
「咲夜、私神様になりたいわ」
「は?」
それは昼下がりのいつものティータイムの時間。
現在の我が主人である、レミリア・スカーレットお嬢様の言葉だった。
「神様よ神様。わかるでしょ? か、み、さ、ま」
「はぁ……」
私は返す言葉が見つからず、しばし逡巡した。
ここにメイドとして雇われてからもう二ヶ月ほどになる。通常の業務にもようやく体が慣れてきたところだ。
しかしどうしても慣れないものがある。それはこの血塗られたような紅い壁と――紅魔館の住民の奇妙な人間関係である。それはどうにも一言では言い表せないのである。私が思うに――それは理解しようとすればするほど、茫洋で極めてつかみ所がなく、大海原へと旅立つ小船のように広大無辺で寂しく――しかし行き着く先は一つに決まっている。
私自身もそれを表現する言葉に窮する。
そんな腑に落ちない奇妙な違和感を抱えたまま、私は今日も日常の雑事に心血を注ぐ毎日なのである。
「ねぇ咲夜。紅魔館には神様が足りないと思うのよね」
その違和感の、大元の一人であるお嬢様が言った。
ほとんど新人である私が、こうして紅魔館の主人の世話をしているのには理由がある。何と二ヶ月やそこらで、メイド長の役職に任命されてしまったのだ。私はもちろん頭を下げてお断りしたが、お嬢様はそれを頑なに許さなかった。あまり拒むのもよろしくない。主人の命令は絶対であるから、私は二度ほど首を振っただけで承諾した。
おかげで他の妖精メイドから妙な視線、嫉妬に似た感情で睨まれる結果となった。それまでは良好な関係であったのに、お嬢様の一言がそれを無にした。もちろん今は部下であるから、それに不平不満を唱えることはない。だがいつかは爆発する。それならばその前に逃げるだけである。
「神様ですか? お嬢様は……悪魔ですわね。でも、それが何か?」
お嬢様を、あまり待たせてはいけないと思いそう答えた。
齢500歳に至ると言われる吸血鬼。しかしその容貌は、人間では十歳にも満たない幼い子供のようだ。紅く大きな目がキラキラと光り、長い睫毛がはじける。透き通るような白い肌は、小柄な体をたおやかに包み、その妖精のような可愛らしさはとても人間には追いつけない。
薄ピンク色のドレス、袖口や裾にふんだんにあしらわれた花模様のフリル、大き目の赤いリボン。膝丈より短いスカートからは、純真無垢の脛や腿が、あろうことか無防備のまま風通しよく、その外気に晒されているのだ。見た目だけで言うならば、レミリアお嬢様は、この紅い屋敷の中でも紅一点――まさにオンリーワンである。
ただし、その美しさと気品が言動を伴っているわけではない。吸血鬼とはいえ500歳。いくら何でも思慮分別のない子供というのはまずい。もう少し、主としての威厳が備わればなと、私は常々思うのであるが、この館に蔓延する気質、それが流れをせき止めているのではと思う。正体不明の異常な磁場。ただやはりそれをこの目で直に見ることはできない。
「わからないの咲夜。神様ってのは偉いのよ。だから私は神様になりたいのよ」
「どうして偉いんですか?」
「偉いから偉いのよ! そんな前提を否定されても困るわ」
なんとなく答えたが、それは間違いだったようだ。
「あのね、この幻想郷には何人も神様の格がいるのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。で、今からそれをあなたに教えてあげるわ咲夜」
「いえ、私は別に」
「いいから聞きなさいよ」
「はい」
私は半ばお嬢様に流されるようにして、耳を律儀に傾けた。スイッチが入ったように何かに夢中になる。この状態のお嬢様は何を言っても無駄だ。
「まず八雲紫。これは幻想郷の賢者でもある創造者。いわば最も神に近い存在よ」
「はぁ」
私はあまり興味がなかったので、気の抜けた声を出した。
「次に永遠亭の八意永琳。オモイカネとかなんとか言う神と関係が絶対あるわよ」
「あれ? 想像なんですか? あまりイメージでものを言うのは……」
「いや、私の勘は外れないから。ねぇ運命力ってあるじゃない。私はその力があると思うのよね」
「それならば仕方ありませんわね」
運命――。
その定義を型に押しはめることは難しい。定められた未来、それを予知する。
それが運命。
お嬢様の器量ではできそうな予感が全くない。
取らぬ狸の皮算用。
そんな子供じみた酔狂な遊びにしか思えないのだ。
「そして――妖怪の山に近頃神様が下りたそうじゃない。……強大な力を持ってるのよあの妖怪の山は――。あああ怖い怖い。このままじゃ紅魔館も攻め潰されてしまうわ……」
「いえお嬢様。神にも色々ありますわ。確かにあの山の二柱は軍神と祟り神。でも遠い昔のことなのでしょう? 他の神も戦いを好んでいるわけではないのでしょうに。何も心配することはありませんわ」
私はそう言った。
「それでも怖いわ。戦力を増強しようかしら。うんそれがいいわ!」
「はぁ」
「何よ咲夜。備えあれば憂いなしよ。この歴史ある紅魔館を滅ぼされてからでは後の祭りよ。主君は先の先まで世の中の展開を読むのよ」
「そうですが。しかし――」
あまりにも見当違いの予見では意味がない。
そう言おうとしてやめた。
私がここで何か言っても仕方がない。私は入って二ヶ月の新人のメイドだ。口を挟むべきことではない。
「こうしてみると神様もたくさんいるわね。で、お次は地底の地霊殿ってとこね。ここにも不愉快なことに神様がいるのよね」
「へぇそれは初耳ですわね」
ただの人間には地底というのは、はなはだ異世界に感じてしまう。
「なんでも神様を直接食べて、神の力を宿した地獄烏がいるらしいの。神様を食べるだなんて――ばちが当たらないのかしら?」
「その辺はよくご存知ないですね」
「ふん……」
お嬢様は絨毯の上を練り歩いた。
「あー最後にあそこのお寺。そう命蓮寺! あそこも毘沙門天とかいう神を崇拝しているわ。やっぱり幻想郷には神様ばかりなのよ……。ああ咲夜怖い! 紅魔館だけが神様がいない! このままじゃ取り残されてしまうわ! ああ!」
「お嬢様……」
私には何故取り乱しているか理解できなかった。人間よりも遥かに強大な力を有する吸血鬼――。それだけで十分なのではないか。そもそも神とは――。その概念すら危うい。
「この紅魔館を取り仕切っている。それはお嬢様、神の仕事ですわ。神とは支配者につけられる後付の名前では?」
「私は悪魔よ咲夜。悪魔は神にはなれないの」
真顔で返された。私は次に何を言っていいのかわからなくなった。
「い、いえ。ですから強いこと、他人をまとめる力や飛びぬけた力を持つものが、神と言われるのですわ。神と周りが崇めればそれは神になりますわ」
「でもねぇ咲夜。それじゃ私は納得いかないのよね。八坂神奈子や洩矢諏訪子は生まれながらにして神じゃない。軽々しく神を名乗ったら天罰が下るわよ」
「は、はぁ……」
悪魔の癖にそんなことを信じるのはどうなのかと。
もう私はこの場から逃げ出したくなった。
「あ、そうだわ。パチェに聞いてみればいいじゃない。何で私今まで気づかなかったのかしら? 咲夜、今すぐパチェを呼んできて?」
「はい……今すぐに」
私は頼まれごとをもらい受けてしまった。それもなんて厄介な。
大図書館の大きな扉の前に立つ。
パチュリー・ノーレッジ。知識人という名目で居候しているらしいが、私は彼女がその役割を演じた場面は見たことがない。まだ二ヶ月だからであろうか。しかしあの魔女は、未来永劫何かをする気配は感じられなかった。一日じゅう同じ腰掛に座り黙々と読書に耽っている。まるで外の世界から自分を隔絶しているように。
「あ……、小悪魔さんよかった。パチュリー様にお取次ぎ願います。レミリアお嬢様がお呼びだと」
私は重そうな本を運んでいる女悪魔に声をかけた。
黒い羽と黒い耳。そして何とも言えないようなはにかんだ表情。この悪魔はどうしてか小悪魔と呼ばれている。この図書館の司書のような役割を果たしているが――何故小悪魔という仮のような名前をしているのか。私にはそれを聞く理由も度胸もなかった。ただ皆が小悪魔というからそれに合わせているだけだ。
「あぁ咲夜メイド長。お嬢様からですか……。今すぐお呼びいたします」
「すいません小悪魔さん。どうか」
「ああ気にしなくていいですよ。私は慣れてますから」
私は頭を下げた。小悪魔がいてくれて本当によかった。
「それでは……」
図書館を後にする。
パチュリー・ノーレッジは、私の考える普通の感覚とは著しく逸脱していた。正面に立ってまともに話すことさえ厭われた。
「ふぅ。二ヶ月で慣れて来たところだけど……。そろそろ次の行き先を決める時期かしら?」
この館はやはりどこかおかしい。
紅い紅い廊下に壁も全て紅。絨毯も家具もほとんど紅である。
並みの神経を持っていたら普通は耐えられない。何と言うか気の休まる場所がないのである。
それでも私がこうやって二ヶ月もここで生活をしているのは――どこか人道にはずれた人間である証なのだろうか? いや、そうではないと信じたい。私は正常な人間十六夜咲夜。行き場を求めてさまようしがないメイド――。私にできる仕事と言えばそれくらいだからだ。
廊下をひた歩く。
突如、獣が唸るような怪しい音。
「何でしょうね。この嫌な音……。まるで人の声のようにも聞こえるし……」
そう、私は毎日この奇妙な振動音を聞いている。それは地下の方から響いてくるように思えた。
地下への出入りは固く禁じられている。というか地下へと続く扉は厳重に封鎖されている。鍵はお嬢様が管理しているのだろうか。私がおいそれと地下へ出向くことは不可能である。
私は一度好奇心から、同僚の妖精メイドにこの音の正体について聞いてみたことがある。結果は無言で首を振られた。誰に聞いても同じだった。どうやら禁忌の質問であったらしい。私は何かスパイのように思われるのも嫌だったので、我慢して自分の胸にしまい込んだ。
「でも……毎晩毎晩こんなの聞かされたらやってられないわね。早く……ここ出で行った方いいかしら」
夜になるとその音は大きさを増す。
否が応にも不安を煽られ、睡眠時間を削られてしまう。
「我慢するにも限界があるわ」
私はそう結論づけた。
広間でお嬢様と落ち合う。
しばらくして、パチュリーがとても不機嫌そうな顔で、のっそりと顔を出した。後ろから音もなく小悪魔がついてきている。
「あーあーあー、ゴホッゴホッ! ああ何てことをしてくれたのレミィったら! 私の読書時間中は声をかけないでって言っていたのに……。いいレミィ? 今も私の時間は削られているのよ。もう五分! 一秒二秒三秒――。何てこと! その埋め合わせがあなたにできるのかしらレミィ?」
第一声に魔女はそう言った。何様のつもりだろうか。第一この魔女は起きている時間の九割は本を読んでいる。詳しく調べたわけではないがそういう確信がある。
お嬢様とこの魔女の関係はよく知らないが、いつもこんな調子なのだ。ヒステリック気味に声を尖らせて横柄な物言いをする。よく一緒にいられるものだと思う。
「パチェ。図書館の増築の話だけど、今月開始するわよ。それと――新しい蔵書も二千冊ほど増やす予定だから」
「あらっ」
この声の変わりようは恐ろしかった。まるで、恐ろしかったのだ。猫撫で声をさらに十倍撫でたような声だった。
「んもおー。それならそうと早く言いなさいよぉー。私とレミィの仲じゃない……ねぇ? んふっ、キスしちゃう♪ ふふっ。……んー? 何みてんのよ? ってあなた誰? まさか、侵入者――」
「メイドの咲夜よパチェ」
「申し訳ございませんパチュリー様」
私は思わず謝っていた。そうする理由などないのだが、謝っていた方がここは賢明だと思ったのだ。お嬢様が助け舟を出してくれなければ、私はここで窓から放り投げ出されていたかもしれない。
「ふーん。ああっ、そーいえば。紹介されてたわね。うふっ。ごめんね咲夜ちゃん。私ぃ、人の顔覚えるの苦手だからぁーきゃはっははは!」
魔女の笑い声。耳障りでたまらなかった。この館の使用人でなければ、一目散に逃げ出していたところだ。
「んーそれで。何の用だっけレミィ? 私には時間が限られているから早くしてよね?」
「あ、うん。あのねパチェ――」
お嬢様は手短に神ついて説明した。
魔女はそれをうんうんとうなづきながら聞いていた。不健康そうな血の気のない白い肌。潤いが足りないのかかさついている。尖った顎が魔女の性格を表しているように見えた。内面から滲み出る本物の悪――。魔女と名乗るぐらいだから、少しぐらいは悪なのだろうが、とことん性根が腐っている。それもどうあがいても矯正しようのないくらいひん曲がった巨木。
私はそんなことを思いながら、二人のやりとりをじっと聞いていた。
「ふーんふんふん。話は大体わかったわ。レミィったらそんなことで悩んで小心者ね! ……小悪魔!」
「はい何でしょうパチュリー様?」
小悪魔は呼ばれて、ぴんと背筋を伸ばした。
「いいレミィ? いかにあなたの考えが愚かか教えてあげるわ。神様なんてゴミよゴミ! 神なんているわけないでしょ? 信じられるのは自分だけよじ、ぶ、ん!」
「あ……でも私の言ってるのはそういうことじゃなくて……」
「いいから似たようなもんでしょ。小悪魔! 今からあなたは神様よ」
「はぁ?」
と素っ頓狂な声をあげる小悪魔。
「小悪魔に変わりまして神様よ。どう? いい気分じゃない? 小悪魔より随分ましでしょ? 神様よ神様」
「う、うーん。そう言われてみると何だか」
「そうでしょ? で、神様になったお祝いに、今までの仕事をこれからは二倍速でしてもらうわね。あっ、二倍の量でもいいわよ」
「ええっ? 何でそうなるんですか?」
「神様だもの。偉いものすごいもの。それぐらい当然でしょ? もしかして私に歯向かうつもりなの? きゃはははぁー。あなた私に受けた恩忘れたわけじゃないでしょうねぇー?」
魔女は高らかに笑った。
名前だけの神様。偽りの神――。
何の恩恵があろうか。
「うっうっ……待遇が前より酷くなった気がします……」
「ねっレミィ。神様なんてこんなものよ。幻想郷の神なんて馬鹿ばっかりよ。自称でも周りが呼んでも神になれるの。もちろん、あなたも崇高なる神の一員よ。理想的なスカーレットデビル! 神の中の悪魔の中の最も悪魔らしい神の中の悪魔神よ」
もうお嬢様のことなど、どうでもいいということはわかった。
「そ、そっかー。パチェに言われると何だか私安心したわ」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう」
そして咳払いをして、魔女は大口を開けて叫んだ。
「あーーっ。そうだわ忘れてた! 明日はマダム西行寺・ルノワール幽々子の大長編、『悪食霊』の発売日じゃない。ねー神様、今から本屋の前に並んできてよ」
「えーっ。そんなぁ……嫌ですよ」
「いいから行きなさいよ。神様なんでしょー? ルノワール幽々子と言ったらすごい人気なのよ? 並んでないと売り切れてしまうわ。ほら早く早く準備して?」
「そんなぁ。本ぐらいきっと明日の午後でも残っていますって」
「馬鹿! その思考が命取りなのよ? 欲しい時には大金払っても買うべきなのよ? わかる? 本がなくなればいくらお金があっても買えないのよ? その瞬間を逃すことがどれだけの損害を生むか――」
「はいもうわかりましたよ……」
呆れたように言った。小悪魔は主人には絶対に逆らえないようだった。
「ふふふーん。さすが神様ね。上下巻で五千ページあるから頑張ってね。あっ傷つけたりしたら承知しないからね」
「はぁ……神様って一体」
魔女は意気揚々と出て行く。それに続き、とぼとぼと、神様に無理矢理された小悪魔は部屋を辞した。
部屋には私とお嬢様がぽつんと残された。
嵐が過ぎ去った後のように、寂しさと静けさだけが募る。
神様とは結局何であるか。本当にはっきりしたことは、何も教えられていない気がする。名ばかりだけ。そう思っていれば神様など気にしないはずなのだが。
「お嬢様、あの……」
「なに咲夜」
「あのパチュリー様なのですが……、お嬢様の方から……少しばかり何か……でないと……」
どうしてもあの振る舞いが許せなかった。
「咲夜」
「はい」
深い怨嗟がこもったような声。
「二度目はないわよ。私とパチェは家族なのよ。口出し無用よ。メイド長でも容赦しないわよ」
「は、はいっ」
私はぴしっと背筋を伸ばした。やはりこの少女は悪魔だ。可愛げな表情を見せても、人間を殺すのに何の躊躇もない。ここは紅い悪魔が住む魔の館。人間がおいそれと立ち入れる場所ではなかった。
が、いかせんもう限界だ。
「咲夜」
「はいお嬢様」
今度は無邪気な声だった。
「ちょっと気分変えたいわ」
「はい」
「あれやって」
「了解しましたお嬢様」
あれとは手品のことである。
私は手短にその準備をした。簡単な手品の初歩の技術。ちょっと手先が器用であればこなせる。小手先だけの、はっきり言って技術と言えるものではない。
「わくわく。早く始めてよ咲夜」
「ええ。ではこの右手に乗せました、何の変哲もない赤いボール」
私はこの手品がきっかけで、お嬢様に気に入られた。人間、何が役に立つかわかったものではない。
「そのボールが……あーら不思議! ぱっと左手に! 種も仕掛けもありません」
「うわぁー。やっぱ咲夜の時止めは素晴らしいわね!」
「あの……お嬢様。これは何度も言ったように手品なのですが……」
「ふふん。私の目をあざむこうたってそうはいかないわよ。咲夜は時を止める能力を持っているのに、それを必死に隠しているのよ。いい加減、観念しちゃえばいいのに」
これだ。何度言っても聞かない。もう完全に時を止める瀟洒なメイドにされている。
「ほらぼけっとしてないで、次やってよ次!」
「は、はい。さてこの赤いボールが……はいっ! 綺麗なお花に早変わり!」
「わぁー、すごーい。さすが!」
