! あたいの力はこんなもんじゃないよ!」
チルノの攻撃は熾烈さを増した。
上下左右からの連続攻撃。
かわす――が、かわせない。
足がもつれる。
もう足元を氷で覆われていた。
「ああっ」
紫は情けない声を出した。
何と無様な姿なのか。
幻想郷の創造者とも言える自分が、こんな三下の妖精にいいようにされている。
いや、そうではないのかもしれない。
この空間は霊夢もどきが作りだしたもの。
それならばあのチルノの能力の強さも納得できる。
術者はあくまで霊夢本人だ。
「どうしたのかしら紫? もう終わりなの? 諦めるの?」
まさか。
「私を誰だと思っているのかしら霊夢?」
「ええ、八雲の大妖怪様よ」
「そう、それならいいわ。いい? 大逆転は諦めない者に与えられるものよ。最後の最後の――最後までね」
とはいえもう限界だ。
肌もあちこち凍り付いている。
寒い。
手足を動かすのさえ億劫だ。
終わってしまう?
否。
「氷なんて隙間だらけだわ……」
紫はまだ一回も攻撃していない。
それ故に溜まった妖気は十分。
その一回のチャンスをはずしてはいけない。
狙うとすればその刹那の時。
「あーあ。何だ、てんであっけないじゃん! あたいはやっぱり最強だ! あーははははー」
チルノの視線が紫から一瞬それた。
体全体に氷に覆われて、注意して見る必要がないと感じた。
その油断。
見逃さない。
紫の人差し指が三センチほど上下した。
妖弾、放たれる。
「ふあぁっ!」
チルノの胴体が真っ二つに切れていた。
ガタガタと崩壊する氷上の根城。
紫が氷をはらって、ゆっくりと立ち上がった。
「くっくそーっ! もう一回だ!」
チルノは妖精の再生能力で、瞬時に体が引っ付いていた。
「いえ……。あんたの負けよチルノ。密室は一度解かれてしまった。でもよくやってくれたわ。見なさい、紫はもうぼろぼろだわ」
「ふーん。そっかそっか。やっぱりあたいは最強ってことだね。じゃーな!」
一人で結論づけて、チルノは虚空の彼方へと消えた。
「ぶぇっくしょん!」
呆然と立ち尽くしていた紫は、ひとつ大きなくしゃみをした。
「危なかったわね紫。密室は後三つ。ここで苦戦しているようじゃ後がないわよ」
「霊夢……霊夢……。何の恨みがあって私をこんな目に……」
「ふふん。自分の胸に聞いてみたらって――これはお決まりすぎる台詞かしら?」
訳がわからなかった。
危うく凍死しそうになったのだ。
霊夢の正体も意図も全くつかめない。
「さぁー次の密室よ」
紫はもう嫌になっていた。
「出なさいルーミア!」
霊夢がまるで召喚士のように言った。
「登場なのかー」
両手を真横に広げて、暗闇の妖怪ルーミアが出現した。
「また他人を使うのね。いいわね。霊夢は楽をして。私一人だけ踏んだり蹴ったりよ」
紫は愚痴を言った。
「黙らないのね紫。自分の今の立場というものをわきまえなさいよ。三番目、暗闇の密室よ。行きなさいルーミア!」
「そうするのかー」
直後、もくもくと黒いガスのようなもやが辺りを覆う。
「ごほごふ、ルーミア……確か闇を操る……。でもこれって密室なのかしら? 移動するだけならどこでもいけるわよ」
「それは見てのお楽しみね。ああ見えないか」
霊夢の声がどこからか響いた。
周りは漆黒の闇。
一寸先も見えない。
しかし抜け道はある。
見えないなら見えないでやりようがある。
「こういう時は心の目で見るのよねー。まぁそれはあながち間違いでもないんだけど。実際は――」
紫は目をつぶった。
見えないなら視覚はもう完全に遮断した方がいい。
たよりになるのは音、そして妖気。
あのルーミアのような低級な妖怪が、妖気を隠す手段を持っているとは考えられない。
実際、ルーミアの居場所はまるわかりだった。
後ろ斜め六十度。
「そこっ!」
当たった。
確かな手ごたえ。
おそらくは致命症――悪くて即死。
「あれ?」
紫は違和感を覚えた。
ルーミアは重症のはずなのに闇が全く消えないのだ。
自分の感覚が鈍っていたのだろうか?
いやでもあの感触は確かに――。
考えていてもわからなかった。
闇が消えないなら止めを刺すまでだ。
「全く……」
一歩を踏み出そうとした。
おかしい。
音、足音が聞こえなかった。
いや足音だけじゃない。
自分の息遣いも血の流れる音も皆無。
「――――」
何よこれと言ったが、喋る声さえも耳に届かない。
そうか、これが暗闇の密室。
感覚を破壊する。
視覚、次に聴覚。
何もわからずに黒く塗りつぶされる恐怖。
なるほどこれなら密室と言えるかもしれない。
でもまだ。
妖気だけが自分のアンテナだ。
これだけは長い経験で絶対的な自信がある。
例え暗闇の中でも、妖怪の所在など瞬時に把握できるのだ。
どこ? どこに?
あれれ?
ルーミアだったものはいない。
代わりに別の――多すぎる。
何なのこれ?
二つ三つじゃない。
何十何百の妖気の鼓動。
それが一斉に揺らめいて近寄ってくる。
怖い。
「――――」
少し悲鳴を漏らして適当に攻撃弾を放った。
手ごたえなし。
どうも妖気が嘘臭い。
本物のようであり本物でない。
紫は頭がぐらりと重くなった。
自身の絶対的な力のために、真正直に恐怖することなどは、生涯の内で一度や二度ぐらいだった。
紫は心底恐怖した。
「――――――」
また何かを言った。何を喋っているのかさえ理解できない。本当の恐怖が紫を襲った。
駄目だ。
このままでは暗闇に負ける。
落ち着くのよ紫。
妖気は多いけれども、その妖気の感じを確かめてみればわかる。
――これは違う。生き物じゃない。
暖かみが違う。
体温、ぬくもりが感じられない。
酷く無機質で没個性の物体。
よく観察してみると、数ある妖気の内のほどんどがこれだ。
そうだ。何も恐れることはない。
恐怖を作っているのは自分自身だ。
一つ一つ調べていけば必ず正解に達する。
これも違う、これも、これも。
数が多い。
どうもこの妖気の主は、巧妙にフィルターをかけているようだ。
幾重にも目隠しして正体を明かさない。
そんな用意周到に目くらましをしているのだ。
「――――」
聞こえないが自分を鼓舞するために、頑張れと言ってみた。
霊夢のことも思い出してみた。
そうだ、霊夢に頑張れと言われた気になってみればいい。
「――――」
少し元気が出た。
さてどこだろう。
闇の出所は何処――?。
駄目だ。全部同じように感じてしまう。
いいやまだよ。
もっと感覚を研ぎ澄まさなくちゃ。
八雲の大妖――八雲紫。
こんなんじゃみんなに示しがつかないわ。
鋭敏に、鋭敏に。
限界まで研ぎ澄ます。
違う。
最奥の一部分だけが微妙に違う。
明らかに違う妖気。
でもこいつは闇じゃない。
暗闇が消えなければ密室は解けない。
そこだ。見つけた。
目隠しの妖気と符号も一致する。
さぁネタはあがったわ。
受けなさいこの一撃!