「ありがとうございますお嬢様」
私はぺこりとおじぎをした。全く、時止めメイドなんて言われさえしなければ、こんなことぐらいいくらでもするのだが。
時を止めるとは。
そんなことができるなら、神の力を持つに等しいではないか。こんなちっぽけな人間が、時を止めるなどと――時間というのはそんな簡単な概念ではないと思う。言うならば――超異次元の不可思議な神域の領域。私みたいな卑小な人間が、踏み入れていい場所ではない。
「そうだわ。今度咲夜の時止めをみんなに発表しましょう! みんなきっと驚くわよ。ふふふ。楽しみだわー」
「お嬢様。それだけは堪忍を……」
「何よ? 私が決めたことに文句言うの?」
「いえそういうわけでは……。ただ時止めだけは、なしにしてもらいたいのですが……」
そんな恥ずかしい思いは願い下げだった。
「何よ。そんな恥ずかしがることないわよ。みんなに咲夜を知ってもらういい機会じゃない。瀟洒な時止めメイドなんて鼻高々よ」
「いえ……」
「ふふ。何も言わせないわよ。もう決めたからね。次の日曜がいいかしら? うふふ。美味しいお料理準備しなくちゃ」
鼻歌を歌って歩く、お嬢様の後ろ姿をぼうっと見続けた。
そんな辱めを受けることなどできない。いい機会だと思った。踏ん切りがつくというか、これで確固たるここをやめる理由ができる。しかしお嬢様には何と言えばいいのだろうか。いや言う必要はない。発表会の前にいきなり辞めるだなんて、そんなことをお嬢様が許すはずがない。きっとヒステリーを起こして泣いて抱きつかれる。
それならば――。
「脱走するしかないわね」
見つかれば死ぬ以上のことをされるに違いない。だがもう我慢できなかった。最初からやめておけばよかった。こんな悪魔の住む館。長く勤まるわけがなかったのだ。私の目測が誤っていた。ふらふらと当てもなく、各地をさまよう生活に嫌気が差して、つい行きずりの館に転がりこんでいた。
「止めると決めたら――次の居場所は」
脱走となると給金ももらえない。やはり次を決めていなければ路頭に迷うことになる。この計画は慎重に行わなければならない。
「私はこんなとこで朽ち果てるわけがない」
それは強がりだったのかもしれない。自分に特異な能力、突飛な才能があるかもしれないという、穿って歪みきった考え。もし時を止める能力でもあれば――いやそれはあまりにも飛躍しすぎている。
もっと現実的な線を。今はメイド業に従事するしかないのが悲しいことだ。
「決行は……、次の日曜までには何とか決めなくちゃ……」
はっと口を閉じた。メイド妖精が一人こちらを見ていた。
危ない。
私は一人だけ人間の、しかもメイド長。いつ彼女らに手酷い仕打ちを受けるかもしれない。
今すぐにでもここを逃げ出したかった。ああ今すぐに。この紅い血の臭いのする館から。
私は次の日買い物に出かけることにした。色々と用意しておきたいものもある。そして次の行き先も。
紅魔館には大きな門が存在する。荘厳というにふさわしい、紅い館と対比して、その黒光りする門はいかめしい威圧感がある。
「あっ十六夜さん。お出かけですか?」
私に声をかけてきた中国風の女は紅美鈴と言う。背が高く筋肉質で、長くて赤い髪をみつあみに結わえている。門番と名乗るからには武術の達人なのであろうが、私は一度もこの門番が、外敵を倒した現場に遭遇したことがない。いや外敵が来たこと自体この二ヶ月記憶がないのだ。
たまの来客で受け答えをする程度なのだろうか。門番とは気楽な職業――いやそんなわけではない。椅子もなく一日中立ちっぱなし。この女はもう慣れたのであろうか、この前門を通りかかったら立ったまま寝ていた。よっぽど退屈なのかと思う。だがその退屈を苦にしている様子はない。
「ええちょっと買い物に。美鈴さん」
「そうですか十六夜さん。ついでに鍛えていきませんか?」
これだ。この門番の口癖はこれである。彼女から見れば私は華奢で貧弱すぎるのであろう。しかし人間の女の私にとっては十分な筋肉だ。あれこれ強制される筋合いはない。
「いえ結構です美鈴さん。私、仕事がありますので」
「あっそうですか、十五夜さん……おっと間違えましたすいません」
門番はしまったという風にして、舌をぺろっとした。
最初にイザヨイさんと言っておきながら何故間違えるのか。甚だ理解に苦しむ。この門番の名前の間違う頻度は異常だった。初めに自己紹介をしたのに、次の日には忘れていた。ジュウロクヤさんジュウゴヤさん、何度訂正しても次の日にはそう呼ばれる。 もうこんなに間違えられるくらいなら、ただのメイドさんと呼ばれる方がましである。
「どうですか十六夜さん? もう紅魔館には慣れましたか? 私人間がこの館に住むなんて聞いてびっくりしたんですよ。何たってこの館は紅いですからね。それも由緒ある長い歴史を持った悪魔の住む館。私は数百年前からここで門番をしているんですよ。雨の日も風の日も雪の日も日照りの日も雹が降っても雨の日も。門って言うのはですね。館で一番大事な場所なんですよ。玄関を見ればその家に住んでいる者の位がわかるって言いますけどね、門にもそれは当てはまると思うんですよ。その人を映す鏡である門を守っているのが、この紅美鈴であるわけですよ。門と私は切っても切れない関係でありましてね、この前も……」
「あの美鈴さん。私急ぎますので」
門番はこうやって長い話をするのが常だ。しかも同じような話を繰り返す。一昨日だかも捕まえられてありがたいご高説をのたまわられた。彼女の話は門が八割と言っていい。門の有用性、そして自分がいかに優れた門番であるかを事細かに説明するのだ。
「まぁそう言わないで下さいよメイド長さん」
肩を痛いぐらいにぐっとつかまれた。心なしかメイド長という言葉に、重い悪意のあるような――蔑視と嫉妬に似た感情が感じられた。
「離してください美鈴さん」
「ちょっとお話を聞いてくれたら離しますよ」
にんまりと細い目でみつめらた。
門番の初めて見せたような、狡猾でいじ汚いような顔だった。
「紅魔館に今までメイド長なんて役職はありませんでした。お嬢様はいつも側近数人でお世話しているはずです。なのにあなたはメイド長ですね。これはいかに? しかも人間が。ここに来て二ヶ月なのに。この昇進具合は腑に落ちないんですよねぇ……」
ああそうかと思った。この門番は私に。
毎日門の前で定型的な行動を繰り返す。昔は敵襲もあったのかもしれないが、今はとても平和な日常が続いている。
何かはけ口が欲しいのだな。それならば私はうってつけだ。
新人で二ヶ月の人間のメイド。しかもお嬢様の身の回りを世話をするメイド長。
「何が言いたいんですか美鈴さん」
私はできるかぎり冷静な声で言った。
「どうやってお嬢様を誑し込んだんですか? え? 純真なお嬢様の心につけこんで……。全く、こんな貧相な体。私には何の魅力もないように感じられるんですがねぇ。一体どんな手練手管を使ったんですか? ええ? 私にも教えてくださいよ」
「い、痛……」
腕をぐっと捻じ曲げられた。みしりと骨の繋ぎ目がきしむ音がする。
「どうなんですか十六夜メイド長」
門番の目がカッと見開かれていた。明らかな敵意。このような感情を、あからさまにぶつけられるのは初めてだった。
この門番にとっては、人間の細腕を折ることなど簡単だ。私はなんて無力な存在なのだと思う。ここはどうにかしてやり過ごさなければならない。
「い、いいえ……」
「いいえじゃわかりませんよ」
ぎしぎしと関節が悲鳴をあげているのがわかる。痛い痛い。
「ううっ!」
「おっと危ない。ここが限界でしたか。我慢強いんですね。危うく大事なお嬢様のメイド長を、傷物にしてしまうところでした。あはは」
折れる――と思った瞬間解放される。私は腕を押さえて崩れ落ちた。肩の付け根に気持ちの悪い痛みが残っている。
「はぁ、はぁ……」
「ふふん。お嬢様に取り入って何を考えているつもりか知りませんが、私の目の黒い内はそうはさせませんよ。人間の振りをした妖怪なんてことはままあることです。すぐに化けの皮を剥いでやりますよ」
私はよろよろとして立ち上がった。
妖怪? そんな訳があるはずがない。いや、私には人間である証明などできないのかもしれない。小さい頃から孤独に育ってきて、今の悪魔の住む館に短い期間とはいえ住み着いている。思考が、生き様が、妖怪じみて。だから悪魔のお嬢様に。そんな私を。
「ところでカトレアお嬢様は元気ですか?」
「えっ?」
私の腕をさっき折りかけたことなども忘れて、門番はそう声をかけてきた。いや、それより驚いたのはカトレアお嬢様と言ったことだ。これは、一体。
「あっ、間違えました。カトレア様はお嬢様のお爺さんの姪のはとこでしたね。いやいや。……で、れ、レ? レミリアお嬢様はお元気ですか?」
私はあっけにとられた。自分の主の名前さえあやふやな門番。そうか、彼女にとっては門があるかないかが一番大事なのだろう。例え紅魔館が崩壊しても門を守り続けるに違いない。まさしくそれが、門番として最大の仕事。
「ええ、お元気ですわ」
「そうですか! ははっ。それはよかったです。で、鍛えませんか? ジュウロクヤサン?」
最後はどこか異国のような言葉に聞こえた。
私はもう話す気が失せていたので、そのまま門を後にした。何かされると思ったがされなかった。
後ろは絶対に振り返らなかった。門番のにやけた笑い顔が頭に浮んで仕方がなかった。私は館から逃げるようにして、足早に人里を目指した。
人の往来が激しい町並み。
この人達は何を考えて生きているのだろう。日々の仕事や恋人や友人のこと? 周りの人間が全て自分よりも優れているように思えた。
人の生き様は顔つきを見ればわかる。生き生きと充実している人間は、顔の筋肉の動きが滑らかなのだ。ストレスが少なく充実しているから、表情がコロコロと変わり愛らしい。赤ん坊が可愛らしいのもそのため。
しかし長く生きて、不安や逃れられない恐怖を断続的に感じていると、人の表情は駄目になる。
特に目に生気がなくなる。何故目が駄目になるのだろう? 私はそれを、本質的に現実をみつめる力がなくなるからだと思う。目を動かすのも筋肉、それは脳であるかもしれない。それが無意識的に萎縮してしまう。たった一度でも現実から目をそらしてしまえば、そのわだかまり、埃のようなものが溜まる。回復したと思ってもしていない。一度刻み込まれた信号は死ぬまでその人間を束縛し続けるのだ。
私が心から笑ったのはいつだったのだろう。紅魔館に来る前は? いや、そのもっと前。たぶん覚えていない。笑い方さえも忘れてしまったのかもしれない。
私は忘れようとしていたのかもしれない。日々の忙しく過酷な境遇に身をおくことで、空虚な自分自身を見つめなおすことの恐怖を。私はその意味で妖怪なのかもしれない。
ぼけっとだらしない表情のまま、私は買い物をした。お嬢様がいつも飲む紅茶。これだけは切らしてはならない。ああお気に入りのカップもこの前割ってしまった。それも買わなくちゃ。後は、後は――。
「あっ、咲夜さん。お買い物ですか?」
「ああ……小悪魔さん。どうも」
私はぺこりとおじぎをした。こんな所で出会うとは。きちっとネクタイを締めて、信頼のおける司書といった風情。紅魔館の中でも彼女は唯一まともだと思う。
小悪魔は両手に大きな紙袋を抱えていた。ああそういえば。私は昨日の嫌な出来事を思い出した。
「買えたんですね? 本」
「ええ。危なかったです。昨日の夜から本屋の前に並んでいたんですけど、先に何人も並んでましてね。すごい競争率でした。どうも紙の素材も特殊らしくて……。私もし買えなかったら、パチュリー様に勘当されてしまうところでしたね」
そう言ってくすっと可愛げに笑った。
私は少し気を許した。何かこの小悪魔なら私の悩みを聞いてくれるかもしれない。お嬢様に上手い具合に、自分が紅魔館をやめたいこと、それを滞りなく伝えて――いやそれは依存し過ぎだろうか。ともかく自分一人で悩んでいても仕方がない。最悪の事態だけは避けなければ。
「こあ……」
「咲夜さん。会えてよかったです」
「え?」
私が言う前に遮られた。しかもその言葉は予想外だった。
「聞きましたよ。今度の日曜日に発表会するって。お嬢様がうきうきしていました。あー楽しみだなー。何を見せてくれるんだろうなー」
小悪魔は子供のように浮かれた声を出した。
「で……会えてよかったってのは……」
恐る恐る聞いてみる。
「あーいえいえ。今日は一人でお買い物なんでしょう? 万が一、万が一ですよ? 日曜日に咲夜さんがいないなんてことになったらですね、お嬢様が。ね? 困るでしょ? 一人で外になんてもう。あはは、ちょっとした気の迷い。どんな誘惑があるかわかりませんからね。一緒に帰りましょ? もう買い物終わったんですよね?」
「は、はぁ……」
私は心の中を見透かされたような気がした。不安げな表情から何かを感じ取ったのだろうか。もしや――私が脱走を企てていることを知って。ならば一人で買い物なんていい機会だ。しまった。もうなりふり構わず逃げ出すべきだったのだ。今度からは私を一人で外に出すことなどしないだろう。鳥籠の中に閉じ込められた鳥のように、私はこのまま。
二人で無言でしばらく歩いた。私は小悪魔の真意が計りかねた。まだ本当に私の敵と決まったわけではない。
「あ……。あの、それ重そうですね。私は片方あいてますから、一つ持ちましょうか?」
魔女から言われた本は上下巻のはず。それならここで誠意を見せておくのも悪くない。
「いえ。これは私がパチュリー様に言われたことなので」
「そ、そう……」
私はしゅんとしてしまった。何か他に話すことはないだろうか。何でも、何でもいい。軽く打ち解けて情に訴えてやれば。
――チッ。
舌打ちの音が聞こえた。はっきりとわかるくらいの。
もちろん私ではない。だとすると――。
「…………人間の癖に…………私にきやすく……………………何がメイド長だ…………」
ぶつぶつとつぶやいているのは小悪魔だった。しかも私にまる聞こえの声で。あろうことかこの悪魔は、私の隣で私の悪口を言い始めたのだ。目が座っていた。まさしく悪魔の顔。さっきまでのにこにこと優しそうな笑顔は、どこにも見当たらない。
「あっ、あの……」
私は恐ろしくなって声をかけた。声をかけずにはいられなかった。
「何ですか咲夜さん」
一瞬でお面をはずしたように表情が変わった。悪口を聞かせたという感じなどしない、極めて純真そうな真顔。それがたまらなく恐ろしかった。
「あ……、いえ、何でもありません」
「そうですか。変な咲夜さんですね。ふふ」
また小悪魔は笑った。そして恐怖の無言の時間が訪れる。あの魔女の前では絶対に見せない癖なのだろうか。
「…………誰のせいで……こんな目に…………私を使いやがって…………おかげで私は一晩中…………寝袋で…………ちっ…………私のこと…………小悪魔さんって…………何がさん……だ…………様だろ様…………人間の癖に…………人間……逃がすものか…………絶対に…………」
もう私はずっと無言でいることにした。癖でもわざとでもどっちでもいい。私の存在などゴミのように思っている小悪魔に、何かを言う勇気がなかった。直接、面と向かって言われるよりも数倍つらかった。紅魔館という牢屋へ帰る道の間じゅう、私はずっと肩を震わせながら、小悪魔の怨嗟のつぶやきを聞き続けた。
永遠とも思える時間。聴覚能力を最大限に縮小してどうにか生き残った。うつむいた顔を上げると、目の前には門と門番がいた。
「あっお帰りなさい十六夜さん。小悪魔さんも一緒だったんですね。どうですか? 二人とも鍛えませんか?」
「あいにく私は、毎日重い本で鍛えているんですよ」
「そうですかー。いい心がけですね。あっははははは」
事も無げに小悪魔は言った。つい数秒前まで聞こえる陰口を叩いていたとは、絶対に思えない様子だった。
「ただいま戻りました。美鈴さん」
私は頭を深く下げた。
「あーどうもどうも。お嬢様から仰せつかってますよ。明日からは買い物は別の妖精メイドがするそうです。いやー、本当にお嬢様に好かれて羨ましいなー」
大きな声で笑う門番。その横で小悪魔がほくそえんでいた。
終わりだ。
私は完全に閉じ込められてしまったのだ。この紅い館の中で一生を終える。それも真綿で首を締め付けられるような疼痛を受けながら。
どうせならここで殴りかかってしまおうか。門番の反撃で首が上手い具合に折れてしまうかもしれない。極めて前向きでありながら後ろ向きの思考。私はそこまで追い詰められてしまっていた。
「さぁ咲夜さんどうしたんですか? 入りましょ? お嬢様が首を長くしてお待ちでしょうから……」
小悪魔の優しい声は頭に届かず、右から左へ抜けた。
信じられるものか。悪魔め。人の心を弄んで喰らう悪魔。
夜は眠ろうとしても眠れなかった。地下から聞こえてくる不快な音が、私の精神を更に鬱屈させていく。それでも私はいつしかまどろんでいた。
混沌、昏睡。このまま永遠の眠りを享受して、目覚めなければいいのにと思う。
苦しみを感じずに死ねるのならなんと幸せなことだろうか。
「ああ」
目が覚めて私はこう言った。今日もまた目が覚めてしまったのだなと。紅い壁を見て現実に引き戻される。血の滴るような気持ちの悪い壁。
手短に身だしなみを整えていつもの仕事に従事する。お嬢様は午前中はほとんど寝ている。活発的に活動するのは午後の夕方ぐらいからだ。
私は雑巾とバケツを片手に廊下を歩く。
窓、窓、窓。
窓はあるがここから出ることはできない。一枚一枚丁寧に拭いていく。
水仕事というのは当たり前のように手が荒れる。雑巾を絞る行為。この行為がいけない。荒々しい布の断面が指の角質を削り取っていく。濡れてまた削って、また濡れて。再生する暇もなくぼろぼろになっていく。
私の心のようだなと思った。傷ついたら優しく染み込むクリームを塗ってやらなくちゃ。そのクリームはどこ? どこ?
長い廊下の窓を一枚一枚拭いていく。それは永遠とも思える無限回廊。ああ私はこのままずっと窓だけを拭いてしまいたい。窓になったらなら、このまま外の世界に飛び出せるかもしれない。
バケツの水を見た。何度も埃と汚れを落として濁っている。どんより深く底が見えない。
――そろそろ水を替えなくてはいけないわ。
私はそう思いバケツに手を伸ばそうとした。
「あっ咲夜さん。いいところに。本当に」
誰? 振り返る。悪魔。
いつの間にか、大図書館の前まで来ていたらしい。しまった。どうして気づかなかったのだろう。
「ちょっと頼んでいいですか? 今手が離せないんで、紅茶をパチュリー様に持っていってくれませんか?」
「え……でも」
仕事の途中。断る理由には十分であった。
「いいから急ぎなんですよ。さぁさぁ。持っていくだけです。早くしないと冷めちゃいますから」
「はぁ……」
私は手を引っ張られて連れ込まれた。給湯室に、今淹れたばかりの紅茶の湯気がもくもくと立ち込めている。
「頼みましたよ咲夜さん」
「でも、持っていくだけなのに」
小悪魔は暇そうに見える。魔女の座る椅子までたった数メートルなのに。何故私なんかに頼むのだろうか。
「……………………いけよ」
ボソッと錆びた金属でも擦り合わせたような、奇妙に歪んだ声だった。無表情で、顔に黒い闇の怨念がさしている。
――逆らえない。
「了解しました小悪魔さん」
「お願いしますねー。パチュリー様もきっと喜びますよぉー」
小悪魔は天使のように笑った。黒い羽を持つ偽りの堕天使。
私は盆に紅茶が注がれたカップをのせ、直ぐに魔女の元まで出向いた。
後ろ姿。
私の存在などまるで無視しているかのよう。どうやって声をかける?
――紅茶が入りました。
ただそれだけでいい。それ以外のことは言う必要がない。言ったら殺される。
魔女の周囲には見えない力が張り巡らされている。人を怠惰に誘うような嫌な磁場。
足元がぐらついて紅茶をこぼしそうになってしまう。こぼしたら殺される。絶対に。
「あの、紅茶をお持ちしました」
「ん」
魔女はそれだけ言った。本からは少しも視線をはずそうとはしない。
「五分遅かったわよ。待ちくたびれたわ。それに小悪魔はどうしたの? あなたが淹れたのこれ? ん?」
「いえ、あの」
私は口ごもってしまった。
「まぁいいわ。飲めれば。頂こうかしら」
魔女がカップを手に持つ。指がすらりと細かった。一度も水仕事はしたことがないのだろう。少女のように白くて傷一つない。
カップの端に薄い唇が吸い付く。この口から罵詈雑言が放たれると思うと、何とも不思議な気持ちになる。
細い喉がぐいと上下する。
「何よこれ」
表情が、一変。
「あ……」
私は魔女の言葉の調子に飛び上がった。この後に予想される罵倒の言葉。眉をひそめて横目で睨みつけられる。こめかみに青筋がうっすらと浮んでいる。
「濃度が薄いわ。いつもより12.5%も薄い。こんなんじゃ私満足できないわよー。何なのよ、こんなの私飲ませて。温度も低いわ。0.7度も。どういうことなのよ。あなた。私に紅茶を淹れるって行為。わかってるの? 私を何だと思っているの? こら、人間。レミィから聞いたわよ。何のつもり。メイド長? 馬鹿、馬鹿のレミィ。こんな人間に心を許して。何を考えているのあなたは? ……もしや? はぁ、私の邪魔なんかさせないわよ。何なのよ! あああったまくるわね。朝っぱらから最悪の気分よ? えっわかる? ちょっと!」
「きゃっ!」
魔女がカップを放り投げる。それは私の頬の横数センチを通り過ぎた。
ガチャンと陶器が割れる音。むなしい静寂が広がる。
「ちぇっ、はずれ。おしかったわね。行きなさいよもう。人間の臭いと存在が嫌いなのよ私は」
「は……はい」
私は呆然として立ち去ろうとした。魔女が何を考えているか、私には遠い理解の届かない範疇に違いない。
よろよろと歩きながら図書館の入り口まで来た。
後少し――この魔女の縄張りから脱出できる。
「待てよ」
「ひっ」
髪を引っつかまれて床に押し倒された。
「お前、何を。パチュリー様が怒ってしまったじゃないですか」
「そ、それは小悪魔さんが……」
「馬鹿! さまをつけろって言っただろうが!」
ぐりぐりと上から頭を押付けられる。もう嫌だ。
「す、すいません……小悪魔様」
「よーしやっと立場をわきまえたな人間。いいかよく聞け。お前のやったことの重大さを教えてやる。パチュリー様は喘息が持病だ。わかるか? お前のようにのうのうと生きてる奴とは比べ物にならない苦しみを背負ってるんだ。午前中の紅茶一つで機嫌が全然違うんだよ。え? わかるか? 咳き込んで血ぃべろべろ吐いて死ぬかもしれないんだぞ? お前のようなゴミの命じゃいくつあっても足りないんだよ? 償え償え! 泣いて土下座して償うんだよ!」
「でも……あの紅茶は……」
私は口を開くべきではなかった。何十倍になって返ってくることなど、百も承知していたはずなのに。
「馬鹿かお前は! お前が持っていったんだろう? お前が淹れたんだからな。それでパチュリー様は機嫌を損ねた。そうなんだよ。お前が全部悪いんだよ。お前が自分の意思で、お前が、お前だよ。自分のしたことも忘れるなんてゴミ以下のすることだ。いいからお前がしたって言えよ。パチュリー様に迷惑かけて、小悪魔様にも迷惑かけて、すいませんでしたって。言えよ、言うんだよ! 言え! 言え! 認めろ!」
鼻の形が変わると思うほど、ガンガンと床にぶつけられる。鼻血が漏れるのがわかる。前歯が床に刺さってそのまま抜け落ちてしまいそうだ。
「あ、あ、あやまり……ますか……ら」
私は息も絶え絶えでか細い声を出した。
「ようし、悪魔様が聞いていてやるから。心から償いするんだ。どこかに嘘があったら、その首から血が噴出すからな」
頭がぐらぐらしている。鼻と前歯がずきずきと痛む。
どうして、私はこんな目に。
悪魔がいる。でも今は従わないと。
きっと、きっといつかは。
「ご迷惑かけて……誠に、申し訳ありませんでした。パチュリー様と小悪魔様には私の命をかけても償いきれない損害を……。どうか寛大なるご慈悲でお許しくださいませ……どうか、どうか……」
「よーしよく言った。その言葉肝に銘じておけよ」
土下座。へりくだって媚びへつらう。額擦り付けて懇願する畜生の姿。地獄の閻魔様の前で人間はこんな様子なのだろうか。
「小悪魔! 小悪魔どこよ! いるんでしょ? 早く紅茶淹れなさいよ! アレ飲まないと気合が入らないわー」
魔女のしゃがれた声が聞こえる。
「はぁーい。パチュリー様。今すぐに」
濃度の濃い黄色い声だった。さっきまでの私に与えた声の黒さ。そのドス黒さからここまで変化できようとは。この悪魔の絵の具はとてつもなく多種多様であるらしい。
「けけけ! ほらさっさと出て行けよ。パチュリー様の神聖な空間にゴミが落ちてると目障りなんだよ! いいか、ゴミだからって脱走なんて考えるなよ? いつだったかな? お嬢様が気まぐれで人間を雇ったんだ。その人間は三日と持たずに逃げ出そうとした。馬鹿だったよ。逃げられるはずもないのに。当然のように捕縛。規律を乱したものは重罪。人間だからって手心なんて加えたりしない。妖怪や妖精と同じように扱うんだ! これが真の平等ってやつじゃないか。……館の中を歩き回れるだけ、恵まれていると思え。使えなくなったら地下室行き! ひぇえへえっへ!」
小悪魔は投げ捨てるように言い放って、そのまま消えた。
立ち上がり鼻を押さえた。折れてはいないらしい。前歯もついている。
ただ、涙が止まらなかった。
私はこんな涙を流すために生まれてきたんじゃない。でもどうすればいいかわからなかった。
ぼんやりと夢うつつのまま歩く。長い廊下をぼんやりと。
一人の妖精メイドと目があった。チラッと一瞥した後、そそくさと立ち去った。顔の血も涙も拭いてないし、酷い顔なのだろう。
「ああ」
私は一つ深いため息をついた。
掃除中だったことも忘れて、自室のベッドへと倒れこむ。しばらく横にならなければ動けなかった。体を動かすための脳が、手酷くダメージを受けてしまっていた。修復まで数時間有する。
――よかった。私はまだ人間だ。
もし、何の感情もなくなって、ロボットのようになってしまったなら、それこそ妖怪の仲間入りだ。
私はまだ人間。
哀れで可哀相な弱い人間。
夕方が来て夜が来る。
私はいつも通りにお嬢様の世話をした。鼻に絆創膏を貼り醜い顔だった。
お嬢様はそのことを聞いてきたが、私は抑揚なく転びましたと答えた。お嬢様に言っても状況が酷くなるとしか思えなかった。
ああお嬢様。
元はといえばお嬢様が。私を。
いや、やめにしよう、考えるのは。
私はようやく遅い床についた。一日の疲れがどっと背中に走る。節々と背中と首が痛む。
朝まで回復不能な疲れ。
疲労が溜まりすぎていると、寝ても疲れがとれることはない。特に脳に関わる神経が疲れているとどうしようもない。脳髄から滲み出る負の信号が、頭全体を黒いイメージに染め上げる。それは疲労の種だ。この種を取り除かなければ真の安眠はできない。朝目覚めても絶対に疲れている。眠りながら疲れているという本末転倒の事態になる。
それならば、いっそのこと眠らない方がいいのかもしれない。
吸血鬼も眠る。妖怪でも眠る。
眠らない妖怪もいるかもしれないが、それはごく一部。
何だ、眠らないことは神に近い行いかもしれない。
私はそんなことを思いながらまどろんだ。疲労が極致まで達していた。これなら、目覚めずに死ねるかもしれない。
エサだ。私は悪魔達のエサ。小悪魔は地下室と言った。おそらくあれがゴミ処理場なのだ。飢えた肉食獣が爪を研ぎながら、涎を垂らしながら獲物を待っている。
「う……」
背筋が苦しくて目を開いた。眠るどころではなかった。
寝返りを打つと、またあの唸り声が。
「毎晩毎晩……」
私は思い立って扉を開けた。ひんやりとした空気が廊下を吹き抜ける。地獄の釜底から湧き上がるような声。廊下の奥からそれは聞こえてくる。
「地下室は……お嬢様の部屋の……」
どうせ朽ち果てるならと、私は妙な好奇心にかられたのかもしれない。一度見たことはあるが、地下室への通路は厳重に封鎖されている。鍵がなければ絶対に通ることはできない。
「はぁ、はぁ。どうせ地下室行きなら、いっそのこと」
私は混乱していた。
窓の外を見上げると、紅い月が出ていた。月が紅いわけはない。私の網膜を通して脳で理解する間に、紅く認識してしまったのだ。壁も絨毯も全て紅い。この紅さが錯覚を生んでいるのだ。
手のひらを見た。これも紅い。まるで、返り血を浴びたよう。出血多量で瀕死。そんな時はこんな真っ赤に染まるものなのだろうか?