「――――」
「うわぁっ!」
闇が切り開かれていた。
黒尽くめの少女が、腕から血を流して横たわっていた。
「お見事紫」
霊夢がまた手を叩いた。
「そうか……闇の使い手は二人いたのね」
紫は右の方をチラリと見た。腹を押さえて天井を向いているルーミアが、今にも死にそうな顔で息を荒げていた。やはりルーミアは最初の一撃で致命傷を受けていたのだ。自分の感覚に間違いはなかった。
「そう、そっちの妖怪は封獣ぬえよ。暗闇だけじゃなく正体不明を操れるわ。この密室は難問だったかしら?」
「三人がかりなんて卑怯ね霊夢」
密室を構成していた人物はもう一人いた。
白い服を着た、おどおどしている妖精。この妖精が音を消していた存在に違いない。おかげで無理やりに不安を煽られてしまった。
「もういいわよルナ」
「あっ……ああ……すいません」
妖精はすーっと音もなく消えた。同時にルーミアとぬえの肉体も消滅する。
全くこの霊夢は、どこまでこの空間を支配しているのだろう。今の妖怪と妖精も作り物なのかそうでないのか。
霊夢が不気味すぎる。真の暗闇は霊夢自身なのかもしれない。
「霊夢……。もう偽物でもいいから、何故こんなことをするのか教えてくれない? 私もう疲れたわ。へとへとよ……」
と紫は音をあげた。
集中しすぎて精神が磨耗していた。もう何もしたくなかった。
「このまま終わらせるなんてしないわよ。どちらかが倒れるまで……もう時間がないわ。さぁ巻いていくわよ!」
「れ、霊夢。私本当に」
「立って紫。あんたらしくないわよ」
「でも」
「そう……ならしょうがないわね」
やっと分かってくれたと思った。
そうだ、霊夢は自分の思い通りにはなるはずだったのだから。
この展開はおかしいとしか思えない。
「立って下さい紫さん」
「ありがとう霊夢」
手を伸ばす。ひんやり。
「あら霊夢あなたこんなに手が冷たかったっけ? まるで幽霊みたいよ?」
いや、霊夢ではなかった。
全く霊夢とは似つかない妖怪。
「さっ第四の密室ですわ。私は古明地さとり。夢の密室と形づくるため、はるばるこうして――」
「ちょっと、霊夢はどこよ? 私はもう嫌だって言ったじゃない!」
「あらそうですか。困りましたねぇ。……では私とお話しませんか? 後で霊夢さんには言っておきますから」
「な、なんでそうなるのよ」
「ふふっ。お話しましょう、ねぇ紫さん」
景色が変わる。周りはお花畑。
蝶々が乱れ飛びほんわかとした雰囲気。
白い椅子とテーブルに二人腰掛けている。
「はぁ……」
「ねっ、お話しましょう」
紫は阿呆のように呆けた。
「ねぇ紫さん。私のこと覚えていますか?」
さとりはそう聞いてきた。一定でぶれがない、どこか冷たい感じのする声だった、
「えー、ええと。地霊殿の主人の古明地さとりさんね。いつぞやは霊夢がお世話になったようで」
「そうじゃなくて。ずっと昔ですわ。昔の昔、大昔」
「んー」
紫は何とか思い出そうとした。
古明地さとり。さとりさとり。そうかあの覚妖怪の一族だった。
「あ、ああ。あーあ。古明地さんね。あの時は仕方がなかったのよ。ああするしかなかった。地底に――そうしなければおさまりがつかなかったの。あなたの親族達にはご迷惑被ってもらったけど……」
「ええ。私どもはそこらへんの事情は、とぉってもよくおわかりでしたわ。もう永遠とも思える昔のこと――。もうあの時を知る人もほとんどいないんでございますのよ。過去のことは水に流しましょう。私、さばさばした性格なんですよ。昔のことなんてぜーんぜん気にしない質で……」
さとりは甘ったるいような声で言った。よかった。もう昔のことだし風化して時効だ。
「そそ、そうねー。今が大事よね今が」
「うふふ。その通りですわ紫さん」
ふっと息をついた。何だか気が抜けた。
はて自分は何をしていたっけな。急にお花畑に連れ込まれた。
自分は何を?
「紫さん」
「は、はい?」
いきなり声をかけられてびくっとした。目が潤んでいた。何か妙な気持ちなりそうな目だった。
「霊夢さんは酷いお方ですね。恩人である紫さんをこんな目に合わせて」
「えー、ええと」
そうか。思い出した。
密室ゲームとか言われて、氷の妖精にいじめられたり、暗闇の中を無駄に歩かされた。一体霊夢は何故こんなことしたのだろう? いや霊夢ではなかったかもしれない。
「霊夢さんは酷いお方。紫さんが手塩にかけて育てたのに……。恩を仇で……」
「ん……。ううーん。そうね霊夢ったら何考えてるのかしらね。もう」
「うふふ。その調子ですわ」
「はぁ……」
何故か心に優しく響く。さとりの声を聞いているだけで気持ちよくなる。危険だと思っても、甘い雰囲気に流されていた。
「私も人の上に立つ者として、紫さんのお気持ちよくわかりますわ。大変でしょう? 影で支えているのに邪険に扱われて。それでいて責任は重大。やってられませんわね。ふふふ」
「あ……、うんそうね。霊夢は――」
「紫さんのお子さんと言ってもいいんでしょう?」
勝手に先を続けられた。
「え? いやいや。そんなんじゃないの。ただ……」
「ただ?」
じっと見つめられる。飲み込まれそうだ。
「ふふ。子供と一緒ですよ。愛を与えて育ててあげればそれは同じ」
「そ、そうかもね」
とぎまぎして正面を見れない。
何故だろう――おかしい。
ここは密室? 夢の密室。
だとしたら――。
「乾杯しましょう紫さん」
「あ……」
いつの間にか二つ、ワイングラスに赤い液体が注がれていた。
「さぁ二人の門出を祝って」
誰と誰の門出なのだろう。
グラスがカチリと音を鳴らした。
ぐっと一気飲みする。
「ふふふ。いい飲みっぷりですわ」
「そ、それはどうも……」
もうどうでもよくなってきた。
世界がぐにゃりと歪む。
紫は饒舌になっていた。
ぺらぺらと勢いよく、さとりに向かって喋り続けていた。
「そうねー、あのねー、霊夢ったらね……酷いのよ! 私が後で食べようと思っていた大福餅を先に食べたの!」
「そうですか。ふふふ」
「ああ私が寝ている時、いきなり髪をつかまれて起こされたわ」
「あらあら」
口をついで出るのは霊夢の愚痴ばかり。さとりはそれをニコニコとしながら全部聞いていた。
しまいに紫は涙声になりながら管を巻いていた。
「霊夢……。私があんなに愛を注いであげたのにどうして……。ああ私の育て方が悪かったのかしら? ああ!」
紫は頭をがっと抱えた。
「そんなことはありませんわ紫さん」
さとりは少し溜めた。
「紫さんのやったことは正しいですわ」
「あー、そう、そうなのよ。私は正しい。幻想郷の、みんなためを思って日夜努力しているのよ。それを誰一人わかってくれないの……」
首を捻じ曲げて、すねるような仕草をした。さとりの小さな顔が近づいている。髪の毛がふわりと頬にかかった。
「紫さんは、もっと愛されるべきですわ」
「愛?」
「そう愛です」
「愛……か」
ずっと忘れていたような気がする。自分は本当に愛されていたことがあるのだろうか?