「ふふふ、ふふ……お嬢様……。私の味方は……」
唐突に私はお嬢様のことを思い出した。この館に来てから一番よくしてくれたからだ。私の未熟な手品なんかにも、あんなに手を叩いて笑ってくれた。あんなに喜んでくれるのは人間の子供でもそうはいない。
私はここに来て――お嬢様に出会えてよかった思う。例え死んでも、お嬢様が悲しんでくれるならそれはそれで。そうだ、お嬢様がいるんだ。私は不思議と強気になった。お嬢様がいるなら地下室行きなんて絶対にない。あの、醜くて薄汚い心の小悪魔も八つ裂きにして。
「ふぅ」
気がついたらお嬢様の部屋の前まで来ていた。
私はドキドキしてしまった。これはもしかして夜這いと言うやつかしら、なんてロマンティックなことを考えたりして。
「あれ?」
扉がほんの少しだけ開いていた。あのお嬢様のことだから閉め忘れていただけかもしれない。私は何の疑いもなくそう思った。
私はシミュレートする。お嬢様、夜に扉を開けてはいけませんよ? 咲夜、ごめんなさい。一緒に添い寝して? 寂しいの……。お嬢様の潤んだ瞳。それを優しく見つめる私。二人は人間と悪魔。結ばれえぬ運命、それでも――。
「おじょ……」
私は想像で顔をにやけさせながら、部屋の中を覗こうとした。
なんて光景。
自分の目をくり貫いてしまいたかった。
「レミィ! もっとお泣きなさいよ! きゃははは! それそれ!」
「あーあー、ママ、ママ! ひぃぃい! 私悪い子です! ひえぇぇ!」
魔女とお嬢様があられもない格好で、睦事をしていたのだ。魔女の手には黒いムチが握られている。情欲を煽るためだけの、汚らわしい露出度が高い淫らな服装。同時に鼻をくすぐる甘い香りが満ちていた。一息吸ってしまえば、たちまち理性を失わせてしまうような。これは毒だ。魔女は――毒を使っていた。
お嬢様は全裸でその責め苦を受けていた。手枷をつけられて子猫のように鳴き叫びながら。背中やわき腹に今つけたであろう、生生しい蚯蚓腫れが何本も刻まれていた。吸血鬼の再生能力をもってすれば、大したことはないのかもしれないが、自分の目には恐ろしくも陰惨に思えた。
血の滲みが痛々しく紅の線を引いている。魔女が笑い声をあげながらムチを振るうたび、その刻印は数を増していった。
「ほらほら! もっといい声出しなさいよ。でないとお前の気の触れた妹みたいに地下室に閉じ込めちゃうわよぉー!」
「お願いママ! それだけは、それだけは――。私を捨てないで……、ふぁっ! はぁぁぁ――いいぃぃいい!」
私は言葉を失った。もう後一秒も見ていられなかった。
この世で最も凄惨な光景。
何が神様だ。神様はこの館にいたのだ。それも無慈悲で滑稽な神様。その神様に一生飼われていればいいのだ。
「うっ……」
私はよろよろとそこから立ち去った。
――気持ち悪い。早く。
洗面所へと向かう。
「お――」
私は吐いた。力の限り吐いた。臓腑が逆流するぐらいの勢いで、胃の残滓と混じり合った胃液を吐いた。
お嬢様を吐いた。正確にはお嬢様との記憶。何度も何度も。
この館の住民は全員下衆だったのだ。下衆がいるから下衆を呼ぶ。そうやって同族同士でまぐわりあってればいい。
吐かなければ、あんな、堕ちた悪魔の、腐った悪魔の。
「おぇっ、おおっぉおぉお――おぅぅぅ!」
数分は吐いていたように思う。やっと全てを捨て去ったように思う。
「はぁーっ、はぁー」
鏡に自分の顔が映っていた。口元に白く濁った泡がこびりついている。
憑き物が落ちたみたい――。
私はそう思った。そう、私は憑かれていたのかもしれない。この館に入った時から。それじゃ本当の真実は見えない。そうだ、今からでも遅くはない。まだ遅くは。
「るー、るんるん。るるー」
私ははっと顔を上げて横を見た。誰か入ってきた。口を拭う余裕もない。
「はっ!」
目が合った。小悪魔だ。
数秒、時が止まったように思えた。
「き、きゃーーーっ!」
叫んだのは悪魔の方だった。どうして悪魔が人間の顔なんか見て。私は咄嗟に自分の顔が、今は悪魔じみていたのだと理解した。全てを吐いて私は人間をも捨ててしまったのかもしれない。
機は今しかない。
「あっ!」
私は小悪魔を突き飛ばして、廊下に飛び出していた。
気分が悪くなって、少し戻してしまったと言えばよかったかもしれない。しかしその選択は取りたくなかった。この館に私の味方は一人もいなかったのだから。
「うっ、ううぅ。うううう」
口の中で悲鳴をあげながら、無人の廊下を走った。どうする? どうすれば? どこからなら逃げられる? いや、逃げ道は存在する?
「て、敵襲――」
「何だ?」
「賊だ!」
「に、人間が逃げたぞ! メイド長の……あいつだ!」
悲鳴は連鎖して館内を縦横無尽に伝わる。このまま皆が起き出してしまえば捕まるだけだ。
私は置物の花瓶をつかんで窓に投げつけた。
割れた。
私は狂気にかられながらそこに突っ込んだ。
ガラスの破片が腕や足に刺さる。が、致命傷には至らない。
早く早く遠くへ。そうか門。門が。
門番はどこで寝ているのだろう。昼間も門前で寝ている。だとしたら夜も門前か。
いや、わからない。ともかく急がねばならない。
「この外壁……登れるかしら?」
私は少し踏みとどまった。煉瓦だから指をかければ登れるかもしれない。でももし失敗したら……。
迷っている暇はなかった。館内のあちこちで明かりがついて声が大きくなっている。
「お願い……神様……」
私は柄にもない言葉を言った。何が神様だ。そんなもの、いつだって自分の力だだけで生きてきたのに。今更そんなものに。
「ぐっ!」
煉瓦の隙間に無理やりねじ込んだ。こうでもしなければ登れない。
今気づいたが私は裸足だった。しかしそんなことは気にしてはいられない。貴重な時間は刻一刻と過ぎ去ってしまっているのだ。
ガッとつま先も隙間にねじ込む。ロッククライミングなどはしたことがない。たかが数メートルの外壁。一気に登ってみせる。
「うぅ」
親指に力を込める。そうしなければ壁からずり落ちてしまう。ここで落下してしまうことは死を意味する。打撲、下手すれば骨折。動けなくなってしまえば捕まるのも時間の問題だ。割れた窓もすぐ見つかるだろう。時間がない。
右手、左足、左手、右足。
連動させるようにして着実に歩を進めていく。指の先とつま先がじんじんする。つかむ力が薄れて感覚もなくなっていく。
もう、駄目かな。
いや、まだよ十六夜咲夜。この壁はきっと越えられる壁。後もう少しじゃない。
私はここを越えたらきっと羽ばたけると思うの。
「ああ!」
最上段へとどうにかたどり着く。息がぜいぜいと荒い。登ってみればこの壁の高さは相当だ。はっとして自分の指を見た。二、三本、爪がべろりと剥がれていた。爪の下の皮膚はふにと柔らかかった。痛いはずなのに痛くない。心理的な窮地には痛覚も麻痺してしまうのであろうか。
後ろを振り向く。まだこちらには気づいていない。チャンスは今しかない。
私は外の方に向かってぶらりと壁にぶら下がった。
もう手も足も限界だった。
このまま飛び降りるしかない。
――いけるだろうか?
おそらくこの高さから落ちれば無事では済まない。一番被害軽く済む方法、いや逃走に必要な能力を残さなければ。足に被害が及ぶのは絶対にまずい。
とすれば――肩か腰でくるっとまるまるように。そうだ、猫のイメージだ。猫は高い所から落とされてもくるりと着地する。あのイメージで、地面からの衝撃を最大限に抑えるのだ。
「い、いいい、いけるわ。絶対」
私はそう言った。落下の重力エネルギーは限界まで減らさなければならない。ぎりぎりまで壁に張り付いて、そして落ちる。
もう待ってはいられない。
私は意を決して手を離した。
摩擦。
手と足と胴体を壁に擦るようにして落ちる。肉が擦れる音が直接耳に届く。
そして足で壁を蹴る。
ぽんと投げ出された。
着地――猫ではなく豚のように転がった。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……うううううっ!」
体全体に痛みが走る。だが生きている。立てる。
やった、私はやったんだ。この魑魅魍魎が住む悪魔の館から脱出したんだ。
眼前には深い森が広がっている。このまま闇に紛れて溶け込んでしまえば絶対に見つからない。朝方までにできるだけ遠くへ逃げなくちゃ。寒い。そうだ寝巻きのまま出てきたんだ。けどしかたない。人間はそう簡単に死なない。人里の方まで一気に走ってそして。どこか泊めてもらえばいい。私は女だから……非常事態で、体を使ってでも。えへへ、なんて私は低俗な考えの持ち主だったのかしら。こんな計画性も何もない……。でももういいんだ。この悪魔の館から逃げさえすれば……。
私は一歩踏み出そうとした。この闇が私の希望だった。
「あれ?」
私はびくっとした。人がいた。
ぎょっとして振り返る。
「ああ奇遇ですね。十六夜さん。あなたも月見ですか? 私はたまにはこうやって月を見るんですよ。綺麗ですよねー、月って。ああそういえば、十六夜さんの苗字も月に関係ありますよね? はて? 十六夜ってのはどんな月の形だったんでしょうかね?」
どうしてこんな時に限って、門番が起きていてしかも暢気に散歩までしている。なんてことだ。こんな巡りあわせ。あんまりだ。
私は夜空の満天に輝く幾千の星を見上げた。この星に比べたら私の存在は何てちっぽけなんだろう。むなしくなる。月の形は満月に近かった。
「館の方、騒がしいですね。何かあったんでしょうか? ふふん、綺麗な月、そして出てくる寝巻き姿のメイド長。しかも指は擦り切れて血だらけ。あの壁を登ってきた。いやあ一体何が起きたんでしょうね。私には不思議でなりません」
門番が笑っていた。真意を計りかねる。私が脱走したことぐらいすぐわかるはずなのに。
私はじっとして次の言葉を待った。
「館に突然猛獣が暴れ出した。そこで人間のメイド長は混乱して壁を登って外に出てしまった。ただそれだけのこと」
「あ、あの……美鈴さん」
私は一縷の望みにかけた。もしかしてこの門番は私のことを心配していてくれて――。
「なーんてね」
門番がにんまりとして不気味に笑った。
「私は門番ですよ十六夜さん。……夜間の従業員の出入りは禁止されています。さ、戻りましょうか。なぁに、何もやましいことがなければ大丈夫ですよ。ちょっと外を散歩したくなって、壁をよじ登ってしまった。そのことを館の全員に納得させればいいのです。私が証人になりますよ。今の格好、状況。一から十まで話してあげますよ。ほら、何びくびくしているんですか? 散歩していたんなら何も気に病むことはありませんよ……。きっと、みんな、わかってくれます」
「うっ、ううう……」
私は手をついて泣いた。門番の手が私の肩に触りかける。
「うわぁぁああ!」
振り払った。最後の抵抗をしたかった。
ああ諦めてなるものか。私は、私は自由になるんだ。
「抵抗するんですか。容赦しませんよ。あばら骨の一本や二本くらい。壁から落ちた衝撃ってことにしますか。さて!」
門番はざっと戦闘の構えをした。
もうやけだった。私には勝機など皆無であるのに。
「いきますよ! ……と、その必要はないようですね」
何だ? 門の方。がやがやとざわめき声が聞こえる。館から出てくる集団。その先頭には小悪魔がいた。怒りに我を忘れた化け物じみた形相だった。
そうか。もう時間切れだった。本当にこれで終わり。
「ひぃ、ひひひぃ! この腐れ野郎! やっぱり逃げ出しやがった! よくも私を突き飛ばしてくれたな。この恨み、何千倍にもしてああああちくしょうこのぉおお――――」
小悪魔は錯乱激昂しているようだった。ここまで狂気に陥ることができるとは。私は悪魔というものの末恐ろしさを肌で感じた。
「殺してやるっ! この、あいつなんかに喰わせてやることなんかない! 今ここで串刺しの八つ裂きにぃ!」
「小悪魔さん落ち着いてくださいよ。処分はお嬢様の言を聞かないと駄目です」
「何がお嬢様だ馬鹿! 傀儡もいいとこ! うううあぁぁぁ!」
「まぁまぁ、どうどう」
二人が何やら討論しているようだが、私には関係なかった。私の処遇が絶望的であるのは確かだったからだ。
私は最後に月を見ようとして上空を見上げた。
おそらくは最後になる幻想郷の月。
ああこれが。
月は紅くはない。館の中からは濁って見えた月も、今は白く光輝いている。
会えてよかった。
私は目をつぶって誰かに祈りを捧げた。
一秒、二秒、三秒――。
無言の祈りは終わった。
「ふぅ」
一息ついて周りを見渡す。違和感。それは尋常ではない異質な感覚だった。
「え、ええ?」
今まで口うるさく騒いでいた二人の声が止んでいた。いや、動きも止まっていた。まるで石像にでもなったかのように、ぽかんと口を開けたまま固まっている。二人だけではない。周りの妖精兵達も同様だ。
「これは」
私はそれを理解することはできなかった。
ただ。奇跡――。
私は一目散に森の中へと突っ込んだ。
これはチャンスなのだ。誰かが気まぐれで与えてくれたチャンス。
「はぁはぁはぁはぁはぁ」
私はやたらめったらに走った。裸足で足裏がぼろぼろでも気にしなかった。とにかく遠くへ遠くへ。
崖を滑り降りるようにして駆け下りる。もう服も肌もぼろぼろだった。
自分を突き動かす物の正体はつかめない。
ただひたすらどこかへと行きたかったのだ。
「はぁはぁあはぁああ――」
走って走って、ひたすら走った。無限に続く廊下の終わりを目指して。
気がつくと夜が明けていた。
ここはどこ? 私は、私は誰?
いえ、私の名前だけは言える。私はさすらいのメイド。十六夜咲夜。
「ああ」
逃げ切ったのだろうか? 追っ手が来るかもしれないもっと逃げて。誰かにかくまって貰った方がいい。
砂塵にまみれていた。幻想郷にも砂漠があったのねと私は今気づいた。
蟻地獄でもいて私を食べてくれないかしら。そうすれば楽になってしまうのに。私はそんなこと思った。
数十歩歩く――と、立て札があった。何故、こんな辺鄙な場所に。
私はふらふらと近寄って、それに書いてある文字を眺めた。
☆☆☆ メイド・従業員大募集 ☆☆☆
・地霊殿ではやる気のある方を募集しています。
・種族・年齢・経験問いません。
・笑顔が溢れる和気あいあいの職場です。
・あなたもここで本当の自分を見つけてみませんか?
↑百メートル先 地霊殿直通ホール
お急ぎの方は今すぐこちらへ!
私は疲れきっていた。ふらふらとその矢印の方向を目指す。喉もからから胃もぎゅうぎゅうと収縮していた。苦しくて仕方がなかった。
しばらく歩いた。砂場――だったのに一つの水溜りが存在していた。透き通っていて私の滑稽な顔が反射している。そうかこれは砂漠におけるオアシスというやつだ。私は心からそう思った。誰かが私のために垂らしてくれた蜘蛛の糸。
ずぶんと足から水溜りに踊りこむ。温かいぬくもりが私を包む。口にがばがばと水が入り込む。
ごくごく。ごくごく。ああ美味しい。
私の体に力がみなぎる。この水は私を蘇らせる。
――ああ。
この水溜りは狭かった。私の細い体にぴったりとはまり込むようにできている。何たる偶然。足もすかすかとして底が見えない。
しばらくぼんやりと、夢見心地で浸っていた。こんなに安らいだ感情は久しぶりだった。
ずぶずぶ。ずぷずぷ。
私はふと潜ってみたくなった。窒息するかもという思考は見当たらない。この縦穴は私を幸せにしてくれると信じた。だってこんなにも優しく包んでくれるんだもの。
――ああ。
私が念じると、水溜りは私を飲み込んだ。
息を止めてじっと終着点を待った。
きっと天国へ通じる道だと信じて。
「は?」
それは昼下がりのいつものティータイムの時間。
現在の我が主人である、レミリア・スカーレットお嬢様の言葉だった。
「神様よ神様。わかるでしょ? か、み、さ、ま」
「はぁ……」
私は返す言葉が見つからず、しばし逡巡した。
ここにメイドとして雇われてからもう二ヶ月ほどになる。通常の業務にもようやく体が慣れてきたところだ。
しかしどうしても慣れないものがある。それはこの血塗られたような紅い壁と――紅魔館の住民の奇妙な人間関係である。それはどうにも一言では言い表せないのである。私が思うに――それは理解しようとすればするほど、茫洋で極めてつかみ所がなく、大海原へと旅立つ小船のように広大無辺で寂しく――しかし行き着く先は一つに決まっている。
私自身もそれを表現する言葉に窮する。
そんな腑に落ちない奇妙な違和感を抱えたまま、私は今日も日常の雑事に心血を注ぐ毎日なのである。
「ねぇ咲夜。紅魔館には神様が足りないと思うのよね」
その違和感の、大元の一人であるお嬢様が言った。
ほとんど新人である私が、こうして紅魔館の主人の世話をしているのには理由がある。何と二ヶ月やそこらで、メイド長の役職に任命されてしまったのだ。私はもちろん頭を下げてお断りしたが、お嬢様はそれを頑なに許さなかった。あまり拒むのもよろしくない。主人の命令は絶対であるから、私は二度ほど首を振っただけで承諾した。
おかげで他の妖精メイドから妙な視線、嫉妬に似た感情で睨まれる結果となった。それまでは良好な関係であったのに、お嬢様の一言がそれを無にした。もちろん今は部下であるから、それに不平不満を唱えることはない。だがいつかは爆発する。それならばその前に逃げるだけである。
「神様ですか? お嬢様は……悪魔ですわね。でも、それが何か?」
お嬢様を、あまり待たせてはいけないと思いそう答えた。
齢500歳に至ると言われる吸血鬼。しかしその容貌は、人間では十歳にも満たない幼い子供のようだ。紅く大きな目がキラキラと光り、長い睫毛がはじける。透き通るような白い肌は、小柄な体をたおやかに包み、その妖精のような可愛らしさはとても人間には追いつけない。
薄ピンク色のドレス、袖口や裾にふんだんにあしらわれた花模様のフリル、大き目の赤いリボン。膝丈より短いスカートからは、純真無垢の脛や腿が、あろうことか無防備のまま風通しよく、その外気に晒されているのだ。見た目だけで言うならば、レミリアお嬢様は、この紅い屋敷の中でも紅一点――まさにオンリーワンである。
ただし、その美しさと気品が言動を伴っているわけではない。吸血鬼とはいえ500歳。いくら何でも思慮分別のない子供というのはまずい。もう少し、主としての威厳が備わればなと、私は常々思うのであるが、この館に蔓延する気質、それが流れをせき止めているのではと思う。正体不明の異常な磁場。ただやはりそれをこの目で直に見ることはできない。
「わからないの咲夜。神様ってのは偉いのよ。だから私は神様になりたいのよ」
「どうして偉いんですか?」
「偉いから偉いのよ! そんな前提を否定されても困るわ」
なんとなく答えたが、それは間違いだったようだ。
「あのね、この幻想郷には何人も神様の格がいるのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。で、今からそれをあなたに教えてあげるわ咲夜」
「いえ、私は別に」
「いいから聞きなさいよ」
「はい」
私は半ばお嬢様に流されるようにして、耳を律儀に傾けた。スイッチが入ったように何かに夢中になる。この状態のお嬢様は何を言っても無駄だ。
「まず八雲紫。これは幻想郷の賢者でもある創造者。いわば最も神に近い存在よ」
「はぁ」
私はあまり興味がなかったので、気の抜けた声を出した。
「次に永遠亭の八意永琳。オモイカネとかなんとか言う神と関係が絶対あるわよ」
「あれ? 想像なんですか? あまりイメージでものを言うのは……」
「いや、私の勘は外れないから。ねぇ運命力ってあるじゃない。私はその力があると思うのよね」
「それならば仕方ありませんわね」
運命――。
その定義を型に押しはめることは難しい。定められた未来、それを予知する。
それが運命。
お嬢様の器量ではできそうな予感が全くない。
取らぬ狸の皮算用。
そんな子供じみた酔狂な遊びにしか思えないのだ。
「そして――妖怪の山に近頃神様が下りたそうじゃない。……強大な力を持ってるのよあの妖怪の山は――。あああ怖い怖い。このままじゃ紅魔館も攻め潰されてしまうわ……」
「いえお嬢様。神にも色々ありますわ。確かにあの山の二柱は軍神と祟り神。でも遠い昔のことなのでしょう? 他の神も戦いを好んでいるわけではないのでしょうに。何も心配することはありませんわ」
私はそう言った。
「それでも怖いわ。戦力を増強しようかしら。うんそれがいいわ!」
「はぁ」
「何よ咲夜。備えあれば憂いなしよ。この歴史ある紅魔館を滅ぼされてからでは後の祭りよ。主君は先の先まで世の中の展開を読むのよ」
「そうですが。しかし――」
あまりにも見当違いの予見では意味がない。
そう言おうとしてやめた。
私がここで何か言っても仕方がない。私は入って二ヶ月の新人のメイドだ。口を挟むべきことではない。
「こうしてみると神様もたくさんいるわね。で、お次は地底の地霊殿ってとこね。ここにも不愉快なことに神様がいるのよね」
「へぇそれは初耳ですわね」
ただの人間には地底というのは、はなはだ異世界に感じてしまう。
「なんでも神様を直接食べて、神の力を宿した地獄烏がいるらしいの。神様を食べるだなんて――ばちが当たらないのかしら?」
「その辺はよくご存知ないですね」
「ふん……」
お嬢様は絨毯の上を練り歩いた。
「あー最後にあそこのお寺。そう命蓮寺! あそこも毘沙門天とかいう神を崇拝しているわ。やっぱり幻想郷には神様ばかりなのよ……。ああ咲夜怖い! 紅魔館だけが神様がいない! このままじゃ取り残されてしまうわ! ああ!」
「お嬢様……」
私には何故取り乱しているか理解できなかった。人間よりも遥かに強大な力を有する吸血鬼――。それだけで十分なのではないか。そもそも神とは――。その概念すら危うい。
「この紅魔館を取り仕切っている。それはお嬢様、神の仕事ですわ。神とは支配者につけられる後付の名前では?」
「私は悪魔よ咲夜。悪魔は神にはなれないの」
真顔で返された。私は次に何を言っていいのかわからなくなった。
「い、いえ。ですから強いこと、他人をまとめる力や飛びぬけた力を持つものが、神と言われるのですわ。神と周りが崇めればそれは神になりますわ」
「でもねぇ咲夜。それじゃ私は納得いかないのよね。八坂神奈子や洩矢諏訪子は生まれながらにして神じゃない。軽々しく神を名乗ったら天罰が下るわよ」
「は、はぁ……」
悪魔の癖にそんなことを信じるのはどうなのかと。
もう私はこの場から逃げ出したくなった。
「あ、そうだわ。パチェに聞いてみればいいじゃない。何で私今まで気づかなかったのかしら? 咲夜、今すぐパチェを呼んできて?」
「はい……今すぐに」
私は頼まれごとをもらい受けてしまった。それもなんて厄介な。
大図書館の大きな扉の前に立つ。
パチュリー・ノーレッジ。知識人という名目で居候しているらしいが、私は彼女がその役割を演じた場面は見たことがない。まだ二ヶ月だからであろうか。しかしあの魔女は、未来永劫何かをする気配は感じられなかった。一日じゅう同じ腰掛に座り黙々と読書に耽っている。まるで外の世界から自分を隔絶しているように。
「あ……、小悪魔さんよかった。パチュリー様にお取次ぎ願います。レミリアお嬢様がお呼びだと」
私は重そうな本を運んでいる女悪魔に声をかけた。
黒い羽と黒い耳。そして何とも言えないようなはにかんだ表情。この悪魔はどうしてか小悪魔と呼ばれている。この図書館の司書のような役割を果たしているが――何故小悪魔という仮のような名前をしているのか。私にはそれを聞く理由も度胸もなかった。ただ皆が小悪魔というからそれに合わせているだけだ。
「あぁ咲夜メイド長。お嬢様からですか……。今すぐお呼びいたします」
「すいません小悪魔さん。どうか」
「ああ気にしなくていいですよ。私は慣れてますから」
私は頭を下げた。小悪魔がいてくれて本当によかった。
「それでは……」
図書館を後にする。
パチュリー・ノーレッジは、私の考える普通の感覚とは著しく逸脱していた。正面に立ってまともに話すことさえ厭われた。
「ふぅ。二ヶ月で慣れて来たところだけど……。そろそろ次の行き先を決める時期かしら?」
この館はやはりどこかおかしい。
紅い紅い廊下に壁も全て紅。絨毯も家具もほとんど紅である。
並みの神経を持っていたら普通は耐えられない。何と言うか気の休まる場所がないのである。
それでも私がこうやって二ヶ月もここで生活をしているのは――どこか人道にはずれた人間である証なのだろうか? いや、そうではないと信じたい。私は正常な人間十六夜咲夜。行き場を求めてさまようしがないメイド――。私にできる仕事と言えばそれくらいだからだ。
廊下をひた歩く。
突如、獣が唸るような怪しい音。
「何でしょうね。この嫌な音……。まるで人の声のようにも聞こえるし……」
そう、私は毎日この奇妙な振動音を聞いている。それは地下の方から響いてくるように思えた。
地下への出入りは固く禁じられている。というか地下へと続く扉は厳重に封鎖されている。鍵はお嬢様が管理しているのだろうか。私がおいそれと地下へ出向くことは不可能である。
私は一度好奇心から、同僚の妖精メイドにこの音の正体について聞いてみたことがある。結果は無言で首を振られた。誰に聞いても同じだった。どうやら禁忌の質問であったらしい。私は何かスパイのように思われるのも嫌だったので、我慢して自分の胸にしまい込んだ。
「でも……毎晩毎晩こんなの聞かされたらやってられないわね。早く……ここ出で行った方いいかしら」
夜になるとその音は大きさを増す。
否が応にも不安を煽られ、睡眠時間を削られてしまう。
「我慢するにも限界があるわ」
私はそう結論づけた。
広間でお嬢様と落ち合う。
しばらくして、パチュリーがとても不機嫌そうな顔で、のっそりと顔を出した。後ろから音もなく小悪魔がついてきている。
「あーあーあー、ゴホッゴホッ! ああ何てことをしてくれたのレミィったら! 私の読書時間中は声をかけないでって言っていたのに……。いいレミィ? 今も私の時間は削られているのよ。もう五分! 一秒二秒三秒――。何てこと! その埋め合わせがあなたにできるのかしらレミィ?」
第一声に魔女はそう言った。何様のつもりだろうか。第一この魔女は起きている時間の九割は本を読んでいる。詳しく調べたわけではないがそういう確信がある。
お嬢様とこの魔女の関係はよく知らないが、いつもこんな調子なのだ。ヒステリック気味に声を尖らせて横柄な物言いをする。よく一緒にいられるものだと思う。
「パチェ。図書館の増築の話だけど、今月開始するわよ。それと――新しい蔵書も二千冊ほど増やす予定だから」
「あらっ」
この声の変わりようは恐ろしかった。まるで、恐ろしかったのだ。猫撫で声をさらに十倍撫でたような声だった。
「んもおー。それならそうと早く言いなさいよぉー。私とレミィの仲じゃない……ねぇ? んふっ、キスしちゃう♪ ふふっ。……んー? 何みてんのよ? ってあなた誰? まさか、侵入者――」
「メイドの咲夜よパチェ」
「申し訳ございませんパチュリー様」
私は思わず謝っていた。そうする理由などないのだが、謝っていた方がここは賢明だと思ったのだ。お嬢様が助け舟を出してくれなければ、私はここで窓から放り投げ出されていたかもしれない。
「ふーん。ああっ、そーいえば。紹介されてたわね。うふっ。ごめんね咲夜ちゃん。私ぃ、人の顔覚えるの苦手だからぁーきゃはっははは!」
魔女の笑い声。耳障りでたまらなかった。この館の使用人でなければ、一目散に逃げ出していたところだ。
「んーそれで。何の用だっけレミィ? 私には時間が限られているから早くしてよね?」
「あ、うん。あのねパチェ――」
お嬢様は手短に神ついて説明した。
魔女はそれをうんうんとうなづきながら聞いていた。不健康そうな血の気のない白い肌。潤いが足りないのかかさついている。尖った顎が魔女の性格を表しているように見えた。内面から滲み出る本物の悪――。魔女と名乗るぐらいだから、少しぐらいは悪なのだろうが、とことん性根が腐っている。それもどうあがいても矯正しようのないくらいひん曲がった巨木。
私はそんなことを思いながら、二人のやりとりをじっと聞いていた。
「ふーんふんふん。話は大体わかったわ。レミィったらそんなことで悩んで小心者ね! ……小悪魔!」
「はい何でしょうパチュリー様?」
小悪魔は呼ばれて、ぴんと背筋を伸ばした。
「いいレミィ? いかにあなたの考えが愚かか教えてあげるわ。神様なんてゴミよゴミ! 神なんているわけないでしょ? 信じられるのは自分だけよじ、ぶ、ん!」
「あ……でも私の言ってるのはそういうことじゃなくて……」
「いいから似たようなもんでしょ。小悪魔! 今からあなたは神様よ」
「はぁ?」
と素っ頓狂な声をあげる小悪魔。
「小悪魔に変わりまして神様よ。どう? いい気分じゃない? 小悪魔より随分ましでしょ? 神様よ神様」
「う、うーん。そう言われてみると何だか」
「そうでしょ? で、神様になったお祝いに、今までの仕事をこれからは二倍速でしてもらうわね。あっ、二倍の量でもいいわよ」
「ええっ? 何でそうなるんですか?」
「神様だもの。偉いものすごいもの。それぐらい当然でしょ? もしかして私に歯向かうつもりなの? きゃはははぁー。あなた私に受けた恩忘れたわけじゃないでしょうねぇー?」
魔女は高らかに笑った。
名前だけの神様。偽りの神――。
何の恩恵があろうか。
「うっうっ……待遇が前より酷くなった気がします……」
「ねっレミィ。神様なんてこんなものよ。幻想郷の神なんて馬鹿ばっかりよ。自称でも周りが呼んでも神になれるの。もちろん、あなたも崇高なる神の一員よ。理想的なスカーレットデビル! 神の中の悪魔の中の最も悪魔らしい神の中の悪魔神よ」
もうお嬢様のことなど、どうでもいいということはわかった。
「そ、そっかー。パチェに言われると何だか私安心したわ」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう」
そして咳払いをして、魔女は大口を開けて叫んだ。
「あーーっ。そうだわ忘れてた! 明日はマダム西行寺・ルノワール幽々子の大長編、『悪食霊』の発売日じゃない。ねー神様、今から本屋の前に並んできてよ」
「えーっ。そんなぁ……嫌ですよ」
「いいから行きなさいよ。神様なんでしょー? ルノワール幽々子と言ったらすごい人気なのよ? 並んでないと売り切れてしまうわ。ほら早く早く準備して?」
「そんなぁ。本ぐらいきっと明日の午後でも残っていますって」
「馬鹿! その思考が命取りなのよ? 欲しい時には大金払っても買うべきなのよ? わかる? 本がなくなればいくらお金があっても買えないのよ? その瞬間を逃すことがどれだけの損害を生むか――」
「はいもうわかりましたよ……」
呆れたように言った。小悪魔は主人には絶対に逆らえないようだった。
「ふふふーん。さすが神様ね。上下巻で五千ページあるから頑張ってね。あっ傷つけたりしたら承知しないからね」
「はぁ……神様って一体」
魔女は意気揚々と出て行く。それに続き、とぼとぼと、神様に無理矢理された小悪魔は部屋を辞した。
部屋には私とお嬢様がぽつんと残された。
嵐が過ぎ去った後のように、寂しさと静けさだけが募る。
神様とは結局何であるか。本当にはっきりしたことは、何も教えられていない気がする。名ばかりだけ。そう思っていれば神様など気にしないはずなのだが。
「お嬢様、あの……」
「なに咲夜」
「あのパチュリー様なのですが……、お嬢様の方から……少しばかり何か……でないと……」
どうしてもあの振る舞いが許せなかった。
「咲夜」
「はい」
深い怨嗟がこもったような声。
「二度目はないわよ。私とパチェは家族なのよ。口出し無用よ。メイド長でも容赦しないわよ」
「は、はいっ」
私はぴしっと背筋を伸ばした。やはりこの少女は悪魔だ。可愛げな表情を見せても、人間を殺すのに何の躊躇もない。ここは紅い悪魔が住む魔の館。人間がおいそれと立ち入れる場所ではなかった。
が、いかせんもう限界だ。
「咲夜」
「はいお嬢様」
今度は無邪気な声だった。
「ちょっと気分変えたいわ」
「はい」
「あれやって」
「了解しましたお嬢様」
あれとは手品のことである。
私は手短にその準備をした。簡単な手品の初歩の技術。ちょっと手先が器用であればこなせる。小手先だけの、はっきり言って技術と言えるものではない。
「わくわく。早く始めてよ咲夜」
「ええ。ではこの右手に乗せました、何の変哲もない赤いボール」
私はこの手品がきっかけで、お嬢様に気に入られた。人間、何が役に立つかわかったものではない。
「そのボールが……あーら不思議! ぱっと左手に! 種も仕掛けもありません」