「愛を与えれば返ってくる。しかしいつもそうとは限りません。みんな愛に飢えています。ね? 紫さん」
「はぁ……」
頭がぼーっとする。脳みその中心周辺がじんわりと熱を持つ。
「だから」
さとり少し間を置いた。
「私が愛してあげます」
「ええ?」
「変ですか?」
「いいえ。でも――」
「二人で愛し合いましょう」
「う……」
右手を両手でぴったりと抱擁される。
さとりの唇がもう数ミリの所まできていた。
何だろう。とてもまずい予感がする。
このまま。ああ愛が。
霊夢、霊夢。助けて霊夢。
「ふぅ」
紫は顔を背けた。このままでは霊夢に一生会えない気がしたのだ。
「悪いけどさとりさん。私は満足してるのよ」
「へぇ何故ですか?」
「霊夢がいるからよ」
「でも霊夢さんは、紫さんに酷いことしたんですよ?」
「ううんいいの。私には霊夢がいるだけで幸せ。ほら出来の悪い子ほど、可愛がりたくなっちゃうじゃない」
それを聞いて、さとりは頬をぷくっと膨らませた。そして噴出した。
「くくく……、ふふ、あははは! はーっ、はぁ……失礼。確かにそうですわね。その気持ち、よーくわかりますわ」
「さとりさん?」
「いえ。いい夢の中でしたわ。それでは……」
さとりは立ち上がって、花畑にまぎれて消えた。
景観が寂れていく。
まるで全ての輝きの源を失ったように。
「紫。紫起きて?」
「ん、んん?」
霊夢の野暮ったい顔が真上にあった。
「よくやったわね。夢の密室は突破したわ」
「んあ? 密室?」
「何ぼけているのよ。ここは私の空間だって言ったでしょ」
「ああー。そうだっけ」
そういえばそんなこともしていた気がする。
「さて残る密室は後一つ――ここを抜ければはれて自由よ」
「自由? 私は元から自由よ」
「いいから黙りなさいよ。……できることなら――いえ何でもないわ」
霊夢は感極まったような表情をした。
――泣いている?
「ちょっとちょっと。急にどうしたのよ? 泣き出すなんてあなたらしくないわよ?」
「紫……。ちっもう時間ね。いい紫? 絶対密室を抜け出すのよ? あんたにはそれができるはず」
様子がおかしい。
まるでもう二度と会えないような、永遠の別れ際のよう。
「れい……」
距離が遠くなった。
広がる。
二人の距離が。
何にもない隙間が二人の間を埋めていく。
「最後に、嬉しかったわよ紫」
その声だけが聴覚に届いた。
何のこと?
待って霊夢――。
「…………様? ……紫様? おお目を覚まされたのですね!」
再び覚醒した。今日はよくこんな目にあう。
「藍……?」
「はい紫様。あなたの式の藍でございます。ああなんてこと。紫様。後、後数十秒早く起きてくれたならば――」
「どうしたの藍? 何で泣いているの? 何が起こったの?」
ぐっと上体を持ち上げる。ずっと寝ていたのかあちこちが痛い。
右手に感触。冷たい?
まるで死人の手のよう。
死人?
「霊夢っ!」
はっとして隣を見る。
博麗霊夢が腹に大穴を開けて――絶命していたのだ。
「霊夢霊夢! どうして? 何で霊夢が死んでいるのよっ!」
「紫様――」
藍は涙を拭きながら、重い口を開いた。
「紫様。幻想郷はもう終わりでございます」
「何でよ……」
「異世界からの侵入者です。わずかな結界のほころびからもぐりこんだのでしょうか。その敵の力はとてつもなく強大でした。あの侵攻の度合い――幻想郷側に密通者があったのかもしれません。陥落は一瞬でした。皆々様は奮闘したのですが……絶望的な力の差に一人、また一人と――。霊夢様は最後まで孤軍奮闘していましたが……」
そんな馬鹿なことがあるわけないと思った。これは何かの間違いで――そうか、まだ夢の中の密室の中で……いや霊夢はここで死んでいる。いやそれこそが密室で――。ああ頭がおかしくなる駄目だ。頬をつねる痛い。やはり現実? いやいやいやいや。
「なっ、何で私を起こさないのよ」
「それは――」
紫は次の言葉を待った。
「紫様は流れ弾に当たって、今の今まで昏倒していました。覚えていませんか?」
「あ」
そういえば、そんな気もする。何かよからぬ空気が漂ったと思ったら後頭部に一撃。どうも記憶が曖昧だ。
「私のせい……。私のせいね……」
「いえいえ紫様。私のせいでございます。霊夢様もお救いできませんでした。ああ!」
霊夢の死に顔を見た。
冷たかったが、ほんの少し前まで生きていたような、そんな思いがする。
ぬくもり。
霊夢の顔は笑顔で固まっていた。
死んで顔の筋肉が緩んで、そう見えるのかもしれないが。
「霊夢様は、死ぬ寸前まで、紫様の手を握り、ひしと抱き合うようにしていました。耳元に口を寄せて、何かを言っていました。聞こえませんでしたか紫様? 私がこの場いるのが恥ずかしいぐらいに……うう」
藍はどっと泣き崩れた。
「霊夢……」
夢――だったのだろうか。
夢の中の密室。
だとしたらあれは。
「藍。橙や幽々子達は?」
式は無言で首を振った。
「そう。わかったわ。ここは隠れ家ね。でも……」
「紫様」
藍が呼び止めた。
「霊夢様の最後の伝言でございます。どうか紫様だけは生き残って欲しいと。幻想郷を捨ててでも、別の次元へと旅立って欲しいと……。そう何度も念を押して言っておりました」
「霊夢が? はぁ……そういうことだったのね」
「紫様?」
ようやく合点がいった。
最後の密室はここにあったのね。
箱庭――幻想郷。
「でもね霊夢」
紫はもの言はぬ屍になった霊夢に、優しく呼びかけた。
この密室は解けそうにない。
何故なら――。
「私は幻想郷を愛しているからよ。もちろんあなたも」
そうだ。この密室は完全なる密室。この幻想郷は何物にもかえがたいのだ。
「藍」
「はい紫様」
「最後まで駄目な主人でごめんなさいね」
「いいえ! 紫様は最高の主人でした!」
「そう……言ってくれると嬉しいわね。でも、私はそんなんじゃないの」
そう言って部屋の外の様子を確認する。
幻想郷は崩壊の一途を辿っている。
そしてもうここも。
この幻想郷は最高だった。
自分の作り上げた理想郷の、落とし前はきっちりつけようと思う。
「紫様!」
藍が叫ぶ。
わかっている。
膨大なエネルギーの凝縮。
白い閃光が放たれた。
密室から逃げる手段は――。
「私は幻想郷の――――母よ」
霊夢の方をチラリと見た。
やはり笑っていた。
「ごめんなさいね。霊夢」
破滅の稲光が刺さる。
八雲紫は崩壊した。
八雲紫は目を覚ました。
ここはどこだろう?