「うわぁー。やっぱ咲夜の時止めは素晴らしいわね!」
「あの……お嬢様。これは何度も言ったように手品なのですが……」
「ふふん。私の目をあざむこうたってそうはいかないわよ。咲夜は時を止める能力を持っているのに、それを必死に隠しているのよ。いい加減、観念しちゃえばいいのに」
これだ。何度言っても聞かない。もう完全に時を止める瀟洒なメイドにされている。
「ほらぼけっとしてないで、次やってよ次!」
「は、はい。さてこの赤いボールが……はいっ! 綺麗なお花に早変わり!」
「わぁー、すごーい。さすが!」
「ありがとうございますお嬢様」
私はぺこりとおじぎをした。全く、時止めメイドなんて言われさえしなければ、こんなことぐらいいくらでもするのだが。
時を止めるとは。
そんなことができるなら、神の力を持つに等しいではないか。こんなちっぽけな人間が、時を止めるなどと――時間というのはそんな簡単な概念ではないと思う。言うならば――超異次元の不可思議な神域の領域。私みたいな卑小な人間が、踏み入れていい場所ではない。
「そうだわ。今度咲夜の時止めをみんなに発表しましょう! みんなきっと驚くわよ。ふふふ。楽しみだわー」
「お嬢様。それだけは堪忍を……」
「何よ? 私が決めたことに文句言うの?」
「いえそういうわけでは……。ただ時止めだけは、なしにしてもらいたいのですが……」
そんな恥ずかしい思いは願い下げだった。
「何よ。そんな恥ずかしがることないわよ。みんなに咲夜を知ってもらういい機会じゃない。瀟洒な時止めメイドなんて鼻高々よ」
「いえ……」
「ふふ。何も言わせないわよ。もう決めたからね。次の日曜がいいかしら? うふふ。美味しいお料理準備しなくちゃ」
鼻歌を歌って歩く、お嬢様の後ろ姿をぼうっと見続けた。
そんな辱めを受けることなどできない。いい機会だと思った。踏ん切りがつくというか、これで確固たるここをやめる理由ができる。しかしお嬢様には何と言えばいいのだろうか。いや言う必要はない。発表会の前にいきなり辞めるだなんて、そんなことをお嬢様が許すはずがない。きっとヒステリーを起こして泣いて抱きつかれる。
それならば――。
「脱走するしかないわね」
見つかれば死ぬ以上のことをされるに違いない。だがもう我慢できなかった。最初からやめておけばよかった。こんな悪魔の住む館。長く勤まるわけがなかったのだ。私の目測が誤っていた。ふらふらと当てもなく、各地をさまよう生活に嫌気が差して、つい行きずりの館に転がりこんでいた。
「止めると決めたら――次の居場所は」
脱走となると給金ももらえない。やはり次を決めていなければ路頭に迷うことになる。この計画は慎重に行わなければならない。
「私はこんなとこで朽ち果てるわけがない」
それは強がりだったのかもしれない。自分に特異な能力、突飛な才能があるかもしれないという、穿って歪みきった考え。もし時を止める能力でもあれば――いやそれはあまりにも飛躍しすぎている。
もっと現実的な線を。今はメイド業に従事するしかないのが悲しいことだ。
「決行は……、次の日曜までには何とか決めなくちゃ……」
はっと口を閉じた。メイド妖精が一人こちらを見ていた。
危ない。
私は一人だけ人間の、しかもメイド長。いつ彼女らに手酷い仕打ちを受けるかもしれない。
今すぐにでもここを逃げ出したかった。ああ今すぐに。この紅い血の臭いのする館から。
私は次の日買い物に出かけることにした。色々と用意しておきたいものもある。そして次の行き先も。
紅魔館には大きな門が存在する。荘厳というにふさわしい、紅い館と対比して、その黒光りする門はいかめしい威圧感がある。
「あっ十六夜さん。お出かけですか?」
私に声をかけてきた中国風の女は紅美鈴と言う。背が高く筋肉質で、長くて赤い髪をみつあみに結わえている。門番と名乗るからには武術の達人なのであろうが、私は一度もこの門番が、外敵を倒した現場に遭遇したことがない。いや外敵が来たこと自体この二ヶ月記憶がないのだ。
たまの来客で受け答えをする程度なのだろうか。門番とは気楽な職業――いやそんなわけではない。椅子もなく一日中立ちっぱなし。この女はもう慣れたのであろうか、この前門を通りかかったら立ったまま寝ていた。よっぽど退屈なのかと思う。だがその退屈を苦にしている様子はない。
「ええちょっと買い物に。美鈴さん」
「そうですか十六夜さん。ついでに鍛えていきませんか?」
これだ。この門番の口癖はこれである。彼女から見れば私は華奢で貧弱すぎるのであろう。しかし人間の女の私にとっては十分な筋肉だ。あれこれ強制される筋合いはない。
「いえ結構です美鈴さん。私、仕事がありますので」
「あっそうですか、十五夜さん……おっと間違えましたすいません」
門番はしまったという風にして、舌をぺろっとした。
最初にイザヨイさんと言っておきながら何故間違えるのか。甚だ理解に苦しむ。この門番の名前の間違う頻度は異常だった。初めに自己紹介をしたのに、次の日には忘れていた。ジュウロクヤさんジュウゴヤさん、何度訂正しても次の日にはそう呼ばれる。 もうこんなに間違えられるくらいなら、ただのメイドさんと呼ばれる方がましである。
「どうですか十六夜さん? もう紅魔館には慣れましたか? 私人間がこの館に住むなんて聞いてびっくりしたんですよ。何たってこの館は紅いですからね。それも由緒ある長い歴史を持った悪魔の住む館。私は数百年前からここで門番をしているんですよ。雨の日も風の日も雪の日も日照りの日も雹が降っても雨の日も。門って言うのはですね。館で一番大事な場所なんですよ。玄関を見ればその家に住んでいる者の位がわかるって言いますけどね、門にもそれは当てはまると思うんですよ。その人を映す鏡である門を守っているのが、この紅美鈴であるわけですよ。門と私は切っても切れない関係でありましてね、この前も……」
「あの美鈴さん。私急ぎますので」
門番はこうやって長い話をするのが常だ。しかも同じような話を繰り返す。一昨日だかも捕まえられてありがたいご高説をのたまわられた。彼女の話は門が八割と言っていい。門の有用性、そして自分がいかに優れた門番であるかを事細かに説明するのだ。
「まぁそう言わないで下さいよメイド長さん」
肩を痛いぐらいにぐっとつかまれた。心なしかメイド長という言葉に、重い悪意のあるような――蔑視と嫉妬に似た感情が感じられた。
「離してください美鈴さん」
「ちょっとお話を聞いてくれたら離しますよ」
にんまりと細い目でみつめらた。
門番の初めて見せたような、狡猾でいじ汚いような顔だった。
「紅魔館に今までメイド長なんて役職はありませんでした。お嬢様はいつも側近数人でお世話しているはずです。なのにあなたはメイド長ですね。これはいかに? しかも人間が。ここに来て二ヶ月なのに。この昇進具合は腑に落ちないんですよねぇ……」
ああそうかと思った。この門番は私に。
毎日門の前で定型的な行動を繰り返す。昔は敵襲もあったのかもしれないが、今はとても平和な日常が続いている。
何かはけ口が欲しいのだな。それならば私はうってつけだ。
新人で二ヶ月の人間のメイド。しかもお嬢様の身の回りを世話をするメイド長。
「何が言いたいんですか美鈴さん」
私はできるかぎり冷静な声で言った。
「どうやってお嬢様を誑し込んだんですか? え? 純真なお嬢様の心につけこんで……。全く、こんな貧相な体。私には何の魅力もないように感じられるんですがねぇ。一体どんな手練手管を使ったんですか? ええ? 私にも教えてくださいよ」
「い、痛……」
腕をぐっと捻じ曲げられた。みしりと骨の繋ぎ目がきしむ音がする。
「どうなんですか十六夜メイド長」
門番の目がカッと見開かれていた。明らかな敵意。このような感情を、あからさまにぶつけられるのは初めてだった。
この門番にとっては、人間の細腕を折ることなど簡単だ。私はなんて無力な存在なのだと思う。ここはどうにかしてやり過ごさなければならない。
「い、いいえ……」
「いいえじゃわかりませんよ」
ぎしぎしと関節が悲鳴をあげているのがわかる。痛い痛い。
「ううっ!」
「おっと危ない。ここが限界でしたか。我慢強いんですね。危うく大事なお嬢様のメイド長を、傷物にしてしまうところでした。あはは」
折れる――と思った瞬間解放される。私は腕を押さえて崩れ落ちた。肩の付け根に気持ちの悪い痛みが残っている。
「はぁ、はぁ……」
「ふふん。お嬢様に取り入って何を考えているつもりか知りませんが、私の目の黒い内はそうはさせませんよ。人間の振りをした妖怪なんてことはままあることです。すぐに化けの皮を剥いでやりますよ」
私はよろよろとして立ち上がった。
妖怪? そんな訳があるはずがない。いや、私には人間である証明などできないのかもしれない。小さい頃から孤独に育ってきて、今の悪魔の住む館に短い期間とはいえ住み着いている。思考が、生き様が、妖怪じみて。だから悪魔のお嬢様に。そんな私を。
「ところでカトレアお嬢様は元気ですか?」
「えっ?」
私の腕をさっき折りかけたことなども忘れて、門番はそう声をかけてきた。いや、それより驚いたのはカトレアお嬢様と言ったことだ。これは、一体。
「あっ、間違えました。カトレア様はお嬢様のお爺さんの姪のはとこでしたね。いやいや。……で、れ、レ? レミリアお嬢様はお元気ですか?」
私はあっけにとられた。自分の主の名前さえあやふやな門番。そうか、彼女にとっては門があるかないかが一番大事なのだろう。例え紅魔館が崩壊しても門を守り続けるに違いない。まさしくそれが、門番として最大の仕事。
「ええ、お元気ですわ」
「そうですか! ははっ。それはよかったです。で、鍛えませんか? ジュウロクヤサン?」
最後はどこか異国のような言葉に聞こえた。
私はもう話す気が失せていたので、そのまま門を後にした。何かされると思ったがされなかった。
後ろは絶対に振り返らなかった。門番のにやけた笑い顔が頭に浮んで仕方がなかった。私は館から逃げるようにして、足早に人里を目指した。
人の往来が激しい町並み。
この人達は何を考えて生きているのだろう。日々の仕事や恋人や友人のこと? 周りの人間が全て自分よりも優れているように思えた。
人の生き様は顔つきを見ればわかる。生き生きと充実している人間は、顔の筋肉の動きが滑らかなのだ。ストレスが少なく充実しているから、表情がコロコロと変わり愛らしい。赤ん坊が可愛らしいのもそのため。
しかし長く生きて、不安や逃れられない恐怖を断続的に感じていると、人の表情は駄目になる。
特に目に生気がなくなる。何故目が駄目になるのだろう? 私はそれを、本質的に現実をみつめる力がなくなるからだと思う。目を動かすのも筋肉、それは脳であるかもしれない。それが無意識的に萎縮してしまう。たった一度でも現実から目をそらしてしまえば、そのわだかまり、埃のようなものが溜まる。回復したと思ってもしていない。一度刻み込まれた信号は死ぬまでその人間を束縛し続けるのだ。
私が心から笑ったのはいつだったのだろう。紅魔館に来る前は? いや、そのもっと前。たぶん覚えていない。笑い方さえも忘れてしまったのかもしれない。
私は忘れようとしていたのかもしれない。日々の忙しく過酷な境遇に身をおくことで、空虚な自分自身を見つめなおすことの恐怖を。私はその意味で妖怪なのかもしれない。
ぼけっとだらしない表情のまま、私は買い物をした。お嬢様がいつも飲む紅茶。これだけは切らしてはならない。ああお気に入りのカップもこの前割ってしまった。それも買わなくちゃ。後は、後は――。
「あっ、咲夜さん。お買い物ですか?」
「ああ……小悪魔さん。どうも」
私はぺこりとおじぎをした。こんな所で出会うとは。きちっとネクタイを締めて、信頼のおける司書といった風情。紅魔館の中でも彼女は唯一まともだと思う。
小悪魔は両手に大きな紙袋を抱えていた。ああそういえば。私は昨日の嫌な出来事を思い出した。
「買えたんですね? 本」
「ええ。危なかったです。昨日の夜から本屋の前に並んでいたんですけど、先に何人も並んでましてね。すごい競争率でした。どうも紙の素材も特殊らしくて……。私もし買えなかったら、パチュリー様に勘当されてしまうところでしたね」
そう言ってくすっと可愛げに笑った。
私は少し気を許した。何かこの小悪魔なら私の悩みを聞いてくれるかもしれない。お嬢様に上手い具合に、自分が紅魔館をやめたいこと、それを滞りなく伝えて――いやそれは依存し過ぎだろうか。ともかく自分一人で悩んでいても仕方がない。最悪の事態だけは避けなければ。
「こあ……」
「咲夜さん。会えてよかったです」
「え?」
私が言う前に遮られた。しかもその言葉は予想外だった。
「聞きましたよ。今度の日曜日に発表会するって。お嬢様がうきうきしていました。あー楽しみだなー。何を見せてくれるんだろうなー」
小悪魔は子供のように浮かれた声を出した。
「で……会えてよかったってのは……」
恐る恐る聞いてみる。
「あーいえいえ。今日は一人でお買い物なんでしょう? 万が一、万が一ですよ? 日曜日に咲夜さんがいないなんてことになったらですね、お嬢様が。ね? 困るでしょ? 一人で外になんてもう。あはは、ちょっとした気の迷い。どんな誘惑があるかわかりませんからね。一緒に帰りましょ? もう買い物終わったんですよね?」
「は、はぁ……」
私は心の中を見透かされたような気がした。不安げな表情から何かを感じ取ったのだろうか。もしや――私が脱走を企てていることを知って。ならば一人で買い物なんていい機会だ。しまった。もうなりふり構わず逃げ出すべきだったのだ。今度からは私を一人で外に出すことなどしないだろう。鳥籠の中に閉じ込められた鳥のように、私はこのまま。
二人で無言でしばらく歩いた。私は小悪魔の真意が計りかねた。まだ本当に私の敵と決まったわけではない。
「あ……。あの、それ重そうですね。私は片方あいてますから、一つ持ちましょうか?」
魔女から言われた本は上下巻のはず。それならここで誠意を見せておくのも悪くない。
「いえ。これは私がパチュリー様に言われたことなので」
「そ、そう……」
私はしゅんとしてしまった。何か他に話すことはないだろうか。何でも、何でもいい。軽く打ち解けて情に訴えてやれば。
――チッ。
舌打ちの音が聞こえた。はっきりとわかるくらいの。
もちろん私ではない。だとすると――。
「…………人間の癖に…………私にきやすく……………………何がメイド長だ…………」
ぶつぶつとつぶやいているのは小悪魔だった。しかも私にまる聞こえの声で。あろうことかこの悪魔は、私の隣で私の悪口を言い始めたのだ。目が座っていた。まさしく悪魔の顔。さっきまでのにこにこと優しそうな笑顔は、どこにも見当たらない。
「あっ、あの……」
私は恐ろしくなって声をかけた。声をかけずにはいられなかった。
「何ですか咲夜さん」
一瞬でお面をはずしたように表情が変わった。悪口を聞かせたという感じなどしない、極めて純真そうな真顔。それがたまらなく恐ろしかった。
「あ……、いえ、何でもありません」
「そうですか。変な咲夜さんですね。ふふ」
また小悪魔は笑った。そして恐怖の無言の時間が訪れる。あの魔女の前では絶対に見せない癖なのだろうか。
「…………誰のせいで……こんな目に…………私を使いやがって…………おかげで私は一晩中…………寝袋で…………ちっ…………私のこと…………小悪魔さんって…………何がさん……だ…………様だろ様…………人間の癖に…………人間……逃がすものか…………絶対に…………」
もう私はずっと無言でいることにした。癖でもわざとでもどっちでもいい。私の存在などゴミのように思っている小悪魔に、何かを言う勇気がなかった。直接、面と向かって言われるよりも数倍つらかった。紅魔館という牢屋へ帰る道の間じゅう、私はずっと肩を震わせながら、小悪魔の怨嗟のつぶやきを聞き続けた。
永遠とも思える時間。聴覚能力を最大限に縮小してどうにか生き残った。うつむいた顔を上げると、目の前には門と門番がいた。
「あっお帰りなさい十六夜さん。小悪魔さんも一緒だったんですね。どうですか? 二人とも鍛えませんか?」
「あいにく私は、毎日重い本で鍛えているんですよ」
「そうですかー。いい心がけですね。あっははははは」
事も無げに小悪魔は言った。つい数秒前まで聞こえる陰口を叩いていたとは、絶対に思えない様子だった。
「ただいま戻りました。美鈴さん」
私は頭を深く下げた。
「あーどうもどうも。お嬢様から仰せつかってますよ。明日からは買い物は別の妖精メイドがするそうです。いやー、本当にお嬢様に好かれて羨ましいなー」
大きな声で笑う門番。その横で小悪魔がほくそえんでいた。
終わりだ。
私は完全に閉じ込められてしまったのだ。この紅い館の中で一生を終える。それも真綿で首を締め付けられるような疼痛を受けながら。
どうせならここで殴りかかってしまおうか。門番の反撃で首が上手い具合に折れてしまうかもしれない。極めて前向きでありながら後ろ向きの思考。私はそこまで追い詰められてしまっていた。
「さぁ咲夜さんどうしたんですか? 入りましょ? お嬢様が首を長くしてお待ちでしょうから……」
小悪魔の優しい声は頭に届かず、右から左へ抜けた。
信じられるものか。悪魔め。人の心を弄んで喰らう悪魔。
夜は眠ろうとしても眠れなかった。地下から聞こえてくる不快な音が、私の精神を更に鬱屈させていく。それでも私はいつしかまどろんでいた。
混沌、昏睡。このまま永遠の眠りを享受して、目覚めなければいいのにと思う。
苦しみを感じずに死ねるのならなんと幸せなことだろうか。
「ああ」
目が覚めて私はこう言った。今日もまた目が覚めてしまったのだなと。紅い壁を見て現実に引き戻される。血の滴るような気持ちの悪い壁。
手短に身だしなみを整えていつもの仕事に従事する。お嬢様は午前中はほとんど寝ている。活発的に活動するのは午後の夕方ぐらいからだ。
私は雑巾とバケツを片手に廊下を歩く。
窓、窓、窓。
窓はあるがここから出ることはできない。一枚一枚丁寧に拭いていく。
水仕事というのは当たり前のように手が荒れる。雑巾を絞る行為。この行為がいけない。荒々しい布の断面が指の角質を削り取っていく。濡れてまた削って、また濡れて。再生する暇もなくぼろぼろになっていく。
私の心のようだなと思った。傷ついたら優しく染み込むクリームを塗ってやらなくちゃ。そのクリームはどこ? どこ?