空間――。
何もない? いや。
「ようやくお目覚めね紫。待ちくたびれたわよ」
耳慣れた声。
それは博麗霊夢だった。
自分が選んだ博麗の巫女。
「おはよう霊夢。ここは?」
「いつもあんたは暢気なのね紫。人が困ってても、いつもぐうぐう寝てばかりいる。でもそれがあんただからね。仕方ないわよね」
紫は真っ直ぐ霊夢を見据えた。霊夢は中空にふわりと浮んでいた。
目が慣れてくる。
白い白いただっぴろい空間だった。
おおよそ、ここは幻想郷ではない。
何かどこか別の――。
「あら霊夢。あなたも空間制御の法まで習得したのかしら? さすがに霊夢は勤勉ね。でもまだ不完全。もっと気を練らないと駄目よ。こんなんじゃ簡単に打ち破られてしまうわ……」
「今は説教を受ける場面じゃないのよ紫」
「なんなの霊夢? 何か今のあなた変よ?」
そう、声の調子がいつも違っているような、ごく些細な違和感であったかもしれない。
「時間がないのよ紫――」
霊夢はぽつりと言った。
それが何を意味をするのかわからない。
時間がない。
人間としての時間?
はて? それなら霊夢はまだ若い。しっかり早寝早起きをして、質素な食事と適度な運動を心がければ、後五十年は余裕で生きながらえるはず。
「まぁいいわ。あなたの遊びに付き合ってあげましょう。いい? こんなほころびだらけの空間いつでも抜け出せるのよ? それをよく覚えておいてね?」
「少し黙りなさいよ紫」
「っ――」
何だろうこの圧迫感は。
霊夢が怖い。
「いい紫? ここの支配者は私。あんたは私の遊びに付き合ってもらうわ」
「ふふん。どんな遊びよ。時間がないっていったのに随分と陽気ね」
紫は少し強がって言った。
「そう、じゃあ説明するわね。紫は密室ってわかるかしら?」
「んーああ。推理小説かなんかによく出てくるわね。まさか密室の謎を推理しろって? あいにく幻想郷には密室は存在しないのよ。何せこの私がいるから――」
そこで霊夢が遮った。
「無理よ」
「え? 何で?」
「今にわかるわ」
「むぅ。霊夢ったらいやに不親切ね」
「あんたの教育のおかげでね」
「まぁ」
一体この巫女は何を考えているのだろう。自分の空間制御の能力のことぐらい百も承知のはずなのに。
もしやと紫は思った。
今目の前にいる霊夢は霊夢ではない。どこかの誰かさんが霊夢の姿を借りているのだとしたら――。
ふん、そのつもりならそれでもいい。
この無邪気な遊びに付き合って、後でこっぴどくお灸をすえてやればいいのだ。
「これから始めるのは五つの密室ゲーム。閉じられた空間の中から紫が脱出すればOK。それを五回繰り返す。あんたなら簡単でしょ?」
「なるほど。でも五つもいらないわよ。密室なんてまとめてスキマに放り込んでやるわ」
「たいそうな自信ね」
「そりゃもう」
紫を胸を張って言った。
密室などは恐るるに足らない存在。
「そうやる気なのね。よかったわ。ちょっと受けるかどうか心配だったから――準備したけど無駄だったかしら」
「何よその思わせぶりな態度は。はっきり言いなさいよ」
数秒の間、沈黙が走った。
本当に何もない虚無の真空空間。
「人質」
「は?」
「人質よ紫。あんたの可愛い式の藍と橙は、こちらの手にある。無理にでもこの勝負は受けてもらうつもりだった」
「な、な、なんですって? 藍と橙を? あなたがどうして? 何故?」
紫の頭の中を混沌が駆け巡った。
自分の霊夢がそんなことをするとは、絶対にありえないことだった。
いや待てよ――。
今のではっきりした。これは霊夢の偽物に違いない。こんな簡単に馬脚を現すとは。愚かだ、愚か過ぎる。
もう面倒だから一瞬で終わらせようと思った。
こんな茶番に付き合う必要はない。
「理由なんてないわよ。あんたが密室から出られればそれでいいの。もっと怒っていいわよ。モチベーションが上がった方がいいものね。ほら、人質ってのは普通、拷問されるもんよね? 見てみる?」
霊夢が手を振りかざそうとした。
「その必要はないわよ。消えなさい偽者!」
一瞬で五体をバラバラにする、スキマの力を発動したはずだった。
しかし――。
「あ、あれ……?」
「まだ気づいてなかったの? 哀れね。この空間は私の支配化にある。あんたの能力は最初に封じさせてもらった。あんたは今はただの妖怪よ。いや妖怪以下の存在でもおかしくないわ」
霊夢は事も無げに言い放った。
何たる不覚。まさか今の今まで能力封じに気づかなかったとは。
これでは、これでは――。
「今更焦っても遅いわよ紫。さぁ時間がないわ。あんたの式の命も色々とね」
紫は覚悟を決めた。
突然何が何やら意味不明だが、とにかく心に一途に何かを決めた。
「受けましょう霊夢。ふん、どこの誰かさんか知らないけれど――私を弄んだ罪は重いわよ。相応の罰は覚悟しているでしょうね?」
「罰? ふふ、そっか罰ね。確かに罰かもしれないわね……」
その声は、若干上ずっているように聞こえた。
「霊夢?」
「……いえ。さっ始めましょうか。本当に時間がないわ。まず第一の密室――来たれ!」
博麗の巫女の細い腕が、垂直に打ち下ろされた。
ごごごと地鳴りのような音が響いた。
次の瞬間、紫の周りを煉瓦の壁が、縦横無尽に構築されていた。
緑色の苔が生々しく、ぬるりとした質感が吐き気をもよおしそうなほど気持ち悪い。
「まずは小手調べよ。幻想郷の賢者とも言える、大妖怪様ならこんな壁なんてものともしないでしょうね」
壁の厚さはそれほどでもない。
これは自分を馬鹿にしている。
いくら霊夢の偽物と言えども奢りすぎだ。
「指先一つよ霊夢」
「そう、じゃあここで見物しているわ」
姿の見えない霊夢の声だけが響く。
「ふぅ――」
精神を集中して意識を高める。
こうしてまともに妖術を使うのはいつ以来だろう?
藍――。
そうか藍に妖術を一から教えたっけ。
あの子は真面目すぎて、要領が悪いから苦労したっけ。
でも一人前になれて右腕として。
最近は雑事は藍にまかせっきりだったかしら?
「はぁっ!」
体内に溜めた妖気を一気に解き放った。
膠着、振動。
鈍重な壁が勢いよく吹き飛んだ。
「はぁ……はぁ……」
息が上がっていた。
久しぶりだから無理もないが。
上を見上げると、霊夢がパチパチと拍手をしていた。
「んー、上出来よ。でもそんなんじゃ心配ね。先が思いやられるわよ紫」
「何なのよその上から目線は。霊夢のくせに腹立つわねー。それにこんなのお茶の子さいさいだったわよ」
「指一本どころか両手使ったわね。私の前で虚勢は張らなくていいのよ。無論――そんな余裕もなくなるんでしょうけどね」
確かに。
久しぶりすぎて、全盛期とは比べ物にならないくらい力を使いこなせていない。
息が上がって仕方がない。
体内にエネルギーを循環する機能が、急に冷水を浴びてびっくり仰天しているようだ。
「休んでいる暇はないわよ。さぁ次の密室――来なさいチルノ!」
霊夢が合図をする。
バチバチと静電気がはじけるような音。
空間の裂け目。
氷の妖精チルノが、細かな分子状態から妖精の体を形成する。
「じゃじゃーん! あたい最強!」
紫は少々ぽかんと口を開けた。
その後にやりと笑った。
「へぇ面白い趣向ね。霊夢もついに人を使うことを覚えたのかしら? 私嬉しいわ。これで霊夢も管理職のつらさが少しはわかるでしょう」
「へらず口が多いわよ紫」
すげなく霊夢は言う。
「もう勝負は始まっているのよ。せいぜい足元をすくわれないように注意しなさい」
空気が凍りつく。
極寒とも思える凍てつく冷気。
紫はぶるっと身震いした。
チルノは上空へと飛び上がった。
そして両手を前方に突き出す。
「パーフェクトフリーズ結界――絶対零度空間! 見開け! そして凍れ!」
何と語呂の悪い。
と思いながら紫は辺りを見回した。
四方八方を分厚い氷の壁が覆っている。
「なるほど氷の密室ってわけね。でも――」
そんなのは密室ではない。氷は熱に弱い。いわば仮の密室。
「そんなの私の力にかかれば……」
スキマから何か出そうとして思いとどまった。
忘れていた。スキマは使えない。
だとすると相当不利だ。
これはまずい。
「あはは! あたいの空間は最強さ! 数分もしない内に氷の彫刻ができるよ」
氷の中の気温は既に零下を下回っている。
吐息が白く濁る。
動けば動くほど体温を奪われる。
――短期決戦しかない。
狙うは本体の一点のみ。
「チルノ。気をつけなさい。紫はあんたを狙ってくるわよ」
「ははー。ダイジョブダイジョブ。最強のあたいがあんな妖怪に負けるはずがない」
霊夢が耳打ちしている。
こちらの狙いはご承知のようだ。
いやでもやるしかない。
「その前に、この氷の中からでも妖気は通るのかしら……」
考える。
だがその間もない。
「それっ貫け!」
つららが上から降ってきた。
寸前でかわす。
危うく串刺しだ。
「くっ……」
「まだまだ! あたいの力はこんなもんじゃないよ!」
チルノの攻撃は熾烈さを増した。
上下左右からの連続攻撃。
かわす――が、かわせない。
足がもつれる。
もう足元を氷で覆われていた。
「ああっ」
紫は情けない声を出した。
何と無様な姿なのか。
幻想郷の創造者とも言える自分が、こんな三下の妖精にいいようにされている。
いや、そうではないのかもしれない。
この空間は霊夢もどきが作りだしたもの。
それならばあのチルノの能力の強さも納得できる。
術者はあくまで霊夢本人だ。
「どうしたのかしら紫? もう終わりなの? 諦めるの?」
まさか。
「私を誰だと思っているのかしら霊夢?」
「ええ、八雲の大妖怪様よ」
「そう、それならいいわ。いい? 大逆転は諦めない者に与えられるものよ。最後の最後の――最後までね」
とはいえもう限界だ。
肌もあちこち凍り付いている。
寒い。
手足を動かすのさえ億劫だ。
終わってしまう?