長い廊下の窓を一枚一枚拭いていく。それは永遠とも思える無限回廊。ああ私はこのままずっと窓だけを拭いてしまいたい。窓になったらなら、このまま外の世界に飛び出せるかもしれない。
バケツの水を見た。何度も埃と汚れを落として濁っている。どんより深く底が見えない。
――そろそろ水を替えなくてはいけないわ。
私はそう思いバケツに手を伸ばそうとした。
「あっ咲夜さん。いいところに。本当に」
誰? 振り返る。悪魔。
いつの間にか、大図書館の前まで来ていたらしい。しまった。どうして気づかなかったのだろう。
「ちょっと頼んでいいですか? 今手が離せないんで、紅茶をパチュリー様に持っていってくれませんか?」
「え……でも」
仕事の途中。断る理由には十分であった。
「いいから急ぎなんですよ。さぁさぁ。持っていくだけです。早くしないと冷めちゃいますから」
「はぁ……」
私は手を引っ張られて連れ込まれた。給湯室に、今淹れたばかりの紅茶の湯気がもくもくと立ち込めている。
「頼みましたよ咲夜さん」
「でも、持っていくだけなのに」
小悪魔は暇そうに見える。魔女の座る椅子までたった数メートルなのに。何故私なんかに頼むのだろうか。
「……………………いけよ」
ボソッと錆びた金属でも擦り合わせたような、奇妙に歪んだ声だった。無表情で、顔に黒い闇の怨念がさしている。
――逆らえない。
「了解しました小悪魔さん」
「お願いしますねー。パチュリー様もきっと喜びますよぉー」
小悪魔は天使のように笑った。黒い羽を持つ偽りの堕天使。
私は盆に紅茶が注がれたカップをのせ、直ぐに魔女の元まで出向いた。
後ろ姿。
私の存在などまるで無視しているかのよう。どうやって声をかける?
――紅茶が入りました。
ただそれだけでいい。それ以外のことは言う必要がない。言ったら殺される。
魔女の周囲には見えない力が張り巡らされている。人を怠惰に誘うような嫌な磁場。
足元がぐらついて紅茶をこぼしそうになってしまう。こぼしたら殺される。絶対に。
「あの、紅茶をお持ちしました」
「ん」
魔女はそれだけ言った。本からは少しも視線をはずそうとはしない。
「五分遅かったわよ。待ちくたびれたわ。それに小悪魔はどうしたの? あなたが淹れたのこれ? ん?」
「いえ、あの」
私は口ごもってしまった。
「まぁいいわ。飲めれば。頂こうかしら」
魔女がカップを手に持つ。指がすらりと細かった。一度も水仕事はしたことがないのだろう。少女のように白くて傷一つない。
カップの端に薄い唇が吸い付く。この口から罵詈雑言が放たれると思うと、何とも不思議な気持ちになる。
細い喉がぐいと上下する。
「何よこれ」
表情が、一変。
「あ……」
私は魔女の言葉の調子に飛び上がった。この後に予想される罵倒の言葉。眉をひそめて横目で睨みつけられる。こめかみに青筋がうっすらと浮んでいる。
「濃度が薄いわ。いつもより12.5%も薄い。こんなんじゃ私満足できないわよー。何なのよ、こんなの私飲ませて。温度も低いわ。0.7度も。どういうことなのよ。あなた。私に紅茶を淹れるって行為。わかってるの? 私を何だと思っているの? こら、人間。レミィから聞いたわよ。何のつもり。メイド長? 馬鹿、馬鹿のレミィ。こんな人間に心を許して。何を考えているのあなたは? ……もしや? はぁ、私の邪魔なんかさせないわよ。何なのよ! あああったまくるわね。朝っぱらから最悪の気分よ? えっわかる? ちょっと!」
「きゃっ!」
魔女がカップを放り投げる。それは私の頬の横数センチを通り過ぎた。
ガチャンと陶器が割れる音。むなしい静寂が広がる。
「ちぇっ、はずれ。おしかったわね。行きなさいよもう。人間の臭いと存在が嫌いなのよ私は」
「は……はい」
私は呆然として立ち去ろうとした。魔女が何を考えているか、私には遠い理解の届かない範疇に違いない。
よろよろと歩きながら図書館の入り口まで来た。
後少し――この魔女の縄張りから脱出できる。
「待てよ」
「ひっ」
髪を引っつかまれて床に押し倒された。
「お前、何を。パチュリー様が怒ってしまったじゃないですか」
「そ、それは小悪魔さんが……」
「馬鹿! さまをつけろって言っただろうが!」
ぐりぐりと上から頭を押付けられる。もう嫌だ。
「す、すいません……小悪魔様」
「よーしやっと立場をわきまえたな人間。いいかよく聞け。お前のやったことの重大さを教えてやる。パチュリー様は喘息が持病だ。わかるか? お前のようにのうのうと生きてる奴とは比べ物にならない苦しみを背負ってるんだ。午前中の紅茶一つで機嫌が全然違うんだよ。え? わかるか? 咳き込んで血ぃべろべろ吐いて死ぬかもしれないんだぞ? お前のようなゴミの命じゃいくつあっても足りないんだよ? 償え償え! 泣いて土下座して償うんだよ!」
「でも……あの紅茶は……」
私は口を開くべきではなかった。何十倍になって返ってくることなど、百も承知していたはずなのに。
「馬鹿かお前は! お前が持っていったんだろう? お前が淹れたんだからな。それでパチュリー様は機嫌を損ねた。そうなんだよ。お前が全部悪いんだよ。お前が自分の意思で、お前が、お前だよ。自分のしたことも忘れるなんてゴミ以下のすることだ。いいからお前がしたって言えよ。パチュリー様に迷惑かけて、小悪魔様にも迷惑かけて、すいませんでしたって。言えよ、言うんだよ! 言え! 言え! 認めろ!」
鼻の形が変わると思うほど、ガンガンと床にぶつけられる。鼻血が漏れるのがわかる。前歯が床に刺さってそのまま抜け落ちてしまいそうだ。
「あ、あ、あやまり……ますか……ら」
私は息も絶え絶えでか細い声を出した。
「ようし、悪魔様が聞いていてやるから。心から償いするんだ。どこかに嘘があったら、その首から血が噴出すからな」
頭がぐらぐらしている。鼻と前歯がずきずきと痛む。
どうして、私はこんな目に。
悪魔がいる。でも今は従わないと。
きっと、きっといつかは。
「ご迷惑かけて……誠に、申し訳ありませんでした。パチュリー様と小悪魔様には私の命をかけても償いきれない損害を……。どうか寛大なるご慈悲でお許しくださいませ……どうか、どうか……」
「よーしよく言った。その言葉肝に銘じておけよ」
土下座。へりくだって媚びへつらう。額擦り付けて懇願する畜生の姿。地獄の閻魔様の前で人間はこんな様子なのだろうか。
「小悪魔! 小悪魔どこよ! いるんでしょ? 早く紅茶淹れなさいよ! アレ飲まないと気合が入らないわー」
魔女のしゃがれた声が聞こえる。
「はぁーい。パチュリー様。今すぐに」
濃度の濃い黄色い声だった。さっきまでの私に与えた声の黒さ。そのドス黒さからここまで変化できようとは。この悪魔の絵の具はとてつもなく多種多様であるらしい。
「けけけ! ほらさっさと出て行けよ。パチュリー様の神聖な空間にゴミが落ちてると目障りなんだよ! いいか、ゴミだからって脱走なんて考えるなよ? いつだったかな? お嬢様が気まぐれで人間を雇ったんだ。その人間は三日と持たずに逃げ出そうとした。馬鹿だったよ。逃げられるはずもないのに。当然のように捕縛。規律を乱したものは重罪。人間だからって手心なんて加えたりしない。妖怪や妖精と同じように扱うんだ! これが真の平等ってやつじゃないか。……館の中を歩き回れるだけ、恵まれていると思え。使えなくなったら地下室行き! ひぇえへえっへ!」
小悪魔は投げ捨てるように言い放って、そのまま消えた。
立ち上がり鼻を押さえた。折れてはいないらしい。前歯もついている。
ただ、涙が止まらなかった。
私はこんな涙を流すために生まれてきたんじゃない。でもどうすればいいかわからなかった。
ぼんやりと夢うつつのまま歩く。長い廊下をぼんやりと。
一人の妖精メイドと目があった。チラッと一瞥した後、そそくさと立ち去った。顔の血も涙も拭いてないし、酷い顔なのだろう。
「ああ」
私は一つ深いため息をついた。
掃除中だったことも忘れて、自室のベッドへと倒れこむ。しばらく横にならなければ動けなかった。体を動かすための脳が、手酷くダメージを受けてしまっていた。修復まで数時間有する。
――よかった。私はまだ人間だ。
もし、何の感情もなくなって、ロボットのようになってしまったなら、それこそ妖怪の仲間入りだ。
私はまだ人間。
哀れで可哀相な弱い人間。
夕方が来て夜が来る。
私はいつも通りにお嬢様の世話をした。鼻に絆創膏を貼り醜い顔だった。
お嬢様はそのことを聞いてきたが、私は抑揚なく転びましたと答えた。お嬢様に言っても状況が酷くなるとしか思えなかった。
ああお嬢様。
元はといえばお嬢様が。私を。
いや、やめにしよう、考えるのは。
私はようやく遅い床についた。一日の疲れがどっと背中に走る。節々と背中と首が痛む。
朝まで回復不能な疲れ。
疲労が溜まりすぎていると、寝ても疲れがとれることはない。特に脳に関わる神経が疲れているとどうしようもない。脳髄から滲み出る負の信号が、頭全体を黒いイメージに染め上げる。それは疲労の種だ。この種を取り除かなければ真の安眠はできない。朝目覚めても絶対に疲れている。眠りながら疲れているという本末転倒の事態になる。
それならば、いっそのこと眠らない方がいいのかもしれない。
吸血鬼も眠る。妖怪でも眠る。
眠らない妖怪もいるかもしれないが、それはごく一部。
何だ、眠らないことは神に近い行いかもしれない。
私はそんなことを思いながらまどろんだ。疲労が極致まで達していた。これなら、目覚めずに死ねるかもしれない。
エサだ。私は悪魔達のエサ。小悪魔は地下室と言った。おそらくあれがゴミ処理場なのだ。飢えた肉食獣が爪を研ぎながら、涎を垂らしながら獲物を待っている。
「う……」
背筋が苦しくて目を開いた。眠るどころではなかった。
寝返りを打つと、またあの唸り声が。
「毎晩毎晩……」
私は思い立って扉を開けた。ひんやりとした空気が廊下を吹き抜ける。地獄の釜底から湧き上がるような声。廊下の奥からそれは聞こえてくる。
「地下室は……お嬢様の部屋の……」
どうせ朽ち果てるならと、私は妙な好奇心にかられたのかもしれない。一度見たことはあるが、地下室への通路は厳重に封鎖されている。鍵がなければ絶対に通ることはできない。
「はぁ、はぁ。どうせ地下室行きなら、いっそのこと」
私は混乱していた。
窓の外を見上げると、紅い月が出ていた。月が紅いわけはない。私の網膜を通して脳で理解する間に、紅く認識してしまったのだ。壁も絨毯も全て紅い。この紅さが錯覚を生んでいるのだ。
手のひらを見た。これも紅い。まるで、返り血を浴びたよう。出血多量で瀕死。そんな時はこんな真っ赤に染まるものなのだろうか?