否。
「氷なんて隙間だらけだわ……」
紫はまだ一回も攻撃していない。
それ故に溜まった妖気は十分。
その一回のチャンスをはずしてはいけない。
狙うとすればその刹那の時。
「あーあ。何だ、てんであっけないじゃん! あたいはやっぱり最強だ! あーははははー」
チルノの視線が紫から一瞬それた。
体全体に氷に覆われて、注意して見る必要がないと感じた。
その油断。
見逃さない。
紫の人差し指が三センチほど上下した。
妖弾、放たれる。
「ふあぁっ!」
チルノの胴体が真っ二つに切れていた。
ガタガタと崩壊する氷上の根城。
紫が氷をはらって、ゆっくりと立ち上がった。
「くっくそーっ! もう一回だ!」
チルノは妖精の再生能力で、瞬時に体が引っ付いていた。
「いえ……。あんたの負けよチルノ。密室は一度解かれてしまった。でもよくやってくれたわ。見なさい、紫はもうぼろぼろだわ」
「ふーん。そっかそっか。やっぱりあたいは最強ってことだね。じゃーな!」
一人で結論づけて、チルノは虚空の彼方へと消えた。
「ぶぇっくしょん!」
呆然と立ち尽くしていた紫は、ひとつ大きなくしゃみをした。
「危なかったわね紫。密室は後三つ。ここで苦戦しているようじゃ後がないわよ」
「霊夢……霊夢……。何の恨みがあって私をこんな目に……」
「ふふん。自分の胸に聞いてみたらって――これはお決まりすぎる台詞かしら?」
訳がわからなかった。
危うく凍死しそうになったのだ。
霊夢の正体も意図も全くつかめない。
「さぁー次の密室よ」
紫はもう嫌になっていた。
「出なさいルーミア!」
霊夢がまるで召喚士のように言った。
「登場なのかー」
両手を真横に広げて、暗闇の妖怪ルーミアが出現した。
「また他人を使うのね。いいわね。霊夢は楽をして。私一人だけ踏んだり蹴ったりよ」
紫は愚痴を言った。
「黙らないのね紫。自分の今の立場というものをわきまえなさいよ。三番目、暗闇の密室よ。行きなさいルーミア!」
「そうするのかー」
直後、もくもくと黒いガスのようなもやが辺りを覆う。
「ごほごふ、ルーミア……確か闇を操る……。でもこれって密室なのかしら? 移動するだけならどこでもいけるわよ」
「それは見てのお楽しみね。ああ見えないか」
霊夢の声がどこからか響いた。
周りは漆黒の闇。
一寸先も見えない。
しかし抜け道はある。
見えないなら見えないでやりようがある。
「こういう時は心の目で見るのよねー。まぁそれはあながち間違いでもないんだけど。実際は――」
紫は目をつぶった。
見えないなら視覚はもう完全に遮断した方がいい。
たよりになるのは音、そして妖気。
あのルーミアのような低級な妖怪が、妖気を隠す手段を持っているとは考えられない。
実際、ルーミアの居場所はまるわかりだった。
後ろ斜め六十度。
「そこっ!」
当たった。
確かな手ごたえ。
おそらくは致命症――悪くて即死。
「あれ?」
紫は違和感を覚えた。
ルーミアは重症のはずなのに闇が全く消えないのだ。
自分の感覚が鈍っていたのだろうか?
いやでもあの感触は確かに――。
考えていてもわからなかった。
闇が消えないなら止めを刺すまでだ。
「全く……」
一歩を踏み出そうとした。
おかしい。
音、足音が聞こえなかった。
いや足音だけじゃない。
自分の息遣いも血の流れる音も皆無。
「――――」
何よこれと言ったが、喋る声さえも耳に届かない。
そうか、これが暗闇の密室。
感覚を破壊する。
視覚、次に聴覚。
何もわからずに黒く塗りつぶされる恐怖。
なるほどこれなら密室と言えるかもしれない。
でもまだ。
妖気だけが自分のアンテナだ。
これだけは長い経験で絶対的な自信がある。
例え暗闇の中でも、妖怪の所在など瞬時に把握できるのだ。
どこ? どこに?
あれれ?
ルーミアだったものはいない。
代わりに別の――多すぎる。
何なのこれ?
二つ三つじゃない。
何十何百の妖気の鼓動。
それが一斉に揺らめいて近寄ってくる。
怖い。
「――――」
少し悲鳴を漏らして適当に攻撃弾を放った。
手ごたえなし。
どうも妖気が嘘臭い。
本物のようであり本物でない。
紫は頭がぐらりと重くなった。
自身の絶対的な力のために、真正直に恐怖することなどは、生涯の内で一度や二度ぐらいだった。
紫は心底恐怖した。
「――――――」
また何かを言った。何を喋っているのかさえ理解できない。本当の恐怖が紫を襲った。
駄目だ。
このままでは暗闇に負ける。
落ち着くのよ紫。
妖気は多いけれども、その妖気の感じを確かめてみればわかる。
――これは違う。生き物じゃない。
暖かみが違う。
体温、ぬくもりが感じられない。
酷く無機質で没個性の物体。
よく観察してみると、数ある妖気の内のほどんどがこれだ。
そうだ。何も恐れることはない。
恐怖を作っているのは自分自身だ。
一つ一つ調べていけば必ず正解に達する。
これも違う、これも、これも。
数が多い。
どうもこの妖気の主は、巧妙にフィルターをかけているようだ。
幾重にも目隠しして正体を明かさない。
そんな用意周到に目くらましをしているのだ。
「――――」
聞こえないが自分を鼓舞するために、頑張れと言ってみた。
霊夢のことも思い出してみた。
そうだ、霊夢に頑張れと言われた気になってみればいい。
「――――」
少し元気が出た。
さてどこだろう。
闇の出所は何処――?。
駄目だ。全部同じように感じてしまう。
いいやまだよ。
もっと感覚を研ぎ澄まさなくちゃ。
八雲の大妖――八雲紫。
こんなんじゃみんなに示しがつかないわ。
鋭敏に、鋭敏に。
限界まで研ぎ澄ます。
違う。
最奥の一部分だけが微妙に違う。
明らかに違う妖気。
でもこいつは闇じゃない。
暗闇が消えなければ密室は解けない。
そこだ。見つけた。
目隠しの妖気と符号も一致する。
さぁネタはあがったわ。
受けなさいこの一撃!
「――――」
「うわぁっ!」
闇が切り開かれていた。
黒尽くめの少女が、腕から血を流して横たわっていた。
「お見事紫」
霊夢がまた手を叩いた。
「そうか……闇の使い手は二人いたのね」
紫は右の方をチラリと見た。腹を押さえて天井を向いているルーミアが、今にも死にそうな顔で息を荒げていた。やはりルーミアは最初の一撃で致命傷を受けていたのだ。自分の感覚に間違いはなかった。
「そう、そっちの妖怪は封獣ぬえよ。暗闇だけじゃなく正体不明を操れるわ。この密室は難問だったかしら?」
「三人がかりなんて卑怯ね霊夢」
密室を構成していた人物はもう一人いた。
白い服を着た、おどおどしている妖精。この妖精が音を消していた存在に違いない。おかげで無理やりに不安を煽られてしまった。
「もういいわよルナ」
「あっ……ああ……すいません」
妖精はすーっと音もなく消えた。同時にルーミアとぬえの肉体も消滅する。
全くこの霊夢は、どこまでこの空間を支配しているのだろう。今の妖怪と妖精も作り物なのかそうでないのか。
霊夢が不気味すぎる。真の暗闇は霊夢自身なのかもしれない。
「霊夢……。もう偽物でもいいから、何故こんなことをするのか教えてくれない? 私もう疲れたわ。へとへとよ……」
と紫は音をあげた。
集中しすぎて精神が磨耗していた。もう何もしたくなかった。
「このまま終わらせるなんてしないわよ。どちらかが倒れるまで……もう時間がないわ。さぁ巻いていくわよ!」
「れ、霊夢。私本当に」
「立って紫。あんたらしくないわよ」
「でも」
「そう……ならしょうがないわね」
やっと分かってくれたと思った。
そうだ、霊夢は自分の思い通りにはなるはずだったのだから。
この展開はおかしいとしか思えない。
「立って下さい紫さん」
「ありがとう霊夢」
手を伸ばす。ひんやり。
「あら霊夢あなたこんなに手が冷たかったっけ? まるで幽霊みたいよ?」
いや、霊夢ではなかった。
全く霊夢とは似つかない妖怪。
「さっ第四の密室ですわ。私は古明地さとり。夢の密室と形づくるため、はるばるこうして――」
「ちょっと、霊夢はどこよ? 私はもう嫌だって言ったじゃない!」
「あらそうですか。困りましたねぇ。……では私とお話しませんか? 後で霊夢さんには言っておきますから」
「な、なんでそうなるのよ」
「ふふっ。お話しましょう、ねぇ紫さん」
景色が変わる。周りはお花畑。
蝶々が乱れ飛びほんわかとした雰囲気。
白い椅子とテーブルに二人腰掛けている。
「はぁ……」
「ねっ、お話しましょう」
紫は阿呆のように呆けた。
「ねぇ紫さん。私のこと覚えていますか?」
さとりはそう聞いてきた。一定でぶれがない、どこか冷たい感じのする声だった、
「えー、ええと。地霊殿の主人の古明地さとりさんね。いつぞやは霊夢がお世話になったようで」
「そうじゃなくて。ずっと昔ですわ。昔の昔、大昔」
「んー」
紫は何とか思い出そうとした。
古明地さとり。さとりさとり。そうかあの覚妖怪の一族だった。
「あ、ああ。あーあ。古明地さんね。あの時は仕方がなかったのよ。ああするしかなかった。地底に――そうしなければおさまりがつかなかったの。あなたの親族達にはご迷惑被ってもらったけど……」
「ええ。私どもはそこらへんの事情は、とぉってもよくおわかりでしたわ。もう永遠とも思える昔のこと――。もうあの時を知る人もほとんどいないんでございますのよ。過去のことは水に流しましょう。私、さばさばした性格なんですよ。昔のことなんてぜーんぜん気にしない質で……」
さとりは甘ったるいような声で言った。よかった。もう昔のことだし風化して時効だ。
「そそ、そうねー。今が大事よね今が」
「うふふ。その通りですわ紫さん」
ふっと息をついた。何だか気が抜けた。
はて自分は何をしていたっけな。急にお花畑に連れ込まれた。
自分は何を?
「紫さん」
「は、はい?」
いきなり声をかけられてびくっとした。目が潤んでいた。何か妙な気持ちなりそうな目だった。
「霊夢さんは酷いお方ですね。恩人である紫さんをこんな目に合わせて」
「えー、ええと」
そうか。思い出した。
密室ゲームとか言われて、氷の妖精にいじめられたり、暗闇の中を無駄に歩かされた。一体霊夢は何故こんなことしたのだろう? いや霊夢ではなかったかもしれない。
「霊夢さんは酷いお方。紫さんが手塩にかけて育てたのに……。恩を仇で……」
「ん……。ううーん。そうね霊夢ったら何考えてるのかしらね。もう」
「うふふ。その調子ですわ」
「はぁ……」
何故か心に優しく響く。さとりの声を聞いているだけで気持ちよくなる。危険だと思っても、甘い雰囲気に流されていた。
「私も人の上に立つ者として、紫さんのお気持ちよくわかりますわ。大変でしょう? 影で支えているのに邪険に扱われて。それでいて責任は重大。やってられませんわね。ふふふ」
「あ……、うんそうね。霊夢は――」
「紫さんのお子さんと言ってもいいんでしょう?」
勝手に先を続けられた。
「え? いやいや。そんなんじゃないの。ただ……」
「ただ?」
じっと見つめられる。飲み込まれそうだ。
「ふふ。子供と一緒ですよ。愛を与えて育ててあげればそれは同じ」
「そ、そうかもね」
とぎまぎして正面を見れない。
何故だろう――おかしい。
ここは密室? 夢の密室。
だとしたら――。
「乾杯しましょう紫さん」
「あ……」
いつの間にか二つ、ワイングラスに赤い液体が注がれていた。
「さぁ二人の門出を祝って」
誰と誰の門出なのだろう。
グラスがカチリと音を鳴らした。
ぐっと一気飲みする。
「ふふふ。いい飲みっぷりですわ」
「そ、それはどうも……」
もうどうでもよくなってきた。
世界がぐにゃりと歪む。
紫は饒舌になっていた。
ぺらぺらと勢いよく、さとりに向かって喋り続けていた。
「そうねー、あのねー、霊夢ったらね……酷いのよ! 私が後で食べようと思っていた大福餅を先に食べたの!」
「そうですか。ふふふ」
「ああ私が寝ている時、いきなり髪をつかまれて起こされたわ」
「あらあら」
口をついで出るのは霊夢の愚痴ばかり。さとりはそれをニコニコとしながら全部聞いていた。
しまいに紫は涙声になりながら管を巻いていた。
「霊夢……。私があんなに愛を注いであげたのにどうして……。ああ私の育て方が悪かったのかしら? ああ!」
紫は頭をがっと抱えた。
「そんなことはありませんわ紫さん」
さとりは少し溜めた。
「紫さんのやったことは正しいですわ」
「あー、そう、そうなのよ。私は正しい。幻想郷の、みんなためを思って日夜努力しているのよ。それを誰一人わかってくれないの……」
首を捻じ曲げて、すねるような仕草をした。さとりの小さな顔が近づいている。髪の毛がふわりと頬にかかった。
「紫さんは、もっと愛されるべきですわ」
「愛?」
「そう愛です」
「愛……か」
ずっと忘れていたような気がする。自分は本当に愛されていたことがあるのだろうか?