「ふふふ、ふふ……お嬢様……。私の味方は……」
唐突に私はお嬢様のことを思い出した。この館に来てから一番よくしてくれたからだ。私の未熟な手品なんかにも、あんなに手を叩いて笑ってくれた。あんなに喜んでくれるのは人間の子供でもそうはいない。
私はここに来て――お嬢様に出会えてよかった思う。例え死んでも、お嬢様が悲しんでくれるならそれはそれで。そうだ、お嬢様がいるんだ。私は不思議と強気になった。お嬢様がいるなら地下室行きなんて絶対にない。あの、醜くて薄汚い心の小悪魔も八つ裂きにして。
「ふぅ」
気がついたらお嬢様の部屋の前まで来ていた。
私はドキドキしてしまった。これはもしかして夜這いと言うやつかしら、なんてロマンティックなことを考えたりして。
「あれ?」
扉がほんの少しだけ開いていた。あのお嬢様のことだから閉め忘れていただけかもしれない。私は何の疑いもなくそう思った。
私はシミュレートする。お嬢様、夜に扉を開けてはいけませんよ? 咲夜、ごめんなさい。一緒に添い寝して? 寂しいの……。お嬢様の潤んだ瞳。それを優しく見つめる私。二人は人間と悪魔。結ばれえぬ運命、それでも――。
「おじょ……」
私は想像で顔をにやけさせながら、部屋の中を覗こうとした。
なんて光景。
自分の目をくり貫いてしまいたかった。
「レミィ! もっとお泣きなさいよ! きゃははは! それそれ!」
「あーあー、ママ、ママ! ひぃぃい! 私悪い子です! ひえぇぇ!」
魔女とお嬢様があられもない格好で、睦事をしていたのだ。魔女の手には黒いムチが握られている。情欲を煽るためだけの、汚らわしい露出度が高い淫らな服装。同時に鼻をくすぐる甘い香りが満ちていた。一息吸ってしまえば、たちまち理性を失わせてしまうような。これは毒だ。魔女は――毒を使っていた。
お嬢様は全裸でその責め苦を受けていた。手枷をつけられて子猫のように鳴き叫びながら。背中やわき腹に今つけたであろう、生生しい蚯蚓腫れが何本も刻まれていた。吸血鬼の再生能力をもってすれば、大したことはないのかもしれないが、自分の目には恐ろしくも陰惨に思えた。
血の滲みが痛々しく紅の線を引いている。魔女が笑い声をあげながらムチを振るうたび、その刻印は数を増していった。
「ほらほら! もっといい声出しなさいよ。でないとお前の気の触れた妹みたいに地下室に閉じ込めちゃうわよぉー!」
「お願いママ! それだけは、それだけは――。私を捨てないで……、ふぁっ! はぁぁぁ――いいぃぃいい!」
私は言葉を失った。もう後一秒も見ていられなかった。
この世で最も凄惨な光景。
何が神様だ。神様はこの館にいたのだ。それも無慈悲で滑稽な神様。その神様に一生飼われていればいいのだ。
「うっ……」
私はよろよろとそこから立ち去った。
――気持ち悪い。早く。
洗面所へと向かう。
「お――」
私は吐いた。力の限り吐いた。臓腑が逆流するぐらいの勢いで、胃の残滓と混じり合った胃液を吐いた。
お嬢様を吐いた。正確にはお嬢様との記憶。何度も何度も。
この館の住民は全員下衆だったのだ。下衆がいるから下衆を呼ぶ。そうやって同族同士でまぐわりあってればいい。
吐かなければ、あんな、堕ちた悪魔の、腐った悪魔の。
「おぇっ、おおっぉおぉお――おぅぅぅ!」
数分は吐いていたように思う。やっと全てを捨て去ったように思う。
「はぁーっ、はぁー」
鏡に自分の顔が映っていた。口元に白く濁った泡がこびりついている。
憑き物が落ちたみたい――。
私はそう思った。そう、私は憑かれていたのかもしれない。この館に入った時から。それじゃ本当の真実は見えない。そうだ、今からでも遅くはない。まだ遅くは。
「るー、るんるん。るるー」
私ははっと顔を上げて横を見た。誰か入ってきた。口を拭う余裕もない。
「はっ!」
目が合った。小悪魔だ。
数秒、時が止まったように思えた。
「き、きゃーーーっ!」
叫んだのは悪魔の方だった。どうして悪魔が人間の顔なんか見て。私は咄嗟に自分の顔が、今は悪魔じみていたのだと理解した。全てを吐いて私は人間をも捨ててしまったのかもしれない。
機は今しかない。
「あっ!」
私は小悪魔を突き飛ばして、廊下に飛び出していた。
気分が悪くなって、少し戻してしまったと言えばよかったかもしれない。しかしその選択は取りたくなかった。この館に私の味方は一人もいなかったのだから。
「うっ、ううぅ。うううう」
口の中で悲鳴をあげながら、無人の廊下を走った。どうする? どうすれば? どこからなら逃げられる? いや、逃げ道は存在する?
「て、敵襲――」
「何だ?」
「賊だ!」
「に、人間が逃げたぞ! メイド長の……あいつだ!」
悲鳴は連鎖して館内を縦横無尽に伝わる。このまま皆が起き出してしまえば捕まるだけだ。
私は置物の花瓶をつかんで窓に投げつけた。
割れた。
私は狂気にかられながらそこに突っ込んだ。
ガラスの破片が腕や足に刺さる。が、致命傷には至らない。
早く早く遠くへ。そうか門。門が。
門番はどこで寝ているのだろう。昼間も門前で寝ている。だとしたら夜も門前か。
いや、わからない。ともかく急がねばならない。
「この外壁……登れるかしら?」
私は少し踏みとどまった。煉瓦だから指をかければ登れるかもしれない。でももし失敗したら……。
迷っている暇はなかった。館内のあちこちで明かりがついて声が大きくなっている。
「お願い……神様……」
私は柄にもない言葉を言った。何が神様だ。そんなもの、いつだって自分の力だだけで生きてきたのに。今更そんなものに。
「ぐっ!」
煉瓦の隙間に無理やりねじ込んだ。こうでもしなければ登れない。
今気づいたが私は裸足だった。しかしそんなことは気にしてはいられない。貴重な時間は刻一刻と過ぎ去ってしまっているのだ。
ガッとつま先も隙間にねじ込む。ロッククライミングなどはしたことがない。たかが数メートルの外壁。一気に登ってみせる。
「うぅ」
親指に力を込める。そうしなければ壁からずり落ちてしまう。ここで落下してしまうことは死を意味する。打撲、下手すれば骨折。動けなくなってしまえば捕まるのも時間の問題だ。割れた窓もすぐ見つかるだろう。時間がない。
右手、左足、左手、右足。
連動させるようにして着実に歩を進めていく。指の先とつま先がじんじんする。つかむ力が薄れて感覚もなくなっていく。
もう、駄目かな。
いや、まだよ十六夜咲夜。この壁はきっと越えられる壁。後もう少しじゃない。
私はここを越えたらきっと羽ばたけると思うの。
「ああ!」
最上段へとどうにかたどり着く。息がぜいぜいと荒い。登ってみればこの壁の高さは相当だ。はっとして自分の指を見た。二、三本、爪がべろりと剥がれていた。爪の下の皮膚はふにと柔らかかった。痛いはずなのに痛くない。心理的な窮地には痛覚も麻痺してしまうのであろうか。
後ろを振り向く。まだこちらには気づいていない。チャンスは今しかない。
私は外の方に向かってぶらりと壁にぶら下がった。
もう手も足も限界だった。
このまま飛び降りるしかない。
――いけるだろうか?
おそらくこの高さから落ちれば無事では済まない。一番被害軽く済む方法、いや逃走に必要な能力を残さなければ。足に被害が及ぶのは絶対にまずい。
とすれば――肩か腰でくるっとまるまるように。そうだ、猫のイメージだ。猫は高い所から落とされてもくるりと着地する。あのイメージで、地面からの衝撃を最大限に抑えるのだ。
「い、いいい、いけるわ。絶対」
私はそう言った。落下の重力エネルギーは限界まで減らさなければならない。ぎりぎりまで壁に張り付いて、そして落ちる。
もう待ってはいられない。
私は意を決して手を離した。
摩擦。
手と足と胴体を壁に擦るようにして落ちる。肉が擦れる音が直接耳に届く。
そして足で壁を蹴る。
ぽんと投げ出された。
着地――猫ではなく豚のように転がった。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……うううううっ!」
体全体に痛みが走る。だが生きている。立てる。
やった、私はやったんだ。この魑魅魍魎が住む悪魔の館から脱出したんだ。
眼前には深い森が広がっている。このまま闇に紛れて溶け込んでしまえば絶対に見つからない。朝方までにできるだけ遠くへ逃げなくちゃ。寒い。そうだ寝巻きのまま出てきたんだ。けどしかたない。人間はそう簡単に死なない。人里の方まで一気に走ってそして。どこか泊めてもらえばいい。私は女だから……非常事態で、体を使ってでも。えへへ、なんて私は低俗な考えの持ち主だったのかしら。こんな計画性も何もない……。でももういいんだ。この悪魔の館から逃げさえすれば……。
私は一歩踏み出そうとした。この闇が私の希望だった。
「あれ?」
私はびくっとした。人がいた。
ぎょっとして振り返る。
「ああ奇遇ですね。十六夜さん。あなたも月見ですか? 私はたまにはこうやって月を見るんですよ。綺麗ですよねー、月って。ああそういえば、十六夜さんの苗字も月に関係ありますよね? はて? 十六夜ってのはどんな月の形だったんでしょうかね?」
どうしてこんな時に限って、門番が起きていてしかも暢気に散歩までしている。なんてことだ。こんな巡りあわせ。あんまりだ。
私は夜空の満天に輝く幾千の星を見上げた。この星に比べたら私の存在は何てちっぽけなんだろう。むなしくなる。月の形は満月に近かった。
「館の方、騒がしいですね。何かあったんでしょうか? ふふん、綺麗な月、そして出てくる寝巻き姿のメイド長。しかも指は擦り切れて血だらけ。あの壁を登ってきた。いやあ一体何が起きたんでしょうね。私には不思議でなりません」
門番が笑っていた。真意を計りかねる。私が脱走したことぐらいすぐわかるはずなのに。
私はじっとして次の言葉を待った。
「館に突然猛獣が暴れ出した。そこで人間のメイド長は混乱して壁を登って外に出てしまった。ただそれだけのこと」
「あ、あの……美鈴さん」
私は一縷の望みにかけた。もしかしてこの門番は私のことを心配していてくれて――。
「なーんてね」
門番がにんまりとして不気味に笑った。
「私は門番ですよ十六夜さん。……夜間の従業員の出入りは禁止されています。さ、戻りましょうか。なぁに、何もやましいことがなければ大丈夫ですよ。ちょっと外を散歩したくなって、壁をよじ登ってしまった。そのことを館の全員に納得させればいいのです。私が証人になりますよ。今の格好、状況。一から十まで話してあげますよ。ほら、何びくびくしているんですか? 散歩していたんなら何も気に病むことはありませんよ……。きっと、みんな、わかってくれます」
「うっ、ううう……」
私は手をついて泣いた。門番の手が私の肩に触りかける。
「うわぁぁああ!」
振り払った。最後の抵抗をしたかった。
ああ諦めてなるものか。私は、私は自由になるんだ。
「抵抗するんですか。容赦しませんよ。あばら骨の一本や二本くらい。壁から落ちた衝撃ってことにしますか。さて!」
門番はざっと戦闘の構えをした。
もうやけだった。私には勝機など皆無であるのに。
「いきますよ! ……と、その必要はないようですね」
何だ? 門の方。がやがやとざわめき声が聞こえる。館から出てくる集団。その先頭には小悪魔がいた。怒りに我を忘れた化け物じみた形相だった。
そうか。もう時間切れだった。本当にこれで終わり。
「ひぃ、ひひひぃ! この腐れ野郎! やっぱり逃げ出しやがった! よくも私を突き飛ばしてくれたな。この恨み、何千倍にもしてああああちくしょうこのぉおお――――」
小悪魔は錯乱激昂しているようだった。ここまで狂気に陥ることができるとは。私は悪魔というものの末恐ろしさを肌で感じた。
「殺してやるっ! この、あいつなんかに喰わせてやることなんかない! 今ここで串刺しの八つ裂きにぃ!」
「小悪魔さん落ち着いてくださいよ。処分はお嬢様の言を聞かないと駄目です」
「何がお嬢様だ馬鹿! 傀儡もいいとこ! うううあぁぁぁ!」
「まぁまぁ、どうどう」
二人が何やら討論しているようだが、私には関係なかった。私の処遇が絶望的であるのは確かだったからだ。
私は最後に月を見ようとして上空を見上げた。
おそらくは最後になる幻想郷の月。
ああこれが。
月は紅くはない。館の中からは濁って見えた月も、今は白く光輝いている。
会えてよかった。
私は目をつぶって誰かに祈りを捧げた。
一秒、二秒、三秒――。
無言の祈りは終わった。
「ふぅ」
一息ついて周りを見渡す。違和感。それは尋常ではない異質な感覚だった。
「え、ええ?」
今まで口うるさく騒いでいた二人の声が止んでいた。いや、動きも止まっていた。まるで石像にでもなったかのように、ぽかんと口を開けたまま固まっている。二人だけではない。周りの妖精兵達も同様だ。
「これは」
私はそれを理解することはできなかった。
ただ。奇跡――。
私は一目散に森の中へと突っ込んだ。
これはチャンスなのだ。誰かが気まぐれで与えてくれたチャンス。
「はぁはぁはぁはぁはぁ」
私はやたらめったらに走った。裸足で足裏がぼろぼろでも気にしなかった。とにかく遠くへ遠くへ。
崖を滑り降りるようにして駆け下りる。もう服も肌もぼろぼろだった。
自分を突き動かす物の正体はつかめない。
ただひたすらどこかへと行きたかったのだ。
「はぁはぁあはぁああ――」
走って走って、ひたすら走った。無限に続く廊下の終わりを目指して。
気がつくと夜が明けていた。
ここはどこ? 私は、私は誰?
いえ、私の名前だけは言える。私はさすらいのメイド。十六夜咲夜。
「ああ」
逃げ切ったのだろうか? 追っ手が来るかもしれないもっと逃げて。誰かにかくまって貰った方がいい。
砂塵にまみれていた。幻想郷にも砂漠があったのねと私は今気づいた。
蟻地獄でもいて私を食べてくれないかしら。そうすれば楽になってしまうのに。私はそんなこと思った。
数十歩歩く――と、立て札があった。何故、こんな辺鄙な場所に。
私はふらふらと近寄って、それに書いてある文字を眺めた。
☆☆☆ メイド・従業員大募集 ☆☆☆
・地霊殿ではやる気のある方を募集しています。
・種族・年齢・経験問いません。
・笑顔が溢れる和気あいあいの職場です。
・あなたもここで本当の自分を見つけてみませんか?
↑百メートル先 地霊殿直通ホール
お急ぎの方は今すぐこちらへ!
私は疲れきっていた。ふらふらとその矢印の方向を目指す。喉もからから胃もぎゅうぎゅうと収縮していた。苦しくて仕方がなかった。
しばらく歩いた。砂場――だったのに一つの水溜りが存在していた。透き通っていて私の滑稽な顔が反射している。そうかこれは砂漠におけるオアシスというやつだ。私は心からそう思った。誰かが私のために垂らしてくれた蜘蛛の糸。
ずぶんと足から水溜りに踊りこむ。温かいぬくもりが私を包む。口にがばがばと水が入り込む。
ごくごく。ごくごく。ああ美味しい。
私の体に力がみなぎる。この水は私を蘇らせる。
――ああ。
この水溜りは狭かった。私の細い体にぴったりとはまり込むようにできている。何たる偶然。足もすかすかとして底が見えない。
しばらくぼんやりと、夢見心地で浸っていた。こんなに安らいだ感情は久しぶりだった。
ずぶずぶ。ずぷずぷ。
私はふと潜ってみたくなった。窒息するかもという思考は見当たらない。この縦穴は私を幸せにしてくれると信じた。だってこんなにも優しく包んでくれるんだもの。
――ああ。
私が念じると、水溜りは私を飲み込んだ。
息を止めてじっと終着点を待った。
きっと天国へ通じる道だと信じて。
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