「愛を与えれば返ってくる。しかしいつもそうとは限りません。みんな愛に飢えています。ね? 紫さん」
「はぁ……」
頭がぼーっとする。脳みその中心周辺がじんわりと熱を持つ。
「だから」
さとり少し間を置いた。
「私が愛してあげます」
「ええ?」
「変ですか?」
「いいえ。でも――」
「二人で愛し合いましょう」
「う……」
右手を両手でぴったりと抱擁される。
さとりの唇がもう数ミリの所まできていた。
何だろう。とてもまずい予感がする。
このまま。ああ愛が。
霊夢、霊夢。助けて霊夢。
「ふぅ」
紫は顔を背けた。このままでは霊夢に一生会えない気がしたのだ。
「悪いけどさとりさん。私は満足してるのよ」
「へぇ何故ですか?」
「霊夢がいるからよ」
「でも霊夢さんは、紫さんに酷いことしたんですよ?」
「ううんいいの。私には霊夢がいるだけで幸せ。ほら出来の悪い子ほど、可愛がりたくなっちゃうじゃない」
それを聞いて、さとりは頬をぷくっと膨らませた。そして噴出した。
「くくく……、ふふ、あははは! はーっ、はぁ……失礼。確かにそうですわね。その気持ち、よーくわかりますわ」
「さとりさん?」
「いえ。いい夢の中でしたわ。それでは……」
さとりは立ち上がって、花畑にまぎれて消えた。
景観が寂れていく。
まるで全ての輝きの源を失ったように。
「紫。紫起きて?」
「ん、んん?」
霊夢の野暮ったい顔が真上にあった。
「よくやったわね。夢の密室は突破したわ」
「んあ? 密室?」
「何ぼけているのよ。ここは私の空間だって言ったでしょ」
「ああー。そうだっけ」
そういえばそんなこともしていた気がする。
「さて残る密室は後一つ――ここを抜ければはれて自由よ」
「自由? 私は元から自由よ」
「いいから黙りなさいよ。……できることなら――いえ何でもないわ」
霊夢は感極まったような表情をした。
――泣いている?
「ちょっとちょっと。急にどうしたのよ? 泣き出すなんてあなたらしくないわよ?」
「紫……。ちっもう時間ね。いい紫? 絶対密室を抜け出すのよ? あんたにはそれができるはず」
様子がおかしい。
まるでもう二度と会えないような、永遠の別れ際のよう。
「れい……」
距離が遠くなった。
広がる。
二人の距離が。
何にもない隙間が二人の間を埋めていく。
「最後に、嬉しかったわよ紫」
その声だけが聴覚に届いた。
何のこと?
待って霊夢――。
「…………様? ……紫様? おお目を覚まされたのですね!」
再び覚醒した。今日はよくこんな目にあう。
「藍……?」
「はい紫様。あなたの式の藍でございます。ああなんてこと。紫様。後、後数十秒早く起きてくれたならば――」
「どうしたの藍? 何で泣いているの? 何が起こったの?」
ぐっと上体を持ち上げる。ずっと寝ていたのかあちこちが痛い。
右手に感触。冷たい?
まるで死人の手のよう。
死人?
「霊夢っ!」
はっとして隣を見る。
博麗霊夢が腹に大穴を開けて――絶命していたのだ。
「霊夢霊夢! どうして? 何で霊夢が死んでいるのよっ!」
「紫様――」
藍は涙を拭きながら、重い口を開いた。
「紫様。幻想郷はもう終わりでございます」
「何でよ……」
「異世界からの侵入者です。わずかな結界のほころびからもぐりこんだのでしょうか。その敵の力はとてつもなく強大でした。あの侵攻の度合い――幻想郷側に密通者があったのかもしれません。陥落は一瞬でした。皆々様は奮闘したのですが……絶望的な力の差に一人、また一人と――。霊夢様は最後まで孤軍奮闘していましたが……」
そんな馬鹿なことがあるわけないと思った。これは何かの間違いで――そうか、まだ夢の中の密室の中で……いや霊夢はここで死んでいる。いやそれこそが密室で――。ああ頭がおかしくなる駄目だ。頬をつねる痛い。やはり現実? いやいやいやいや。
「なっ、何で私を起こさないのよ」
「それは――」
紫は次の言葉を待った。
「紫様は流れ弾に当たって、今の今まで昏倒していました。覚えていませんか?」
「あ」
そういえば、そんな気もする。何かよからぬ空気が漂ったと思ったら後頭部に一撃。どうも記憶が曖昧だ。
「私のせい……。私のせいね……」
「いえいえ紫様。私のせいでございます。霊夢様もお救いできませんでした。ああ!」
霊夢の死に顔を見た。
冷たかったが、ほんの少し前まで生きていたような、そんな思いがする。
ぬくもり。
霊夢の顔は笑顔で固まっていた。
死んで顔の筋肉が緩んで、そう見えるのかもしれないが。
「霊夢様は、死ぬ寸前まで、紫様の手を握り、ひしと抱き合うようにしていました。耳元に口を寄せて、何かを言っていました。聞こえませんでしたか紫様? 私がこの場いるのが恥ずかしいぐらいに……うう」
藍はどっと泣き崩れた。
「霊夢……」
夢――だったのだろうか。
夢の中の密室。
だとしたらあれは。
「藍。橙や幽々子達は?」
式は無言で首を振った。
「そう。わかったわ。ここは隠れ家ね。でも……」
「紫様」
藍が呼び止めた。
「霊夢様の最後の伝言でございます。どうか紫様だけは生き残って欲しいと。幻想郷を捨ててでも、別の次元へと旅立って欲しいと……。そう何度も念を押して言っておりました」
「霊夢が? はぁ……そういうことだったのね」
「紫様?」
ようやく合点がいった。
最後の密室はここにあったのね。
箱庭――幻想郷。
「でもね霊夢」
紫はもの言はぬ屍になった霊夢に、優しく呼びかけた。
この密室は解けそうにない。
何故なら――。
「私は幻想郷を愛しているからよ。もちろんあなたも」
そうだ。この密室は完全なる密室。この幻想郷は何物にもかえがたいのだ。
「藍」
「はい紫様」
「最後まで駄目な主人でごめんなさいね」
「いいえ! 紫様は最高の主人でした!」
「そう……言ってくれると嬉しいわね。でも、私はそんなんじゃないの」
そう言って部屋の外の様子を確認する。
幻想郷は崩壊の一途を辿っている。
そしてもうここも。
この幻想郷は最高だった。
自分の作り上げた理想郷の、落とし前はきっちりつけようと思う。
「紫様!」
藍が叫ぶ。
わかっている。
膨大なエネルギーの凝縮。
白い閃光が放たれた。
密室から逃げる手段は――。
「私は幻想郷の――――母よ」
霊夢の方をチラリと見た。
やはり笑っていた。
「ごめんなさいね。霊夢」
破滅の稲光が刺さる。
八雲紫は崩壊した。
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